MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯366 「文学部不要論」について

2015年06月27日 | 社会・経済


 文部科学省が、全国86の国立大学に対して発出した通知において文学部など人文社会科学系の学部や教員養成系の学部・大学院の廃止、もしくは社会的要請の高い分野への転換を迫ったことに関し、6月17日の読売新聞がこれを批判する立場から社説を展開しています。

 確かに人文社会系の学部は、研究結果が新産業の創出や医療技術の進歩などに直接結びつく理工系や医学系に比べ、短期では成果が見えにくいかもしれない。あるいは、卒業生が専攻分野と直接かかわりのない会社に就職するケースも少なくないかもしれない。

 しかし、一方で大学は、幅広い教養や深い洞察力を学生に身に付けさせる場でもある。古典や哲学、歴史などの探究を通じて、学生の物事を多面的に見る眼や様々な価値観を尊重する姿勢を養うこともまた大学に期待される機能だというのが、この主張の眼目です。

 さて、この記事に先立つ6月4日に開催された政府の「産業競争力会議」においては、「産業界と協働して教育課程を実践する新たな高等教育機関を制度化」することが決定され、大学や短大の学部の再編などにより設置される新教育機関では、ITなど成長が見込まれる分野で活躍する人材の育成を目指すとの方針が示されています。

 一般の学生が学ぶ日本の高等教育から、いわゆる「実学」以外の学問を排除していこうとする政府のこのような動きに対し、5月30日のPRESIDENT Onlineでは、神戸女学院大学名誉教授の内田 樹(うちだ・たつる)氏が、この問題に正面から対峙し「文系学部廃止は天下の愚策 」と題する興味深い論評を掲載しています。

 この論評において内田氏はまず、教育ばかりでなく、行政が行う医療や福祉などの民生やインフラ整備などの多くは、もともと営利目的のためではなく、「共同体を支える基盤」として歴史的に形成されてきたものだと改めて指摘しています。

 「教育」が担っている第一の目的は、「次世代を担う成熟した市民の育成」にあると内田氏は考えています。

 まっとうな公共的感覚を持った市民が一定数いなければ、共同体はその姿を維持していくことができない。つまり、学校教育の最大の受益者は教育を受ける「個人」などではなく、それを頂く「共同体」にあるというものです。

 だからこそ、ヨーロッパの多くの国がそうであるように、教育は「無償」というのが本来の姿なのである。明治期以来の日本において国立大学を全国に設立し、学費を抑え奨学金制度を充実させてできるだけ多くの若者たちに就学機会を提供してきたのも、勝ち残った者が立身出世して自己資産を増やすためなどではない。彼らが日本の未来を託すことのできるリーダーとして、市民的な成熟を果たせるよう支援するためであったということです。

 教育がもたらす知識や技能は利益を生むための「商品」ではなく、本来共同体が若者に一方的に、無償で贈与すべきものだと内田氏は言います。しかし、今、学校は教育という「商品」の売り手となり、子供たちとその保護者は授業料や学習努力という「対価」を支払ってそれを手に入れるという、ある意味「消費者」の立場から教育をとらえているのではないか…、内田氏はそう懸念しています。

 確かに営利企業モデルを採用する限り、子供たちは「教育商品の買い手=教育サービスの受益者」とみなされることになります。そして、教育が「商取引」と認識されている以上、その消費者たちは「最低の対価」で、(自身に利益をもたらす)「最高の商品」が手に入る機会を血眼になって探すことになるということです。

 内田氏によれば、人気のない学部・学科は淘汰(とうた)されても仕方がないと人々が考えるようになったのは、学校が「商品」を売る店舗と見なされていることの証左であり、国立大学でかつて教養学部が廃止され、今回また文系の教育が打ち切られようとしているのは、学校教育への市場原理導入の論理的帰結だということです。

 国が将来に向けて繁栄していくためには、次世代を担う市民が共同体に対する強い愛情や帰属意識を持ち、国の制度や文化を支え続ける責任感の持ち主であることが必要です。そうした視点に立ては、国立大学が自国の歴史や文化に対する愛着も関心もなく、「グローバル資本主義」のもと高い地位と年収をめざす学生たちの競争と格付けのためだけに存在する国に、果たして未来はあるのかと内田氏は読者に問いかけています。

 あらゆる社会組織を「効率」と「採算」に基づいて再編し、「グローバル資本主義」に最適化していくことが現在の政官財メディアの採択している国家戦略だというのが、現在の政府が取っている基本的な政策方針に対する内田氏の認識です。そして氏は、今の政府が公教育に求めているのは、結局、「グローバル人材」という名の能力が高く、安い賃金で体を壊すまで働いてくれて、いくらでも「換えがいる」労働者たちの育成なのではないかと指摘しています。

 もしもそうであれば、今、日本で進められようとしている(社会を幸せにしない)教育資源の再配分の動きをどうしても許容することができない。私たちはもう一度、学校教育の社会的使命は「成熟した市民の育成」にあるという原点に立ち戻る必要があるのではないかと、内田氏はこの論評を結んでいます。

 公的セクターによる高等教育の目的は一体どこにあるのか。そのために(日本の国立)大学はいかにあるべきか。

 共同体の維持や発展を第一に願う成熟した市民を育てるためにも、教育は子供たちの選択肢の多様性を担保し、それぞれの潜在的資質の開花を支援するためのものでなければならないとする内田氏の論評を読んで、人間という存在の意味や幸福な社会の在り方を学術対象とするいわゆる「リベラルアーツ」の意味を、私も改めて考えさせられたところです。




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