「オーラの泉」って見てます?
私は結構好きで、何時の何番でやっているのかまでは覚えていませんが、
タイミングが会えばラッキー!とばかりに見ています。
心霊現象全般について了解している訳ではないのだけど、
「守護霊」の存在についてだけは、
最近段々「こうじゃないのかな~」という
私なりの考え方の輪郭が見えてきました。
私の人となりが、私の経験によって構成されているとしたら、
私のDNAに、
私の自覚することのない数々の記憶が脈々と受け継がれているとしたら、
江原氏のように霊能力者と呼ばれる人達は、
私の心にある漠然としたイメージや私の知らない遠い記憶を、
敏感に感じることができて、かつそれをビジュアルとして捉えるという
稀な才能に恵まれた方々なのではないだろうか。
例えば。
大好きだった人を亡くすという強烈な体験をした場合、
それは今後の私の人となりに大きな影響を与えることは間違いない。
人生について、死について、体について、生き方について考えるとき、
些細な日常のひとつひとつについて、なんらかの行動を起こす意思の決定に、
大なり小なり影響している。
自分ではそのショックから立ち直ったつもりでいたとしても、だ。
人と話をしている時に、「この人はこんな経験があるのでは?」と、
漠然と感じることがありませんか?
それから連想して「この人が求めているのは、もしかしたらこんなこと?」って、
なんとなく分かるときも。
広告プランナーという仕事をしていると、
それは結構敏感に感じるように訓練されると言いますか、
大海にポトンと落とされたインクの色を当てるような能力が試される世界でもあり。
どういうことかと言うと。
「予算はこれだけ。何にも考えてないので全てお任せ。」などと言う
一見無色透明なクライアントだったとしても、
何らかの漠然としたゴールシーンのイメージを、誰しもが必ず持っているもの。
それを色に例えて「赤」だとすると、
黄色や青のバリエーションをいくつ提出してみたとことろで、
「なんか違うだよね」⇔「なんでも良いっていったじゃん!」という
果てしなく悲しい応酬が繰り広げられるのは必至で、
プランナーはまず赤を探り当てて、
素晴らしい赤い色を表現するクリエイターと組まなければ、
関わる人達全てに悲劇が降掛かって来たりするわけです。
経験を積んでくると、なんじゃそりゃ!と言うような
無色透明もしくは真っ白なクライアントに遭遇したとしても、
その一滴が何色なのか当てる能力が、段々備わってきて、
コンペの勝率が上がってきたりするんですね。
ツボというか、落とし所が見えてくると言うか。
霊能力者というのは、その人が持っている漠然とした願望や
人となりを構成している無意識・意識的な記憶を敏感に感じ取り、
それがババーンとビジュアルとして立ち上がってきて、
それらを実体として目視しているのではないのか。
その存在は彼らにとってみれば、
現実よりもよっぽどリアルに、
真実としてそこにあるのではないだろうか。
でも霊能力者だって人であることには変わりない。
よって彼らが見ているビジュアルも、
彼らの経験や記憶によって構成されており、
だから守護霊というのは、一人の人物が重複して登場する。
誰もが知っている有名人であれば、そりゃもう大忙しである。
例えば偉大な宗教家、政治家、経済人、作家、武将、音楽家などなど。
そう考えると、守護霊というのは、
血縁関係はもちろん多いと思うけど、
実在する人物に限らないのではないのか。
霊能力(才能)が同じでも、診断結果はまちまちかもしれない。
霊能力者の人生が豊かであったか、ボキャブラリーが豊富かにもよるだろう。
例えば。
診てもらう人に、水泳がむちゃくちゃ得意で川遊びが大好きな曽祖父がいたとして、
彼の人となりにその影響が強く出ているとする。
三人の霊能力者には守護霊として同じビジュアルが立ち上がったとしても、
「オリンピック選手の○○さんが守護霊ですよ。」と言うかもしれないし、
「先祖の方が守護霊で、水難事故に注意しなさいと仰ってます」と言うかもしれない。
また子供の霊能力者なら「守護霊は河童だよ」と言うかもしれない。
だから。
守護霊というのは存在するかしないかと言えば存在するし、
守護霊は私を構成する一部であるし、
守護霊は自らの意思で私の後ろに立っているのではないし、
守護霊が実在の人物かどうかを特定することに意味は無いのだと思う。
「調べたけどそんな人はいなかった」なんてことはナンセンス。
また「そんな有名人が、こいつについてるわけねーじゃん。」という理由から、
その霊能力者をインチキだと決め付けるのもどうかと思うぜ。
守護霊はとは、その人となり。
守護霊を進化させることは人生を豊かにするんじゃないのかな。
などと思う今日この頃。
でも。江原氏=スピリチュアルってのは
ちょっと違う気がするし、そうでもないのかもしれない。
その辺はまだ良くわからない。
日本語ではまだこれという訳ななされていないようだけれど。
ただ何年か前に医学会総会のイベントを運営した友人が
これからはスピリチュアルなプランナーになるのだ!と
息巻いていたことを思い出した。彼は元気だろうか・・・。
WHOは1998年「健康の定義」を、
「健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、身体的、
精神的および社会的に安寧な状態(ウエルビーング)である」から、
「健康とは、(中略)身体的、精神的、社会的およびスピリチュアルに
ダイナミックに安寧な状態である」と改めようという提案をしている。
スピリチュアルという言葉の訳はなされていなくて、
霊的とか魂とかそういった言葉を使って解説されているようだ。
精神とスピリチュアルを分けているのには、何か意図があるのかな?
よく分からない・・・。
だけどなんだか日本では心霊現象だったり、占いだったり、
はたまた癒しグッズだったりに
スピリチュアルという言葉が多く使われていて、
なんだか分からないけど、
それはマズイでしょ。という違和感というか、うーん。
スピリチュアルという言葉がへたってしまうような危機感を
漠然と感じるのはなぜなんでしょうか。
「オール讀物」3月号で、ななんと茂木先生が
「スピリチュアル旋風を解き明かす!」そうなので、
それを読むのがちょっと楽しみ。
どうか私にも分かる内容でありますように。
私は結構好きで、何時の何番でやっているのかまでは覚えていませんが、
タイミングが会えばラッキー!とばかりに見ています。
心霊現象全般について了解している訳ではないのだけど、
「守護霊」の存在についてだけは、
最近段々「こうじゃないのかな~」という
私なりの考え方の輪郭が見えてきました。
私の人となりが、私の経験によって構成されているとしたら、
私のDNAに、
私の自覚することのない数々の記憶が脈々と受け継がれているとしたら、
江原氏のように霊能力者と呼ばれる人達は、
私の心にある漠然としたイメージや私の知らない遠い記憶を、
敏感に感じることができて、かつそれをビジュアルとして捉えるという
稀な才能に恵まれた方々なのではないだろうか。
例えば。
大好きだった人を亡くすという強烈な体験をした場合、
それは今後の私の人となりに大きな影響を与えることは間違いない。
人生について、死について、体について、生き方について考えるとき、
些細な日常のひとつひとつについて、なんらかの行動を起こす意思の決定に、
大なり小なり影響している。
自分ではそのショックから立ち直ったつもりでいたとしても、だ。
人と話をしている時に、「この人はこんな経験があるのでは?」と、
漠然と感じることがありませんか?
それから連想して「この人が求めているのは、もしかしたらこんなこと?」って、
なんとなく分かるときも。
広告プランナーという仕事をしていると、
それは結構敏感に感じるように訓練されると言いますか、
大海にポトンと落とされたインクの色を当てるような能力が試される世界でもあり。
どういうことかと言うと。
「予算はこれだけ。何にも考えてないので全てお任せ。」などと言う
一見無色透明なクライアントだったとしても、
何らかの漠然としたゴールシーンのイメージを、誰しもが必ず持っているもの。
それを色に例えて「赤」だとすると、
黄色や青のバリエーションをいくつ提出してみたとことろで、
「なんか違うだよね」⇔「なんでも良いっていったじゃん!」という
果てしなく悲しい応酬が繰り広げられるのは必至で、
プランナーはまず赤を探り当てて、
素晴らしい赤い色を表現するクリエイターと組まなければ、
関わる人達全てに悲劇が降掛かって来たりするわけです。
経験を積んでくると、なんじゃそりゃ!と言うような
無色透明もしくは真っ白なクライアントに遭遇したとしても、
その一滴が何色なのか当てる能力が、段々備わってきて、
コンペの勝率が上がってきたりするんですね。
ツボというか、落とし所が見えてくると言うか。
霊能力者というのは、その人が持っている漠然とした願望や
人となりを構成している無意識・意識的な記憶を敏感に感じ取り、
それがババーンとビジュアルとして立ち上がってきて、
それらを実体として目視しているのではないのか。
その存在は彼らにとってみれば、
現実よりもよっぽどリアルに、
真実としてそこにあるのではないだろうか。
でも霊能力者だって人であることには変わりない。
よって彼らが見ているビジュアルも、
彼らの経験や記憶によって構成されており、
だから守護霊というのは、一人の人物が重複して登場する。
誰もが知っている有名人であれば、そりゃもう大忙しである。
例えば偉大な宗教家、政治家、経済人、作家、武将、音楽家などなど。
そう考えると、守護霊というのは、
血縁関係はもちろん多いと思うけど、
実在する人物に限らないのではないのか。
霊能力(才能)が同じでも、診断結果はまちまちかもしれない。
霊能力者の人生が豊かであったか、ボキャブラリーが豊富かにもよるだろう。
例えば。
診てもらう人に、水泳がむちゃくちゃ得意で川遊びが大好きな曽祖父がいたとして、
彼の人となりにその影響が強く出ているとする。
三人の霊能力者には守護霊として同じビジュアルが立ち上がったとしても、
「オリンピック選手の○○さんが守護霊ですよ。」と言うかもしれないし、
「先祖の方が守護霊で、水難事故に注意しなさいと仰ってます」と言うかもしれない。
また子供の霊能力者なら「守護霊は河童だよ」と言うかもしれない。
だから。
守護霊というのは存在するかしないかと言えば存在するし、
守護霊は私を構成する一部であるし、
守護霊は自らの意思で私の後ろに立っているのではないし、
守護霊が実在の人物かどうかを特定することに意味は無いのだと思う。
「調べたけどそんな人はいなかった」なんてことはナンセンス。
また「そんな有名人が、こいつについてるわけねーじゃん。」という理由から、
その霊能力者をインチキだと決め付けるのもどうかと思うぜ。
守護霊はとは、その人となり。
守護霊を進化させることは人生を豊かにするんじゃないのかな。
などと思う今日この頃。
でも。江原氏=スピリチュアルってのは
ちょっと違う気がするし、そうでもないのかもしれない。
その辺はまだ良くわからない。
日本語ではまだこれという訳ななされていないようだけれど。
ただ何年か前に医学会総会のイベントを運営した友人が
これからはスピリチュアルなプランナーになるのだ!と
息巻いていたことを思い出した。彼は元気だろうか・・・。
WHOは1998年「健康の定義」を、
「健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、身体的、
精神的および社会的に安寧な状態(ウエルビーング)である」から、
「健康とは、(中略)身体的、精神的、社会的およびスピリチュアルに
ダイナミックに安寧な状態である」と改めようという提案をしている。
スピリチュアルという言葉の訳はなされていなくて、
霊的とか魂とかそういった言葉を使って解説されているようだ。
精神とスピリチュアルを分けているのには、何か意図があるのかな?
よく分からない・・・。
だけどなんだか日本では心霊現象だったり、占いだったり、
はたまた癒しグッズだったりに
スピリチュアルという言葉が多く使われていて、
なんだか分からないけど、
それはマズイでしょ。という違和感というか、うーん。
スピリチュアルという言葉がへたってしまうような危機感を
漠然と感じるのはなぜなんでしょうか。
「オール讀物」3月号で、ななんと茂木先生が
「スピリチュアル旋風を解き明かす!」そうなので、
それを読むのがちょっと楽しみ。
どうか私にも分かる内容でありますように。