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安い税金と小さな政府を切望するふきあえずのブログ

安全で暮らしやすい日本をつくりたい
そんな想いを綴っていくブログにしたいと思います

夕べの投稿の続き。。。「普遍性を間違えるな」というインスピレーション

2024-10-19 21:46:48 | 政治

様々な書物について書いていると、よく、その課題に関するインスピレーションが降りてくることがあります

 

私は、トランプ大統領の経済政策が好きで、トランポノミクスという書籍を読んでいるのですけれども

方や、日本の保守の論客の方々には、トランポノミクスに興味をお持ちの方が少ないようです

反グローバリズムの立場としてのトランプ大統領を応援する方は多いわけですが

なぜか、トランポノミクスという書籍について語る方は、ほとんどおられません、少なくとも私は見たことがありません

なので、トランプ大統領が「安い税金、小さな政府」を志向する政治家であると認識している人は少ないのではないでしょうか?

最近の流れとして、日本の保守派は「安い税金、大きな政府」の方が多い印象を受けます

国民民主党の玉木代表などは、保守かどうかは知りませんが、「安い税金、大きな政府」志向の方ですし

自民党の高市早苗氏も、やや保守であり、政治スタイルとしては、その傾向があると思います

 

その玉木代表や高市氏らの理論的根拠となっているのがMMT(現代貨幣理論)であり

それを日本に広めた中野剛志氏をはじめ、評論家の三橋貴明氏らの影響力たるや、凄いものがあります

この貨幣理論には論理的な整合性があって、その理論がユートピア思想、済民思想(済民:民衆を救うという意味)と合わさって

非常に宗教的な、まるで信仰に近いような広がりを見せているように見えます

多分、この理論に正面切って異議を唱えている人間は、いま現在、いらっしゃらないのではないでしょうか

ただ、私自身は専門家でもなんでもなく、彼らの唱える貨幣理論を丁寧に学んだ経験のある一人の人間として

ほぼ直観に近い感覚として、「MMTは社会主義・共産主義との親和性が非常に高い」ことを大変危惧しています

 

実は、MMTが日本に広がる以前にも、シカゴプランというアメリカのシカゴ大学の幻の論文を日本に紹介した方がいて

私はその方の著作である「公共貨幣」(山口薫著)という書物を何度も通読しました

その結果わかったことは、この山口氏も、政府貨幣を発行して社会福祉の費用を賄い、ユートピア的な日本をつくろう

というものでした。。。。これもまた、社会主義・共産主義の理想論に非常に近いものがあったように思います

幸福実現党党総裁の大川隆法先生は、マルクスの思想を、「唯物論的な思想で明確に間違いである」、としつつも

その思想の根底に流れるものが、実はユートピア思想であり、マルクスも元々は天使の素質を持った魂である

と語っておられます。。。つまり、考え方は間違っており、その間違いが後世に悪影響を及ぼしてはいるのだけれども

元々、人を救いたいという愛の思想が入っていた。。。その愛の思想が、人々を共産思想に惹きつけたのであり

それゆえに、マルクス思想は宗教的な熱狂性を帯びているのだ、と喝破しました

そして、私は思うのですが、このMMTもまた、マルクス思想に近いものがあるのを感じるのです

 

ここで、本日の主題について語りたいと思いますが

この思想的宗教性、人を熱狂させる宗教性を帯びた思想において、善悪を見分けるにはどうすればいいのか?

ということなのですが。。。。これはもう、「普遍性」を見抜くしかない、という事につきると思います

普遍性とは一体どういうものでしょうか?

一見すると、論理的整合性のあるMMT現代貨幣理論は、普遍的な貨幣理論のようにも見えます

しかしながら、私が指摘しておきたいこととして

現在ただ今の金融システムは、人間の都合によってつくられたものであって

未来永劫、その金融システムが維持されるわけでもなんでもないわけです

中央銀行や市中銀行による信用創造という貨幣創造プロセスは

経済を弾力的に発展させるためには非常に優れた仕組みだと思います、しかし

逆に、モラルのない貨幣創造によって酷いインフレをもたらし、国を疲弊させることもあります

確かに、自国通貨建ての国債発行によって政府が破綻することは、基本的にはありませんが

むやみな貨幣発行によって国が貧しくなっていくことは、これは十分あり得ることだと思います

私が考える「普遍性」というのは、実はこういう事です

国を豊かにするもの、その要素とは、「国民の倫理観と勤勉さ」です

国を豊かにするためのこの二つの要素こそ、普遍的なるものであって、数十年、数百年たっても変わらないものだと私は思います

倫理観の中には責任感というものもあります。。。だからこそ、国をよくするために、国民として納税の義務を負う

こういう義務感とか責任感を国民が消失させてしまったら、国民のモラルはほぼ消え去ったと言ってよいと思います

だからこそ、「税金は国家財源の原資ではない」という言い方は、安易に人間の責任感や義務感を放棄させてしまう危険性があるから

私は、「後の世に、大きな禍根を残すことになりはしませんか?」と、警鐘を鳴らしているわけです

対価を払えと言っているわけではありません

国民は国家の庇護によって安全に暮らしながら自由を謳歌している、という事に対し、

国民としての最低限の義務。。。国家を良くするために協力するという義務を負うべきだと私は思います

無責任な国民の集合体には、無責任な政府しか生まれません

だから、普遍的なるものを勘違いしてはならない

お金をいくら刷ったとしても、人間の精神性を低下させる方向にお金を使ってはならない

人間の勤勉性が失われる方向にお金を使ってはならない

それこそが普遍的なる真理だと私は思います

お金は発行すればいくらでも作れるが、人間の精神性はお金では作れないんですよ

トランポノミクスは、その普遍的なる真理を踏まえた、トランプの経済政策なのです

 

 

それでは今日はこの辺で、ではまた


T.S.エリオットのChristianity &Culture を読んでみた

2024-10-19 00:49:20 | 政治

以前の日記でご紹介した、伊藤貫先生一押しご推薦の書籍「Christianity &Culture(キリスト教と文化)」を購入しました

その事は以前申し上げましたが、やっと前半部分を読み終える事ができました。

いや、英語が観念的なものが多く、とても難解でした

ただ、この時点で私が関心を持った部分について書いておくとすると、まず、リベラリズムについての記述があげられます

 

リベラリズムとは、「自由主義」と訳すことができますが、いま現在の日本では保守派の人に嫌われることが多いと思います

その理由は、「新自由主義」と呼ばれているものが、特にグローバリストたちによって思想的に悪用されているからですが

著者のT.S.エリオットは、この書籍を書いた1930年代において既に、リベラリズムが別の安直な意味に

誤解されて解釈される可能性を予見していました

リベラリズムとは、本来は違う意味なのですが、安直な解釈により、「伝統や文化の破壊」がリベラリズムだ、と

そう解釈される可能性がある点について指摘しています。。。つまり、伝統的なキリスト教文化の破壊ですね

伝統文化にがんじがらめに縛られた不自由な現実から解放されること、これがリベラリズムだと言うわけです

なるほどそう考えると、そのリベラリズムとはまさにジョージ・ソロスの主張する

「開かれた社会(オープンソサイエティ―)」そのものですね

 

ただ、その場合のリベラリズムは、伝統・文化を破壊しつくした後には何も残らないため

最後には勢いが消えうせ消滅する運命にあると、エリオットは指摘しています

つまり、伝統文化を破壊するのはいいが、その後には何も残らず、善も悪も何もなくなってしまうわけです

また、安直な破壊衝動に裏付けられたリベラリズムが台頭する過程においては、逆のもの。。。。

つまり、そのリベラリズムを圧力をもって制限しようとする体制が現れる、それが全体主義であったりするわけです

 

全体主義(トータリタリアニズム)は、エリオットも指摘していますが

全体主義それ自体が、自由主義と民主主義の二つを内包していると、全体主義国家では考えられています

つまり、全体主義国家には自由主義も民主主義もあるのだ、というのが全体主義者の主張です

どういう意味かというと、全体主義とは、つまり国民の総意の結果として、決定されたことに従うのが全体主義だからです

そこには国民の「総意」という錦の御旗があります

分かりやすく言えば、「コロナ過においては、日本全国の飲食店を閉店させるべき」という雰囲気が

日本全国に蔓延していましたね?これが分かりやすく言うと「全体主義」なのです

「コロナ過でお店を開けている経営者は犯罪者だ、人殺しだ」とか

「コロナワクチンを接種しない人間は他人のことを考えない利己主義者だ」、とヒステリックに叫んでいる人がいましたが

これが高じて、社会全体がそういう雰囲気を醸し出してくると、これが全体主義になるわけです

このことは、ハンナ・アーレントの著書に詳しく書かれています

 

それで、問題はですね、キリスト教諸国が、ヒトラー政権下のドイツをどう考えるべきかについて悩んだわけです

この「全体主義」の政治体制が、キリスト教国家において起きたのかどうかが大問題だったわけです

異教徒(キリスト教国以外の)の国家であれば、「あの国は異教徒だから。。。」で片づけられたものが

ドイツの場合は、やはりキリスト教国家でした。。。だから都合が悪かったがために

ドイツのキリスト教を「ドイツの国教」と呼ぶなどして、キリスト教から切り分けるような努力もされた、と言われています

つまり、どこかを間違えばキリスト教国も全体主義になるのか?それとも異教徒だから全体主義なのか?

これが、多くの国家の国民には理解できなかったわけです

だから単純に「異教徒だから」と片付けようとした

戦前の日本が全体主義国家と呼ばれたのも、おそらくは「異教徒だから」で片づけられたに違いありません

その方がキリスト教国家にとって安心できるからです

 

この書物、こうした自由主義や民主主義、全体主義、キリスト教国の政治体制などについて、非常に鋭い考察がなされています

国家の指導者が敬虔なキリスト教徒であるかどうかは、キリスト教国家としての形にはさほど影響がなく

問題は、国民の意識、総意的な感情のようなものによって、指導者の統治も変わることを指摘しています

ですから、国家として、国民がどのような宗教を持ち、どのような倫理観を持つか

それは非常に大事なことなのです

ここで、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」についての考察も入りますが

国民が何を善とし、何を悪と考えているか?それが重要なのです

生まれてから素朴に信じてきたキリスト教プロテスタントの信仰が、自然にその社会の倫理観を形成する

そういう共通の価値観が育まれてきたからこそ、実は、自分の国がキリスト教国家だと意識しなくても

キリスト教の教えに基づく善悪の価値観に基づく政治が行われてきた。。。これがキリスト教国家だった

これが結論になります

 

日本には素晴らしい文化がありますが

これが形成されてきた背景には、実は家族による素朴な信仰教育がありました

主に日本の倫理観を育ててきたのは、仏教と二宮尊徳精神でした

これが最近の核家族化の流れによって失われつつあります

今の福祉社会の弊害を一つ申し上げておきましょう

それはね。。。様々な介護サービスが普及することで、そこに国がお金を出すことで

「年寄りの生活の面倒は、国が見てくれる」という方向に行きつつあります

そしてそのことが、家族間で継承されてきた素朴な信仰観、倫理観を破壊しているように、私には思えるのです

だからこそね、これが今日最後の私の言いたいことですが、私はMMT(現代貨幣理論)にかぶれている人に言いたいのです

「税金は国家予算の原資じゃない」。。。これはMMTの一番の核になる考え方ですが

この「家族の面倒を国に見させる。。。国にお金を出させる」という考え方が、すでに左翼的で共産主義的なんですよ

これ、絶対日本を駄目にする破壊思想です。。。国民の倫理観を破壊し、無責任な国民を多数輩出してしまいます

だからこそ、「国民の血税」という言葉をあざ笑わないで欲しい

そう、切に思うものです

 

それではまた