風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

汗が流れる

2016年08月05日 | 体を整える
午前10時前にもかかわらず暑さが並大抵ではない。
山田先生のところに行く道すがら、玉の汗、そして流れる、流れる。

汗が盛大に流れるのは、この暑さのせいではなく、体が機能し始めたということらしい。

そして、ドアを開けた先生に子供のようにあのねと、報告をすると、喜んでくださり、「もっといいことがありますよ」と、おっしゃった。

良いこととは、なんだろう?

操法をしていただくと、何時もどちらか片方の張りがあるのだけれど、今日は、肩の両方が張っているとのこと。
先日、キャスタ付きバッグでもなくリュックでもなく、今までだったら、考えられない丈夫な手さげに入れて、腕にかけて重い荷物を持ち運んだこと、そして、弱い左の肩が、脱臼モドキになりかけたこと。そして、そのモドキは、自力で治ったことを、お伝えしました。

重い荷物を片手に下げて運んでいると、腰が痛くなって、下げていられなくなっていたのが、嘘のよう。右にも左にも持ち替えて、同じくらいの時間を持ち続けました。
体の軸が整って、支える力もついてきたということ。

自力で治せたのは、自分の体のことが、わかってきたのだと先生はおっしゃいましたが、私自身は、そうかなぁと半信半疑なのです。
ただ、思いつくままの動きをして見ただけだったのだけれど、その全部あるいはどれかが、正しい動きになって、いつの間にか治っていたのです。


いろんな体の使い方やコントロールの仕方は、先生にご指導いただくほどに、不思議感を増しています。

昨日届いたばかりの「原点」にも、温タオルの不思議が記事になっていました。
こんなに力のある温タオルなのに、もっと、身近にたくさんの人が、使えばよいのにと、思うのです。

井本整体機関誌「原点」は、B5版20ページほどで、中字の印刷です。
わかりやすい言葉遣いで書いているので、うかうかと読み飛ばしそうになるのですが、この記事の一つずつが、深い意味を持って語られています。

こういう語り口は、須藤明美先生にも同じことが言えます。
一つの言葉が、それぞれの習熟度に応じて、学びがあり、学ぼうとする思いが強ければ、さらに深い意味がわかってくる。


心と体は一体であるということを、知れば知るほど、実感します。

私のすべての元凶は、左の骨盤がかなり歪んでいたことによると、言葉で聞かされました。
長年の生活習慣でなったのか、生まれつきか、はたまた落馬のせいか、今となっては原因はわかりませんが、心身への大きな影響を経て、今、井本整体の操法のおかげで、かなり改善されてきています。
先生もおっしゃるし、私自身も実感しています。

井本整体と山田先生に出会わなかったら、あの最悪の状態からさらに急坂を転がり落ちて、心身共にぼろぼろになり、今は、療養生活をしていたかもしれないと思うと、であいと、であったときの直感を大事にして良かったと思いました。


山田先生だけでなく、私には、良い出会いがありました。
出会いに導いてくれた人に感謝、そして、私の直観に乾杯。

さて、この先、どんな良い変化が来るのだろうか、楽しみ。




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秩@宮崎東明作

2016年08月04日 | 詩吟
今月の漢詩として、須藤先生が選んでくださったのは、
宮崎東明作 「秩v


    青々と伸びる秩Aその林、
    その静かなたたずまいの中、
    吹く風はみきをならし、
    自由な琴の音。
    古来から窒ヘ、
    定説の堅い譬えとして人に愛され、
    また、
    腹中
    何もない様は、
    清らかな君子の心と比して、
    敬愛されて。         須藤明実先生訳


「不調の琴」を自由な琴の音と訳された先生の感性に触れて、一瞬に準備していた吟詠への思いが、変わって、心に近いものとして、目の前に表れました。

東明先生の「秩vへの思いと、その詩に共感し、このようにやさしく美しく、読みといて、目の前に展開されて、吟詠の場を頂き、その吟詠の順番が、私であったことの、幸せ。

此の処、発声がかなりスムーズになってきていることも相まって、満足の行く吟詠ができました。
こんな時、謙虚にならず、心のうちでガッツメ[ズをする私。

自分のことを誇らしげに思ったり、ガッツメ[ズをする私を恥ずかしく思ったり、忙しいことだ。
こんな時のことを、「心を亡くす」っていうのだね。危ない、危ない。






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剣詩舞の先生

2016年08月02日 | 出会った人

7年余り前に、とてもお世話になった剣詩舞の先生 大輪神道流の小西如泉先生に久し振りにお目にかかりました。

そのころと変わりなく、きりっとしたお姿は、一時、体調を崩されたとお聞きしましたが、復調なされて、以前以上にお元気で、袴に隠れていても、足さばきが手に取るようにわかりました。

初心者は、袴に隠れているのを良いことに、じたばたと、足を踏み違えるものです。
ここしかない、この向きでしかない位置にぴたりと決まるから、私のような者でも、見えるのです。
この写真では、足の位置はわかりますが、膝を曲げないで、腰が高い位置にあるときの足さばきは、以前習っていた時は、皆目わかりませんでしたが、長く休止していて久し振りなのですが、わかってしまったのです。

整体の山田先生のご指導もあって、腰からの足の出方、上半身の傾きによって、足の位置がどこに来ると、安定して美しいかが、ちょっとばかり見えるようになったこともあるのでしょう。


お稽古の時に、袴で、足の位置がわからないと訴えた時に、ふつうは、こんなことしないんですよと言いながら、袴をたくし上げて、足さばき、足の位置を見せてくださいました。
そして、何んと次のお稽古の時は、トレーナーを履いてきて、まるで足の動きが見える練習をしてくださいました。
なんてことを先生にさせてしまったのかと思ったのですが、初心者の見えていて見えなかった頃のエピソードです。

袴をはいてこその動きの美しさですから、なんとなく先生も恥ずかし気でしたが、袴がなくても美しい足さばきでした。
方や、私の足と言ったら、馬脚を現すどころか、恥ずかしくて、とても見せられたものではなく、袴をはいて練習しなくちゃと、思ったことでした。


ところが今日も、あの時ほどおみ足が見えるほどではないにしてもはっきりと足袋が見えるまで、袴をたくし上げて、足の動きと位置をお弟子さんたちに見せていらっしゃいました。
これと思う意見は、柔軟に取り入れて、お弟子さんのために何でもなさる偉大な先生だったのだと、いまさらに、感じいりました。

この先生が、死に物狂いでご指導くださったから、半年余りで、曲りなりの舞ができたのだと、感謝してもしたりない思いでいっぱいになりました。

ご自身の技にプライドを持ち、そのようにお弟子さんへのご指導を続けられていて、あの頃初心者としてお目にかかったお弟子さんが、先生舞のの軌跡を描いて、決めていく姿は、とても美しく凛々しかった。


どうしても、型の決まらないお弟子さんには、流れるように舞うけれども、一つの区切りでは、キチンと型を表して、静止せねばなりません。とおっしゃっていました。


その言葉から、お習字の楷書と草書の違いが見えてきました。
うったてと、止め。まさに、その通りに先生はお手本を示されました。

うったてと、止めの間の舞は、剣舞と雖もしなやかに滑らかに、静止した美しい形のなかにも、扇をしまう動作などにも、その細かい部分に気が行き届いていて、飽きることがない。

そして、大きな動作の時は、直線だけでなく、詩吟でいえば「揺り」となぞらえる部分の舞の手は「たゆとう」ように流れてゆきます。元気なだけの剣舞とはまた違った女性らしい動きが、魅力でした。

こんな味が詩吟にも出せるようになったら、よいなぁと、ぽかんとして、見つめました。

                         (8月3日加筆)


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