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物部が勝利した世界。。。仏教が日本に広がらなかったらどうなったか?土着信仰と仏教の違い

2023-03-02 04:10:40 | 日記
前回の続きです
日本古来の信仰というのは、基本的に「神降ろし型」です
なので、神降ろしをする神官や巫女がいて、神事が行われ、神託に基づいて政治が行われるのが基本であったわけです
武内宿禰のように、霊の言葉を降ろすような人もいたことはいましたが
重要事項について。。。基本的には政事(まつりごと)に関して神官が神におうかがいをたて、神がそれに答えるという形で
神託によって政治決定を行うスタイルであったと思われることから
神託儀式に関する決まり事や作法については決まった形があるものの、心の教えについてはほとんど説かれなかったと思われるのです

逆に仏教と言うのは、仏陀の言葉を弟子が口伝によって伝えていたものが、後世に教えとしてまとめられ編纂されたもので
心の教えを中心として、仏への信仰をたてるスタイルです
聖徳太子がなぜ、仏教を国教と定めたのかについては、十七条憲法に記載があるのでここに示します
「二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。」
現代語に直すと
「第二条 篤く三宝をうやまえ。三宝とはこれ仏、法(仏の説く教え)、僧(僧団・仏陀サンガ)なり。すなわち生命が最後に帰するべきものであり、万国において最も尊い信仰である。いつの世も、いずれの者も、この教えを尊ばないものはない。世には極悪人は少なく、大抵の者はよく教導することで善良な者となるが、しかしそれは仏法僧の三宝に帰依することをもって教えなければ、他に何をもって教え導くことができるだろうか」

分かりやすく言うと、これは国の教育方針そのものであり、具体的に仏法僧の三宝に帰依しなければ、人間の心のゆがみを正すことができない
そのように十七条憲法には書かれているのです
つまり、私たちが忘れてはならないこととして、日本の精神文化のもととなる道徳教育を行ったのは仏教による宗教教育であったわけです

ここで、神道を含む日本古来の土着信仰と、仏教の信仰との違いを明確にしておきましょう
日本古来の信仰は基本的に儀礼・儀式を中心とした神託によるもので、その都度、神官や巫女による神降ろしにより方針が示されます
しかしながら問題があるのは、神託と言っても、その言葉が本当に神から授けられたものであるのか?その神はどういう神なのか?
これが分からないわけです
同じように神を名のっていたとしても、部族や豪族によって、神の定義も当然違えば、降ろされる神託もまったく違うわけです

具体的に言うと、神武天皇の信仰する神と、神武と敵対した長髄彦(ナガスネヒコ)の信仰する神は別物であるわけです
仮に、長髄彦が信仰していた神が正しい神託を降ろしていても、神武天皇に敗れれば、その正しさは受け入れられないわけです
ですから、日本に土着の豪族が混在していた時代には、「何が正しい事なのか?」を定義することが極めて難しかったわけです
つまり、神も「勝てば官軍」なのであって、理不尽なことですら、勝った方が「正義」として受け入れられるわけです
しかし、戦争に勝った方が正義だとされてしまえば、負けた側には理不尽な思いが残り、以後も何度も争いが起きてしまいます
聖徳太子が十七条憲法の第一条で「和をもって尊しとなし、さからうなきを宗とせよ」と言っているのは
要するに、当時は豪族間で熾烈な争いがあったということを物語っているわけです

一方、仏教という宗教はどうなのか?と言いますと、これはその教えの中に「普遍性」があるわけです
部族や豪族の違いを超えて、「何が正しいのか?」ということが、仏陀の教えとして、お経の中に入っているわけです
具体的には、戒定慧、四諦(苦集滅道)八正道、六道輪廻、六波羅蜜など、実に様々な法門が説かれ、普遍的な教えがあり
各人が法(教え)をよりどころとして、心の教えを学ぶことができるわけです
ここがね、日本古来の土着信仰と仏教の違いなんですね。。。。
要するに聖徳太子は、各部族がそれぞれ独自の信仰をもって「自分の神が正しい」ということばかり言っていては
国がまとまらない、ということをよく理解していたわけです
そして、天皇家の信仰である天照大神への信仰も含め、土着の信仰では「教えに普遍性が乏しく、心の教えの内容が少ない」
ということも理解していたのだと思います
だからこそ、「篤く三宝を敬え」なのでしょう
各人の心を正すための普遍性な心の教えが、日本神道には欠けていたという事です。。。だからこそ仏教を取り入れたと思います

話は変わりますが、前々回の日記で、「妖怪にならないための言葉」という本を取り上げました
あまりネタバレはいけませんが、この本の中に「物部系の豪族神を裏側の妖怪世界に封じ込めたのが行基菩薩である」、と書かれています
行基菩薩は奈良時代の人ですが、この方が本格的に仏教僧として活躍し仏教僧としての手本を示すことで、物部系の豪族神たちを裏側に封じ込めた
とはどういうことなのかを、私なりに解説してみようと思います

行基菩薩は仏教寺院をたくさん作りましたが、それによって仏教信仰を流行らせ、普及させ、その教えを広げていきました
一方、物部系の豪族神とは物部守屋を中心とする人たちのことでしょう
物部守屋は仏教を入れることに反対して聖徳太子と蘇我馬子の連合軍と戦い、最後には敗れています
物部の主張は外国文化を排斥する攘夷運動。。。つまり飛鳥時代の尊王攘夷運動であったわけです
この物部守屋をはじめとする物部豪族神たちは、おそらくは戦いに敗れた死後も仏教に帰依することはなかったのでしょう
そして行基菩薩が出てきて日本各地に仏教寺院を沢山建立し、仏教信仰の基盤を作っていきました
そうすることで、だんだんと日本霊界の中で物部系は封じ込められ、片隅に追いやられていったのだと思います
もちろん神道の信仰は神仏習合によって仏教と結びついているので、神道が表側となることで物部系の信仰は裏側になるのでしょう
当然のことながら、裏側の信仰は仏教を否定しています。。。なので、信仰が立たない、信仰心がない、というのは当然なのでしょうね

遅くなりましたので今日はここまでにします。。。また後日、続きも書いてみようと思います

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