¥シ浦弥太郎のベーシックノートよりー
やさしい人にはならない。
冷たい人にもならない。
「ほんとうにやさしい人」になるのは難しいけれど、「やさしい人」だと言われるのは簡単です。真実から目を背けても、相手に快いことだけ言い、どんな結果を招こうと、その場しのぎでやさしくするならだれでもできます。しかし、やさしい関係性で育つものなど何もないと思います。意地悪くしろ、冷たくしてもいいという話ではありません。責任をはたし、何かを成し遂げるためには、やさしさでごまかさない強さも必要だということです。
情報とは自分の経験。
知識はほどほどに。
自分の経験しか、本当の情報にはなりません。見たり、読んだり、聞いたりしたことは、情報ではなく知識です。知識が増えると、自分のあたまでものを考えなくなります。だから、知識はほどほどに。
何でも知っている人ではなく、何でも考える人になりましょう「何も知らない自分」は何に対しても素直に向き合えます。世のなかには知識があふれています。放っておくと増える一方なので、時どき忘れる努力をしましょう。
100のベーシックの中で、立ち止まって考えてしまったのが、上記の二つを入れて全部で三つ。
あとの97は、どうでもいいというのではないのです。大事な言葉が連なっていましたが、今の私に考えることを始めさせたのが三つということです。
吟詠以外の顔をしているときは、限りなく優しい人になろうとしています。たぶんお相手の方たちも、変わらないかと。その時は、その先に起こることなど考えていないでしょう。
こと、吟詠となると、なまじ先が見えているつもりになっているので、きつい言葉を言い、人を傷つけてしまうことがあります。
冷たい人になっていないよねと、ドキドキするわけです。
そして、弥太郎さんの言う「知識」を良かれと思ってばらまいているのかもしれない。さらに、日々、いろんなことが好むと好まざるとにかかわらず、入ってきて、知ったつもりになっています。
弥太郎さんの「情報」は、経験であるという。
私は、その両者を取り違えておりました。
おっしゃる通りに、「知識」が増えると確かに、頭の中の引き出しを探すことに専念してしまい、さらに増やしたくなる。ただでさえ、整理しにくい頭の中の私の引き出しは、ごみの山と化しているようだ。
それは、それほど溢れていても、無いと同じこと。
今、私には、吟詠ということの強みがある。このことに関しては、気が付いたら考えているから、必要な物はいつも手元にあるし、即座に答えられる。
わからないことは、意外にも、わからないと答えられる。
きっと知識がたくさんあると、どれにしようかと躊躇して、わからないと答えるタイミングを失してしまうのかもしれない。
情報を与えられるかどうかは、自分の頭で、考えること。単純明快だ。
そして、最後の三つめは、
人の話を良く聞く。
もっと聞く。さらに聞く。
私の苦手とするところ。
苦手と十分知っているから、しゃべる。そして、更にしゃべるという悪循環。
たった一つの質問でも、私は、質問攻めにしているような気がしてしまって、聞く代わりに、また、しゃべることになる。
弥太郎さんは、「質問攻めではなく、自然に引き出しなさい、相手が話したくなる促し方をすることです。
人の話を良く聞くということは、人の心をいかに聞けるかにかかっています。」と結ぶ。
人の心を聴かずして、やさしいだけの人ではだめなんだ。ふるった薙刀は、その人のハートを直撃し、生まれるはずの心を殺してしまったかもしれない。
正しい情報と信じたものが、ただのうすっぺらい知識だったら、そういうことが起こるなぁ。
苦言と思って発した言葉が、いくつのハートを射抜いただろう。
そして、そこから、何が生まれただろうか、死んでしまっただろうか。。。
やさしい人にはならない。
冷たい人にもならない。
「ほんとうにやさしい人」になるのは難しいけれど、「やさしい人」だと言われるのは簡単です。真実から目を背けても、相手に快いことだけ言い、どんな結果を招こうと、その場しのぎでやさしくするならだれでもできます。しかし、やさしい関係性で育つものなど何もないと思います。意地悪くしろ、冷たくしてもいいという話ではありません。責任をはたし、何かを成し遂げるためには、やさしさでごまかさない強さも必要だということです。
情報とは自分の経験。
知識はほどほどに。
自分の経験しか、本当の情報にはなりません。見たり、読んだり、聞いたりしたことは、情報ではなく知識です。知識が増えると、自分のあたまでものを考えなくなります。だから、知識はほどほどに。
何でも知っている人ではなく、何でも考える人になりましょう「何も知らない自分」は何に対しても素直に向き合えます。世のなかには知識があふれています。放っておくと増える一方なので、時どき忘れる努力をしましょう。
100のベーシックの中で、立ち止まって考えてしまったのが、上記の二つを入れて全部で三つ。
あとの97は、どうでもいいというのではないのです。大事な言葉が連なっていましたが、今の私に考えることを始めさせたのが三つということです。
吟詠以外の顔をしているときは、限りなく優しい人になろうとしています。たぶんお相手の方たちも、変わらないかと。その時は、その先に起こることなど考えていないでしょう。
こと、吟詠となると、なまじ先が見えているつもりになっているので、きつい言葉を言い、人を傷つけてしまうことがあります。
冷たい人になっていないよねと、ドキドキするわけです。
そして、弥太郎さんの言う「知識」を良かれと思ってばらまいているのかもしれない。さらに、日々、いろんなことが好むと好まざるとにかかわらず、入ってきて、知ったつもりになっています。
弥太郎さんの「情報」は、経験であるという。
私は、その両者を取り違えておりました。
おっしゃる通りに、「知識」が増えると確かに、頭の中の引き出しを探すことに専念してしまい、さらに増やしたくなる。ただでさえ、整理しにくい頭の中の私の引き出しは、ごみの山と化しているようだ。
それは、それほど溢れていても、無いと同じこと。
今、私には、吟詠ということの強みがある。このことに関しては、気が付いたら考えているから、必要な物はいつも手元にあるし、即座に答えられる。
わからないことは、意外にも、わからないと答えられる。
きっと知識がたくさんあると、どれにしようかと躊躇して、わからないと答えるタイミングを失してしまうのかもしれない。
情報を与えられるかどうかは、自分の頭で、考えること。単純明快だ。
そして、最後の三つめは、
人の話を良く聞く。
もっと聞く。さらに聞く。
私の苦手とするところ。
苦手と十分知っているから、しゃべる。そして、更にしゃべるという悪循環。
たった一つの質問でも、私は、質問攻めにしているような気がしてしまって、聞く代わりに、また、しゃべることになる。
弥太郎さんは、「質問攻めではなく、自然に引き出しなさい、相手が話したくなる促し方をすることです。
人の話を良く聞くということは、人の心をいかに聞けるかにかかっています。」と結ぶ。
人の心を聴かずして、やさしいだけの人ではだめなんだ。ふるった薙刀は、その人のハートを直撃し、生まれるはずの心を殺してしまったかもしれない。
正しい情報と信じたものが、ただのうすっぺらい知識だったら、そういうことが起こるなぁ。
苦言と思って発した言葉が、いくつのハートを射抜いただろう。
そして、そこから、何が生まれただろうか、死んでしまっただろうか。。。