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サイバー攻撃 DDOS攻撃

2018-09-23 19:15:44 | Area Studies

cyber attack or cyberattack

   まずcyberとは、コンピューターやインターネットのネットワークが形成する情報空間(仮想空間)のこと。このcyber空間に対して、情報を盗んだり、暴露したり、利用不可能にしたり、破壊したりー様々な目的で攻撃attackが行われる。

   ディードス攻撃(ddos attack or dos attack;dos=denial of service) 大量のデータを送り付けて通信機能を停止に追い込むもの 電力網などインフラを攻撃する。

   ランサムウェアransomware ウイルスに感染したパソコンのデータを消滅させるとおどして身代金を要求するもの

 ハッキング(不正侵入) 不正侵入してデータを盗んだりウイルスをしかけたり アドレスを盗んでなりすましたりするもの。ハッキングを行うものをハッカーとよぶ。
 フィッシング ニセのサイトに誘導して暗証番号を盗むもの

標的型メール アドレスを盗んで関係者になりすましてシステムに侵入、ウイルスに感染させたり個人情報を奪うもの
相手の端末の利用 海外の仮想通貨取引所を利用した日本人の端末をマイニングに利用する など 

標的型攻撃 特定の人物を狙ったメールでウイルスに感染させるもの
ビジネスメール詐欺 通信先の業務に関連したテーマを表題にしたメールを送り付けてウイルス感染をねらうもの 関係者の名前で送る場合もある

 マルウェア(悪意あるプログラム) 装置やソフトに埋め込むことでスパイ活動や破壊活動を行うもの
 バックドア 情報を盗み出す不正プログラムのこと 携帯電話 コンピュターなどに組み込まれていることがある 敵対する側の情報を盗んでリークする等 ダウンロードしたアプリから侵入して情報を入手するものも 米中摩擦の焦点の一つとしてファーウェイの通信機器にバッグドアが仕込まれているという指摘(仕様書にないポートが発見された)がなされている。
  ただファーウェイ(2017年世界の基地局売上高シェア1位 ファーウェイ27.9% エリクソン26.6% ノキア23.3% ZTE(イランや北朝鮮に不正に通信機器を輸出)13.0% サムソン電子3.4% NEC1.4% 富士通0.9%)をたたくと間接的に日米企業にも影響する ソフトバンクは4Gの一部にファーウェイとZTEの基地局を使っている。米クアルコム(半導体)、JDI(液晶)、TDK(バッテリー)、ソニー(スマホ向け部品)、村田製作所(スマホ、基地局部品)はファーウェイ(2017年世界のスマホ出荷台数シェア サムソン電子21.6% アっプル14.7% ファーウェイ10.4% OPPO(中国 オッポ)7.6% 小米6.3%)に製品を納入している。まず米国で安全保障上疑念のある企業から米国の通信会社が機器を導入することを禁止する議論がでてきた(2018年4月米連邦通信委員会→2019年度国防権限法でファーウェイ製品を政府機関の調達から排除)。ファーウェイが普及した背景はコストの低さとされている。それでもファーウェイがすでに深く浸透しているオーストラリアで(4Gでは5割超)5GについてファーウェイとZTE排除をオーストラリア政府が決定した(2018年8月23日)。日本政府も2018年12月10日 2019年4月以降、安全保障上のリスクの観点から中国の通信機器を排除する方針を固めた。
 ソフトバンクについてファーウェイへの依存度の高さが問題として指摘されていたが、この日本政府の方針を受けてソフトバンクはようやく欧州系の通信機器への乗り換えを判断した(コストの上昇が予想される)。5Gについて北欧2社、4Gについても中国製をなくす方針を固めた。ソフトバンクが中国のつながっていることが、米国通信子会社スケジュールスプリントのTモバイルUSの買収承認の遅れにつながったとされる(2018年4月末に合意報道 経営主導権をドイツテレコムにゆずるとのこと 実現すればソフトバンクの財務は改善)。
 ソフトバンク(SB)は12月19日新規株式公開を行ったが、このファーウェイの問題での判断の決定的な遅れのほか、12月6日の大規模な通信障害の失態(エリクソン社製の設備に認証期限切れのソフトがインストールされていたためとのこと)が重なった。もともと政府による携帯料金値下げ要請、楽天による2019年新規参入問題もあり携帯電話事業の環境は悪化していた。株価情勢もあり、19日の新規公開(国内で過去最大の大型上場)は公開価格を大幅に下回る安値引けで終わる歴史的大失敗に終わった(公開価格1500円 初値1463円 終値1282円 多くの個人客が損害を受けた   大型株の初値公開価格割れは1994年のJT以来の大失態 公開価格1500円は PERとして17倍 NTTドコモ(2019年4月からの大幅値下げ表明)の13倍 KDDIの10倍に比してそもそも割高 株価指標を重視する機関投資家は消極的だった 個人客に対して年75円 5%利回り 配当性向85%をセールスポイントに売り込んだ しかし主幹事証券野村には個人投資家を犠牲にした責任は残る)。これは親会社のソフトバンクG(SBG)が投資会社として規模を拡大するなか、子会社のソフトバンクを上場させその価値を切り出そうとしたものともいえる。失敗の背景に一つに、米中摩擦、ソフトバンクと中国との関係があることは間違いない。同様にSBGが2017年に立ち上げたソフトバンクビジョンファンドについては、サウジアラビアの影があるされていたためとのこと(1000億ドルのうちサウジ公共投資ファンドPFIが450億ドル投資)。ソフトバンクの急成長を支えた、中国そしてサウジとの厚い関係。それが今やソフトバンクの成長にマイナスになっている。

フェイクニュース 実在する人物 住所などをもとにニュースをつくり政治対立や 世論操作しようとする行為。ニセ情報 ニセアカウント 自動投稿ポットを利用したニセ情報の流布 選挙などで問題に。情報汚染とも。事実無根の情報を流したり恐怖や怒りをあおって犯罪を引き起こすことも。⇔ 言論の自由の侵害との批判ありうる。ネット事業者にとっては、フェイクニュース対策が必要になっている。
ステルスマーケテイング 広告であることを隠して口コミを装ってネットに投稿すること
 フェイクニュース問題については誰がどのように判断するかで、世論統制になる可能性も指摘されている。2017年6月に中国で施行されたサイバーセキュリティ法については、国家の安全や公共の利益の保護が前面にあるため、個人情報の保護よりはネットの管理強化ではないかとの指摘がある。ネットワーク事業者を規制する法律だが、データの中身が中国当局の監視下に置かれることを意味している。

このほか

ダークウェッブ闇サイト 利用者の匿名性を担保する通信技術たとえばTor=トーアをつかってアクセスするもの 違法薬物 偽造品 銃などが売買されている)
ダークネット ダークウェッブと同じ意味でアドレス ID パスワードで閲覧できる 

海賊版サイト 著作権侵害を行うサイトのこと。海外サーバーで運営されている場合 事実上規制できない。対抗策としてのブロッキング(接続遮断)には通信の秘密の侵害にならないか。関係ないサイトまで表示できなくなるオーバーブロッキングをどう考えるか、などの課題がある。2018年9月に欧州議会ではプラットフォーマーに対して著作権侵害コンテンツの削除や適切な著作権使用料支払を義務付けた 日本では出版社側は遮断を求めているのにプロバイダー側は慎重

サイバー攻撃があった場合 一定期間内に公表を義務付けるながれにある。

フェイスブック(20億人以上が利用 Gには対話アプリのワッツアップ、写真共有サイトのインスタグラムなど):長年にわたり個人の登録情報を一部企業に提供していた(個人情報収集の事例:いいねボタンのあるページをおとずれただけで利用者の閲覧履歴がフェイスブックに自動送信される仕組みになっている)とされるほかデータ管理の甘さが指摘されている 会員員情報不正利用の表面化(2018年3月最大8700万人分:第三者の作ったアプリが監視されていなかった その後9月にも最大2900万人分:当初は5000万と報道 個人情報のハッキング被害を報告 広告主離れが懸念される)、個人情報規制の強化された欧州(一般データ保護規則GDPR 2018年5月25日にユーロで施行。データの入り口と出口で規制。入口については目的を明示して同意をとることを義務付け。途中のコンテンツについては問題投稿をすぐに削除する義務。違反に対して最大で2000万ユーロあるいは年間売上高の4%、いずれか高い方の制裁金。出口についてはデジタル課税案も。英国が2018年10月に2020年4月から売上高の2%に課税を決定。フランスは2019年1月から導入。これは従来の法人課税のルールでは国内や支店など恒久的施設を課税できない問題があったことに対応したもの)で利用者が減少(米国でも規制強化の可能性)。ユーザー数の減少は広告収入の減少に直結する。またニセニュース対策の監視要員増員、データセンターなどのインフラ投資が増えて営業利益率は40%台から30%台に低下する見込みという。アマゾンはクラウドや広告事業で安定して利益を稼ぎ最高益を更新しているが、システム投資、物流への投資は拡大しているが納入メーカーから今協力金を徴収することで賄っている(2015年2月末から2018年2月23日で株価は3.5倍)。またプライム会員制度を収益源として育ててゆく方針。アップルは2017年11月に発売を開始した、iPhoneXの販売が失速。在庫が増えて在庫回転日数が大きく増えているとされる。アップルの好調への不安が高まっているが、アップルはそこでアプリ販売を収益の柱として強化する方針。動画配信ネットフリックスは契約者の伸びが市場予想を下回ったとのこと。グーグルの持ち株会社アルファベット(2015年2月末から2018年2月23日で株価は2倍)はEUからアンドロイドを使う端末で自社の検索サービスなどを不当に優遇しているとしてEU競争法違反として制裁金を課せられた(7月18日 43.4億ユーロ=5600億円)。これが減益要因になった。これらはまさにハイテク領域。まさにこの領域で米国と中国がぶつかっている、それが貿易摩擦にあらわれているのではないだろうか。トランプはハイテク領域での中国の躍進を、関税引上げという力技で止めようとしているように見える。

 個人情報については、個人を識別できなくすること(復元不可能なように匿名化すること)で細かな分析を可能にしたとされる(2017年個人情報保護法)。他方で、個人情報の開示に多くの個人(名前 性別 年齢 住所 カード情報 位置情報)は慎重である。個人の取引情報(購買履歴)、資産情報を利用した融資判断:トランザクションレンデイング。個人の趣味嗜好に応じたターゲット広告。利便性を高めるというセールストークの反面、過剰融資につながらないか、情報開示に慎重な個人の姿勢と、このような企業の行為との間には乖離があり、個人プライバシーを犯していないか、などの疑問が出ている。またIT大手に情報が独占されることも問題とされる。この問題はAIの判断は逆に差別など倫理的差別(人種 宗教など)問題が持ち込まれるリスクを示している。とくに融資判断や人事の採用判断にAIを活用することは、倫理的問題が深く絡んでいる。企業についてもたとえば入出金情報を利用して、AIで融資判断をすることが進められている。

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2017-10-28(2018-09-23)

テスラの非公開化

2018-09-18 21:55:08 | Area Studies

2018年8月7日、テスラモーターズのイーロン・マスクCEOが非公開化(=上場を取りやめること、すなわち株式を非公開化すること)を検討していることを発表した。同社は2010年にナスダックに上場。2017年9月には389.61ドルの上場来高値を付けたがその後は株価は低迷している。巨額の投資が先行するなか、赤字幅は拡大。最近は資金繰りの困難が伝えられていた。6日の終値より23%高い420ドルで買い取る。株主が株式の保有を続けることも可能として6ケ月ごとに株式を売買できる機会を設けるとした(こうした株主が多いほど非公開化を行うための買取りコストは小さくなる)。

四半期ごとの圧力、会社を攻撃する多くの人々、などを株式公開の問題として挙げて、非公開企業の方が効率が高いとした。これにたいして、マスコミには非公開化に大義があるかといった記事が書かれた。しかし起業熱にかかわらず、NYSEやNASDAQで上場会社数が減少していることを考えると、企業が大きくなると証券市場で上場するという神話や、証券市場を通じたガバナンスを受け入れねばならない、というお題目が本当に正しいかをそろそろ疑っていいように考える。株価は、企業経営者の経営判断を超えて、日々変動するが、投資家は企業の成長をかんがえているのではなく、投資資産を守り収益を確保するために短期的な売買を繰り返している。だとするとそのような投資家に振り回されることが本当に正しい経営だろうか? もしもであるが、非公開化しても、増資による資金調達が可能であれば(たとえばPEFファンドなど)、企業は株式市場に残る意味はあるのだろうか。

この非公開化には720億ドルが必要とのこと。ファンドによる買収としては過去最大になる。この情報でテスラ株は一時急上昇した。

8月16日 ウオールストリートジャーナル紙はSECが2017年からテスラの情報開示をめぐり調査していたと報道した。

ところが このマスク氏の行為はヘッジファンドの売りに対するマスクウ氏の虚偽情報との見方が出て問題になっている。最終的に8月24日 テスラは非公開化を撤回した。株価は非公開化計画発表前を大きく割り込む水準まで低下している。

背景にあるのはテスラの業績悪化だ。投資が多くて採算が改善しない。

9月18日 司法省が捜査をはじめていることがわかった。

清水勘「減少するアメリカの上場企業」ニッセイ基礎研2017/12。・・・・清水さんに言わせるとアメリカでは起業は依然盛んだが、VCやPEなど上場に代わる資金調達手段が整備される一方、上場の敷居が高くなっていることが、上場会社数の減少につながっているとする。新興企業についてはこの言い方や分析は妥当。ただ私たちの関心初めて、大企業にむしろあるのだが。つまりは大きな企業が非上場化する問題。非上場化は戦略的な選択で再び戻るのか、あるいは永遠に戻らないという選択も可能なのか。
太田珠美「IPO市場の動向と国際化」大和総研2017/03
株価の回復にもかかわらずIPOが回復しない理由として上場審査体制の整備を挙げている。
太田珠美「上場会社数の減少が続く国内証券取引所」大和総研2011/12日本国内でのMBOによる非公開化に着目。背景として株価が低迷するなか金利低下などによって社債・借入などのコストが下がっていることに注目。注目されるのは上場のメリットへの疑いが出ていることを指摘していることだ。資金調達の問題のほか、知名度を上げるといった点では情報発信についてはさまざまな手段が登場していること。他方、上場により株主構成が複雑化して、短期的な視点での経営判断に縛られること。開示コストのほかなどさまざまなコンプライアンスコストが負担になること。当然にように前提されている企業が成長すると、上場せねばならないのか?ということが改めて論点になっている。
日本政策投資銀行(NY)「米国における非公開企業と非公開化の動向」2006/03・・・・中堅中小企業の非公開化について、ソックス法(サーベンス・オックスレー法)の影響による上場コストの上昇、PEなど代替資金手段の整備などを挙げている。注目される分析として、非公開企業の理念を調べて、非公開企業が従業員にとってむしろ「働きやすい企業」である可能性を示唆していること。非公開化される企業が次第に大規模化していることも。長期的な企業の存続を考えたときに、企業の上場・公開が唯一の選択肢ではなくなっている可能性がある。改めて公開企業が本当に企業の効率性改善に役立つかは議論される必要があるだろう。
大崎貞和「非公開化の意義と問題」資本市場クオータリー2005Aut.(野村資本市場研究所)
非公開化について日本で進むMBOを通じた非公開化とアメリカにおける非公開化の動向を並べて論じている。注目されるのは戦略的非公開化と永続的な非公開化を分けていること。ただ非公開化の問題点を述べるだけでなく、公開を義務として受け入れるべきといった主張を述べるのは客観的分析からは少し外れている。

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2018018 


トルコショック contagion risk

2018-08-30 14:58:46 | Area Studies

米国トルコ関係の悪化からトルコリラ相場が2018年8月急落した(年初比4割以上)。これはトルコに対して8月10日発動された追加関税発動による(3月の鉄鋼とアルミに25% 10%を各50% 20%に2倍に引き上げ)。トルコはもともと経常赤字国なので介入余力に乏しい。輸入物価の上昇で消費者物価が急上昇。貯蓄率が低く国内銀行は海外の大手行から借り入れて資金源としている
 対外債務大きく(対GDP54.9%)経常赤字も大きい 9月に入り政策金利を6.25%引き上げ24%入力
 トルコ エルドアン大統領 首都イスタンブール 政府は新規インフラ開発を凍結 成長率落ち込む一方で物価は上昇
 2016年以来 米牧師アンドルー・ブランソン氏が自宅軟禁状態(クーデター未遂事件に関与の疑い)
 ⇔ 中国が支援 投資・融資など

 南アフリカ ランド 対外債務大きい(対GDP52.5%)

 アルゼンチン たびたび政策金利を大きく引き上げた(40%から45%へ 8月30日には15%上げて年30%に)がアルゼンチンペソ通貨安が止まらない 通貨安から輸入物価上昇インフレ加速(8月のインフレ率は年率34.4%)   歴史的なかんばつで大豆生産がふるわないとのこで農業分野の落ち込みは激しい。ほとんどの産業分野が落ち込んでいる。通貨安・コスト高のよる物価上昇。クレジットカードの延滞増え消費も落ち込む。
 経常赤字+財政赤字 トルコほどではないが大きい
 マクリ大統領(2015年12月就任 次回2019年10月大統領選) 財政赤字も深刻であるため輸出品に課税 
 IMFの支援を受けているが結果として財政支出の削減 経済規模縮小へ

 ブラジル 5月トラック運転手によるストで混乱 公定最低運賃導入で物流コスト上昇 景気の足かせに(33.1%)
 テメル大統領 ブラジルレアル 米中貿易戦争で中国(国内消費の85%輸入依存)向け大豆輸出が急増 大豆を欧州 中南米に転売

 ベネズエラ 外貨不足と物資の不足のため ハイパーインフレ そのため通貨単位を5けた下げるデノミを実施(2018年8月20日) 国民の一部は南のブラジルに逃亡している。
 マドウロ大統領(軍幹部とむすびついた独裁体制)

 インドネシアも通貨防衛で利上げ5.25%から5.5%へ

 メキシコNAFTAで大筋合意(8月27日)

 モンゴル215.3%(対外債務対GDP) キルギス110.9% ラオス83.5% タジキスタン67.1% マレーシア63.7% 南アフリカ52.5% アルゼンチン39.8% メキシコ39.5% ロシア34.0% タイ33.5% ブラジル33.1% インドネシア31.2% パキスタン23.9% フィリッピン23.4% インド20.3%

 安全資産としてのドルへの逃避 ドル高 通貨安のコンティジョン(伝染)リスク contagion risk広がる 新興国の返済負担増え返済能力に悪影響 

 米国は米ドルが国際通貨=基軸通貨であることの責任、国際金融市場の安定に無頓着。相手国は自国通貨が対ドルで下落。対外債務膨張。経済危機。

 2018-08-30更新

 


東アジアのトライアングル

2018-08-13 22:41:38 | Area Studies

中国と韓国との関係が在韓米軍の地上配備型ミサイル迎撃システム(THAAD)配備問題などで冷却化すると、中国は日本との関係を修復し始めた。他方、中国は台湾の蔡政権(2016年5月発足)に対する圧力を強めているが(象徴的であるのは台湾を外交承認する国の減少で、2018年5月1日にドミニカ共和国が台湾と断交し中国と国交を樹立。台湾を外交承認する国は19か国となった)、結果として韓国と台湾が結ぶ着く可能性もあり、そのことは韓国から台湾への観光客増加に現われている。台湾は中国との経済交流が深まるなかで、台湾系企業が中国本土で活動することを阻止できなくなっており、経済的側面から台湾が中国本土(大陸)から離れなくなる可能性は高い。人とカネの両面で台湾から大陸への流出は始まっており、経済規模の格差からこれを阻止するのは容易でないだろう。だとすれば、その状況を前提にして(敵対的にではなく友好的に中国との交流を図りつつ)、なお政治的な自立性をどのように維持するかという困難な課題に台湾は取り組まざるをえない。この問題の構図は日本も無関係ではないのでないか。

さらに根底にある問題は、日本、韓国、台湾のいずれもが、高齢化、人口の縮小、低成長への移行という問題を抱えていることではないだろうか。それゆえにこうした地域にある企業は、より高い成長率を維持している国や市場に業務範囲を広げる必要性に迫られている。しかし国によって、微妙な課題の違いが浮かび上がる。

まず日本の中国依存度は、韓国や台湾ほどではない。この点で日本は相対的に余裕がある。確かに日本では生産年齢人口が減少に転じ(1995年)、労働人口が減少に転じ(1999年)、ついには総人口が減少に転じている(2005年)。高齢人口は人口の7%を超え(1970年)、14%を超え(1995年)、ついには20%を超えている(2007年)。日本の失業率(2018年6月)は2.4%。若年失業率が3.8%。消費者物価指数(全国 総合)の伸びは0.7%(2015年基準 前年同月比)。2017年年平均では0.5%。失業率の低さと物価の上がり方が低いこと、これが日本社会の安定を支えている。社会経済問題としては、このような人口の減少が始まっているなかで、空き家の増加が日本全国で目立つようになっている。住宅建設を抑制するべきだという声がありながら、デフレ脱却を掲げる政府は新規住宅建設抑制に踏み切れていない(野澤千絵「住宅過剰社会」)。住宅についてはっきりしている論点は、耐震性や耐火性の低い住宅については防災のためにも除却を進める必要があるということ。また税制の在り方を、新規住宅建設から既存住宅改修など既存住宅活用にシフトさせることだろう。また高齢化社会における介護や福祉問題も避けて通れない問題になっており、その持続性や財源について国民の間に不安や疑問が生じているのは事実である

台湾は、中国への依存度は高い。またこれを下げるのは容易でないだろう。ただ民主化が進んだほか、内政がうまく回っている。台湾の失業率(2018年3月)は3.66%で過去18年で最低とのこと(2018年5月の失業率は3.69% 6月が3.68%。消費者物価指数の伸びは2018年5月が1.64% 6月が1.31%)。台湾の景気は悪くないわけだ。失業率の低さは日本に近く、物価上昇率は韓国に近い。ただ台湾も日本と同様に高齢化と人口の増加率の減少に悩んでいる。国際的にみて出生率が極めてひくく、生産年齢人口の減少が2015年をピークに始まっている。企業は海外展開を図ることで生き残りを図っている問題は日本と全く同様である(台湾で発達した形態としてEMSがある)。ただその依存の程度は、日本とは大きく異なり、かなり深くなっている。当然であるが、中国への依存・一体化を主張したり支持する人たちも少なからずいる。高齢化の問題については、儒教倫理が大きくは崩れていないなかで、家族・社会の助け合いにより深刻化を免れるのではないかとされている。道徳的な価値観を壊さないことが、社会の安定装置になることをこのことは証明しているように思える。台湾社会の安定を支えているものとして、民主化の成功とともに、健康保険制度の普及を挙げることができる。現在のところ、全民健康保険制度と呼ばれる制度の維持について台湾政府は自信をもっているようだ。これは社会福祉制度の維持について、不安が高まっている日本の状況と大きく異なる点である。日本との関係では、台湾は日本の友好国である。日本社会はこの台湾の信頼にこたえる必要があるのではないか。

中国への依存度が高いうえに、内政の課題を多く抱えるのが韓国である。韓国の失業率(2018年5月)は平均で4.0%とされるが、若年失業率(15-29歳)が10.9%と高い(2018年5月の失業率は4.0%  若年失業率が10.4%。6月は3.7%と9.0%。つまり5月に18年ぶりという高い若年失業率が記録されたが、翌月に劇的に低下している。)消費者物価上昇率は5月1.5%, 6月も1.5%。日本から見て韓国の政治が不安定にみえる背景には、若者の就職不安(に示される社会の不安定さ)が背景にある。また創業家支配が続く韓国の財閥が主導する経済システムへの国民の不満も鬱積している。企業グループ内の循環出資は日本の持合いと同様に支配構造を不明確にしている。人口の高齢化が韓国で急速に起きることや、人口の減少が起きることなど、日本と類似した問題を韓国が抱えることも時々指摘される。高齢化が急速に進展する背景に、先ほど述べた若年層における失業の高さが指摘されることがある。また高齢層の貧困の割合が韓国では突出して高いという指摘がある。若年層の失業と高齢層の貧困、この2つに挟まれた形の韓国の社会は、日本と台湾に比較して社会の不安定度は大きい。自殺率の極端な高さ(競争社会で社会的格差が大きいことが背景)をみても、韓国は根本的な社会経済システムの改革を必要としているようにみえる。ただその改革の選択肢がそれほど多くないことも事実で、それが韓国社会の逼塞につながっている。日本と関係ではやはり反日感情(韓国の反日感情)を無視できない。

中国は朝鮮半島の現状を変更しようとする韓国の動きを警戒しており、また台湾が独立志向を強めることを警戒している。対中依存度の髙い両国に対して圧力を強めている。台湾に対しては、外交的な包囲網で孤立化を図る政策を強めている。他方、中国は日本が、韓国や台湾と連携する構図は避けたいと考えていることも明らかだ。三国は互いの立場の違いを理解し、この情況を互いに利用することで、それぞれの政治的自立性という目標を確保するべきではないか。

参考文献

 許粹烈「日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済」

 陳振雄「戦後の台湾の経済発展における農地改革の役割について」『地域政策研究』5巻1号、2002, 59-79

 福地亜希「中国経済の減速 アジア経済への影響」東京三菱経済レポート2015/03/30

   陆生麻辣问马 2015/12/18

 安倍誠編『低成長時代を迎えた韓国の社会経済的課題』IDE-JETRO, 2016年3月

 鈴木透「東アジアの低出産・高齢化とその影響」『人口問題研究』72巻3号、2016年9月, 167-184

 村上和也「変化するアジア経済の対米・対中依存度」三井住友信託銀行調査月報2016年9月号

   核心となった習近平 2016/12/22

 武藤正敏「韓国人に生まれなくてよかった」ダイヤモンドオンライン 2017/02/14  格差社会 受験競争 教育費 就職競争 結婚における新郎側の負担 徴兵制

   马英九谈台独:没有国家宣布独立两次  2017/03/02

   香港青年渴望移民台湾 2017/03/07

   南韩贫富差距大 2017/05/05

 韓国の自殺率はEU平均の2倍以上 2017/05/28

   蔡英文総統への支持率の急落 2017/07/15

 真壁昭夫「韓国経済は財閥依存」ダイヤモンドオンライン 2017/08/15

   马英九回应 台湾人为什么不愿意与大陆统一  2017/11/22

   悪化する韓国の対中関係 2017/12/16

 金明中「なぜ韓国の高齢者貧困率は高いのか」ニッセイ基礎研  2018/01/16  公的年金制度が未成熟なのに韓国政府は制度の持続性を優先して高齢者を切りすてた。・・・安倍政権がやろうとしている制度の持続性を優先する政策が高齢者の貧困につながることがここから想像される。

 韓国 大学生 史上最悪の就職難 2018/02/05

   トランプによる関税引き上げ宣言と全人代開幕 2018/03/06

 世界幸福度報告書における順位 2018/03/15 156ケ国のなかで台湾26位 日本54位 韓国57位 幸福度ランキング詳細

 平塚宏和(みずほ総合研究所)「台湾経済の現状と展望」2018年6月
蔡英文 面对中国打压 2018/08/17

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ウーバー 法規制を回避無視する企業文化の果てに

2018-08-09 18:37:10 | Area Studies

rideshare(ライドシェア) 

ライドシェアの普及が車需要の減少につながる?かをめぐって議論がある。 

ライドシェア+自動運転 →  ロボットタクシー(ボルボがウーバーとの間でロボットタクシーの供給契約を結んでいる 2017年11月)

               タクシー業界 不要化する? 個人が車を保有する意味はさらに低下する?

               車は保有するものではなく 使いたいときに呼び出すものになるなど。

しかしその立役者 ウーバーテクノロジーズを見ると、ライドシェアはそれほど、バラ色には見えない。ウーバーテクノロジーズ(UBER)2009創業(2014日本でもサービス開始)このウーバーを持ち上げる記事もあるがどうも、批判の方が多いようだ。もともと法規制逃れがこのサービスの本質。それゆえにウーバーはいろいろな問題を世界で起こしている。日本の報道はどうもこうした否定的側面をとりあげず、プラスの側面だけを伝えている

中国では滴々が配車アプリ最大手。ウーバーの中国ビジネスも買収したとされる。しかしそのサービスでは繰り返し殺人事件が起きて問題になっている。

2018-08-09 ニューヨーク市議会 配車サービスで営業台数制限する条例を可決 2018年8月 ニューヨーク市議会が配車サービスの台数制限に乗り出したことが注目される。ネットをみるとNYでライドシェアを利用した利用者と称するひとたちの書き込みがあるが、どうも安っぽい宣伝臭がして。でも以下は信頼できそう。ニューヨーカーがタクシーよりUberを使う理由2017-06-18 アメリカのライドシェアの現状2018-02-19 (NYについてみると2017年にはライドシェアの台数がイェローキャブを超えている。つまりは社会の足としての認知は相当に進んでいる。) 問題はそうした状況の中で、今回規制が実現したことをどう考えるかではないだろうか。

 タクシー会社などに配車サービスとして認める(日本 なおウーバーは台湾、タイやシンガポールなどでタクシー会社との連携進めている。しかし監督当局やタクシー業界と対立を繰り返した結果、各国の法規制を無視する傲慢な企業のイメージが消えなくなっている。問題はこの企業の法やモラルを守らない姿勢は、タクシーに関係する法規制だけではなく、さまざまな道徳的問題に及んでいるということだ。法規制に対抗するという姿勢が、このようなモラルに欠けた企業文化につながっているのではないか? ではライドシェアという考え方そのものはどうなのだろうか? すでに起きている問題からすると、ライドシェアそのものにも乗客の安全の確保、個人情報の流出など、いろいろな問題がありそうだ。このウーバーを持ち上げるネット上の記事はウーバー自身が創作しているように思われる。)

ウーバーの落とし穴 個人情報が筒抜け 2014-11-27   電話番号などの情報が抜かれることが指摘されている

ウーバー 米国で視覚障碍者の乗車拒否で訴訟 2015-04-22 

ウーバー イギリスの雇用審判所がウーバーのドライバーを独立事業者でなく従業員と認定 2016-11-16

ウーバー 経営上の課題 旅客運送法規制逃れ・事故時賠償責任不明確など 世界各地で営業停止 提訴を受ける 大前研一 2016-12-20

ウーバーに起こっている問題 2017-03-22  同様のアプリ間で競争が起こり ウーバードライバーは利益を出せなくなっている ウーバーは手数料として40%を取っている。

ウーバー 腐敗した企業文化 2017-03-23

問題になっているウーバーの企業文化 2017-04-05

 営業許可がないドライバーを検挙(香港 2017年5月)

 フィリピンで1ケ月の営業停止処分(フィリピン 2017年8月)

 ウーバーを米司法省が調査 海外腐敗行為防止法違反容疑 2017-08-30

 なぜロンドンはウーバーを禁止したか 2017-09-25

 ロンドン市交通局 ウーバーの営業免許更新を拒否 2017年10月

 ウーバー 個人情報5700万件の流出を1年間隠蔽 2017-11-22

 ドライバーと乗客をつなぐ情報サービスではなく 運輸サービスと認定(EU司法裁判所 2017年12月) 

2018-01-07(2018-08-09更新)

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武田薬品のシャイアー買収

2018-08-08 14:48:34 | Area Studies
医薬品売上高で世界トップはロッシュ543億ドル(5.9兆円)2位はファイザー(5.6兆円) 3位がノバルティス5.3兆円。武田の売上高1兆7000億は世界で18位の規模で世界の上位メーカーに比べて大きく見劣りする。武田にとって今回のシャイアー買収は起死回生の策。日本企業のM&Aとして過去最大で、武田としても巨額負債に加え、希薄化による株価下落のリスクも高いが、半面、仮にうまく行けば、1株あたり利益はかえって改善。武田は売上高で世界トップテンに入る国際的な医薬品メーカーに変身。規模を倍増させることで、国内の他の医薬品メーカーを引き離す可能性は高い。武田の買収戦略の成否は、日本企業の今後を在り方を占うものとなる可能性もある。

2018年5月8日 正式提案 武田(2014年からクリストフ・ウエバー社長 負債は1兆円)の売上高は1.7兆円(世界18位 時価総額で3兆9700億円) アイルランドのシャイアーは1.6兆円(世界19位 時価総額で5兆1000億円)免疫不全や血友病など希少疾患領域に強い(=ライバル少なく利益率が高い 米国での売上が多く海外売上高を増やしたい武田の希望ともあう。またアイルランドにあるため法人税率は12%と低いことも利点。売上高利益率28% 武田は9%で国内のアステラス13% 中外14%に比べても低い) 買収金額は7兆円弱。中枢神経 遺伝子難病の治療薬に強み 実現すれば武田薬品は売上高規模で世界18位から世界8位に浮上。2018年4月6日現在 時価総額で武田3兆9700億円に対しシャイアーは5兆1000億円(シャイアーは2016年に米バクスアルタを約4兆円で買収 そのため2兆円の負債あり このバクスアルタは不調とされそのためシャイアーの株価は2017年にPERで8倍程度に低迷していた。このことがシャイアー側が買収を望む理由になっていた)。4月20日4度目の提案で買収価格を1株47ポンド(7100億円)に引き上げ(4月18日の株価の24%高)、合意に至った。提案はそのうち21ポンドを現金で26ポンドを武田株で払うと言うもの。

シャイアーの純利益は43億ドル=4600億円で武田の1150億円の4倍。今回のEV/EBITDA倍率は約12倍。製薬業界のM&Aでは13-14倍とされるなか、今回の買収金額は割安との評価もある。医薬品会社は保有している薬が特許切れになると収益力が急低下する宿命がある。武田は糖尿病治療薬アクトス(かつては年4000億稼ぐ)の特許切れにより収益力低下。この買収は実績のある企業を丸ごと買収する旧来型M&A。中長期的に人材流出により継続的な新薬開発につながらないリスクあり(失敗のリスク高いとの指摘もある)。他方開発費の高騰で製薬会社は巨額の投資に臆病になっていることが医薬業界でM&Aが多発する背景になっているとのこと。近年のM&Aはスタートアップ企業(優秀な研究者や有望な新薬候補をもつ)が中心。

買収発表後、大型買収による武田の財務の悪化が懸念されている(すでに武田の負債は1兆円 今回の買収で3兆円を借り入れ=メガ3行がそれぞれ1兆円ほどの協調融資これは過去最大規模、シャイアーも2兆円の負債を抱える。負債合計は6兆円。武田の自己資本比率は現在4割程度。2008年3月の8割程度からこの間、5000億超の大型買収を3件手掛けており低下。シャイアー買収後の利息は少なくとも年1000億超。元金の返済を合わせて3000億円。これが年間の予想利益6000億円をむしばむことになる。年間の1株あたり180円の配当を維持できないのではとの懸念も出ている。そのため現在の配当利回りを維持できないとの不安が個人の売りを誘っている。もう一つの懸念は新株発行による買収資金調達。これが4兆円とずると武田の時価総額3兆4800億円時価総額の2倍以上。)株主にとっては株価が2分の1に希薄化する恐れがある(希薄化についてはシャイアーの利益が加わることで1株あたり利益は改善するとの意見もある。ただ仮にそうだとしても、買収後、武田株を受け取った欧米の機関投資家がアジア株は運用対象でないとして武田株を機械的に売却。武田株が値下がりするリスクがある=フローバック(逆流)現象。武田の株主にとってはいずれにせよ株価低迷のリスクは高い。)。買収に必要な資金は6兆円。これは2016年のソフトバンクによるアーム買収時の3兆3000億円を上回り過去最大規模。買収規模で日本のM&Aの歴史で過去最大となることは間違いない。必要資金は460億ポンド6兆円(同社の純利益は43億ドル4600億円で武田の4倍。武田の2017年3月の純利益は1150億円。大型の新薬がないことが武田が低利益の背景。シャイアーの買収金額の EV / EBITDA倍率は12倍で製薬業界の平均13-14倍より割安だとされる)。日本企業による買収としては2016年のソフトバンクによるアーム買収3.3兆円(既存事業との直接相乗効果がない買収である点が注目された)を抜き過去最大。必要資金の半分を借入3兆。残りは増資(シャイアー株主に新株を発行)とみられる。→負債規模は現在の1兆円から6兆円に達する見込み。利払い償還負担に耐えられるか? 株式の希薄化で株価は下がる?。これに対しウエーバー社長は売上が2倍 EBITDAが3倍になり1株当たり利益が大幅に増えるとしている。試算では株数は2倍に増えるが1株あたり利益は50%増えるため、合理的買収との評価がある。
Bloomberg 2018-05-08
2018-05-27(2018-08-08更新)

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円高に進まない為替相場 金利平価説と購買力平価説

2018-08-04 09:43:43 | Area Studies
 為替相場についての古典的学説として、購買力平価説と金利平価説がある。為替相場を通貨の交換レートとして考える。同じ単位の通貨でより多くの相手の通貨と交換できる状態をその通貨価値は高くなった。より少なく交換できる状態をその通貨は安くなったと表現することにしよう。
 為替相場がある期間、安定しているとする。それは為替相場が均衡していることを示す。そこから変動を始めるときに、要因して金利格差に注目するのは金利平価説。物価の上昇格差に注目するのは購買力平価説である。
 たとえば、米国で金利が上がるからドル高になるというのは、金利平価説である。ドルという資産をもつことで稼げる金利の大きさが、通貨間の均衡レートを決めるという考え方だ。
 日本で金融緩和が続き、アメリカの金利は上昇するとなれば、ドル高円安になる。ドルのニーズが増えて、円が売られるからだ。日米長期金利差は2012年頃が1%割れ。2007年には2%後半から縮小して2012年に1%割れ。その後また拡大して2018年に再び2%後半になった。金利差を考えるとドル高になってよい。ところが、ドル相場は必ずしもドル高(円安)に動かない。
 2017年の相場はおちついていた(17年1月トランプ政権発足)が、2018年1-3月105円台へ円高が進んだ。つまり円安が阻まれたがその後は112円程度に戻っている(2018年7月)。こうした為替の動きは何を意味するのか?
 政治的な問題を置いておくと、日本の物価上昇率の低さが影響しているとの主張がある。こうした物価変動が均衡するところで為替の均衡を考える学説を購買力平価説という(物価上昇率の高い国の通貨が安くなる、あるいあは物価上昇率の低い国の通貨が高くなるというもの)。たとえば日本の物価上昇率が相対的に低いと為替は本来、円高ドル安に調整されるべき。円高への動きはこの物価上昇率格差がもたらしているのでないか。これは米国の景気の回復により、米国の物価が上昇する局面での円高ドル安を説明するのにも使える。
 株式に注目して米国株が上昇するときドル高になる、日本株が上がるとき円高になるという言い方もある。
 通貨の安全性の違いが、ときによっては通貨の選好を決めることもある。他の国の通貨より、ドルが選ばれる(ドル高)になる。円が選ばれる(円高)になるという言い方もある。
 経常収支や貿易収支に注目して、通貨への実需から通貨の強い弱いを議論することもある。一般に短期には金利に注目。中長期には購買力平価が妥当するともいう。またその時々に市場が注目しているものが違うともいえる。あるときには金利、あるときには物価水準。あるときには株価。あるときには貿易収支というように。また米国の政権が、どのような為替水準を望んでいるかも無関係ではない。現在のトランプ政権は、自国の貿易収支を立て直すためにドル安(円高)志向があるとされる。これに対して安倍政権は、景気・株価を維持するために円安を望んでいる。

注意されるのは円高・円安がそれぞれ、反転の要因を抱える構造になっており、為替相場とは本来、一方向に展開するものではないということだ。
ドル安(円高要因)
 米国内の物価上昇(原油高あるいは景気回復)
 円高局面での損失限定のための円買戻し。
 金利上昇による世界経済の減速懸念
 金利上昇により米株価崩れる懸念
 ドル安のなかで中央銀行の保有資産としてのドルの位置の低下。
 リスク回避資産としての円ニーズ。
 日本の金利低下局面では日本の債券へのニーズ。
 トランプ政権による安倍政権の為替政策(円安誘導政策)への批判。対米貿易黒字が多い日本の露骨な円安誘導策を批判。
 米中摩擦などの懸念 
 日本は金利は低い(円安要因)が日本の物価上昇率も低い(米国は2%台 日本は1%台)→ 為替レートは円高に振れる
ドル短期金利上昇。→ドル調達コスト上昇・ドル買い減少。投機的な短期投資筋の動きを抑える。あるいは外債投資が抑えられる(ヘッジコストの上昇から外債投資抑えられる 円高要因)。
 金利差は外債投資の要因(ドル高円安要因)。半面では海外金利の上昇で保有海外債券に含み損が出る。→米国債を売却 損失限定あるいは確定 ドルニーズ減少 資金は国内へ(円高ドル安要因) 国内金利には押し下げ圧力
ドル高(円安要因)
 海外投資家が日本株を買った資金をドルの戻すとときにも円売り(ドル買い)が生ずる。
 円高局面での相場の逆転を読んだ円売りドル買い(逆張り)。
 トランプ政権のドル資金還流政策=リパトリ減税。米企業が海外で稼いだ利益を本国に戻す際の税負担を軽減するもの。現在の35%を流動性の高い資産を14%、固定資産を7%に軽減。
 リスク回避資産としてのドルニーズ。
あるいは相対的に金利が高い米国債ニーズ。
 為替ヘッジ(金利上昇局面ではヘッジコストの上昇が外債投資を抑えることに)をかけない外債投資。こうした投資は円高局面で行われるが、それは半面、円高を抑える面がある(外債投資拡大)。
 また日本企業の円高局面での海外へのM&A投資の大きさ(武田によるシャイアー ソフトバンクのアームなど)は、円売り(ドル買い)の実需を生んでいる。これらの円売りも、円高の進行を抑える。

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プラットフォーマー FAANG   networkの経済  ネットワーク外部性

2018-08-02 07:03:03 | Area Studies

米国の株高を支えてきたのはFAANGなどハイテク株(割高感がすでにある)。GAFAという言い方もある。独自の経済圏の頂点に立つプラットフォーマー(基盤提供者)。事実上の参入障壁の存在。高い収益性と成長力。

 株式に対する弱気はパッシブファンドへの資金流入の減少(あるいは流出)に現れる。そして指数の伸びを支えているのは、FAANGなどハイテク株だとされる。株高への信頼の低下はパッシブファンドへの資金流入を鈍らせ、流出さえ招く。

米中摩擦は、このアップルやアマゾンなどのIT機器(スマホ パソコン サーバー AIスピーカーなど)の受託製造を直撃して、米国IT企業に打撃となるという指摘がある。他方、ハイテク株は割高で値崩れしやすくなているほか、それぞれ問題も抱えている。トランプの一撃はFAANGの躓きの始まりとなる可能性もある。

フェイスブックは外部企業による会員情報不正利用の表面化(2018年3月 広告主離れが懸念される)、個人情報規制の強化された欧州で利用者が減少(米国でも規制強化の可能性)。ニセニュース対策の監視要員増員、データセンターなどのインフラ投資が増えて営業利益率は40%台から30%台に低下する見込みという。アマゾンはクラウドや広告事業で安定して利益を稼ぎ最高益を更新しているが、システム投資、物流への投資は拡大しているが納入メーカーから今協力金を徴収することで賄っている(2015年2月末から2018年2月23日で株価は3.5倍)。またプライム会員制度を収益源として育ててゆく方針。アップルは2017年11月に発売を開始した、iPhoneXの販売が失速。在庫が増えて在庫回転日数が大きく増えているとされる。アップルの好調への不安が高まっているが、アップルはそこでアプリ販売を収益の柱として強化する方針。動画配信ネットフリックスは契約者の伸びが市場予想を下回ったとのこと。グーグルの持ち株会社アルファベット(2015年2月末から2018年2月23日で株価は2倍)はEUからアンドロイドを使う端末で自社の検索サービスなどを不当に優遇しているとしてEU競争法違反として制裁金を課せられた(7月18日 43.4億ユーロ=5600億円)。これが減益要因になった。これらはまさにハイテク領域。まさにこの領域で米国と中国がぶつかっている、それが貿易摩擦にあらわれているのではないだろうか。トランプはハイテク領域での中国の躍進を、関税引上げという力技で止めようとしているように見える。

ネットワークの経済 同じプラットフォームを多くの人が使うことの便益をいう
ネットワーク外部性network extrenality ネットワークを使う便益は使う人の数に依存して大きくなる。
ネットワーク外部性
  数が多いほど 提供されるサービスの質が改善される間接的効果が働く。
プラットフォーム戦略 ネットワーク外部性を利用して関係する企業を同じプラットフォーム(場)に集める戦略。
バンドワゴン効果(bandwagon effect) 時流に乗ることで商品が売れることを指す。ほかの人が使っていることで効用が高まること。その逆がスノッブ効果。値段が高いことでかえってその効用が高まるのがヴェブレン効果。

2018/08/02更新(2016/12/31)

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コーポレートガバナンスコードの改定 2018年6月1日公表

2018-08-01 23:05:58 | Area Studies

東京証券取引所では上場企業に適用するコーポレートガバナンスコードの改定版を2018年6月1日に公表した。主な改正点は以下の通り。
持ち合い株(政策保有株)削減促し、縮減に関する方針や考え方の明示求めた(これまでは保有方針の開示だけだった 保有する利点リスクを考慮保有が適切かの検証求める)→持ち合い株多いと経営の緊張感が薄れ資本効率下がる=自己資本利益率低いとの指摘がある
取締役の多様性の確保(現在は独立した社外取締役が2人以上)必要と判断した場合は3分の1以上を推奨した。
女性や外国人の登用で多様性を持たせるべきと明記した(日本の上場会社の女性役員の比率は3%程度 欧米の2-4割に比して低い)
CEOの選任について外部から分かりやすい手続き 解任について透明性のある手続きの確立求めた
資本コストを的確に把握すべきとされた(資本コストという言葉が初めて記された)。

なおコードは2015年6月適用開始となった。持合い株は資本効率の低下につながると考えられている。社外取締役は、社内の利害関係に縛られない第三者の視点での経営チェックが期待されている。二人以上の独立取締役を選任している東証一部上場企業の割合は2017年にすでに9割近くに達している(東証の数値)。しかし役員の中の構成では27%。英国の61% 米国の85%とは差が大きい。なお日本では社外取締役の半数が学者や弁護士でその比率が高いとされているが、経営営経験者の採用を求める声がある(米国では7割が経営経験者)。ただ背景には、候補となる経営経験者の不足があると指摘されている。女性の社外取締役登用に関しても、そもそも女性の社内取締役への登用が遅れていると指摘されている。

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オーバースペック 品質データ改ざん問題 2017-2018年

2018-08-01 19:25:26 | Area Studies

オーバースペック(和製英語) overengineer

日産自動車 国交省により業務改善指示処分 西川社長は報酬返上 国内ほとんどの完成車工場で不正
2017年9月18日 国土交通省の湘南工場立ち入り調査で無資格検査が発覚(工場存続のためコストを削る中 検査員が不足 不正検査へ 経営陣は現場の苦悩を無視 19日改善策を国交省に報告 26日から29日 国交省による追浜 福岡2工場立ち入り調査でも同様の問題が発覚 29日国交省 日産に業務改善を指示 11月対策を公表 12月国交省が日産本社に立ち入り調査 18年3月 国交省日産に業務改善指示などの処分

神戸製鋼所 川崎会長兼社長など幹部が引責辞任
アルミ・銅部門で長年にわり品質データを改ざんして出荷 事業部門の独立意識の強さが要因の一つ 経営陣と現場の断絶も指摘される 現場は社内調査にも非協力貫き不正の事実を申告せず
東京地検と警視庁が合同で虚偽表示の疑いなどで捜査(2018年4月)

日本ガイシ
2018年5月23日 社内調査の結果。不正があったと発表。1990年代から顧客の求める検査を契約で決められた手順で実施していなかった(7月をめどに調査委員会が報告書を作成するとのこと)。

スバル 社長退任へ会長に 無資格検査 燃費データの書き換え
6月5日 完成車検査で新たな900台を超す(6530台中927台で)不正見つかる(2017年10月に無資格者が検査していた問題が発覚)。規定(条件・範囲)を超えたデータを有効としていた(不正はこの企業の体質担ているとの指摘あり)。測定データを書き換えたものもあった。吉永社長兼CEOは6月に株主総会で会長となり、代表とCEOを外す。

宇部興産 経営幹部6人の6月の報酬を減額へ
6月7日 品質不正で調査報告書公表 社長ら経営幹部 2018年6月の月額報酬を減額へ。一部製品で顧客と取り決めた品質検査を行わず出荷。試験結果を入力しなくても規格を満たす数値がランダムに表示される管理システムを長年採用していた。

三菱マテリアル 竹内社長の辞任へ グループ5社のほか本社工場でも不正
2018年6月8日 三菱マテリアル 直島精錬所 JIS工業規格取り消し(規格外を規格内と記載 2回やるべき製品試験1回のみ)2017年11月子会社3社で品質不正発覚 2018年2月子会社2社で新たな不正発覚 2018年3月決算発表で新たな不正データ公表 竹内社長続投を表明
2018年6月11日 三菱マテリアル(1990年に三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し、多くの事業を抱えカンパニー制を取り事業の独立性から組織が縦割り化) 品質改ざんなどの不正が相次ぎ竹内章社長(人事法務畑出身 現場を知らないとの指摘)が辞任。

品質問題の根としてのオーバースペック 契約上の試験回数 顧客が要求する品質などが、納入業者からみて過度である。品質・安全性は保たれているとして契約より下回ったものを出荷納品する。日本では製品の欠陥=リコールを嫌い、高い品質を要求する傾向がある。過剰品質の要求は高コストにつながる。一般に顧客の合意があれば、契約上の品質基準を下回っても問題ない(特別採用)。顧客の合意なしに出荷したことが問題視されている。

同時に品質不正で問題にされていることは単純な不正であるのに、オーバースペックを持ち出すことには違和感がある。オーバースペックは、あたかも規制(基準)あるいは顧客の要求が過剰でそれを撤廃すればよいと言いかねない議論であるようにも思える。顧客との契約については、契約の順守は当然で、契約の文言が過剰なら契約交渉のところで議論すべきだ。契約や基準を会社のなかで、自分の都合のよいように解釈することは行き過ぎで、法令順守(コンプライアンス)からかけ離れているのではないか?
経済経営用語辞典(オーバースペック で採録)

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プルサーマル計画の蹉跌

2018-07-31 23:20:34 | Area Studies

プルサーマル計画

日本はプルトニウムを再処理して原発の燃料として使う核燃料サイクル:プルサーマル計画を描いたが実現せず、核兵器に転用できるプルトニウム保有量が増加している(2011年すべての原発が稼働停止。その後再稼動が進まない。2兆円以上を投じた青森県六ケ所村の再処理工場の稼動のめどがたたない 原発の再稼動は2018年7月現在9基)。

2018年7月 日米原子力協定(1988年~)の自動延長 米国は核兵器に転用可能なプルトニウム削減(現在 日本は原子爆弾約6000発に相当する約47トンを国内外に保有.2017年末で47.3トン 16年末にくらべ0.4トン増加)を要求している。 

プルトニウムを使用してさらに燃料を生み出せるとされた高速増殖炉もんじゅを1985年に着工したが、成果もないまま事故(1995年12月漏洩事故ほか)を多発。2016年12月に廃炉が決定している。1971-2016年の支出額は人件費を除いて1兆1313億円とされる。日本原子力研究開発機構を所管する文部科学省によると、廃炉には30年の時間、3750億円以上の経費が見込まれている(会計検査院の報告書公表は2018年5月)。福島第一原発の場合2013年の廃炉経費試算は2兆円しかし2016年の試算は8兆円に膨張した。

日本原子力研究開発機構が保有する東海再処理施設(1981年運転開始)は2014年に廃止が決定。2018年6月には廃止計画が原子力規制委員会に承認された。70年かけて1兆円近い経費を見込んでいる。

原子力発電のマイナス面(安全対策費用が膨大であること 廃棄物処理サイクルが未完成であること 廃棄コストが不明であることなど)を過小評価し、肯定面だけ強調を続けた国・電力業界・科学技術研究者、その片棒を担ったマスコミ関係者の無責任は大きい。


低失業率と賃金の低い伸びの矛盾とD&I 省力化投資

2018-07-31 05:35:44 | Area Studies

失業率の低下が示す人手不足 しかし賃金の伸びは低い。

2018年4月 完全失業率2.5% 有効求人倍率1.59倍 しかし賃上げは1%台 → 人手不足が経済の活力を落とす悪循環がある。人が増えないことで、仕事があってもこなせない

対策として少子化対策 外国人受け入れ拡大 女性・高齢者の活用など → 人事でD&Iを進め雇用の多様化・省力化投資進める。

他方で 現在のGDP統計に対する疑問もある。

1) 人手不足対策としてのダイバーシティ

少子化対策 → 手厚い育児支援どこまでできるか(欧州各国では育児支援が出生率引き上げに貢献した証拠多い) 移民受け入れも有効との指摘もある

外国人受け入れの拡大 単純労働も認める 家族帯同も認めるなど → 永住権を与えることには異論あり

高齢者の労働を促す 働くことで収入が増えるように在職老齢年金見直し → 定年の延長には異論あり(企業負担増に反対 若年者雇用妨げるなど)

人事のダイバーシティ(多様性)インクルージョン(包摂)D&I 女性・外国人・障害者などの受け入れ拡大 画一化ではなく 個性・多様性を受け入れる必要

→ どのように生産性を上げることができるか。社会的合意はなおないが、D&Iが望ましいという意見が強まっている。

2) ロボットとAIによる省力化

半面 省力化投資(ロボット・工作機械など)進む(2018年4-6月期 これまでの大所であった自動車 スマホ関連が減速 停滞を始める) ロボットの世界4強(ファナック 安川電機 スイスのABB ドイツのクーカ) ファナックは生産の徹底した自動化を実現している ABBや安川は中国への販路展開で伸びている 自動化投資 製造コストの安い海外との対抗にも有効(国内で高稼働率) 途上国では品質向上に役立つ 人手不足が深刻な物流・建設・介護などで 今後は家庭用に家事を担うロボットも。

日本のメーカーはクラウドに集約するのではなくエッジ(末端)コンピューテイング(エッジ処理)を特徴としている。人工知能や専門スフトでの分析しやすい。ロボットのように数ミリ秒単位での制御に有効(クラウドを通すと送受信に数十ミリ秒かかる。エッジなら数ミリ秒)。クラウドとエッジの使い分け。ロボット制御、遠隔医療など。コネクテッドカーでも通信量を抑えるために車載コンピュータでの処理が有効。問題はクラウド型に比べて割高だということ。強みをアピールできるか。ファナックのフィールドシステム。三菱電機のエッジクロスコンソーシアム。エッジはシーメンスやGEに対して、日本発のIoT基盤技術を狙う。

AIを応用することで、手入力の作業・時間を省力化する。AIは工場での検品、事務作業での検知などにも使える。顧客や時期に応じた料金設定などの効率化。銀行の融資判断(過去の売り上げ情報などから分析 決済情報・取引情報を利用して 創業間もない企業・個人企業に対して速やかに判断 トランザクションレンデイング ネット銀行を中心に拡大 )→ 用語がまだ安定していない。deta lending;score lendingなどもある。英語としてはtransaction lendingがいいかな? トランザクションバンキング この言葉に対で使われるのがリレーションシップバンキングである。

事務ではRPA(ロボティックスプロセスオートメーション)を使った効率化。データ入力や各種手続きのデジタル化。

3) デジタル化の恩恵の差別性と統計との乖離

デジタル化の恩恵 さまざまな無料サービス 情報共有 などのメリットは受け取り手は、スマホなどのツールを活用する人に限定されるという面がある。活用する人としない人で大きな格差が生まれるのではないだろうか? またデジタル化(既存の技術仕組みがデジタル技術を用いたものに変わる 基礎にあるのは大量の情報がデジタル技術によって伝達共有される あらゆる情報の電子化などそのときによって意味は少しずつ違っている)によって生じた生活の豊かさ(さまざまな情報・知識へのアクセスの容易化 映像や音楽などの無料化 保存などの自由化)はGDP統計に反映されていない面もある。デジタル化は経済にどのような影響を与えるか。物価に対する影響という点では、たとえば価格情報へのアクセスがこうして自由化することで、価格への押し下げ圧力が働くともいえる。

半面 これらが広告料収入 半導体投資に反映する限りは数字として見える面もある。

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教育の無償化・文学部不要論

2018-06-26 22:29:44 | Area Studies

憲法26条で義務教育は無償と書かれている。憲法改正の議論とも関連している。

批判としては、子供を産まない家庭では見返りがなく税金の払い損になるという言い方がある。これに対しては子供を産まない世帯は、子供を育てる費用を負担せずタダノリしているといういう批判がある。

幼児教育の無償化について、無償化が先行することで幼児教育利用世帯が広がり、受け皿である保育施設不足が深刻化するという批判もある。結論として消費税引き上げを条件として

2019年10月から 認可外保育施設 幼稚園の預かり教育 全世帯で3~5歳児の無償化

         住民税非課税世帯の0~2歳児保育料の原則無料化

幼児教育 保育の充実 少子化対策 男女共同参画などの関係を説く。

大学教育の無償化については、すでに私大のうち39%が定員割れ。大学教育無償化はこうした私大の延命措置になるという批判がある。 

他方で所得の低い階層ほど大学進学率が低い→格差の固定化になる。だから無償化をすすめるべきとの反論もある。 

結論としては2020年4月から低所得者を対象に大学の無償化へ

 1)住民税非課税世帯(年収270万未満)については国立大学については授業料と入学金を免除。国立大学の授業料+私全私大の平均授業料と国立大学授業料との差額の2分の1 入学金については全私大の平均額を支援する。

 2)年収270万から300万未満で1)の3分の2の額

 3)年収300万から380万で1)の3分の1の額をそれぞれ支援する

         財源の自助努力促す(寄付金、資産運用など) 無償にする代わりの卒業後 所得が一定の水準を超えた国にお金を返す

         定員割れの大学(過少規模大学は経営が厳しい⇒小規模大学の統廃合すすめるべき 例 入学定員で3000人以下の大学は統廃合) 大学の教育の質が低い(例 教員数に比して学生数が多い 論文数が少ない)大学への補助を減らす 

         交換留学生制度 地方の大学と単位交換制度を設けた大学、社会人の学び直しの環境(リカレント教育) オンライン講座を提供している大学を整備した大学を支援する 試算では3兆1000億円 財源として「教育国債」発行というアイデア→ 赤字国債だという批判

教育国債 自民党教育再生本部が提言 教育無償化に使途を限定(公共事業に使途を限定する建設国債と類似・・・財政法4条)・・・将来世代の負担になるとの批判あり

大学教育 無償化と文系大学不要論や実務教育強化論との関係を整理する必要がある

 池田信夫 企業が大学教育に期待していないことを例に挙げて実務教育への転換を説いている。 2015年6月(Newsweek 日本語版)

 伊皿子坂社会経済研究所 文学部不要論について 内田樹氏の議論を借りて 教育を商品と考えるがために文学部不要論が出てくる。教育は本来 共同体の知恵を伝承するもので無償であるべきとしている。2015年6月。

 安田教育研究所 安田理氏 2015/06/14  大学とはそもそも純粋学問をやるところ 人文学的素養は批判的思考力の基礎になる いろいろな変化に対応するベーシックな力を育てるべき。

 堀江貴文氏の文学部不要論 2016年4月 

 OECD諸国の高等教育無償化の状況 ヨーロッパ諸国では無償化している国が多数派であることを確認できる

20170726⇒20180626更新


孫冶方(孙冶方 スン・イエファン 1908-1983) 百度百科和維基 五不怕

2018-06-25 11:44:17 | Area Studies

中国経済学の父 孫冶方(スン・イエファン 1908-1983) 成城大学経済研究217号 July 2017 101-125
(誤植訂正 p.113 下から11行目 178-217, esp.154, 199  →  178-217,esp.182-190)
(誤植訂正 p.116 上から2行目 到社会主義的到社会主義 → 到社会主義的民主)

百度百科
孙冶方(スン・イエファン 1908-1983は元の名前を薛咢果(シュエ・エーグオ)。偽名(化名)として宋亮、孙宝山、叶非木,勉之など。無錫の玉祁镇(ユーチーチェン)の人。模範共産党員であり著名な経済学者である。長い生涯を通じたプロレタリア(無産階級)革命家。孙冶方経済科学賞は1985年に開始され、毎年選考されている。第一号が授けられてから、今まで中国経済学会の最高の栄誉とされている。(別訳)孙冶方(1908-1983) 元の名前は薛咢果。偽名(化名)として孙宝山,叶非木,勉之など。無錫玉祁镇の人。模範共産党員、著名な経済学者。生涯を通しての(老一辈)無産階級革命家。孙冶方経済科学賞は1985年に開始され、2年ごとに選定される。始められてから今日まで中国経済学会の最高賞(最高の栄誉)である。
戸籍紹介
孙冶方(1908-1983)元の名前は薛咢果。また、宋亮、一洲、宝山、勉之などと名乗った。江蘇省無錫市玉祁镇の人。経済学者。
個人の経歴(个人经历
 1921年 高等小学校入学
 1923年 無錫竢实(チースー)学堂で中国社会主義青年団に入る
 1924年 年末に中共党員となる 無錫の党支部第一書記に任命され、同時に中国国民党に入る
 1925年 学生運動と労働者運動に従事する。同年11月党組織に派遣されてソ連モスクワ中山大学で学ぶ
 1927年 夏卒業後、モスクワ東方労働者共産主義大学で政治経済学の講義と通訳(翻訳)を依頼される
 1928年 モスクワ中山大学に戻り続けて通訳(翻訳)を頼まれる
 1930年9月帰国。上海人力車夫ストライキ委員会主席、未雇用および再雇用(末几又改任)人力車夫総工会準備(筹备)委員会主席に任ぜられる。同年末沪东区労働者(工人)連合会(联合会)準備委員会主席を担当。上海で労働者運動と左翼文化運動に従事。中国農村経済研究会に積極的に参加組織。また「中国農村」雑誌を編集。孙冶方の筆名で、マルクス主義の観点のある中国農村経済論文を発表し、理論戦線においてトロッキー派および王明の左傾の誤りに対して闘争を進めた。 九一八事変後 在史沫特莱主编(Agnes Smedley編集の)「中国論談報」で論説(撰稿人)を担当した。
 1933年に陈翰笙らと中国農村経済研究会を発起設立した。
 1935年に新知書店と中国経済資料室を開き、『中国農村』を月刊で発行し、月刊編集を担当し、英文の『中国論談』連絡員を任じた。抗日戦争爆発後、 1937年9月中共江蘇省(江苏)委員会の文化工作委員会書記を務めた。その後、マルクス主義理論研究と経済部門の指導工作に長く従事した。
 1941年6月 苏北根拠地へ行った。華中局宣伝部にあって宣伝教育科科長となった。華中局党校で教学を担当し、併せて教育科科長を兼任した。1941年華中の党校工作期間において、理論と実際の関係を強めることを提唱、幹部のマルクス主義理論教育を強化した。
 その後 中共淮南津浦(ホアイナンチンプ)路西地委宣伝部部長。苏皖(スーワン) 地区貨物管理局総局副局長を担当。山東での工作時には華東財办秘書長を担当した。
 1949年に軍に従って上海に至り、上海市軍管会工業処処長となった。
 新中国建設後、華東軍政委員会工業部副部長、上海財政経済学院(現上海財経大学)院長、国家統計局副局長、中国科学院経済研究所長を歴任した。
 1977年のあと、中国社会科学院経済研究所顧問、名誉所長、中国社会科学院顧問、国務院経済研究所研究センター顧問、中国社会科学院経済研究所名誉所長などの職についた。
   1982年9月 彼は病の中 中共第十二回全国代表大会に出席 中共中央顧問委員会委員に選ばれた。
 同年12月16日 孙冶方を顕彰し学ぶために、中共社会科学院機関党委は決定により、彼に模範共産党員の称号を授与した。
 1983年2月22日 孙冶方は北京で亡くなった。享年75歳。遺灰は故郷の太湖に運ばれ散骨された。
革命の道(革命之路)
  孙冶方の一生はしばしば苦難を経験する(磨难)というものであり、青壮年時には命の危険を冒して党の地下活動(工作)に従事し、逮捕投獄されたことがある。抗日救国(運動)中は、禁句を広めた罪(口诛笔伐)に問われたが、不白之冤(怨とあるのは誤植か 冤枉は不公平な待遇 罪でないことで有罪とされること 不白之冤とは つまり罪でないことを有罪とされそれを論じることができないこと)を強い意志で受け入れた。老年時期に入ってもまた無情な打撃をこうむった。彼の栄えある一生は党の下部から中央までが深く受け止め重視するところ、学術界が称賛し、広大な群衆が敬愛(爱戴)するところ。以下の叙述は、孙冶方が革命に赴く途中の2つの挿話である。(以下中略)
著作と理論(著作理论)
著作 
 『国民経済建設と国家資本主義について』『資産階級法権について』『我が国の経済管理体制改革についての幾つかの意見について』『社会主義経済論』『社会主義経済の若干の理論問題について』『社会主義の若干の理論問題』『孙冶方選集』『中国社会性質の若干の理論問題』。
  孙冶方は経済理論に造詣が深かっただけでなく、肝が据わり識見が備わり(有胆识)独創性があった。多くの経済学者が次のように考えていた。社会主義社会では資本主義商品経済が消滅するとともに価値規律はその作用を失うと。しかし孙冶方はつぎのように考えた。価値規律は社会主義の時期においても依然発生作用している。共産主義に至ると、ただ社会化拡大生産において、生産資料と消費資料の両部門間で生産と分配が進行するところで、商品流通は発生するし、価値規律は作用を始める。これらはのちに正しい思想だと事実により証明されたものだが、20世紀の50年代においては孙冶方の修正主義罪状となった。この正直に直言知った学者は、自身の学術観点を守り堅持したゆえに、20世紀の60年代初期に迫害を受け、「プロレタリア文化大革命」の間、拘束(镣铐)のうえで7年の長さにわたり収監された。 孙冶方同志は我が国の経済体制改革について、多くの独創的見解を提出した。彼は20世紀の50年代末から60年代初めの幾つかの文章、報告の中で説いている。経済管理体制の研究では、国家政体の問題に属する、中央と地方の関係をいつも強調することはできない。経済学の観点からみれば、いわゆる管理体制とは、まずもって国民経済の細胞である企業の管理体制の問題であり、その核心は企業の権力と責任問題である。彼は主張する、企業の生産積極性を促すためには、固定資産の償却と設備の更新の権限(权责)について、大企業の権限を拡大しなければならない。また(権限は)下層(基层)企業に与えられねばならない。同時に商品はもともと共同制作関係についての(権限を拡大しなければならず)、供給消費の関係の範囲で供給生産のバランスについては、企業内の処理にゆだねるべきである。
学術観点(学术观点)
 孙冶方は社会主義企業の分権モデルを提出した。拡大再生産の権力を国家に帰し、単純(簡単)再生産の権力を企業に帰した。社会主義経済において価値と価格は一致すると抽象的に主張した。社会必要労働量を統計から求めるプロセスで、実際の統計が(価値から)脱離する傾向がある。(そこで)長官経済や命令経済に反対し、精密な技術を用いさらに正確な計算を用いた計画経済を主張した。製品(産品)経済は認めたが、商品経済は認めなかった。価値規律は強調したが、価値規律を製品経済の上に建てたのであって、商品経済の基礎上ではなかった。自由市場を通じる、競争が価格を決定するということには反対であった。価格は需給により決定されるのではなく、生産価格に決定によるものだとし、生産価格は計算により把握できると考えた。企業が商品生産者であることは認めず、人々の経済利益が異なることも認めなかった。利潤が企業経営の良否を判断する総合指標とする市場メカニズムを、根本的には排斥した。(他方で)利潤は企業経営の良否を判断する総合指標であるとの主張を堅持し、牢に入れられても意見を変えなかった。
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维基
孙冶方(スン・イエファン 1908年10月24日-1983年2月22日)は元の名前は薛咢果(シュエ・エーグオ)。またの名(化名)を孙勉之、宋亮、筆名として孙冶方。中国大陸マルクス主義経済学者で、かつての中国国家統計局副局長。無錫礼社(リーシェ)镇生れの経済学者薛暮桥は叔伯(同じお祖父さんの)兄弟である(別訳・・孙冶方 1908年10月24日―1983年2月22日 元の名前は薛咢果。又の名を孙勉之、宋亮。筆名が孙冶方。中国大陸のマルクス主義経済学者で元中国国家統計局副局長。無錫礼社鎮生まれの経済学者薛暮桥は彼の叔伯兄弟である)。孙冶方は無錫の著名な家族の出身であり、薛家は荣家と同様に有名であり、その兄の薛明剑は著名な民族資本家である。孙の父はかつて無錫荣氏の家族企業の仕事をしていた。
経歴(生平)
×光诸34年9月30日 孙冶方は江蘇省無錫北郊礼社鎮で生まれた(当時礼社は鎮級建制であり、またの名を礼舎鎮といった。建国後玉祁镇に后属した)。14歳で無錫县立(県立)第一高等小学の入試に合格して入学するが、共産党員の教師張志和(張効良)の影響で、共産主義思想を受ける。1924年15歳で中国共産党に加わる。1920年代に無錫公益工商学校(専科中学)に学ぶ。無錫の共青団の最初の責任者、そして共産党党支部の最初の書記になる。1925年に中学を卒業せず、中国共産党に選抜派遣されて、ソ連モスクワ中山大学で学ぶ。卒業後学校に残りモスクワ東方労働者大学で政治経済学の講義通訳(翻訳)を担う。同学には鄧小平や叶剑英らがいた。党内の王明セクト主義と、粛清(肃反)拡大化の誤りにより、孙冶方は「最後警告処分」を受け、1930年9月中国に強制帰国(遣送)される。
1930年に中国に戻されたあと「中国農村経済研究会」に関与組織する。1930年代には薛暮桥と『中国農村』雑誌を共同で運営した(合办)。その間に西欧の現代経済理論の著作を大量に読むとともに、陈翰笙博士の指導の下に経済研究と調査の方法をつかんだ。
1937年上海は日本軍に占領され、租界の孤島で江蘇省文委書記をつとめ、文芸界の抗日活動に指導かつ従事した。
1950年代から1980年代までに 上海軍管会重工業処処長、上海財経学院(現在の上海財経大学)院長、中国国家統計局副局長、中国科学院経済研究所所長、全国五届政協委員、中国共産党十二大代表、中央顧問委員会委員、国務院学位委員会評議組成員を歴任した。
1964年雑誌『紅旗』の楊堅白、張卓元らの「生産価格論」の一文が”張(聞天)孙反党連盟”を作ったとされ(攻撃され)、一切の職務を取り消された(撤销)。
 文革期間長期間理由もなく(曾蒙冤入)秦城監獄に7年閉じ込められ、獄中で「社会主義経済学」の85編の構想を考え抜いた(腹稿)ものの、亡くなる前 助手たちの助力はあったが同書を完成するに至らなかった。
1979年の計委経済研究所と社会科学院経済研究所は経済学会無錫会議を挙行して解放思想「批判を恐れず、職務取り消しを恐れず、党籍解除を恐れず、離婚を恐れず、死(杀头:殺されること 抹殺)を恐れない」を提起した。
1980年代亡くなる前に中国社会科学院顧問、経済研究所名誉所長に就任した。
1983年に亡くなり、無錫太湖で葬儀が行われた。
学術上の達成(学术成就)
スターリンの『ソ連社会主義諸問題』に対して系統だって疑問を提出した中国経済界最初の人物。伝統的な計画経済体制の欠陥(弊端)を深く分析かつ解剖し、ソ連経済体制を批判し、中国文革後の物価管理制度を主張しスタートさせた(主持建立了)。
1983年に北京で亡くなった。亡くなる前には、商品経済実行の必然性を論述し、中国大陸の当時の経済体制の状況に対しては、財税、金融、価格、外国貿易と国有企業の体制改革方案(方策)を提出、併せて社会主義市場経済体制の実行を主張した。
学術上の観点(学术风格和观点)
拡大再生産の権利は国家に帰属し、単純(簡単)再生産の権力は企業に帰属するという、社会主義企業の”分権モデル”を提案した。
抽象法において、社会主義経済において価値と価格は一致すると認識すると、(しかし)社会必要労働量の統計過程では、実際の統計数値は脱離する傾向があると主張した。
長官経済、命令経済に反対し、技術的にさらに精密で計算がさらに正確な計画経済を主張した。
製品(产品)経済を承認したが、商品経済は承認しない。
価値規律を強調する。しかし価値規律は製品経済の上に建てられるのであって、商品経済の基礎上ではにない。
自由市場そして競争を通じて価格を決定することに賛成しなかった。
価格は需給が決定するのではなく生産価格が決定すると考えた。そして生産価格は計算を通して把握できると考えた。
企業が商品生産者であることを認めなかった。人々の経済利益の差異を認めなかった。根本的には市場メカニズムを排斥した。
利潤が企業経営の良否を判断(考核)する総合指標である(という考え)を堅持し、牢に入ってもこの観点を放棄しなかった。 
動画 価値規律第一 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
孙冶方(スン・イエファン) 1908-1983  経済学者 国家統計局副局長 中国科学院経済研究所長 国務院研究センター(中心)顧問
1955年 47歳の孙冶方は中国社会科学院経済研究所に入り、彼の経済領域の専門研究(专业研究)を開始した。現実の経済問題についての熱心な討論と、真剣な観察のあと、彼は組織内の若い学者を選んで「社会主義経済論」を書かせることを決定した。これは「社会主義の政治経済学」とも言えよう。この仕事に彼の人生の精力が注がれた。その間、新中国の三反五反の政治闘争、人民公社、大躍進の経済被害があり、文化大革命という前例のない大破壊があり、孙冶方自身が7年牢獄につながれた。一生をかけたが孙冶方は彼の「社会主義経済論」を完成することはできなかった。
1957年 反右運動が開始され、中国科学院経済研究所は政治闘争の渦に深く巻き込まれた。研究所所長の狄超白(ディ・チャオパイ)、経済研究常務編集委員の林里夫(リン・リーフー)ら老党員老指導者が極右分子として打倒された。このような背景で党中央は、文戦線工作を強化するため指導幹部を移動配置した。47歳の孙冶方は中央統計局副局長の職を離れて、狄超白に代わって中国科学院経済研究所長を担当することになった。
張卓元(チャン・チュオーユアン)「当時研究所はとても乱れた状況でそこに孙冶方はやってきた。来てからというもの彼はすぐにつぎのようにした。運動にはかかわらない。運動は別の人に任せる。彼は来るや否や業務に自ら取り組んだ(主抓)。」
赵人伟(チャオ・レンウェイ)「当時彼は会うなり言ったものだ、あれあれ今日は夜まで運動があったな。経済(研究)所がみんな研究しなければ、どうして経済(研究)所と呼べるだろう。そこで彼は会うなり、研究員一人ずつがするべき仕事をできるようにする方法を考えねばならないと話したものだ。」(以下略)
改革年代の孫冶方と薛暮橋(新华网2005/05/17, 新望:人民网005/08/12)
孙冶方と薛暮桥は第一世代の経済学者のふたご座であり、二人兄弟である。二人の人生の軌跡はともに普通ではなかった。一人は先覚者であり苦難を受けた。一人はのちに目覚め、老人になってから変化を求めた。この二人の兄弟が歩んだその道は、第一世代経済学者の中で際立って特徴的なもの(颇具代表性)である。
孙冶方の元の名前は薛咢果。孙冶方は彼の筆名である。無錫北郊の薛家は一大家族で、孙冶方は1908年に玉祁(ユーチー)鎮で生まれた。薛暮桥は少し南の礼社(リーシェ)鎮で生まれ、孙冶方より4つ年上。二人は叔伯兄弟である。
江南は状元(科挙試験をトップで合格する人)、文人(読書人)の出身地で、新中国では多数の経済学者が輩出した。この二人の兄弟のほか、马寅初,费考通,于光远,顾准,刘国光,高尚全,吴敬琏,厉以宁,茅于轼,董捕礽,陆学艺,×錫文など。加えて長期にわたり党の経済工作を指導し、市場メカニズム導入を主張した陈云同志も江南人である。原因は何か?吴敬琏(ウーチンリエン)は、薛先生を批評して次のように述べる。「(千九百)二三十年代の我が国江浙一帯の市場経済の発展は、直接の経験(切身体験)だった。」これは本当の話だ。たとえば费考通の名作「江村経済」、薛暮桥の最初の経済論文「江南農村衰退の縮図」。これらはみな、自身が生活した故郷で調査を行って書かれたものだ。(以下略)

五不怕について 毛沢東 劉少奇 孫冶方

 1957年6月13日晩 毛沢東が、吴冷西が人民日報社そして新華社で仕事をすることになったことに関して、吴冷西に対して述べた長い話のなかに次の一節がある。(典拠 吴冷西《毛泽东谈文史》)中国共产党新闻http://cpc.people.com.cn)

 当时主席还严肃地告诫我说,你到人民日报工作,要有充分的思想准备,要准备遇到最坏情况,要有“五不怕”的精神准备。这“五不怕”就是:一不怕撒职,二不怕开除党籍,三不怕老婆离婚,四不怕坐牢,五不怕杀头。有了五不怕的准备,就敢于实事求是,敢于坚持真理了。一个共产党员要经得起受倒错误的处分,可能这样对自己反而有益处。

 1962年1月27日 いわゆる7000人大会(大躍進政策の誤りを公式に認めた大会)において、ここで劉少奇は、原稿にない演説を行ったがその内容は重要である。(典拠 刘明钢《七千人大会上:实事求是要有》中国共产党新闻http://cpc.people.com.cn

 劉少奇はつぎのように話している。1957年以来、とくに1959年の反右傾以来の行き過ぎた右派闘争のために、党内生活に不正常な情況が出現し、党内で人は三看不讲(三観不講 風向き、指導者の眼色、指導者の意図を見て、本当の気持ちを話さない)となった。こうした状況のもとで、一部の指導組織と指導者の誤りにより、本当のことを話した人が賞賛されないだけでなく不当な批判を受け、事実でないことを話した人が、しかるべき処分を受けないばかりか、賞賛を受けている。我々は、このような情況を徹底して変えるように多いに努めなければならない。この文脈において、劉少奇はつぎのように五不怕を提起した。

 刘少奇强调:要实事求是还要勇气,要有什么勇气呢?要有“五不怕”:不怕撒职,不怕开除党籍,不怕老婆离婚,不怕坐牢,不怕杀头。(中略)刘少奇接着说:“有了这五不怕,还有什么可怕的事情呢?”

 1979年4月16日 社会主義経済中価値規律問題討論会が江蘇省無錫で開催された。(典拠 吴晓波《冶方之痛》经济观察网2009-12-18 http://www.eeo.com.cn)。

 在开幕式上,为了鼓励大家畅所欲言,时任国家计委经济所所长的雪暮桥讲了“三不主义”:不抓辫子,不打棍子,不戴帽子,坐在一旁的孙冶方当即接下话头,提出还要“我不怕”:不怕批斗,不怕罢官,不怕坐牢,不怕杀头,不怕老婆离婚。接着他又说,不但要“五不怕”,最要紧的还有,要被批判者以说话的机会。话音一落,全场掌声雷动。

なお孫冶方の五不怕について 冒頭の2つは別の表現もある

不怕批斗,不怕罢官,→ 不怕受批评,不怕撒职 両者ともに意味は同じである。


鄧子恢(邓子恢 Deng Zihui 1896-1972) 維基百科ほか

2018-06-11 21:18:41 | Area Studies

農業政策で主張を堅持 鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972) 成城大学経済研究218号 Dec.2017 451-491 

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邓子恢(トン・ツーホイ) 中華人民共和国国務院副総理 任期1954年9月28日―1965年1月4日 総理 周恩来: 中国中央農村工作部部長 任期:1952年11月12日―1962年1月19日 中央委員会主席 毛沢東
個人資料 1896年8月17日生れ 大清福建省龙岩县 1972年12月10日(76歳)逝去。国籍 中華人民共和国。政党 中国共産党。親族 邓淮生(トン・ホアイシェン)(息子)、邓小燕(トン・シアオヤン)(娘) 妻 阵兰(チェン・ラン) 最終学歴(母校):1917-1918年 日本東亜補習学校 宗教信仰:社会主義共産主義 軍歴 忠誠(效忠):中国共産党 服役:中国工農赤軍(红军)、国民革命軍陸軍新編第四軍、中国人民解放軍 服役期間:1928年―1952年 参戦:第一次国共内戦、抗日戦争、第二次国共内戦
邓子恢(トン・ツーホイ) 1896年8月17日―1972年12月10日 名は紹箕(チャオチー) 字は子恢 子恢が通り名になっている(以字行) 福建龙岩东肖区厝村人。中国共産党と中華人民共和国の主要指導者の一人。農業政策の専門家。邓子恢は若くして日本に留学。その後闽西(福建西部)に革命活動を組織。红十二军政治委員、中華ソビエト(苏维埃 スウェイアイ)共和国中央執行委員会委員兼財政部部長。赤軍(红军)が長征に向かってからは、命令に従いソビエト区を堅持しゲリラ戦を行う(游击战争)。抗戦期間においては、新四軍政治部副主任、江北式部政治部主任。皖南事変後、新四軍政治部主任、第4師政治委員。第二次国共内戦時期、華中軍区政治委員、中共中央華中局第三書記兼第四野戦軍第二政治委員。中華人民共和国成立後、中南軍政委員会代主席、中華人民共和国国務院副総理、主管農業。「分田至戸」責任制を提唱、毛沢東の農業合作化(集団化)運動に反対し、批判を受ける。文革期に迫害を受け、病により亡くなる。
初期の革命および赤軍の時期
 貧農の出身で兄弟姉妹は8人。上から2番目である。邓子恢は幼年時桐冈(トンカン)小学で学んだ。13歳で母を亡くした。17歳で龙岩(ロンヤン)中学堂(現在の福建省龙岩第一中学)丙班に入った。1916年末に優秀な成績で卒業。1917年龙岩县の公費日本留学資格を得て、3月に日本にわたり東亜補習学校で1年余り学んだ。(しかし)肺病のため帰国をよぎなくされた。1918年5月龙岩に戻り、母校の桐冈小学で教師となった。(けれども)農村の給与水準があまりに低くて、一家の生活を維持できなかったので1918年末江西省崇义县(チョンイシエン)杰坝圩堂(チエパーウェイタン)に兄が開いた慶昌和雑貨店の店員になった。1919年五四新文化運動の影響を受けた。1923年邓子恢は崇义から龙岩に(再び)戻り、「岩声」を創刊し、マルクスレーニン主義を伝え、社会の不正(暗)を告発した。1925年中国国民党に入った。1926年、陈赞雍(チェン・ツアンヨン)の紹介で中国共産党に入った。間もなく、陈赞雍と邓子恢は党員を10数名まで発展させて中共崇义县支部を成立させた。1927年第一次国共合作が崩壊したあと、邓子恢は国民党に追われるようになった。

 1928年4月邓子恢は上杭县宣伝部長となり、同县北四区の蛟洋農民運動の責任を負った。1928年7月 永定渓南に正式に中西闽西特委が成立、邓子恢は特別委員会宣伝部長となった。同時に闽西暴動委員会が成立し、邓子恢は副総指揮に任じられた。この時闽西各県の武装合編は紅七軍第十九団を編成し、3つの团を従えた。邓子恢は五十七団の党代表を兼任した。1929年3月、中共闽西特別委員会書記であったとき、毛沢東と朱徳は紅四軍を率いて福建に入っていた。邓子恢は朱徳と毛沢東の紅軍がすでに西に進んで赣南に入っていることをしり、闽西地区の敵情変化情況を書面で報告し、紅四軍の前委(前卫の誤植か?)に深夜人を派遣して、紅四軍に再度闽西に入ることを求めた。毛沢東と朱徳は当時の敵情をもとに、紅軍を闽に入れてソビエト区を作ることを決定。同年5月から6月、邓子恢は工農暴動を組織し、朱毛の部隊が闽西に侵入したのと力を合わせて、国民革命軍福建省防軍第一混成旅陳国輝部2000余人をせん滅した。5月23日夜遅く、邓子恢は龙岩で毛沢東、朱徳、陳毅と初めて面会した。6月4日、龙岩县革命委員会が成立し、邓子恢が主席に推された。2ケ月経たないうちに、龙岩  永定  上抗の3県の大部分の土地が完全に分配された。
 1930年3月18日 闽西第一次工農代表大会が邓子恢の主催のもと開催された。選挙により闽西ソビエト政府が成立し、邓子恢が主席に選ばれた。同年5月 闽西地方の紅軍と各県の赤衛隊あわせて3000人あまりは、正式に中国工農軍第12軍を編成。邓子恢はその政治委員を兼任した。闽西ソビエト区は縦横300里、人口100万近くに発展し、党組織は8つの县委員会、53の区委員会、546の支部、万前後の党員数までに発展した。1930年9月 邓子恢は福建省委巡視員とされて、莆田 福安 谭州等で土地改革と遊撃隊の建設を指導した。1931年11月 中華ソビエト共和国政権成立後 邓子恢は臨時中央政府執行委員となった。1931年12月 中共厦門中心市巡視委員となり、漳浦(チャンプー) 龙溪 (ロンシー)   云霄(ユンシアオ) 平和などの県で土地革命と遊撃隊を指導して、紅軍独立第三団の発展に努めた。また闽南遊撃根拠地を建設した。

 1932年7月初 邓子恢は紅軍東路軍に従い龙岩に戻った。間もなく瑞金にゆき、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長の職についた。紅軍が第四次第五次の包囲(围剿)のなか補給の責任者となった。紅軍主力の戦略が変化するなか留守役の中共中央分局委員を務め、邓子恢は闽西に戻ってゲリラ(遊撃)戦争を指導し、张鼎丞(チャン・ディンチェン)谭震林(タン・ツェンリン)等とともに継続して遊撃戦争を指揮した。
抗日戦争時期
 1937年赣闽(ガンミン)での中共遊撃部隊と国軍との談判をすすめて、成功した(和平交渉を成立させた)。1938年3月1日 邓子恢と張鼎丞 谭震林は率いている闽西南紅軍を新四軍二支隊に改編した。合わせて新四軍政治部副主任兼民運部長を兼任し、部隊は北上した。1939年邓と新四軍軍長叶挺哈,高敬亭問題を処理した。このあと新四軍は大別山を離れて、部隊は江北地区に進出した。1939年5月5日、邓子恢は新四軍江北指揮部政治部主任に任命された。1939年7月1日、新四軍第四支隊は第四、第五支隊に」編成江変えされ、邓子恢は第五支隊を指揮した。1939年12月初、邓子恢は中原局委員に補充された。1940年3月、邓子恢は自ら半塔集保卫战を指揮した。
 1941年に皖南事变(1941年1月4日から14日 移動中の新四軍が国民党軍に囲まれて2000人以上が虐殺された事件。新四軍は共産党の中国南部の拠点を維持拡大のための軍隊。新四軍は国民党軍と軍事衝突をくりかえした末に1941年10月黄橋戦役で多大な損害を国民革命軍に与えた。そこで蒋介石は1940年内に新四軍の北上の完了を要求した。そして毛沢東もそれに同意した。ところが新四軍の移動開始は遅れて、期限に反して1月に入って戦闘態勢で移動を開始。包囲攻撃を受けた。新四軍軍部が毛沢東の指示に反し移動を遅らせた可能性は高い。新四軍は国民軍の攻撃停止の依頼を毛沢東に求めるが、毛沢東は動かず、新四軍の被害が拡大する経緯をたどった。この事件に対して、国民党を支援していた米英は国共合作を支持して国民党を非難、またこの事変にかかわらず国共合作は維持された。背景には国共合作後も各地のソビエト区を拡大しようとする八路軍・新四軍と国民革命軍との間で戦闘が続いていたことがある。1940年10月4日から7日に生じた黄橋戦役では、新四軍が国民革命軍に対して5000人規模の死傷を与えた。もともと黄橋は国民軍の拠点。これを新四軍が7月に奪ったため、10月に国民軍が取り戻そうとしたができなかったというのが黄橋戦役。この「摩擦」を受けて蒋介石は10月19日に中共中央、八路軍、新四軍に対して年内の北上を要求した。これに対して11月19日に中共中央は北上を返答した。しかし北上が実行されないため12月3日に蒋介石は再度年内北上を求めている。新四軍の北上の判断は明らかに遅れ、1月4日になりようやく戦闘態勢のまま北上を開始、国民軍と衝突した)が発生し、新四軍軍部が殲滅(被歼)されたあと再編され、邓子恢は政治部主任になった。当時の淮南(フアイナン)の情勢はとても緊張しており、邓子恢は軍部の職にすぐに赴いておらず、新四軍第二師団の改編を指導していた。1941年5月華中局が成立し、劉少奇が書記となり、陳毅、張雲逸、邓子恢などが委員になった。間もなく邓子恢は華中局代表の名目(名義)で新四軍軍部巡視団を率いて、皖东北地区彭雪枫(ポンシュエフェン)部に検査と支援工作に赴き、部隊の気持ち(情绪)を落ち着かせた。8月11日 邓子恢は新四軍第四師団の政治委員を兼任した。8月23日華中局は淮北軍政党委員会の成立を決定、邓子恢をその書記とした。

1942年11月25日 淮北地区は党政軍の一元化指導を実現(実行)し、淮北軍政党委員会を廃止(撤销)、邓子恢は淮北区党委員会書記に任命され、同時に淮北軍区政治委員を兼任した。1944年7月25日、豫湘桂会战(1944年4月から12月にかけての日本軍と国民党軍の大規模な会戦を指す。太平洋戦争の末期であるが、日本軍は勝利している その最中に新四軍は根拠地造りに励んでいたということであろう)において、河南を失う(河南沦陷)背景のもと、新四軍四師団は豫皖ソビエト辺区の回復のため西に向かい、河南抗戦局面を発展させた。彭雪枫は四師団の主力五個師団を率いて西に進む任務を行った。邓子恢らは2つの師団と地方武装を率いて、淮北路东根拠地を堅持し、主力が西に進むことを支援した。1945年に中国共産党第七届中央委員に当選した。
第二次国共内戦時期
 中日戦争終結後、中共部隊は戦略調整され、新四軍の主力は山東に入った。邓子恢は中央の電令に従い、1945年10月淮北路西前线から淮阴に移動し、併せて11月に華中分局成立を正式に宣言した。邓子恢を書記、谭震林を副書記とした。華中に残された新四軍は華中軍区に統合(合拼)され,张鼎丞は司令員、邓子恢は政治委員を兼任した。1946年4月、其与曾山から延安に向かい毛沢東ほか中共の指導者と会見し、江北を守る新四軍の戦略を議論した。翌月、邓子恢は淮安に戻り、土地改革を組織した。全面内戦爆発後,涟水戦役に参与組織し12月には、宿北戦役を参与組織し、そのあと山東作戦に転入した。
 1946年末 華中分局と山東分局は合併して華東局となった。邓子恢は華中局副書記に任命され、土地改革再調査(复查)工作を担当した。併せて組織建設後の華東野戦軍(すなわちのちの第三野戦軍)の後方支援供給の責を負った。1947年7月下旬 張雲逸らとともに渤海地区に移動し、華東局工作委員会を組成、邓子恢が責任者となった。1948年 華東野戦軍と中原野戦軍(すなわち第二野戦軍)は河南共同(配合)作戦にあり、6月に邓子恢は、中共中央中原局第三書記を担当し、中原軍区の副政治委員を兼任。中原局日常工作を主管(主持)し、併せて淮海戦役の事前事後工作を担当した。
 1949年3月 中原臨時人民政府が開設成立し、邓子恢が主席を担当した。1949年6月初めに新たに組織された華中局の第三書記兼第四野戦軍と華中軍区との政治委員を兼任し土地改革と経済建設を組織した。6月中旬、邓子恢は新たに組織された華中局の機関を開封から漢口に移した。9月北京で招集された中国人民政治協商会議において、中央人民政府委員に当選し、10月にはまた中央人民政府人民革命軍事委員会委員に任命された。
中華人民共和国初期
 1949年12月廣西開放後にあたり、華中局と華中軍区は中南局と中南軍区に改称された。林彪は中南局第一職兼中南軍区司令員、罗荣桓(ルオ・ロンホアン)は第二書記兼軍区第一政治委員、邓子恢は第三書記兼軍区第二政治委員で、中南大区の全面工作を担当した。1950年2月に中南軍政委員会副主席、主席代理兼中南財経委員会主任となり、全区の財経工作を担当し、中南地区の土地改革を組織した。1953年1月5日、ただちに第一次5年計画を実施するために、中央は地方権利の削減が必要となり、高岗,饶潄石(ラオ・シュース)、邓子恢,邓小平,习仲勋(シー・チョンシュン)ら地方軍政第一要員(5つの地方局書記)は北京に集められた。歴史に名高い「五馬進京」とはこのこと。その中で邓子恢はそのなかで北京に用意された(筹建)中共中央農村工作部と出任部長となった。合わせて全国防汛総指揮を任された、1954年9月邓子恢は中華人民共和国国務院副総理となり、農業、林業、水利、気象、供給と信用合作などの部門を主管した。
   (なお 1954年に高岗 饶潄石事件が起きている。)

1955年4月毛沢東はもともとの65万の農村合作社の基礎上で、倍増して130万にすると。邓子恢は原計画は動かさないと主張した。すなわち65万社の基礎上で半分増やして100万まで発展させると。このため毛沢東は数回にわたって邓子恢とこの問題について協議した。邓子恢は意見を変えず、毛沢東は中央で会議を開き解決することを提案した。その後開かれた、省、市、自治区の党委員会書記会議において、毛沢東は「農業合作化問題について」の報告を行い、小脚女人は東に揺れ西に揺れて道を歩くように「右傾」の誤りを犯している、と批判した。1955年10月中共中央が招集した拡大七届六中全会で、邓子恢が提出した「農業合作化の発展速度は不適切に早すぎ、不可能なほど急ぐことを求めている」との意見は、「右傾機会主義」と断定されて、批判を受けた。1956年上半年に全国で農業合作化が実現した。1956年4月邓子恢jは全国農村工作部長会議を主催して次の提案をした。「新たな生産関係を安定させ、合作社を強固にする。合作社の要諦(关键)を強固にするには、農業生産を高め,90%以上の社員の収入増加を保証することである。政策の不十分なところを補い(进行政策补课),良い合作社幹部を選ぶこと。1956年8月には再び全国農村第二次農村工作部長会議を主催し、中央に代わって「農業生産の合作を強化するための指導と組織建設に関する指示」を起草した。
 1961年農村に下っての調査のあと、邓子恢はなお保留土地責任制を主張し、包産到戸を進め、毛沢東の行き過ぎた合作化政策に抵抗した。1962年9月中共八届十中全会で、邓子恢が提出した「包产到户」を指示する主張は、「修正主義綱領」だとされて激しい(严厉)批判を受け、邓子恢が指導する中共中央農村工作部は職務を取り消された。1965年1月に召集された第三届全国人民代表大会第一次会議は、国務院副総理の職務を免じ、改めて第四届全国政協副主席、計画委員会財経工作担当に任じた。
 文化大革命で邓子恢は迫害にあった。1969年10月廣西に追放(疏散)された。1970年6月北京で入院治療となった。1972年12月10日北京医院で世を去った。12月14日中共中央は追悼会を開いた。紀登奎が主催し、叶剑英が弔辞を述べた。
 1981年3月9日 中共中央の办公厅は邓子恢同志の名誉回復の通知を出し、その中でつぎのように指摘した。「彼は農業集団化(集体化)運動において、いくつの重要な問題について意見を提出した。その多くは正確であった。かつて行なわれた党内での彼と中央農村工作部に対する批判、処理は誤っており、名誉回復(平反)がされるべきである。力で押し付けられたすべての不実の言葉は、逆転され名誉が回復されねばならない。」同年6月27日の中共十一届六中全会において可決された「建国以来党の若干の歴史問題の決議」の中で中国農業に重大な意義のあるその農業責任制の観点は称賛されている。(以下翻訳作業中)

 百度百科
 邓子恢(プロレタリア階級革命家 政治家) 邓子恢は名を紹箕とも言う。福建龙岩新罗の人。偉大な共産主義戦士であり、傑出したプロレタリア階級革命家、政治家であり、農村労働者の卓越した指導者であり、闽西革命根拠地そしてソビエト区の主要な創建者でありかつ卓越した指導者の一人。抗日戦争と解放戦争の経験者。解放後、中共中央農村工作部部長、国務院副総理、全国政協副主席などを務める。邓子恢同志は我が国社会主義農業の発展経路の探索に一生をささげた。党内の農業、農業工作の専門家とされる。
中国語名:邓子恢。別名:邓紹箕。国籍:中国。民族:漢。出生地:福建龙岩。出生:1896年(丙申)8月16日。逝世:1972年(壬子)12月10日。職業:政治家、軍事家。
若い時の履歴
 1896年8月17日邓子恢は福建省龙岩(ロンヤン)县(現在の新罗区)东肖邓曆村に生まれた。兄弟姉妹は8人で、上から2番目だった。邓子恢は幼年時 桐冈(トンカン)小学で学んだ。13歳のとき母が病気で亡くなった。17歳で龙岩中学堂(現在の福建省龙岩第一中学)丙班に入った。辛亥革命の影響を受け、孙中山の救国思想を受け入れた。1915年秋に中華革命党(中国国民党の前身)に入党し、救国救民の真理を探究し始めた。1916年末優秀な成績で卒業した。1917年3月 公費日本留学の試験に合格し、東京の東亜補習学校に1年余り留学したが、貧しさと病のため帰国した。
 1918年5月龙岩に戻る。母校の桐冈小学の教師となる。乡村の給与があまりに低く、一家の生活を支えることができなかったので、1918年末江西省崇义县(チョンイシエン)杰坝圩堂(チエパーウェイタン)に兄が開いた慶昌和雑貨店の店員になった。五四運動のあと、次第にマルクス主義を受け入れる。1921年春 進歩青年と龙岩白土桐冈書院を組織。奇山書社で月刊「岩声」を創刊、マルクス主義革命理論の普及に努める。
 1926年北伐軍は韵南に直進し、崇义县を解放した。杰坝圩では国民党(左派)区党部ができて、邓子恢は常務委員になった。同年12月、大革命の嵐のなか、陈赞雍(チェン・ツアンヨン)の紹介で崇义县は中国共産党に入った。間もなく陈赞雍と邓子恢は党員を10数名に拡大し中共崇义支部を成立させた。1927年第一次国共合作が壊れると、邓子恢は国民党から追われる(被通缉)ようになった。
土地革命戦争時期
 1927年冬、中共龙岩县委宣伝部長になる。1928年3月4日、党の八七会議精神と福建臨時省委員会の決議により、龙岩后田暴動を参加指導し、闽西第一派(支)農民遊撃隊を創設し、闽西ソビエト地区の闘争を開始する。
 1928年4月、中共上杭县宣伝部長となり、同县北四区の蛟洋農民運動の責任を負った。蛟洋一帯に深く入り、現地の指導者を助けて、蛟洋農民暴動を引き起こした。6月永定暴動のあと,暴動の隊伍を町からは撤収させて、農村で土地革命を展開することを提案した。
 1929年3月に中共闽西特別委員会書記に任命され、地方武装を指導し、毛沢東と協力して(配合)、朱徳が率いる紅四軍の入闽を戦った(作战)。邓子恢は朱(徳)に毛紅軍がすでに西に進み×× すでに闽西地区の敵情は変化し文書報告は紅四軍の毛沢東と朱徳のところに送られ、紅四軍に再度入闽を求めていた。毛沢東と朱徳は当時の敵情により紅軍を入闽させスビエト区を創立する(开辟)決定をしている。5月から6月、邓子恢は工農暴動を組織し、朱毛の部隊が闽西に入るのを助け、国民革命軍福建省防衛軍混成陈国輝部2000余人をせん滅した。5月23日夕方(傍晚)邓子恢は龙岩で毛沢東、朱徳、陳毅と初めて会った。同年6月紅四軍が龙岩城を初めて攻めたあと(攻打)、龙岩县の革命委員会主席に任命された。2ケ月経たないうちに、龙岩,永定,上杭3县の大部分の土地分配は完成した。7月、毛沢東の指導の下に、(邓子恢は)「闽西中共第一次代表大会を開催し、闽西土地革命と工農武装割拠の総路線を決定(确定)し、中共闽西特別委員会書記に当選した。
 1930年3月18日、(邓子恢は)闽西第一次工農兵代表大会を開催し、闽西ソビエト政府を設立させ、主席に当選し、闽西人民を指導し、闽西革命根拠地を力強く(巩固)発展させた。その間、董成荣そのほかの戦友とともに革命を行った。同年5月、闽西地方の紅軍と各県の赤衛隊合わせて3000人あまりは正式に中国工農軍第12軍を編成し、邓子恢はその政治委員を兼任することになった。闽西ソビエト区は縦横300里(150km),人口100万近くに発展。党組織は8つの県委員会、53の区委員会、546の支部、万前後の党員を抱えるまでに発展した。最盛期には6つの県、60余りの区、597の郷(乡)ノソビエト政府を建設した。
 1930年7月8日 李立三の「左」傾盲動主義の誤りに抵抗したため、特別委員会書記、ソビエト政府主席などの職務を免じられて、闽西の職務を外されたが、中共福建省委員会農村巡視員の名目で、闽中,闽东,闽南等に出向いて白区(国民党地区)工作を発展させた。1931年11月、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長に選ばれ、代理土地部長も兼任した。1931年12月 中共厦門中心市委員会巡視員となり、漳浦 龙溪 云霄 平和などの県の土地革命と遊撃隊を指導し、紅軍独立第三団に発展させた。また闽南遊撃根拠地を創建した。
 1932年7月初めに邓子恢は紅軍東路軍とともに龙岩に戻ってきた。ほどなく瑞金に行き、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長の職に就任する。紅軍に対して第四第五の包囲(围剿)のなか補給(供給)の責任を負った(担保)。1933年には国民経済部長を兼任した。自ら一連の中央ソビエト区の財政税収の政策と法令を制定公布し、中央ソビエト区の財政の統一について、土地革命の勝利成果を強固にして重要な貢献をした。かつて左傾教条主義者の誤った批判を受けて中央財政部副部長に降格されたが、徴発局の仕事は残された。中央主力の紅軍が長征に向かったあと、邓子恢は中央ソビエト区に残り遊撃戦争を堅持した。また中共中央分局委員を任じた。
1935年4月 闽西に戻り闽西南軍政委員会を組織した。前後して宣伝部長、財政兼民運部長、副主席兼財政部長に任命された。張鼎丞 谭震林 方方とともに、群衆を指導して遊撃戦争を発展させ、革命力量を保存発展させた。
抗日戦争時期
抗日戦争が爆発する前後、中共中央の方針に従い、苦しく複雑な闘争を経て、闽西の国民党当局と和談協議を達成し、闽西南第二次国共合作を実現した。1938年3月1日 邓子恢と張鼎丞 谭震林は率いている闽西南紅軍を新四軍二支隊に改編した。合わせて新四軍政治部副主任兼民運部長を兼任し、部隊は北上した。1939年邓と新四軍軍長叶挺哈,高敬亭問題を処理した。このあと新四軍は大別山を離れて、部隊は江北地区に進出した。1939年5月5日、邓子恢は新四軍江北指揮部政治部主任に任命された。1939年7月1日、新四軍第四支隊は第四、第五支隊に」編成江変えされ、邓子恢は第五支隊を指揮した。1939年12月初、邓子恢は中原局委員に補充された。1940年3月、邓子恢は自ら半塔集保卫战を指揮した。

1941年に皖南事变が発生し、新四軍軍部が殲滅(被歼)されたあと再編され、邓子恢は政治部主任になった。(以下中略)

中華人民共和国成立後

1949年12月 中南軍政委員会(のちの中南行政委員会)第一副主席となり、中南局工作を担当する。中南地区人民が国民経済の回復をna'do'to'to'mo'ni'to'to'mo'ni優れて完成させることを指導し、人民政権の××を建立し強固にした。かれのこの一時期の光輝ある業績、とくに農村土地改革と群衆工作訪問の独創性は、党中央から充分肯定された。

1952年10月中共農村工作部部長に任命された。1954年9月国務院総理に任命され、農業、林業、水利、気象、商業(供销)と信用合作などの部門を主管した。50年代の農業合作運動においては、現実に立脚して(实事求是)「小農経済の現状から出発する」、すなわち中国の農村の貧しく遅れた現状から出発し、党中央が確定した、自由意志により相互の利益による、ゆっくり前進発展する方針を一貫して実行するとした。その後の人民公社化運動での左偏向に際しては、一連の経営体制調整の意見を提出、包産到戸を含む様々な生産責任制を主張した。

1955年4月毛沢東はもとの農村合作社65万の基礎の上に倍増させ130万とすることを主張した。邓子恢はもとの計画を動かさないこと、すなわち現在の65万の基礎を半倍して100万に発展させることを主張した。そこで毛沢東は邓子恢と数回にわたり話し合ったが、邓子恢は意見を変えなかった。毛沢東は中央が会議を招集して解決することを提案した。その後開かれた省、市、自治区の党委員会書記会議で毛沢東は「農業合作化問題について」報告を行い、小脚女人のようなものが東に揺れ西に揺れて道を歩き、右傾の誤りを犯したと指摘した。1955年10月、中共が招集した拡大された七届六中全会で、邓子恢が提出した「農業合作化の発展速度は不適切に早すぎできないほど過度に急ぐことを求めている」との意見は、右傾機会主義だとされて批判を受けた。

1956年4月2日 邓子恢は全国農村工作部長会議の講演で以下のように述べた現在の合作社の基本要諦を整頓強化するべきで、なかでも大事なのは以下の3点である。第一は生産を改善(搞好),増産増収を保証し、社員生活を改善することである。これは合作社の物質基礎を固めるものである。主要には以下の3点「この一条はまだ達成されていなければ、すべてが終わったと同じだ。仕事をしつつ、仕事を勤俭(勤労倹約して)」行なうには、群衆の潜在力量を発揮させ、労働は定額で包工包産でよくさせる必要がある。二、政策上补课を要するときは合作社の幹部の素質を引き上げる。社内民主主義、選挙制度を確立する必要がある。社員と幹部の間、社員同志の間、社員と幹部の間の批判と自己批判(自我批评)制度の確立。

1961年農村に入っての調査のあと、邓子恢は保留土地責任制の主張を堅持し、請負責任制(包产到户)を進め、毛沢東の過度の農業合作化に抵抗するところがあった(有所抵制)。1962年9月,中共八届十全会において、邓子恢が提出した包产到户を支持する主張は「修正主義綱領」とされて、激しい批判を受け、邓子恢指導の中共中央農村工作部は職務を取り消された(撤销了)。

1965年1月全国政協副主席に選ばれ、計画委員会財経工作を担当した。このほか中国共産党第七、八、九届中央委員に選ばれた。文化大革命の間、林彪、江青反革命集団の激しい迫害を受けたが、逆境にあって消沈することなく、困境にあっても思考を進め(思备进) 、常に大局を見て原則を堅持し、彼らとの闘争を進めた。

1972年12月10日 政治上の長期にわたる迫害と不平等な扱い(歧视)のため(由于)、病により北京で世を去った。

1981年3月9日 中共中央办公厅は邓子恢同志の名誉回復(平反)の通知を出した。その中でつぎのように指摘した。「彼は農業集団化(集体化)運動において、いくつの重要な問題について意見を提出した。その多くは正確であった。かつて行なわれた党内での彼と中央農村工作部に対する批判、処理は誤っており、名誉回復(平反)がされるべきである。力で押し付けられたすべての不実の言葉は、逆転され名誉が回復されねばならない。」(以下翻訳中)

動画 農民統帥 

邓子恢(1896-1972) 元中共中央農村工作部部長 国務院副総理 全国政協副主席

1952年8月4日 毛沢東が国家組織(機構)を増やすので地方の各中央局書記は中央に移って仕事をするように文書指示(批示)をだした。 五頭の馬が進むとき一頭が最前列に立つ(五马进京一马当先)と言われるが、邓子恢はその中で政治的スターの一人だった。四億近い農民の利益にかかわる農民工作を行う中央農村工作部部長に毛沢東自身によって指名された。

邓准生「毛主席は父を探し出して「子恢同志には中央で農民の統帥として働いてもらうために移動させた」と話しかけた。「農村工作をうまく進めるために」。父は答えて「とても自分は務まらない、それに統帥は主席です、我々は助手を務めます(以下翻訳作業中)

2016-09-10 upload (2018-06-11更新)

現代中国研究