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陳雲 (陈云 Chen Yun 1905-1995) 百度百科ほか

2018-06-10 20:15:33 | Area Studies

鳥籠理論そして陳雲(チェン・ユン 1905-1995)について 成城大学経済研究214号 Dec.2016   37-72

百度百科 陈云(チェン・ユン 1905年6月13日ー1995年4月10日) 偉大な無産階級革命家、政治家。傑出した(杰出)マルクス主義者。中国社会主義経済建設を創始した人であり指導者(奠基人)の一人。党と国家の長い経験と考察を経た卓越した指導者。毛沢東同志の核心的党の中央指導体制第一世代であり、鄧小平同志の核心的党の第二世代中央指導集団の重要メムバー。
 陈云同志は1930年代初めから党中央の指導工作を担当し、我々の党が人民をして革命、建設、改革の各歴史時期のおよそあらゆる重大事件を経験し、党中央にあって、さまざまな歴史時期の一連の重大な政策の決定と実施に参加し、何度も党と人民の事業発展の肝心なときに、党と国家の政策が十分重要な作用を発揮させた。陈云同志は中国人民解放事業の発展と成功のため、我が国社会主義制度の建設と確立のため、改革開放と社会主義現代化事業の開発と発展のため、全力で貢献し不朽の功績を打ち建てた。国内外で尊敬と威信は高く、全党全軍全国各民族人民の尊敬と愛を深く受けている。
 注1:叶永烈は、陳雲について書かれたものが少ないのは、彼が自分を宣伝することを好まず、陳雲を扱った画集、テレビ劇などを生前断っていたことが背景にあると指摘する。鄧小平に対しても常に自分は鄧小平の下にあることを強調した。陳雲は工員(労働者)出身であり、それゆえに中共領導層の出身が問題になったときも、あるいは文革のときも比較的平穏に暮らすことができた。彼の座右銘は「不唯上,不唯书,只唯实。交换,比较,反复。」。不唯上は権威を絶対としない意味、不唯书は書物を絶対とない意味、只唯实は現実あるいは本当の真理だけに基づくという意味だろう。そのあとの3語は真理あるいは現実に至る方法で、意見の交換、比較、検証の繰り返しを指す。 叶永烈,他影响了中国 陈云全传,四川人民出版社 华夏出版社 联合出版,2013,序。p.92参照

 家族関係 陈伟力(長女)陈伟华(次女)陈元(長男) 陈伟兰(三女) 陈方(次男) 孫:陈晓丹(陈元の子)陈小欣(同左)
陈云 国籍:中華人民共和国 民族:漢族 出生地:上海 出生日:1905年 逝去(逝世)日:1995年4月10日 職業:革命家、政治家 信仰:共産主義

人物生平
早年革命

 陈云は偉大なマルクス主義者で、無産階級革命家で、政治家。中国共産党と中華人民共和国の主要指導者の一人。中国社会主義経済の建設開創者にして基礎をなした人(奠基人)の一人。江蘇青浦(現在は上海に属する)人。1905年6月13日貧しい(貧苦)農民家庭に生まれる。二歳のとき父(陈梅堂)、4歳の時に母(廖顺妹),をなくす。裁縫を生業とする叔父(廖文光)により養われた。1919年高等小学科卒業後、貧しさ故に進学できず、上海商務印書館で学徒となり、のちに店員になった。1925年に五卅運動に参加。同年8月商務印書館発行所ストライキ委員会(のちの職工会)委員長となる。商務印書館大ストライキに参加、勝利を勝ち取った。すぐに中国共産党に参加、労工組織者として共産党の活動に従事し始めた。中共青浦县委員会書記、淞浦特別委員会組織部長、中共江蘇省委員会沪宁巡視員、江蘇省委員会常任委員兼委員会書記、中共上海闸北,法南区委員会書記かつ江蘇省委員会組織部部長、省委員会書記などの職を歴任した。
 注2:(幼くして両親を亡くした陳雲とその姉を養ったのは母方の祖母:外祖母であるが、この祖母も間もなくなくなり、陳雲は母方の叔父:舅父夫婦に養われることになる。その生活は苦しく小さな飲み屋を始めた。7歳のときに陳雲は小学校に入学したものの学校をあきらめざるを得なくなった。このとき飲み屋の客の顔安国民小学校長の杜衡伯は聡明な陳雲の学業が失われたことを惜しみ、無料での入学を認めた。陳雲はこの支援を忘れたことはなかった。1919年に陳雲はこの小学校を14歳で卒業したが、中学校にすすむことは金銭的にできず、小学校の時の教師張行恭の弟が務める上海商務印書館の見習い(学徒)の仕事を紹介され、上海に出ることになった。ここに共産党の党員が何人かいたことから、印書館は中国共産党の重要な基地になる。そして陳雲は1925年上半期に入党。6月下旬には印書館工会(労働組合)の設立の中心メムバーの一人になる。8月には工会はストライキを行い、成功裏にストが収束させる。しかし9月末に陳雲は上海を離れて故郷に戻らざるを得なくなる。四一二政変のあと、共産党員が虐殺されることがあったこともあり名前がでていた陳雲は逮捕されるおそれがあった。共産党の指示で農村に入り、農民運動を組織することになった。1928年1月には農民革命軍が組織され、米を奪って分配するなどの行為を行った。地主たちも武装して自衛団を作りさらに省政府に報告。省政府から国民革命軍に救援を求めた。そうした状況下で農民革命軍の正副指揮官がつかまり、26日に銃殺された。陳雲も危険になり、28年9月に遂に故郷の地を離れたとされる。・・・叶永烈,他影响了中国, 第1章)
 1930年と1931年、前後して中共六期第三次中央委員会全体会議、四次中央委員会全体会議で中央候補委員、中央委員に当選した。1931年5月に中共中央機関安全的中央特科書記に任ぜられ、9月には臨時中央領導メムバーとなった。1932年に臨時中央常任委員、全国総工会党団書記になった。1933年に中央革命根拠地に入った。1934年中共6期第六次中央委員会全体会議で中央政治局委員、常任委員に当選し、白区工作部部長を兼任した。のちに長征に参加、全軍後衛任務の赤5軍団において中央代表となった。のちに軍事委員会纵队政治委員。1935年1月貴州で開かれた中共中央政治局会議(遵義会議)で毛沢東の正しい主張を支持した。
 注3:まだ25歳であった陳雲が1930年の中共六届三中会で候補中央委員に当選した背景にはコミンテルン(共産国際)の意向が働いている。当初コミンテルンは知識分子が外国語を理解し、マルクス主義の原書を読めることから、陳独秀のような知識分子を中国共産党の指導者として期待したが、陳独秀は右傾機会主義の過ちを犯し:陳独秀はコミンテルンの指示もあって国共合作を進め孫文が亡くなったあとも汪兆銘と組んで国共合作の延命をはかったとされる、続く知識分子の瞿秋白は左傾機会主義の誤りを犯したとされる:彼が最高指導者であったときに、起こされた武装蜂起が失敗したことを指している。こうした経験から、1928年6月モスクワで行われた中共六回大会は総書記に労働者出身の向忠発を当選させた。このように指導部の出身階層を問題にする雰囲気のなかで、陳雲は中央指導部にはいったとされる。そして翌年1931年には六届四中全会で中央委員に選出される。しかしこの1931年に重大な事件がおきる。六届四中全会で中央政治局候補委員に昇格した顾顺章が逮捕された(4月25日)。彼は労働者出身で組織と幹部の安全を保つための共産党内の組織の責任者で、党内の機密を良く知っていた。問題はその顾顺章がたちまち寝返った(叛变)ことであった。一部の幹部は直ちに上海を離れるが、結局6月22日 武漢で総書記の向忠発が逮捕される。この労働者上がりの総書記は、信じられないことだが すぐに寝返り多くの秘密を事細かくしゃべり新たな逮捕者につながるのである。多くの秘密を漏洩した向忠発は逮捕3日後の24日に処刑されたとされている。総書記のポストをねらっていた王明は1931年10月にモスクワに逃げたとされる 上海に残った幹部として陳雲と康生がおり このときから康生は防衛工作の責任者 陳雲は総務を担当し1932年3月には27歳で中共臨時中央常任委員になっている・・・・・叶永烈,他影响了中国, 第2章)
 注4:このあと1932年10月に上海共青団の中央期間が国民党特務機関の捜索を受けた。そして逮捕された共青団書記の袁炳辉がやはり寝返った。コミンテルンの了解を得て中共臨時中央の博古、張聞天、陳雲の3人は江西に向かうことになった(1933年1月)。江西に入った陳雲は。瑞金にゆき、全国総工会の事務を劉少奇とともにとった。また1934年1月に瑞金で行われた中共六届五中全会では中央政治局委員に当選した。34年10月10日中央紅軍は西征を開始した。これはのちに長征にかわった。第五軍団における中央代表として第五軍団とともに江西を出発し長征にむかった。・・・・・・叶永烈,他影响了中国, 第3章)
 注5:さらに上海に再び向かい、そしてモスクワに至るのは遵義会議:1935年1月の内容を共産国際に報告することを毛沢東に頼まれたことによるのだがこれは危険でかつ重要な任務だった。まずソビエト区は敵に包囲され、言葉の違う四川を通る必要があった。そこで途中までは紅軍が護衛につき、その後は案内人となった地下党員の席懋昭とともに成都から重慶経由で上海に向かった。上海についたのは1935年6月末。上海では1936年11月に七君子事件の当事者の一人になる、浙江実業銀行副総経理の章乃器と連絡をとっている。かれは1957年の反右派闘争で右派分子として重点批判対象にされてしまうが、実は共産党との関係は密接で地下組織を支援していた。また孫文夫人の宋慶齢に密会して、ソ連への脱出の手助けを求めたとのこと。こうして陳雲は上海から貨客船でウラジオストックにむかい、あとはシベリア鉄道でモスクワに入ったとされる。上海をたったのは8月5日、モスクワには8月20日についている。そしてモスクワの共産国際執行委員会書記処会議:10月15日で遵義会議についての報告を行っている。もちろん内容は誰かがロシア語に翻訳したわけだが、そうだとしても中共中央と共産国際との連絡関係を回復し、毛沢東の主導権確立を認めさせた意味は大きい。このモスクワにいたとき、陳雲はレーニン学校と呼ばれる幹部学校で学ぶことができた。10月から学習をはじめ3月からは先生役を務めたというのは早すぎるとは思うが、彼が学生生活を楽しんだことは間違いないだろう。1936年12月にモスクワを立って帰国に向かうが西安事件の影響でアラムトにとどまらざるを得なくなる。1937年4月からは中共中央の新疆代表として新疆迪化に赴任している。その後1937年12月 迪化を経由したモスクワ発の飛行機に同乗し、王明、康生とともに延安に降り立ち帰国している。・・・叶永烈,他影响了中国, 第4章)なおソ連にいたときソ連の経済モデルを研究した。p.72 また英語を勉強して大意をつかめるまでになった。p.69
 注6:延安での生活で注目されるのは比較的落ち着いていたこの時期に陳雲は大量の読書を行い著述をおこなったということ、p.88以下 そして奥さんになる于若木と知り合い、1938年3月に結婚した。彼女のお父さんの于丹绂は中国から初めて日本に送られた留学生の一人。早稲田大学に留学して日本語に堪能。帰国後山東第一師範の校長を務めた。家族には学者になったものが多い。彼女はその3女である。・・・叶永烈,他影响了中国, 第5章)
抗日戦争
 (遵義)会議のあとで「遵義政治局拡大会議伝達提綱」を書いている(撰写)。同年6月四川省天全县灵关殿から秘密裏に長征の隊列を抜けて、成都、重慶を経て単身上海に至り、共産党秘密工作の回復に従事した。そのあとまた上海からモスクワに至り、共産国際執行委員会書記処で、中国工農赤軍(紅軍)の長征と遵義会議の状況について報告した。もっとも早期の赤軍の長征の宣伝である「西行隋軍見聞録」を書いた。中共駐共産国際代表団に参加した。1937年4月に新疆迪化(現在の乌鲁木齐)に戻り、中共中央の新疆代表に任命された。5月に新疆と甘粛の境目にある星星峡地区に赴き、赤軍西路軍の生き残り400人余りを接遇して迪化に入るのを支援した。11月に延安に戻ったあとは、中共中央組織部部長に任命され、党の建設と党の幹部工作に重要な貢献があった。延安の整風期間においては、マルクス主義哲学を学び、中国革命の経験教訓を総括し、領導する者は工作の指導において、上を絶対とせず、書を絶対とせず、ただ「実」を絶対とする科学的態度を取らなければならない、それを自身の行動の準則としなければならないとした。1944年3月には西北財経事務所(办事处)の副主任、政治部の主任に任命され、中共中央の陕甘宁边区の財政経済工作を主管した。経済を発展させ、供給を保障する方針を実現させた。1945年6月には七届一中全会で中央政治局委員に継続当選し、8月には中央書記処の候補書記に任ぜられた。
解放戦争
 抗日戦争勝利後、重要な戦略的意義のある東北解放戦争を参加領導した。北満と南満を転戦し、中共中央北満分局書記兼北満軍区政治委員、中共中央東北局副書記兼東北民主連合軍副政治委員、中共中央南満分局書記兼遼東軍区政治委員、東北軍区副政治委員、東北財政経済委員会主任、沈陽特別市軍事官制委員会主任などの職を歴任し、東北全体の全域の解放と東北経済の回復に突出した貢献を行った。1948年8月ハルビンで行われた第六次全国労働大会で「当面の中国職工運動の総任務」と題した報告を行い、10月には中華総工会主席に当選した。
新中国初期
 中華人民共和国成立後、中央人民政府委員、政務院副総理兼財政経済委員会主任に任命され、全国の財政経済工作を担当(主持)した。1950年10月中共中央書記処書記に任命された。全国財政経済の統一、金融物価の安定、国民党政権下の10年以上の長きにわたった悪性通貨膨張の収束、工商業の調整、国民経済の回復、抗米援朝戦争勝利の保障、糧食・綿花など主要農産品の統一購入統一消費(统购统销・・・購入・消費の政府統制)など重要な決定とその活動のなかで、生産資料の私有制に対して順序立てて進められたのは(再有步骤地开展)、私営工商業の社会主義改造であり、国民経済第一次五カ年計画の制定と実施において、中国社会主義工業化の基礎の开创性を固める工作中、彼は実際の状況から出発。一連の慎み深く(慎重で)現実的な方針と政策を提出実施して、多くの人が卓越した貢献をしたと考えることを行った。(他方で)彼は1953年に生じた陰謀・党の分裂活動では断固として、高岗と饶潄石raoshushiに反対した。1954年に国務院副総理に任命された。前後して商業部部長、国家基本建設委員会主任を兼任した。1956年9月、中共八大で「社会主義改造基本改造以後の新たな問題」という発言をおこなった(という意見を提出した。)。当時の中国の社会経済の実際状況にもとづき、ソ連経済モデルを突破する新たな経済体制構想を提出した。すなわち、国家経営と集団経営を工商業の主体とし、一定数量の個人経営を補充とする。生産領域では、計画生産が工農業生産の主体とし市場の変化に応じて進行する自由生産を補充とする。流通領域では、国家が市場を掌握することを主体とし自由市場を補充とする。中共の八届一中全会において、中央政治局常務委員と中央委員会副主席に当選した。
 1957年1月に中共中央経済工作5人小組組長を担当した。中国の社会主義建設に対して、彼は一貫して実事求是の原則を堅持。現実条件を顧慮せず急いでことをなそうとする誤った傾向に反対した。建設規模を国力に見合った一定のものとすること、人民生活の基礎を整えたうえで建設規模を拡大するすることを主張した。国民経済計画は、総合平衡(全体としてのバランス)を保たねばならないと主張し、均衡のとれた発展を実行するとした。50年代末から60年代初めの、国民経済が極めて困難に遭遇したとき、彼は過大な鋼鉄生産指標がもたらした経済全体の調整について毛沢東から委託を受けて、劉少奇、周恩来、鄧小平とともに、都市の2000万人を農村に送る(下乡)果断な措置により、また一部の商品価格の引き上げや、貨幣の回収(回笼)などの一連の正しい措置により、国民経済を回復させた。農業の発展中に遭遇した困難の解決のため、彼は上海青浦などを調査して、農村での請負制(包产到户)政策をまとめ、中国農業改革の先駆思想となった(先駆けとなった)。彼のこの主張やそのほかの実際的経済の主張は、「右傾」ととられることになり、毛沢東の冷遇を受けることになった。
 注7:1952年に革命戦争年代に養った喫煙の習慣を絶った。1959年心臓病:冠心病を患った。回復はしたが完治はしなかった。・・・诸天寅, p.202)
 注8:1959年7月2日から8月16日陳雲は心臓病のため休んでいた。1959年6月から1960年9月まで。南方で休養していたとも、各地の実情を調査していたともされる。他方 鄧小平は転倒による骨折で同様にこの会議に出なかった・・・叶 p.201-202
 注9:1957年に反右派闘争で批判を受けた包産到戸 安徽省での農業建て直し策として1960年に復活してくる しかし1962年の7000人大会で安徽省の曹希経は批判を受け第一書記の職務を免ぜられるしかし 実際には各地で包産到戸が試みられ 農村工作部長の邓子恢は指示を表明していた。毛沢東の指示でこの問題を調査していたら田家英は調査の上 農業生産に効果があることを毛沢東に報告している。このとき鄧小平も明確に賛成。毛沢東に面談した陳雲も賛成を明らかにする。しかし毛沢東は、包産到戸を社会主義にするものだとして認めず、1962年9月の邓子恢の職務停止にむかう。・・・・・叶 220-223,228;诸,134-137
文革期間
 文化大革命の間、彼は党内の中央委員の名義(肩書)を保ったまま、江西省南昌市のある化工石油機械工場の実情調査(蹲点)に下放された。1972年4月に北京に戻り、周恩来の意見により国務院の業務工作に参加し、国際経済の形勢と対外貿易発展問題とを研究した。彼は現代資本主義をよく研究して成果を提出し、世界市場で中国が占めるべき地位があるとした。1975年には第五届全国人代常任委員会副委員長に選出された。1976年に「4人組」を粉砕する決定に参加するなかで、叶剑英に対して「この闘争は避けることはできない」と述べた。
 注10:3年近い間、工場で労働したり農村に参観するほか、そのほかすべての時間を彼は読書にあてた。再び資本論をよみ、レーニンが10月革命後に書いた新経済政策と党内民主生活方面の著作をあわせて、我が国の経済体制と党の民主集中制問題を深く考えた。・・・诸天寅, p.213)
 注11:1969年10月林彪は命令を出し老革命家劉少奇、陳雲、鄧小平、李先念、叶剣英、王震たちの離京を命じた。陳雲に対する扱いは中央委員の名義を失わななかった点で違っているほか、周総理自身が暖気の手配、接触する人の数を減らすなどの配慮をしたことも知られている。実情調査とは朝八時からの労働とその後の政治学習に参加すること。1970年にはしかし状況は変化、8月23日の廬山で行われた九届二中全会に中央は参加を求めた。ただ陳は心臓病のため全体会議などに参加できたにとどまった。さらに1971年9月13日に林彪の事件がおき、周恩来は一部老幹部の起用をはじめる。中央の批准を得て4月22日北京に戻るための陳雲の出立が決まる。4月24日に陳雲はほぼ3年ぶりに北京に戻った。なおこの2年あまりの間に、魯迅、毛沢東、マルクスエンゲルス、資本論、レーニン、スターリンなどを読んだ。資本論については延安で一度、そしてこの江西で今一度読んだとしている。そして周恩来は国務院で外貿工作で陳雲の助力をえることにする。・・・诸天寅, p.138-143)
改革開放後
 4人組を粉砕したあとの、1977年3月の中央工作会議で、彼は鄧小平を党中央の領導工作に再び参加させるべきだと発言した。1978年の中央工作会議で彼は率先して冤罪虚偽案件(冤假错案yuan1jia3cuo3an)の名誉回復に言及した。彼は続いて開かれた十一届三中全会で、中央委員会副主席と中央政治局常任委員に当選し、中央規律検査委員会第一書記を兼ねることになった。中共十一届三中全会のあとは、彼は鄧小平を核心とする第二代中央領導グループ(集体)の重要な構成員となり、党と国家の主要決定を行う人(主要决策jue2ce4ren)の一人となり、中央領導グループのその他の同志とともに、思想路線、政治路線そして組織路線の拔乱反正(乱れを正すこと)の推進(进行)で全党を牽引(带领dai4ling3)、経済建設では中心として、4つの基本原則の堅持、改革開放の基本路線の堅持して制定執行にあたり、中華人民共和国建国以来の多数の歴史遺留問題と、現実生活上に現れた新たな問題を正しく解決し、中国独特の(特色的)社会主義事業を成功裏に創建するうえで重大な貢献を行った。彼は鄧小平が提出した実事求是で毛沢東の歴史地位を確立することを全面支持(全力支持)し、毛沢東思想の主張を堅持発展させた。中国の改革開放と社会主義の現代化建設に対して、彼は一連の根本的な意義のある(具有深刻意义的)思想と重大な政策を提案した。たとえば国民経済の均衡が深く損なわれて全面調整を行うにあたって、社会主義の時期には二つの種類の経済、すなわち計画経済と市場調節が必ず必要だとした。また改革の歩みはゆっくり(稳)であるべきで、石を探して河を渡るよう(摸着石头过河)でなければならないとした。試したら常にその経験を総括する。農業なくして安らかではない、食料がないと国が乱れると強調した。経済状況の不安定さ(不稳定)は政治状況の不安定さを引き起こすことを指摘した。政権党の党風(仕事をするうえでの態度)問題は、党の生死を分ける(重要)問題であり、徳才を兼ね備えた中青年の幹部を大量に選抜育成することは急務とした、などなど。彼はまた「一国二制度」構想により、香港とマカオに主権の回復をすること、また海峡両岸の和平統一を実現することに、大量の心血を注いだ。
 注12:1979年に直腸癌を患い切除手術を受けた。手術は成功した。・・・诸天寅, p.202)
 中共十三大以後、彼は中央領導工作を退き、中央顧問委員会主任となった。鄧小平を中核とする第二代中央領導グループから江沢民を中核とする第三代中央領導グループへの順調な移行において、党と国家が確固とした(稳定的)重大決定を進めることを保証するうえで、彼は十分重要な作用を発揮した。中共十四大以降、彼は仕事を離れた(过着离休生活)。1995年4月10日病により北京で亡くなった。主要著作は≪陈云文选≫3巻に収められている。

为共产主义事业奋头到底的一生-我所了解的晚年陈云・・・・・朱佳木 论陈云  中央文献出版社  2010年
陈云同志の境遇(身世)は大変苦しいもので、幼年時に父母を相次いでなくし、母方の叔父(舅舅)と叔母により育てられた。高級小学校(高小)を卒業後、14歳にして、家庭の負担を増やさないために、続けて学ぶ思いを断念して、上海の商務印書館文具売り場(文具仪器柜台)の見習い店員(学徒的工作)となった。1925年見習い期間が終わり(20歳)、虹口書店の店員になった。月給5元であった。まさにその年、上海で内外を震撼させた五卅惨案(ウーサ ツアンアン)が生じた。
(舅舅は陈云を養子として迎え、廖陈云と改名した。陈云は最初、私塾で教育を受けそのあと1914年から小学校で学んだ。しかし1916年夏 叔母が出産後、病にかかってから一家は困窮に陥り、陈云も叔父の小酒店の下手伝いを迫られるようになる。しかし店の客でもあった小学校長の配慮で、陈云は学費免除で高級小学の過程を終える。その後、商業学校に進学したが経済的理由で1ケ月余りで退学せざるを得なかった。商務印書館には小学校のときの先生の弟が働いていて、その紹介で1919年6月に働き始めた。最初は排字:植字部門で学徒工となったとあるが、その意味は時間があれば夜学に通えたということのようだ。陈云与马寅初 p.22-23)
(五卅惨案 1925年5月30日 上海で2000人ほどの学生が、5月14日に日本資本の紡績工場でストライキが鎮圧され、死傷者が出たことに抗議しようと集まった。これに対して英国の保留地警備官:巡捕が100人余りを逮捕した。午後になり万を超える群衆が、逮捕されたものの釈放を求めて集まったのに対して、英国の巡捕は射撃や殴打で鎮圧、多数の死傷者、逮捕者がでた。背景には共産党の指導のもとに、労働争議が多発していたことがある。....百度百科による)
(吴佩孚ウーペイフ 1916年に袁世凱が死ぬと中国の政局は不安定化する。孫文が南方で自立化を目指すのを北の北洋軍閥の中には武力でこれを抑えようとするものもあった。こうした中で1919年五四運動が発生する。吴佩孚は北洋財閥の直隷派に属する司令官であるが、武力統一に反対し、五四運動を支持する立場を明確にした。そのあと1925年までは日本と結んだ奉天派と争う形であった。....日本語のwikipedeaによる)
陈云はのちに自伝で次のように述べている。「それまで私は吴佩孚に賛成であった。このあとは、外に対して強権に抵抗し、内に対して国賊を除くという国家主義派を信頼した。(しかしその後)三民主義を読んで孙中山(スン・チョンシャン 孫文のこと)の道理は蛮多(すごい)と思った。」(陈云年谱 上卷  20)そこで彼は国民党に入り、商務印書館発行所分会の発起人(首创人)の一人になった。8月中旬、商務印書館の労働運動の積極分子は中国共産党の指示のもと、ストライキの列に加わった。スト中に彼は推薦を受けて、発行所職工会委員長、発行所職工会、印刷所工会、総務所同人会の連合ストライキ執行委員会委員長となり、併せて商務印書館の中で早期に入党していた董亦湘(トン・イーシアン)、恽雨棠(ユン・ユータン)の紹介で中国共産党に加わった。のちに彼は自身の入党の動機について次のように書いている。「入党の動機は明らかにストライキ活動(运动)そして階級闘争の影響だった。このとき「マルクス主義簡解(浅说)」「資本制度簡解」さらに「共産主義ABC」まで読んでいたが、なお理解していなかった。これらの本を見るとその説明(道理)は三民主義より納得できるものだった(更好)。スト活動して2冊の本を読了後、すぐに党に加入した。ただ私は入党時の経緯考慮を自覚し、入党してから、自分はかつての自分ではないことを自覚し、これからは自分は一家を構え事業を行うのではなく(今后不是做成家立业的一套)、革命を行うのだと考えた。この人生観の改革は、以後私にとって大きな助けになった。」彼はつぎのようにも言っている。「あのとき社会の改造が必要で、ただそうすることでのみ人類を解放できると理解した。この思想は私にとても大きな影響を与えた」(陈云年谱 上卷  25)そのとき陈云は20歳だった。
早くも党の七次大会で毛沢東同志は次のように述べたことがある。「各共産党員が入党するとき、現在の新民主主義革命に奮闘する、そして将来の社会主義と共産主義のため奮闘する、という二つの明確な目標を心に抱いており、共産主義の敵による卑劣な敵視、侮蔑、あざけりと嘲笑を気にかけることはない」(毛沢東選集 3巻 1059)。陈云同志も延安時代につぎのように言ったことがある。「一人の自ら共産主義事業に献身する共産党員は、党のために各時期の具体的任務に奮闘するだけでなく、共産主義の実現に向けて革命的人生観を確定(確立)するべきである」(陈云文選 1巻 137)。歴史が証明するところでは、陈云同志は不断に党の各時期の具体的任務に奮闘しただけでなく、同時に心の中で共産主義の遠大な目標を気にかけていた共産党人である。もちろん白色テロの恐怖下で秘密活動を行うときも、根拠地において苦しい生活を過ごすときも、単独で特殊な使命を執行するときも、あるいは重要な指導職務にあるときも、順調なときも逆境にあるときも、彼は一途に着実に共産主義事業のため奮闘を続けた。彼は一方では、共産主義に急いで向かうという論法で、実際からかけ離れることに反対したが、他方ではただ目の前の利益にこだわって、動揺のあまり共産主義の理想的言辞(言行)を放棄することにも反対した。
私(朱佳木)が陈云同志のもとで仕事をするようになったあとで、あるとき彼はほかの同志が提出した「共産主義ははるか先でいつになるかわからない(遥遥无期)」という観点について、「この観点は正しくない。共産主義ははるか先だが期限はある=遥遥有期,社会主義は共産主義の第一段階である、というべきだ。」彼はまた当時海外の人が要求していた我々の党の改名問題について、私に言った。共産党という字は、その奮闘目標を示していると。改名はできる。延安時代に、共産党の改名を提案する人があり、毛主席は「どんな字が良いだろう?国民党がもっともよい。残念ながらほかの人がすでに使っている」といった。開国解放後、一部の人は出国して数日。帰国して中国は外国と異なる、社会主義は資本主義とは異なる、と主張する。この種の現象を陈云同志は十分重視した。1983年党の十二次第二回中央委員会全体会議の発言を準備するときに、彼の発言原稿の中に「資本主義は社会主義に置き換えられるべきもの」と書き加えることと、最後に「社会主義万歳、共産主義万歳」(陈云文選 3巻 332-333)と叫ぶこととを、特に私に言づけた。
なお一つのことが陈云同志が共産主義の大きな目標を常に忘れなかった心境をよく説明できる。1983年の党の十二次第三回中央委員会全体会議の前、中央日常工作を担当する同志が、小平同志が講話するので、そのときに陈云にも話してもらえるだろうか、といったときだ。陈云同志はまず私に発言稿の起草を求め、併せて政権党(執政党)の党風問題を強調せねばならないとした。当時、彼は簡易報告から、農村党員の一部の集団訓練において、糧食補助のほか、休工賃を出し, それでもなお一部に党員はカネをもらわなければ出席しない。という有様を読み取った。彼は言った。「これは党が政権を取る前は想像できないことだ。解放前、同様に農村において、戦争を支援し、弾薬を輸送し、負傷者を救護し、休工を補償することはなかったし、かつかかわったために傷を負い死ぬことも常にあった。これを比較すると、現在この種の休工を補償するのは理屈に合うだろうか?仕事を休むことを補償された共産党員はちょっと考えるべきだ。このようにすることは共産党員の基準(标准)に合っているか?共産党員の基準は共産主義の為、自己の命の犠牲も惜しまず生涯奮闘することではないか。私は集団訓練を見るに、参加するにはお金が必要だという人は、共産党員になることはできない(陈云文選 3巻 332)。
 このほかもう一つのことが、私が陈云同志から離れた後、起きた。あのとき、関連する改革解放の一連の相応の法規制度は一度には仕上がらず、加えて党内にはただ物質文明の建設に注意し精神文明や思想政治工作を軽視する現象が生じた。指導幹部の中には「ただ金を見る(一切向钱看)」理論を鼓吹し、一部の人たちは改革解放の機会にあらゆる空買い空売り、その反対売買、賄賂を行い賄賂を受け取り、税関を潜り抜けて売買し、人を巧みに騙し(弄虚作假),騙し脅して財物を集め(敲诈勒索),関税は逃れて、ニセ薬やニセ酒の製造販売、はなはだしきは卑猥な映像の放映販売に至り、婦女売春などあらゆる悪事が出現した。この種の状況に対して、陈云同志は中央規律委員会の第六次全体会議で文書講話を発表し、つぎのように指摘した。「対外開放、そして国外先進技術と経営管理経験を導入し(引进)、我が国の社会主義建設に役立てることは、完全に正しく堅持するべきである。しかし同時に、対外解放により、資本主義の腐った思想と作風の侵入を避けようがないことを見るべきである。これは我が国の社会主義事業にとり、直接の脅威(危害)である。(しかし)もしわれわれの各段階の党委員会、我々の党員とくに老幹部が、このことをはっきりと認識して、高度に警戒(警)に努めるなら、共産主義思想を核心とする教育を対抗して(有针对性地)進めるなら、資本主義思想の侵入は全く怖くない。われわれはマルクス主義、共産主義の真理を信じており、資本主義の腐った思想と作風の浸食に必ず勝利できる。」彼は呼びかける、「全党の社会的力量を動員組織して、徹底して悪を除く精神で、堅い決心の戦いを進めねばならない」「もちろん誰であれ党の規律、政治の規律に反したものは、必ず党の規律、政治の規律の処理に委ねられねばならない。法律に違反したものは、法の処理に委ねられねばならない。各段階の規律委員会はこの原則で進めるべきで、さもなければ失職である。」(陈云文選 3巻 355-356)
共産主義の信念としては、マルクス主義に由来する人類社会の発展法則(規律)の科学が示されている。そこで陈云同志は党員とくに党員幹部にいくつかのマルクス、レーニンの著作を読むことを一貫して重視、提唱した。1983年後半、中央は3年の整党(規律強化)の実施を決定し、ある関連部門が整党のための学習文献目録を試作した。彼は見てからいった。「この目録には、マルクス、レーニンの物が全くないが、「共産党宣言」「社会主義 空想から科学の発展へ」「マルクスの墓前での講話」「帝国主義は資本主義の最高段階である」などなど、さらに毛主席の「中国革命の戦略問題」「持久戦論」から何編かを選ぶべきだろう」。ある同志が、マルクス、レーニンの本は長すぎるといったところ、彼は言った。「要約で済ませてもいい、私の文章を何編か減らして一二編残せばいいことだ(当時書名目録に上には5編の陳雲同志の文章があった・・・筆者注)。これは謙虚ではない、われわれのものは皆すべてマルクス=レーニンに由来するのだ」。その後、中央は、整党完成後、組織党員幹部が学習するマルクス主義の若干の基本著作を選出決定した。
共産主義の理想信念が堅固であるかどうかは、帝国主義の本質の認識関係と同時だ。1980年代、一部の人たちは、新たな科学技術革命が、資本主義が自身を絶えず更新するメカニズムを保有するように、資本主義の本質を変化させ、レーニンの帝国主義論を過去のものにしたと考えた。この観点に陳雲は高度に関心をもった。1989年の政治風波のあと、彼は一人の中央との会話において鋭く指摘した、レーニンが論じた帝国主義の5つの特徴、他国を侵略し、互いに覇権を争う本質は、過去のものではない、これを過去のものとする観点は完全な誤りであり、極めて有害だ。 
动画   陈云的故事・・・・・
1978年の日暮れ時、73歳の陈云とその夫人の于若木(ウー・ルオムー)がちょうど杭州西子湖畔を散歩していたとき、小さな商店の前で一振りの美しい壇木算盤が陈云の目を捕らえた。
于若木(ウー・ルオムー)「杭州の三潭に至る月が湖面に映るところで、小さな店見つけました。店先の勘定場に一つの算盤があり、彼はそれを取って打ち始めたのです。みんなに実演してみせたのです。とても熟練していました。」
陈云の算盤の一幕は、その場にいた撮影記者によってスナップに納められた。
1981年1月中国仏教協会会長の赵朴初はこの写真を見て、深い感慨に打たれ次の詩を読んだ。「ただ事実を求め 珠を上げ下げ加減乗除反復比較したうえで軍略をめぐらし 最後の決戦に挑む 熟練のはかりごととと深い思慮は国がたよるところ」
この詩は「共産主義のために算盤をとった(红色拿柜)」陈云の真実を写し取っている。
1917年の夏のある日 12歳の陈云は地元の青浦县の乙种商業学校で勉強するように送り込まれた。家人は彼が将来商店の中で帳簿を付けをすることを願ったが、残念ながらわずか1ケ月のちに陈云は家庭の貧困のため退学せざるを得なかった。この短い学習で勉学熱心な陈云は一生使い続ける二つの技能、珠算と記帳という技能を獲得した。これは彼が少年の時受けた唯一の正規の商業教育だった。
  1944年3月中国共産党が指導する陜甘宁边xiaganningbian区で、早くから職業革命家の道を歩んできた陈云は、毛沢東の提案で中央政治局会議決定で、中共中央西北局委員と合わせて、西北財経事務所副主任、とするとの新たな任命を受け取り、陜甘宁と晋缓边区の財経工作を担当することになった。
阵云と社会主義の新時期経済 『党的文献』1995年2期 1995年3月 pp.54-64
阵云は我が党我が経済工作の傑出した指導者である。彼は党の社会主義建設の歴史進程において、卓越した組織才能と、非凡な思想知恵を表し、全党の賞賛を受けた。社会主義建設の新時期に入ると、阵云はその豊富な経済工作を指導した経験をもって、文革中遭遇した国民経済の厳重な破壊の回復に努めた。中国の特色のある社会主義建設道路を探索し、改革開放事業の発展を推進し、重要な貢献を行った。
1.国民経済調整の首唱者かつ領導者
10年動乱による経済の破壊は厳重を究めた。1976年に文革が終わった時、中国経済はすでに危难にあった。国民経済のバランスはひどくこわされ、システムは僵化(バランスを失い)、企業管理は混乱し、経済効率はひどいありさまだった。 (作成途中での公開・いずれも研究のための試訳である)
维基
陈云(チェン・ユン) 1905年6月13日―1995年4月10日 廖陈云(リアオ・チェンユン)と名乗ったことがある。江蘇省青浦县(チンプーシエン 現在の上海市青浦县)人。政治家にして経済管理家。陈云は中国共産党と中華人民共和国の第一世代そして第二世代の中央指導集団の重要な構成員であり、改革開放以後継続して党の重要職務を担った。
陈云は早くから上海の労働者運動を指導し、その後、中国工農紅軍に参加した。長征にも加わった。中共中央新疆代表、中共中央組織部部長、中共中央政治局委員等の職を務め、その後、東北に行き、東北局副書記に任じられ、東北財政経済委員会主任、中華全国総工会主席、中央人民政府委員を務め、「銀元の戦い」(人民元の価値を守る戦い)を指導した。
中華人民共和国成立後、陈云は中央人民政府政務院副総理兼政務院財政経済委員会主任を任じられた。全国経済回復工作を担当し中国の第一五カ年計画を制定。1956年中国共産党第八次大会で中共中央政治局常任委員に選出。中共中央副主席。その地位は毛劉周朱の四人に次ぐものであった。文化大革命中迫害を受ける。その後原職を回復。中共中央規律検査委員会第一書記となる。1987年鄧小平に代わり中共中央顧問委員会主任に選出、当時政権にあった八大長老の一人。

中略
中華人民共和国成立初期
1949年10月1日、陳雲は中華人民共和国開国大典に出席した。10月19日、中央人民政府委員会第三次会議で政務院副総理兼財政経済委員会主任、重工業部部長に任命された。11月政務院財政委員会を主催して(主持)、市場物価の安定、朝鮮戦争への支援、重大都市への供給などを討議した(研究)。1950年2月、全国財政会議を主催して、財政経済困難を克服する政策と措置を討議した。翌月政務院は「統一財政経済工作に関する決定について」を可決した。四月五月に至る間に、中国大陸財政経済工作は統一され、財政収支はバランスに近くなり、金融物価は安定に向かった。5月8日から26日の間、陳雲は(作業中)
改革開放時期
文化大革命後、華国鋒と鄧小平の矛盾が現れ始めた。陈云は1977年3月の中央工作会議で鄧小平の立場を支持(拥护)し、華国鋒の两个凡是 理論に反対した。1978年11月11日陈云は中央工作会議で発言し、四人組が起こした問題を中央が考慮決定することを求め、具体的に、六十一人叛徒集団事件、彭徳懐事件への対応と、四五天安門事件の名誉回復(平反)を求め、併せて文化大革命中の康生の犯罪についての調査を求めた。陈云の発言は大きな影響を与え、多くの出席者が意見を提出、会議は大きく進展した。
1978年12月彼は中共十一次第三次中全会に出席し、再び中共中央政治局常務委員、中共中央副主席に選ばれた。合わせて中央規委第一書記に選ばれ、中央規律検査委員会、公安、検察、民政など中央政法部門を所管した。彼は中規委の基本任務は、党規党法を守り(维护)、党風を正す(整頓)ことだと指摘している。このあと彼は積極的に文化大革命期の冤罪でっち上げ(冤假错案)の審理に取り組み、迫害された人の追悼、名誉回復に従事した。1979年2月の中越国境衝突(事件)について小平は、陈云の分析の助けを求め、陈云の支持のもと、中越戦争を開始した。戦争が1ケ月で収束したところで、同月、中規委と中央組織部は劉少奇の件について再審査を進め、名誉回復の決定をした。
このほか彼は中国の経済の進路に関心を集中した。1979年3月に計画経済と市場調節の関係について撰文(著述)を提出しはじめた。資源の分配比例は国民経済の発展速度に影響することを強調した。1979年3月14日、彼は国務院財政経済委員会主任を担当した。合わせて5月に宝山鋼鉄の調査建設にあたり、また国有企業の改革発展に注意を集中(聚焦)しはじめた。7月1日、陈云,薄一波,桃依林は国務院副総理に任命され、全国人大常務委員会副委員長は再任されなかった。同年10月、検査で結腸癌がわかり、10月24日結腸癌切除手術を受けた。同年末、林彪,江青反革命集団案10名の主犯の量刑をめぐる討論で、「党内闘争を死刑(杀戒)で終えてはならない」と断固として主張し、江青、张春桥らの死刑に反対した。
1980年6月後,体の状況が次第に回復すると、仕事に復帰し、中共中央政治局を用いて集団指導体制の形成を積極的に促し、計画生育政策を実行し、若年幹部層(梯队)の組織育成に取り組んだ。8月30日に国務院副総理を外れた。1981年、彼は中共中央規律検査委員会を主催し(中略 未完成)
 思想
一人っ子(一胎化)
陈云は一人っ子政策を固く支持した。彼は1979年6月1日の談話の中で法令をつくるなら「明確に一人と定めるべきだと」。「(李)先念同志が私に言った。もっともよいのは一人(でも)多いのは二人。私は再び強く、ただ一人と規定するべきだといいいたい。後世を絶ったと人に非難される心の準備は整った。そうでなければ将来はない。」
以下略未完

現代中国研究  2016-08-12(2018-06-10更新)


馬寅初 (马寅初 Ma Yinchu 1882-1982) 維基

2018-06-06 12:53:15 | Area Studies

中国の経済学者 馬寅初(マー・インチュ 1882-1982)について 成城大学社会イノベーション研究 12(1) Feb.2017 273-298 
(誤植訂正 p.285 14行目 財政経済委員会主任は薄一波であった → 財政経済委員会主任も陳雲であった)

维基) Wikipedea(汉语版)より
马寅初(マー・インチュ) 1882年6月24日-1982年5月10日 名元善、字寅初(受けた名は元善ユアンシャンであるが、寅初と名乗った)。浙江省赵兴府嵊州县(チャオシンフ シェンチョウシエン)の人。中華民国と中華人民共和国の経済学者、教育家、人口学者。马寅初の出身は士族大商人で、曾祖父の父親(高祖)と曾祖父(曾祖)は紹興酒業の大物(巨头)で富商。ともに太学生(明朝時代の最高学府)を経ており、曾祖父の官位は从九品であった。祖父の兄弟は20人、父の兄弟は15人を数え、その多くは醸造業(酿酒)から科挙に転じた。

米国留学と北京大学での教職

17歳(1898年)のとき、马寅初は嵊州县(シェンチョウシエン)の学校を卒業して、上海の教会学校である中西書院で学んだ。1904年に卒業後、天津に行き北洋大学堂(今日の天津大学の前身)で冶金学を特待生として学んだ。北洋大学堂在学中の1907年に北洋大学から米国留学に派遣された。当時の中国国内の冶金技術水準がはなはだ低く、冶金学を学んでも将来役に立つことは少ないことから、エール大学で経済学を専攻した。1910年に学士号を取得後、コロンビア大学大学院に入学した。1914年に経済学と哲学の2つの博士号を取得した。卒業論文〔学位論文?〕「ニューヨーク市の財政」は学術的に評価が高く、コロンビア大学の本科1年次の学生教材に採用された。

(そもそも冶金学を学んだのは、工業が国を救うという思いがあり、石炭を採掘、鋼鉄をつくることで国家の富強を図れると考えたとされる。なお1911年辛亥革命が起きたのはコロンビア大学に移った直後で、官費留学生であったほかの留学生の中には帰国あるいは転身したものもあったが、马寅初は学業を途中であきらめることを潔しとしなかった。アルバイトをして生活を維持して、研究に励んだ。また研究テーマとして、指導教授の知識が乏しい中国問題ではなくニューヨーク市の財政という留学生に不利なテーマを選択したところにも、彼の志の高さが表れている。寅初的故事 pp.13-16)

(马寅初は国費留学であったがもともとエール大学の費用を賄うだけのものだったので、コロンビアでの学費は当初の予定を超過するものだった。天津税関総領事の梁敦彦がその税収から支出することになっていた。马寅初は天津税関に再申請をしたものの、その給付は細く減り気味だった。梁敦彦が天津税関を離れると、马寅初は学費を絶たれ、アルバイトに追われることになった。同前 pp.14-15)

帰国後の1915年9月、北京大学校長蔡元培(ツアイ・ユアンペイ)の招請に応じて、马寅初は北京大学経済学教授に就任した。1917年には、北京大学経済研究所主任となった。当時、马寅初は、ロシアの10月革命支持を公開し、(1920年に陳独秀と中国共産党を創設する)李大釗(リ・ダーチャオ 1917年北京大学教授に就任)と友人になった。1918年10月、大学評議員になった。1919年北京大学教務長に選出された。1919年の五四運動では、马寅初は学生を同情かつ支持し、当局が学生を逮捕すると、交渉して学生を釈放させた。1920年、马寅初は上海方面に活動に転じて、東南大学商学院(今日の上海財経大学)を設立した。1921年北京に戻り、北京大学経済学会会長に選出された。1923年に、马寅初を社長とする中国経済学社が創立され、雑誌「経済学専刊」の刊行を始めた。

(马寅初が二人の奥さんと仲良く暮らしたのは有名なお話しである。一人目の奥さんとは1900年の冬に帰郷したときに結婚。1年後に男の子が生まれるが夭折してしまう。その後1904年そして1908年と女の子が生まれた。しかし1907年から10年近く、彼はアメリカに単身留学してしまう。そして留学から戻った36歳のところで、男の子が必要というので父母の勧めで22歳年下の二人目の奥さんをもらう。その結果、彼は二人の息子、五人の女の子に恵まれている。寅初的故事 pp.31-32)

(1919年に教務長であった马寅初は、学生の愛国運動を硬く支持した。(そして)当局が学生の愛国運動を鎮圧したことにこの上なく憤慨した。彼はほかの教授とともに教育部に請願にゆき、もし学生が解放されず、蔡元培校長が学校に帰らなければ、马寅初が引き連れる北京大教員は「総辞職する」と迫った。寅初的故事 p.37邓加荣 p.26)

国民政府時代の活動

1927年3月、北京政府の張作霖(チャン・ツオリン)は北京大学を封鎖。蔡元培は国民政府に身を投じて(投奔)杭州に至り、浙江臨時政治会議委員兼代理主席に任ぜられた。蔡元培は北京大学教授の马寅初、蒋梦麟(チアン・メンリン 蒋介石の命を受けて1930-45の間、北京大学校長を務めた)などを浙江省建設に招聘した。马寅初は麻薬禁止(禁煙)委員会委員となりアヘン取締活動に従事し合わせて農民銀行の創設を準備した。間もなく張静江(チャン・チンチアン 江南の大富豪で孙中山そして蒋介石を経済的に支援した 反共という点で蒋介石と近い)が浙江省政府委員に任ぜられると、蔡元培、马寅初など北京大学教授は浙江省政府から締め出された。马寅初は、杭州財務学校で教えたほか、上海浙江興業銀行の検査役(总稽核)を務めた。

(参考 1927年3月24日 北伐軍が南京に入城したとき、各国の公使館などが暴徒に襲われる事件が発生した。日本の公使館でも多数の婦女子が凌辱を受けるなどの被害を受けた。この南京事件に対して日本をはじめとする列強7ケ国は激しく抗議した。事件に関してはソ連の関与が疑われていた。これを受けて4月6日 北京で張作霖がソ連大使館の捜索を実施し、ソ連の指示を裏付ける文書が発見されたとして公表した。他方、ソ連は大使館捜索を不当として中国との国交を4月9日断絶する。4月12日 上海で蒋介石は反共クーデターを起こして(4.12事件)、共産主義者弾圧に乗り出す。4月28日 張作霖は捕らえていた李大をソ連に内通していたとして絞首刑に処している・・・日本語のwikipedeaの南京事件などの記載による)

1928年10月 马寅初は立法院立法委員となり、翌1929年に立法院経済委員会委員長と財政委員会委員長にそれぞれ選出される(当選)。また南京国立中央大学、金陵大学、上海国立交通大学の経済学教授を兼任する。1931年九一八事変(張作霖が爆殺された満洲事変のこと 爆殺は関東軍による陰謀説が有力)勃発後、马寅初は「長期抵抗の準備」と題した一文を発表して、蒋介石(チアン・チエスー)の不抵抗政策、安内攘外(アンネイランワイ)(蒋中正つまり蒋介石が、九一八事変前の7月23日に示した方針で、国家の統一をまず行ったあと、国家主権を犯す外国を排斥するとした)政策を批判した。1934年の物価の大混乱と対外金融政策の不当について、马寅初は立法院会議で財務部長、孔祥熙(コン・シアンシー)を激しく非難した。

国民政府批判

1939年に抗日戦争が勃発したあと、马寅初は重慶大学の教授と商学院院長を任ぜられた。彼は抗日のため様々な評論を発表した。同時に彼は四大家族(蒋中正、宋嘉澍、孔祥熙、陈其美のそれぞれの家族のこと)を筆頭とする腐敗高官に対する憤怒を抑えることができず、高官に対する〔臨時財産税〕徴収を提案するとともに、高官の腐敗を公開し批判した。このため中国国民党への猛烈な批判(谴责)が生じたので、当局は1941年12月马寅初を逮捕し、貴州息峰集中営そして江西上饶集中営に拘禁した。しかしこのことが明らかになると、中国国民党は世論にさらに激しく攻撃されたので、1942年8月当局は马寅初を釈放せざるを得なくなった。このあと马寅初は当局の監視下に重慶の歌乐山に軟禁された。言論活動を制限を受けたが、その間に「経済学概論」「通貨新論」などの専門書を刊行した。1944年12月国民参政会の宣言が発表され、马寅初は再び言論の自由を獲得した。このあと、反蒋介石、反国民党の傾向は日増しに強烈になった。1946年7月、中華職業教育社の黄炎培(ホアン・ヤンペイ)の招きに応じて中華工商専科学校の経済学教授に就任した。1948年末、马寅初は中国国民党の弾圧を逃れて、中国共産党の庇護のもと華北解放区に移った。 

(马寅初は、1940年12月6日早朝 重慶大学の宿舎から国民党官憲により連れ出される。2日後の8日午後 事務手続きのため马寅初は官憲とともに大学に戻ってくる。このとき重慶大学の学生と別れの記念にとった記念写真が残っている。実際には集中営とよばれる牢に放り込んだのだが、12月13日、国民党は戦争地区の経済状況視察に马寅初が派遣されたと「嘘」を発表する。その後、再三の禁止令の中、1941年3月22日 马寅初の生誕60年を祝う会が学生主催で重慶大学で実施されている。また同様に重慶大学の学生たちの手で「寅初亭」と呼ばれる庵が、建築された。いずれも马寅初が学生に慕われていたことと、彼が抵抗のシンボルになっていたことをよく示している。寅初的故事pp.99-108)

新人口論

1949年8月马寅初は浙江大学校長に任命された。9月に中国人民政治協商会議第一次全体会議に出席。中国人民政府委員、財政経済委員会副主任、華東軍政委員会副主席に任命された。1951年5月に北京大学校長を任命された。その後、第一期第二期の全国人民代表大会委員、第一期から第五期までの中国人民協商会議全国委員(うち二、四、五期では常務委員)を歴任した。中華人民共和国初期、马寅初は、物価安定、通貨膨張方面で貢献があった。

1935年12月にスターリンはソ連で毎年約300万の人口純増があることを「これは良い現象で我々はこれを歓迎する」と述べた。1953年ソ連国家政治書籍出版局は、ホホフの『現代マルサス学説は帝国主義であり、人類敵視の思想である』という書物を出版した。中華人民共和国初期、毛沢東は人口計画(计划生育)に反対を表明した。1952年に人民日報は「人口制限(限制生育)は中国を滅亡させる」という社説を発表した。(他方で)1952年12月政務院文教委員会は、衛生部の「人口抑制(限制节育)と人口流産の暫定的取り決め(暫行办法)」を批准した。1953年11月衛生部は「経口避妊薬と避妊用具の通関禁止」を通知した。1953年11月1日国家統計局は第一次人口調査結果公報を発表した。全国人口総数は6億を超え、人口成長率は1000分の20(2%)だとした。1954年12月27日劉少奇は中央第一次人口と計画生育座談会を主催し、講話のなかで「現在、党が人口抑制(节育)に賛成であることは認める(肯定)必要がある」とした。1955年3月1日中共中央は衛生部党組織の報告に対し「人口統制(控制人口)問題についての意見」を発出し、「節度ある扶養(节养生育)は広範な人民生活の重大な政策問題であり、我が党は人口抑制(节育)に賛成である」と述べた。1956年に毛沢東は自ら「全国農業発展綱要」を定め計画にしたがった扶養(計画地生育)を提唱した。同年(1956年)開催された中共八期大会は、関連する決議でこの観点(視点)を示し、「扶養(生育)方面では適切な統制を加える」との文字をまず国民経済発展計画5ケ年計画に入れることにした。1957年10月毛沢東は中共八期大会第三次中央委員会全体会議で逐次計画生育を実現すると(なお)述べている。

1955年马寅初は全国人代(全国人民代表者大会)第一期二次会議の浙江省グループ会議で計画生育実行の必要性を表明したが、賛成者が極めて少なかったので、時機ではないと考え、発言稿を自ら回収した。马寅初は1920年代から各種の報道の中で、中国の人口増加に対して憂慮を示してきた。1954年から1955年にかけて马寅初は浙江省で3度にわたり実地調査を行い、理論構築の準備を進めた。1957年2月最高国務会議において、马寅初は計画生育政策を提案し、多数の賛成を得た。同年(1957年)6月全国人代第一期四次会議で马寅初は新人口論についての書面発言を行い、正式に計画生育を提案した。7月5日には人民日報に「新人口論」が発表された。

批判に遭遇

1957年6月8日 人民日報はこれは何のためか(这是为什么)と題した社説を発表した。このあと中共指導部の整風運動は反右(右傾批判)に転じる。1957年11月11日光明日報(第二次大戦後 中国民主同盟により創刊された新聞で知識人相手の編集方針で知られた)社務委員会、民主党派の人々と马寅初ら無党派の人々とを招いて会議を開き、右派分子章伯钧(チャン・ポーチュン)を社長から、右派分子储安平(チュー・アンピン)を副社長・編集から、それぞれ解職し、社長に杨明轩、副社長・編集に陈此生を充てる人事を決定している(章伯钧と储安平とはいずれも民主的な発言で知られる。このときの右派闘争の犠牲者は全国で55万人とされる。改革開放後1981年まで行われた名誉回復=平反でなお右派であるとして中央で5人、地方で90余人が名誉回復から漏れたがこの二人はその中央の5人に含まれる。こうした人々のことを未获改正的右派:ウェイフオガイチョンダヨウパイとよぶ。章伯钧は中国民主同盟の創建人の一人。いずれも文化大革命で迫害を受け、章伯钧は胃がんのため病院で死去。储安平は安否不明だが殺害された可能性が高い。この光明日報の事件は中国で言論の自由が失われて行く明らかな兆候の一つといえる)。

(当時)马寅初とその人口論はまだ中央層の批判に会っていなかった。1957年から1959年の間に人民日報は马寅初の文章に言及あるいは批評した3編の記事を掲載した。1957年10月4日の人民日報は李晋(リー・チン)の署名で「右派が人口問題を利用して政治陰謀を進めることを許さない」と題する記事を、(また)1958年6月6日には权种(チュアン・チョン)の署名で「我が国の人口と就業問題」を、1959年4月15日には若水(ルオ・シュイ)の署名で「人口と人手」を発表した。これらの中で权种の「我が国の人口と就業問題」は马寅初の名前を挙げたが、ほかの2編は直接名前を挙げていない。また3編の批判の重点は马寅初ではなかった。

1958年に中華人民共和国は民主党派整風と高校「双反」運動を展開した。1958年1月に马寅初の「我が経済理論 哲学思想と政治立場」と題した一書が出版された。そのあと「計画経済」誌が马寅初の経済理論へのコメント(商権的文章)を発表、「経済研究」「教学と研究」が同様にコメントを発表した。1958年4月19日に、民主党派が共同で編集する「光明日報」が、全国の「双反」運動の形式を反映させる形で、また北京大学の壁新聞から自ら選んだ形で、韓佳辰の「あわててまとめたもの(团团转)は唯物弁証法ではない 马寅初著「私の経済理論、哲学思想と政治立場」を評す」と中国革命史教研室の周家本、強重华の「马寅初の「新人口論」を評す」とを掲載したことは、马寅初を公開の文章で批判する序幕であった。5月9日光明日報は马寅初の「私の「平衡論」中の团团转理論を再び論じる」を掲載、ここで马寅初は弁明を行っている。このあと「光明日報」は马寅初の文章を事細かく批判したものを掲載した。6月1日に「光明日報」は学術動態で「これは無産階級の思想かあるいは資産階級の思想か?学術界は马寅初の著作で議論を展開」と題した論稿を発表した。6月6日「人民日報」に発表された权仲の「我が国人口と就業問題」が马寅初の名前を挙げてから、「光明日報」は马寅初を批判する文章の掲載を加速させた。11月29日「光明日報」が「資産階級の学術思想を徹底批判する」との標題のもとで「北京大学経済系の马寅初の経済思想批判小組」の3編の批判文章を掲載。このあと「光明日報」はしばらく马寅初批判を停止する。1958年11月までに「光明日報」は37篇の马寅初を批判する文章を発表した。そのほかの中国新聞雑誌(新聞が2紙、学報・学術定期刊行物が10誌)で公開された马寅初を批判する文章は30篇で、合計は67篇であった。これらの批判は、马寅初の新人口論は、マルサスの人口論を源とし、社会主義の優越性に疑問をさしはさむもので、人民大衆を蔑視している、などなどの指摘を行っている。

1959年に马寅初はなお正常に各種の国事活動に参加した。3月12日、第二期全国人大代表に継続当選した。4月12日に、第三期全国政協委員に当選した。4月27日には第二期全国人大常委会委員に当選した。5月2日には、中ソ友好協会副会長として中ソ友好協会第三次全国代表会議に参加、併せて新一期理事に当選した。5月3日、马寅初は首都記念五四40周年記念活動に参加し、主席台の前に着席した。9月15日に马寅初は毛主席が招請した各民主党派団体代表者会議に参加した。9月28日、马寅初は中華人民共和国建国10周年慶祝大会において、毛沢東、劉少奇ら党と国家の指導者とともに主席台に着席した。

1959年末までに「新建設」「経済研究」「厦門大学学報」が各1篇の马寅初批判の文章を掲載したのみであった。1959年3月に马寅初は「北京大学学報」第1期に対して「光明日報」に4日にわたり連載した「「平衡論」中の团团转理論を再び論じる」の全文掲載を求めた。「新建設」の1959年11月号と「北京大学学報」第五期は马寅初が書いた「私の哲学思想と経済理論」を同時に発表した。このあと「光明日報」は1960年1月から、「新建設」は1959年12月号から連続して批判文章の発表を始めた。1959年12月19日、「新建設」雑誌は中共北京大学党委(陸平任党委第一書記)に書簡を送った。中には马寅初が「新建設」1960年1月号上に発表を求めた「重申我的請求」があり、「新建設」雑誌は中共北京大学党委員会この手紙を寄せて、審査(审看)を求めている。12月24日、北京大学人口問題研究会は学術講演会を挙行し、马寅初の人口論を批判した。1960年1月までに北京大学毛沢東経済思想学習研究会、北京大学毛沢東哲学思想学習会、北京大学人口問題研究会は、马寅初批判の高潮を盛り上げた。1960年1月11日、この3つの学習会は連合して「马寅初経済理論哲学思想と政治立場討論会」を開き、会議では一部の教員の発言のほか、大学の秘書である韩苹卿(ハン・ピンチン)が马寅初が巨額の株券を保有していることや、马寅初が土地改革に反対であったこと,さらに罗隆基(ルオ・ロンチー)や章伯钧(チャン・ポーチュン)、章乃器(チャン・ナイチー)ら右派分子への同情を暴露した。韩苹卿の暴露は、参加者を刺激し、马寅初は集団攻撃(围攻)を受けた。1月12日马寅初の血圧は190に上昇し、入院治療となった。1月13日に「北京大学校刊」は上記の3つの学習会による马寅初連合批判会議の模様を報道し、陸岱荪ら会議上の批判発言をも伝えた。この後北京大学で马寅初の消息が伝えられることはなかった。1960年「新建設」は1月号で马寅初の「重申我的請求」を発表、「200余りの諸氏が発表された意見は大同小異で、新たなものは大変少ないが、でも学ぼう」。1960年1月马寅初は北京大学校長の職務に辞表を出した。3月28日国務院は马寅初の北京大学校長辞職を認めることを決定した。

(马寅初事件(7) 在 梁中堂博客linagzhongtang.blog.163com 2011/12/05によると、この1月11日の会合は反論の機会を求めた马寅初の求めに応じて設定されたもので、马寅初も出席した200人ほどの集まりだった。韩苹卿は、马寅初が、商務印書館の株を68000元、上海闸北火力発電与自来水公司の株を20000余元保有し、家賃収入が160余元あったことを暴露。また馬家の土地は買ったものなのになぜ補償されないのかと、土地改革に不満を表明したこと、当時、毛沢東から名指しで批判を受けていた、罗隆基(ルオ・ロンチー)や章伯钧(チャン・ポーチュン)を民主党派の優秀な人材として擁護、章乃器(チャン・ナイチー)についても高名な経済学者だと述べ,定息(商工業者の資産に固定利率を支払う政策)を止めることに反対した章乃器の主張を正しいとしていたことを暴露した。马寅初は、これらの点で反論できなかった。) 

(このとき马寅初が残した言葉。「人口問題は中国にとり最大級の問題の一つもし統制しなければ、もし盲目の発展に任せるなら、将来我が国の国家と党に大きな困難を必ずもたらす。…私はすでにこれを研究してこれを解決する方法を見つけている。私には説明する責任があり、それ(わたしの人口理論)を徹底して堅持する。このことで私は孤立をおそれない、批判闘争を恐れない、この問題で私はただ国家と真理のことを考え、自分のことは考えない。冷水をかけられることも煮えたぎる油をかけられることを恐れない。職を失うことも牢に入れられることも、いわんや死ぬことも恐れない。・・・どのような状況になろうと私の人口理論を堅持する」)

(罗隆基1896-1965は米英に長い留学経験をもつ。帰国のあと主として天津にあって抗日の立場で論陣を張り、新中国では民主陣営から参画した。しかし1957年の反右派闘争で失脚する。1965年に病没している。)

(章伯钧1895-1969はドイツへの留学経験がある。新中国では交通部部長 1957年の右派闘争で失脚。すでに見たように光明日報社長を追われている。罗隆基と同じく1980年の見直しでもなお名誉を回復されず右派とされた人物の一人。)

(章乃器1897-1977は国民党出身の政治家で新中国で糧食部長1952-57を担った。しかし反右派闘争で失脚。文化大革命では残酷な取り扱いを受けた。1966年に紅衛兵により捕縛されたうえ、大けがを負わされ、夫人は殺害され、全財産を没収された。1977年に病院の地下室で亡くなっている。1980年に名誉を回復された。)

このあと马寅初の政治と生活待遇に変化は生じなかった。第二期全国人大常務委員などの職務を行った。1962年1月马寅初は、浙江嵊县視察を行った。肺炎を患い、このあとは健康を損ね二本足の行動は不便になった。1965年马寅初一筋の腿が瘫痪にかかった。1964年から1965年初め、2つの会が招集された。马寅初が全国人代常務委員、あらためて全国政経常務委員に改めて任ぜられた。8月7日に周恩来主催で帰国した李宗仁(リ・ツオンレン)を歓迎する茶話会が開かれ、马寅初は出席を要請された。同年孙中山生誕100年記念委員会が設けられ、劉少奇が主任となり、马寅初らが委員となった。

 李宗仁(1890-1969)は国民党の軍人。国民党の中で蒋介石と長年対立した。日本軍とよく対抗したことで知られる。1938年3月―4月 台児荘の戦いで日本軍に勝利したことは中国国民を鼓舞したとされる。第二次大戦後、蒋介石が国共内戦戦局不利の責任をとり下野すると一時、総統を務めた。和平交渉を進めたが、党内の合意を取るにいたらず、台湾にはゆかずにアメリカで形勢を見守った。1965年7月、妻の末期がんが判明し帰国。中国政府の歓迎を受けた。

(文化大革命中の马寅初の悲劇と知られるのは彼が、1960年以降、心血を注いで書き上げていた大著「農書」が家人によって焼却されたことだ。この家人は家族かと私は考えたが邓加荣は服務員だという。・・・文化大革命が始まった時、その紙巻はおおきな引出:柜一杯になり、百万字以上の農書となっていた。残念なことにこの農書の草稿は、文化大革命の期間に家の服務員:家中服务员により、半ば臆病から、半ば盲従精神に支配されて、马の手紙、メモなどすべての文物や送られた書画とともに、四旧とみなされ焼き払われた。邓加荣 p.304) 
 怒涛のように沸き上がった革命の潮流に最初に晒されたのは。「破四旧」(古い思想、文化、風俗、習慣の破壊)と紅衛兵と呼ばれるものだった。全国各地では、古き封建時代の象徴である伝統的建築物や仏像が破壊され、芸術的価値の高い書画や骨とう品なども燃やし尽くされた。王曙光 p.183 
文化大革命の間、马寅初は基本として攻撃(冲击 チョンチー)を受けなかった。1972年に直腸癌のため、周恩来首相の指示で天津市人民医院院長で反動学術権威である金显宅(チン・シエンチャイ)が率いる医療小組により90歳の马寅初は直腸がんの切除手術を受けた。手術後、马寅初の下半身はすべて麻痺(瘫痪(タンホアン))した。1976年周恩来がこの世を去ると、马寅初は病院を訪問して遺体に告別した。1977年5月1日、马寅初は中共中央主席、国務院総理、中央軍事委員会主席の華国鋒が出席した游园活動に参加した。これは文化大革命が終わったあと、最初の社会各界の主な人を集めた重大な活動だった。1978年初め、小平が三度政権に復帰し、第五期全国政治協商会議主席になると、马寅初は全国政治協商会議常任委員となり、同大会の執行主席の一人となった。

马寅初の人口理論への批判については、中国人口は増加を続けた。虚偽やウソで作られた案件(冤假错案)の名誉回復を主管する中央組織部長の胡耀邦は、马寅初の材料を審査閲覧したあとで「あのとき毛主席が马寅初のこの話を受け入れていれば、中国の今日の人口が10億を突破することはなかったのではないか。一人を誤って批判し、数億人が増加した。我々は再びこのような誤りをしてはならない。共産党はここに誓う「再び科学者と知識分子を苦しませることはない(再也不准整科学家和知识分子了!)」と述べた。

晩年

文化大革命後、1978年12月に召集された中共十一期第三次中央全体会議、このあと马寅初の新人口論は再評価を獲得する。1979年7月中旬の一日、中共中央統戦部副部長の李貴は北京東総布胡同32号の马寅初家を訪れ、次のように述べた。「今日党の委託を受けて馬先生に以下のように通知します。1958年以前そして1959年末以降のこの2回にわたるあなたへの批判は誤っていました。実践が証明していますが、あなたの生育を抑制する新人口論は正確でした。組織上、あなたに対して犯された誤りを徹底して正し、名誉を回復します。馬先生が晩年を元気かつ愉快にすごされることを希望し、さらに健康と長寿をお祈りします。」马寅初は答えて言った。「とても嬉しい」「20年余り前中国の人口は多いとはいえなかった、現在ではあまりに多すぎる。生産を迅速に発展させる必要がある!」この会見の模様は1979年7月25日に新華社が報道し、7月26日の「人民日報」に掲載された。1979円9月11日、中共中央は、中共北京大学党委員会の1979年7月23日付け「马寅初先生の平反に関する決定」に文書で回答した、「中央は北京大学党委員会の马寅初先生の平反に関する報告と決定に同意する」

(马寅初の名誉回復の経緯について邓加荣は以下のようにまとめる。1979年2月4日上海冶金研究所の相徳欽が中央に対し、马寅初が最も早く人口の抑制を主張した貢献を指摘し、马寅初の扱いに見直しを訴えてまもなく、この手紙が一人の中央指導者により宋任穷に回す指示がつけられた。宋任穷は当時 組織部長で幹部の名誉回復:平反の責任者。6月21日には陈云とさらに胡耀邦も相次いで马寅初の平反を指示した。7月16日の李貴の馬家訪問、直接の伝達はこれを受けたもの。9月11日の決定で覆されたのは、1958年と59年の2度にわたる马寅初に対する大規模な批判と、马寅初に北京大学からの辞職を迫ったことの2点で、これらは覆されねばならない(予以推倒)。邓加荣pp.314-315)

 1979年9月马寅初は北京大学名誉校長に任命された。1981年2月中国人口学会が設立され、马寅初は名誉会長に推挙された。

1982年5月10日马寅初は病気のため北京で亡くなった。享年101歳(満99歳)だった。

 2016-03-28 試訳(2018-06-06更新)

 马寅初 百度百科

 马寅初 参考文献

 現代中国研究


馬寅初 (马寅初 Ma yin chu1882-1982) 百度百科

2018-06-06 11:32:52 | Area Studies

参照 福光 寛「中国の経済学者 馬寅初(マー・インチュ 1882-1982)について」『成城大学社会イノベーション研究』12巻1号,2017年2月, 273-298

百度百科・・・・・・・・・・・・・翻訳途中まで

马寅初 1882年6月24日-1982年5月10日 名の字義は元善である。中国の現代経済学者、教育学者、人口学者。浙江嵊州人。元南京政府立法委員。新中国建国後、中央財経委員副主任、華東軍政委員会副主任、重慶大学商学院院長兼教授、南京大学教授、北京交通大学教授、北京大学校長、浙江大学校長などを歴任。1957年に発表した「新人口論」方面の学説により右派として攻撃されたが、党の11期第三次中央委員会全体会議(1978年12月18日-22日)のあと、名誉回復(平反)された。彼が生涯に著した著作は極めて多い。中国の経済、教育、人口等の方面で多大の貢献。現代中国人口学の第一人者。

中国語名:马寅初。国籍:中国。出生地:浙江省紹興省嵊县浦口鎮(現在の嵊州市浦口街道)。出生:1882年6月24日(壬午年)。逝世日期:1982年5月10日(壬戍年)。職業:教授。卒業校:天津北洋大学、米国コロンビア大学。功績:経済学の父(泰斗)、人口学の第一人者。

抗戦時期

1927年3月、北京政府の張作霖は北京大学を封鎖。蔡元培は国民政府に身を投じて(投奔)杭州に至り、浙江臨時政治会議委員兼代理主席に任ぜられた。蔡元培は北京大学教授の马寅初、蒋梦麟などを浙江省建設に招聘した。马寅初は麻薬禁止(禁煙)委員会委員となりアヘン取締活動に従事し合わせて農民銀行の創設を準備した。間もなく張静江が浙江省政府委員に任ぜられると、蔡元培、马寅初など北京大学教授は浙江省政府から締め出された。马寅初は、杭州財務学校で教えたほか、上海浙江興業銀行の検査役(总稽核)を務めた。

1928年10月 马寅初は立法院立法委員となり、翌1929年に立法院経済委員会委員長と財政委員会委員長にそれぞれ選出される(当選)。また南京国立中央大学、金陵大学、上海国立交通大学の経済学教授を兼任する。1931年九一八事変勃発後、马寅初は「長期抵抗の準備」と題した一文を発表して、蒋介石の不抵抗政策、安内攘外政策を批判した。1934年の物価の大混乱と対外金融政策の不当について、马寅初は立法院会議で財務部長、孔祥熙を激しく非難した。

抗戦勝利後(抗戦勝利前の誤植か)、马寅初は、北京大学、南京中央大学(現南京大学)、上海交通大学、重慶大学、浙江大学で教えた。また北京大学経済系主任、重慶大学商学院院長を務めた。一貫して四大家族の官僚資本主義に反対し、国民政府が民族利益を売っていることを非難(痛斥)した。(抗戦勝利後の1946年7月)李公朴、闻一多(らの民主人士)が雲南で国民党の特務機関により暗殺されたことが伝わると、憤激した马寅初は、遺書を書き、家族に別れのあいさつをして、青色の民族服をまとって、南京中央大学で講演を行い、大量の事実で国民党反動派の内乱の罪状(罪業)を暴露した。(かつて)马寅初は物価高騰を論じたとき、実名を挙げて(指名道姓),蒋介石を論難(枰击)した。広く発表される論稿で、蒋介石政権の戦時経済政策を攻撃し、孔(祥熙)と宋(嘉澍)の貪欲を批判し、国難で儲けた者の財産に課税して、抗日の経費を賄うとして臨時財産税の課税を求めた。一字一句耳に響く力のこもった演説は、四大家族にまっすぐ刃を向けたものだった。马寅初の厳正かつ物怖じしない行動は、蒋介石を困らせ、马寅初は息峰集中営に閉じ込められた。马寅初は罪を問われ、1940年12月6日逮捕。貴州息峰と江西上饶に前後して閉じ込められるが、社会の世論と中国共産党の支援のもと、1942年8月出獄したものの、歌乐山に軟禁、外界との接触を制限された。马寅初は、当時の国民政府統治区の反蒋愛国民運動を強力に進めたことで、旧中国時代の一人の英雄(英勇)、不屈の民主戦士となった。

旧中国にあって马寅初は誉れ高い経済学者であっただけでなく、一人の英雄、不屈の民主戦士であった。抗日戦争が勃発して以後、民族危機が迫る中、彼は身を挺して文章を書き、講演を行い、官僚資本主義と通貨膨張に反対し、民族利益を売ることや独裁政治に反対した。このような愛国行為により、马寅初は国民党反動派の迫害を受け、集中営に数年の長きにわたり閉じ込められたのちに遂に脱出した。

建設中国

1948年末马寅初は香港を経由して北京に赴き、新中国の創建(筹建チョウチエン)に参加した。

马寅初は中国共産党の真の友人(诤友 諫言してくれる友人)である。新中国が誕生したとき、马寅初は新中国の誕生を心から喜び(欢欣鼓舞ホアンシングーウー)、積極的に共和国の創建に身を投じた。1949年3月25日毛沢東主席,朱徳総司令ら中共中央が西柏坡迁xibaipoqianから北平(現北京)に迎える歓迎式典で、马寅初は会場の秩序を無視して周恩来が乗るジープにかけより、周恩来に大声で「あなたの指示で私は無事北平に来ております」と話しかけ、喜びを爆発させた(喜悦心情溢于言表)。

马寅初は中国共産党の古い友人である。彼自身つぎのように言ったことがある。1939年以来、共産党と一緒でなかったときは一時もない(无时无刻不与共产党在一起)。建国後は、彼は学者の専門知識で、(また)自らの意志で(以主人翁的态度)進言献策を行った。

1949年8月 浙江大学校長、9月に中央人民政府委員、10月に政務院財経委員会副主任、12月に華東軍政委員会副主席に任ぜられた。(また)1952年5月北京大学校長に任ぜられた。1954年9月 第一期全国人民代表大会常務委員会委員に選出された。

新人口論

1953年中国歴史上最初の全人口調査(人口普查)が実施された。1953年6月30日現在の中国総人口は6億193万8035人。推計では毎年1200万から1300万増えており増加率は2%であった。

この人口調査は有名な経済学者で北京大学校長の马寅初の注意を引いた。彼は人口調査の結果に疑問を呈した。この調査は抽出調査を採用し、出生率から死亡率を引いたものを増加率としていた。马寅初はこの調査法では全貌を知ることができないと考えた。彼の理解では上海のある場所の人口純増率は3.9%であった。簡単な算術公式を使わなくても、中国の人口増加率を2%と説明できないのではないか。

马寅初は3年以上の調査研究により、中国の人口増加率が毎年2.2%以上であること、一部では3%に達し、実際はもっと高いことを発見した。このまま増加(発展)が続くと50年後に中国の人口は26億に達する。人が多く土地が少ないということで、飯を食うことすらままならなくなることが恐れられる。そこで彼は自身の研究成果を「人口の統制と科学研究」という一文にまとめた。1955年第一期全人代二次会議が開かれ、马寅初は書き上げた文章を発言稿にして、ほかの浙江小組人代代表の意見を求めた。马寅初が描く当時の状況によると、少数の人を除くと、多くは意見を表明しないか、あるいは馬の見方に同意しないかであり、ある人は馬の説はマルサスの類だとし、別のある人は、マルサスとは異なるがマルサスの思想体系に属するとした。彼らのの意見を、馬は受け入れることはできなかったが、(意見は)すべて善意から出たと考え、自ら発言稿を回収し、再び大会で提出できる機会を待つことにした。

(1955年)9月周恩来は中共八次全国代表大会の報告の中で「婦女と児童の保護のため、将来世代のもっとよい教育のため、民族の健康と繁栄のため、我々は生育方面に適切な制限(节制)を加えることに賛成する」と指摘した。马寅初はこの報告を読んで大変喜んだ。彼は人口抑制(节育)問題が中共中央の議事日程に上がってきた、人口統制問題をオープンに議論できるようになったと考えた。

1957年2月、最高国務会議の第十一次拡大会議において、马寅初は再び「人口の統制」を取り上げ、自らの主張を発表した。「我々の社会主義は計画経済であるが、人口を計画のうちに入れる(列入)のでなければ、人口の統制はできない。計画生育を実行できなければ、計画経済とはならない。」马寅初の発言はすぐに毛沢東に賞賛された。彼(毛沢東)は言う。「人口は計画的に生産できるものだろうか。これは一種の思い付き(设想)だ。この馬老人の話はよくできていて、私は彼と同志であり、

 陈云与马寅初・・・・・・・・

変装した马寅初は危険を逃れ首都に向かった

全国解放戦争勝利がすでに定まる中、中国共産党は新中国建設の準備工作を開始した。1948年4月30日 中国共産党は、各民主党派、各人民団体、各社会指導者(贤达)に政治協商会議の迅速に開催して、人民代表大会の招集を討議実現し、民主連合政府を樹立することを呼びかけた。この呼びかけは各界の積極的な反応を得た。

このとき杭州に住んでいた马寅初は国民党の統治区を離れて、解放区に移ろうと準備していた。

1948年の秋雨が続く夕刻(傍晚),马寅初の古い友人の茶学専門家吴觉农(ウー・チアオノン)が杭州法院路の马寅初の家に彼を訪ねてきた。马寅初は彼を見るなりとても喜び、吴觉农が話すのをまたず、滔滔と彼の時局の見方を語った。彼は次のように考えた。中国人民の百年来の流血と奮闘がついに、解放戦争の勝利により、今実を結ぼうとしている。国民党政権はすでに雪崩を打って瓦解し、その寿命は長くない(行将就木)。繁栄し富強の新中国がまさに今世界の東方に出現しようとしている。同時に彼は、毛沢東と周恩来に対する深い尊敬と敬愛の気持ちを表明した。これを聞いた吴觉农は大変喜んで、新政協の設立準備に加わらないかと尋ねたところ、马寅初は「私にその資格はない(我不能无功受禄啊)」と答えた。これは軽口の中で出てきた発言だが、马寅初の謙遜と自らに厳しい姿勢を表している。確かに彼は三つの大山の重圧から民主革命を実現するに多大な貢献があったが、彼は中国革命に対して自身の貢献は大変少ないと認識していた。「私にその資格はない」というのはまさにその心の声であった。

大师 马寅初 上・・・・・・・・・・

东总布胡同32号。1952年北京の马寅初の家に一人の若いソ連の女性教師がやってきた。彼女は老人にロシア語を教えに来た。このとき马寅初はすでに71歳だった。赫赫(すこぶる)有名な北京大学校長であり、かつ中央政務院の財政経済委員会副主任であった。このロシア語教師は、陈云同志が马の要請に与えたものだった。

诸天寅「马はソ連建設の経験を研究するためには、ロシア語の原文で読まねばならないといった。翻訳は誰かの手を経たものになるし、時に不正確だと。そこで彼は彼の秘書を通じてこの希望を述べた。その後この希望はすぐに実現された。そのとき彼は財経委員会副主任で陈云同志は主任であり、陈云はそれはとても良いことだといった。」

のちに馬老(馬先生)は「私はロシア語をものすごい力(九牛二虎之力)をかけてようやく学ぶことができた。」と述べている。马寅初は仕事が大変忙しかったが、毎朝早くと夜遅くそれぞれ1時間半ロシア語を学ぶ時間をひねり出した。こうした2年間の努力のあと、马寅初は、『ソ連共産党史簡明教程』『政治経済学』『弁証唯物論』『ソ連社会主義経済問題』などをロシア語原書で読むことができた。

新中国成立前、南京国民政府の立法委員と経済顧問を長期間担っていた马寅初は、民国時期の中国経済学会の権威だった。その後、马寅初は国民党と断絶し、中国共産党と歩むことを選択した。

参考

马寅初 维基百百科全日译 

马寅初   参考文献

現代中国研究

 


フェイスブック コーガンによる情報横流し

2018-05-30 06:25:10 | Area Studies

  ロシア政府 フェイクニュース拡散で英国のEU離脱で世論操作の疑い  

  ロシア政府 SNS使い 米大統領選に関与
  初期の報道 ケンブリッジアナリテカの不正利用に焦点が当たっている    

Kogan blamed by colleagues 同僚や研究者がKoganのデータ取得方法の非倫理性を指摘していたことが報道されている。このようなKoganを放置していたことにケンブリッジ大学当局には責任があるのではないか?   

     Statement from Cambridge University about Dr.Kogan Mar.23, 2018

Alexandr Koganの履歴

      ロシア政府から研究費を受けるなどロシアとの関係が注目される。Facebookと事件が表面化するまで協力するなど良好な関係だったとしている。モルダビア出身。7歳の時米国へ。カリフォルニア大学で学士号。香港大学で博士号と行動半径はグローバル。ビッグデータ解析の会社を設立してその経営者でもある。おそらく多数の言語を自在に扱え、大変能力が高い。同時に大学の講師で研究者というのは、彼の一つの側面にすぎず、研究で得たノウハウでビジネスを展開するところにこの人物の本質があるとみなければならない。つまり研究者で世の中の仕組みに疎く、今回の事件に巻き込まれたというのは虚偽ではないか?またおそらく平行して多くのことを進めるタイプの人物であって、外部から見ると一つ一つの問題の倫理性に無頓着に見えると言えるだろう。有能だが、道徳や倫理には無頓着。研究で得たノウハウをビジネスで平行して展開する軽さに、この人物の問題が象徴されている。今回の事件は彼にとっては世界的なビジネスチャンスになっていると考えると少し腹立たしい。Kogan' case Koganという人物が純粋な研究者ではないことや同僚の同意なしにケンブリッジアナリテカにデータや研究手法を売り込み利益を得たことが記載されている。5facts you want to know
  フェイスブックの情報流出問題 ケンブリッジ大学の心理学教授 が ケンブリッジアナリテイカ に情報を横流しした
  I am being used as a scapegoat 問題発覚後 Koganは自分はscapegoatで悪いのはFacebookだと主張した。
  ケンブリッジ大学 心理学教授 アレクサンダー・コーガン コーガンはフェイスブックを通じてえたデータを横流した
  フェイスブックの対応措置について
  ザッカーバークによる声明 コーガンとケンブリッジアナリテカを非難した
  コーガンがケンブリッジアナリテカにデータを売った疑いがありケンブリッジアナリテカのビジネスには世論操作の疑いがある 
   Kogan is not innocent Kogan とケンブリッジアナリテカは深く結びついており、データが政治データとして利用されることが分かっていて売却して利益を得ていた。集めたデータの研究目的での使用とはかけなはれておりKoganには責任があるとしている。
  コーガン 英下院で不正を弁明 Koganは英国下院で再び自分はscapegoatだと主張した。 
  ケンブリッジアナリテイカ 営業停止へ 2018年5月 2016年の米大統領選 英国のEU離脱に関与 不正な世論操作を主導した疑いが強い 

  英国のEU離脱決定 2016年6月
  米大統領選でのトランプ勝利 2016年11月

    明らかになっている事実の一つは個人攻撃の意図はないものの このコーガンという人が、倫理的に高い人ではなかった。フェイスブックの情報を利用して、研究者としての業績を上げることと、ビジネスチャンスを狙う人だったということだ。そしてデータを横流しして利益をえていた。フェイスブックはそもそもこういう人と付き合うべきではなかったとはいえる。次の問題は、フェイスブックのビジネスの根幹は、利用者個人と企業とをフェイスブックを通じて結びつけることで、企業から広告料をとり、利用者には無償でサービスを提供するというSNSの在り方が問われている。一つは利用者の個人情報を利用者の了解がないままに、企業に売っているのではないかという疑問である。もう一つは、無料サービスの形で利用者に間違った情報(あるいは政治的に誘導する目的をもった情報)などをコンテンツとして提供しているのではないかという疑問である。利用者の側では、広告をブロック(遮断)する動き、登録情報のプライバシー設定(登録情報の非公開化)が広がる。

 またSNSのアプリの中に利用者の情報を集めることを裏の目的としているものがあること、それを企業はマーケティングに利用している。こうしたアプリによる個人情報の利用をフェイスブックの利用者がそもそも認識していない可能性が高い。また一部の利用者はニセアカウントを作成してそこからヘイトスピーチ、暴力や性にかかわる好ましくない投稿をしている。フェイスブックでは調査の上、外部アプリの利用を一時停止、AIなどを使ってニセアカウントの閉鎖を進めている。(そもそもSNSという無償サービスは見返りとして情報が提供され, 情報が通貨の役割をしているからというもっともな指摘もある。岡崎裕史氏 日経2018/05/28 この情報がターゲテイング広告の配信などに利用されている。消費者はクッキーの利用を拒むことで、こうした流れに反撃もできる)。マーケティングでは、個人の意思決定にかかわる情報を集めて分析、その次にはその情報を操作して個人個人の決定そのものが操作することが行われているともいえる。個人の好みを発見して、適切な商品を提供するという「お話し」だけでないようだ。情報が集中してその情報を利用する側(グーグル アップル フェイスブック アマゾン いわゆるGAFAなどのプラットフォーマー あるいは政府)が利益を独占し、多くの人は監視を受ける側になってしまう危惧もしばしば語られている(フェイスブックの創業は2004年。一般ユーザーへの開放は2006年、2012年に株式上場。2018年4月現在の利用者数は20億人、売上高は4兆円超 売上高営業利益率50% 従業員数2万5000人 時価総額51兆円とされる。)。

 センサー、閲覧履歴、動画などから集められた膨大な情報がネットにつながること(IoT)で巨大データの収集が容易になったこと、人工知能(AI)の活用でこうしたビッグデータの活用が可能になったこと。

 他方で今回の問題で停止されたフェイスブックの機能として電話番号やメールアドレスによる検索機能がある。利用者の利便性は下がるが、個人の特定につながりサイバー攻撃や悪徳商法につながるとされる。改めてフェイスブックの安易な利用への警鐘になるとともの、フェイスブックはプライバシーの保護機能が低いという議論が再燃しそうだ。

 この間 連合では5月から一般データ保護規則GDPRを施行している。欧州連合では域内計31ケ国で2018年5月25日から一般データ保護規則GDPRを施行した。欧州の消費者や従業員などの個人データの取得・保有 域外への持ち出しに個人の同意を得ること データを削除できる(忘れられる権利)仕組み作り データ保護責任者の設置 を求めている。違反には多額の制裁金(最大で2000万ユーロ又は世界での売上高の4%)。これまで比べて厳しい規則だが、フェイスブックの問題が表面化したこともあり、個人データ保護の在り方として注目を集めている。各国で国内法の整備や監督機関の人員や予算なども必要だが8ケ国では国内法整備が間に合わず、人員予算が不十分な国も多いとのこと。しかしそれでも巨大なSNSの情報と利益が独占される構造への反撃としてGDPRは肯定的に受け止められている。


米国政府とZTE 関税引き上げ問題

2018-05-29 18:53:18 | Area Studies

中国の通信機器メーカーが中国政府のスパイ活動にかかわっているとの疑いはかねて指摘されている。その双璧は中興通讯ZTE(人民解放軍と関係)と華為技術(ファーウェイ)。米政府はZTEがイランや北朝鮮に違法に米国製品を輸出していたとして、米国企業との取引を7年間禁止する決定をくだした(4月)。米政府とZTEはこの問題で11億9000万ドルの支払いで合意(3月)。しかしその後、輸出違反に関わった社員の報酬を減額する合意を守らなかったことが判明し7年間の取引禁止となったもの。ZTEは米政府の措置によりスマホの販売停止に追い込まれた(5月)。中国政府はこの措置は米部品供給業者に痛手になると主張している。その後、中国政府と米政府とのやり取りの結果、罰金の増額、経営陣の刷新などで両者が折り合ったとの報道がでると、そもそも米国防衛の観点からの措置を、取引手段としたトランプ政権の姿勢に対して米国内保守派から反発の声が出ている。

中国製スマホのリスク 2017/11/17更新
 数か月以内に経営破たん 日刊工業新聞 2018/04/21
Huwai, ZTE phones banned by Pentagon, Global News 2018/05/03
 ZTE スマホの販売停止へ Sankeibiz 2018/05/07 
 ZTE on brinks of collapse New York Times 2018/05/09
 米政府 ZTEへの取引禁止措置を撤回か Sankeibiz 2018/05/26

この背景に中国による輸入自動車関税の引き下げ(乗用車など25% トラックなど20% いずれも15%へ 2018年7月から 自働車部品についても8~25%を一律6%へ)があるとも観測される。片方は安全保障問題、片方は貿易問題で無関係だが、実際には効果があった。米国が仕掛けているのは、対中国だけではない。

2018年3月には鉄鋼とアルミについて、それぞれ25%と10%の関税を発動。現在(5月下旬)には乗用車に関する関税の25%引き上げを検討するとしている(現行2.5%を27.5%に)。WTOのルール違反を避けるため、安全保障を理由にするということ。物価の値上がりにつながる、国内雇用に影響する、などの反論はある。ただ日本の自動車メーカーの対米戦略に、トランプ政権が修正をせまっていることは明らかだ。

 

 


富士ゼロックス不適切会計事件(2017)から米ゼロックス買収問題(2018)へ

2018-05-28 05:31:00 | Area Studies

2017年6月 発覚した富士ゼロックス(富士フィルムHD子会社) の不適切会計事件で会長の山本忠人氏と副社長の吉田晴彦氏の退任が決まった(6月12日発表 6月22日の株主総会で正式決定)。この会社は山本氏が経営の責任者で社長の栗原氏は執行の責任者とのこと。

問題を起こしたのはニュージーランドとオーストラリアの海外子会社。なお日本でも不適切な会計処理があったとされる。問題の背景として、厳しい営業ノルマ 営業成績連動型の報酬 海外子会社に対する管理の甘さなどが指摘されている。リース会計の処理を悪用(利用想定量を過大に計上) 販売促進費用を売上高に加算などをしたとされる。海外子会社幹部たちは不正経理の結果の売上目標達成により多額の報酬を得ていたとされる。損失額は6年間累計で375億円。

富士フィルムHD(助野健児社長)は親会社にもかかわらず 富士ゼロックスを長年放置してきた。それが今回の大規模な不正につながった。背景には富士ゼロックスの大きさがある。売上高が約1億と親富士フィルムの連結売上高の約半分を占める。そのため長年 独立王国になっていた。他方、吉田副社長は2016年10月の富士フィルム側の問い合わせに対して、不正会計の事実を否定する不誠実な態度をとった。また今回の不正をおそくとも2015年7月には認識していたにも関わらず、問題を先送りしてきた(なお非上場会社であったことが問題の先送りを可能にした側面もある)。このような事実上の犯罪を行ってきた副社長を富士フィルムが、単に退任であるのは全く理解できないところだ。確かに直接、不適切経理をしたのは海外子会社ではある。それらも問題ではあるが、しかし問題認識後、適切な是正策を取らず、米ゼロックス(2015年8月)や富士フィルム(2016年10月)からの問い合わせに対して、隠蔽を続けた態度はあまりにモラルがなく、企業人として最低。社内外からもっと厳しい責任追及があってしかるべきだろう(背景になにがあったかは気になるところだ)。

この不適切会計問題からほぼ半年たった2018年1月31日。富士フィルムは米ゼロックス買収 61億ドル(50.1%)を発表した。ここで誰しも疑問に思ったのは、富士フィルムという会社の将来である。富士フィルムは写真フィルム事業の縮小をみすえて医薬などに業務転換した。ところが今回買収する米ゼロックスの主業務である事務機は、ペーパーレス化の流れの中で縮小が見込まれる業態。その市場は日米欧の成熟市場が75%と中心を占める。なぜいま成熟市場の事務機に本格進出なのかと。これに対して新興国になお大きな市場が残っており、市場の縮小スピードはわずかにすぎないというのが公式の回答。また買収資金は富士ゼロックスが銀行から借り入れ、富士ゼロックスから富士フィルムHDに富士ゼロックス株買い戻しのお金として支払われる。富士フィルムHDがこのお金で米ゼロックス株を取得したあと、米ゼロックスがその富士ゼロックス買戻し株をこのお金で取得することでお金は富士ゼロックスに還流する仕組み。つまり富士フィルムHDとしては、富士ゼロックスの株の代わりに米ゼロックスの株を取得する結果になる。米ゼロックスの既存株主には米ゼロックスから25億ドルの特別配当が支払われる。

このスキームは、富士ゼロックスを米ゼロックスの100%子会社にして、富士フィルムHDとの直接の関係をなくすことが目的であるようにも読める。つまり、事務機事業をむしろ切り離す準備をしたともとれる。事務機事業をめぐる富士フィルムの真意はわからないが、ペーパーレスの大きな流れは変わらない。合理化だけでなく、新事業をどのように展開していけるかにも注目する必要がある。

この買収計画に対して米ゼロックス大株主のカール・アイカーン氏らが反発。問題は既存株主にとってのメリットだ。新株発行(株式数は倍増)で株式価値は希薄化し、経営権は富士フィルムに移る。61億ドルでの取得(1株24ドル前後)という想定も希薄化を想定している(ゼロックスの株価は30ドル程度)。ゼロックスの株主が得るのは一時的な特別配当だけ。これは1株につき10ドル前後で総額25億ドル。経営統合メリットは富士フィルム側に生産・研究開発の効率化として計算されているが、ゼロックス側のメリットは示されていない。61億ドルはEV/EBTDA倍率では6倍程度。アイカーン氏たちは1株40ドル以上(同10倍以上)を要求している。

問題はこの買収が、ペーパーレス化の大きな流れの中での富士フィルムという会社の中の効率化だけを考えたものであるように見えること。確かにゼロックスという会社、その会社の株主や従業員の立場が無視されているように見えるのはいかがなものか。もちろん富士フィルムの側からすれば言い分はあるのだろうが、富士フィルムの側に米ゼロックスをまるで実質子会社のように考えている節が見えなくはない。米ゼロックスの経営再建を埒外にして、富士ゼロックスー富士フィルム側の都合だけではゼロックスの株主だけでなくその経営陣・従業員の協力が得られないのは当然ではないだろうか?


富士フィルムの社風:リストラを繰り返すため社内の雰囲気が荒れていることが指摘されている。(2016-06-20)
富士フィルム 不正会計問題 古森体制 社債発行との関係(2017-7-21)
Xeorx CEO is ousted Bloomberg 2018-05-03

2018-02-01投稿 2018-05-28更新


ベス・コブリナー『「お金の天才」の育て方』日経BP社, 2018

2018-03-24 10:41:52 | Area Studies

最近の本の傾向だが副題が長い。「一生おカネに困らないために、親が子供に伝えるべき「おカネの話」」

おカネについての入門の本は多いが子育てに絡めた本は珍しい。内容はおカネの話ではあるけれどまた子育ての本でもあるけれど、2つを組み合わせるとそれだけでないことがわかる。原著は Beth Koblinger, Make Your Kid  a Money Genius,  2017

 よくあるおカネの知識入門本と少し違うのは 子育ての知識が入っているところ。それも最近の学術的研究を踏まえていて説得力がある。

子育てとの親の関わり方への注意が沢山入っている。その注意がありがたいのが、教育に関するさまざまな「研究」をかなり幅広くカバーして根拠付けていること。他方、著者自身の経験も随所に入っていることが著者の人柄を感じさせる。

 子供に何もかも教えなくていい。親の所得の具体的な金額は教えなくていい。世間の所得との比較でどのあたりかは教えればよい。両親のどちらがより稼いでいるかも教えなくていい(上下とみてしまうので)。おカネの問題で両親は一致した態度を示すべき。私たちはチームだと。退職年金口座の額も教える必要はない。子供はそれが長い間取り崩すものだということが理解できない。親戚に関する悪口、おカネに関するゴタゴタを子供の耳に入れてはいけない。ベビーシッターや家庭教師にいくら支払っているか、子供はそれを上下関係(支払っている自分が偉い)と誤解するもの。プレゼントにいくら使ったかも教えなくていいー贈り物の喜びが失われるから。学費の不安―空手形はいけないが だからといって学費の不安を言って将来への不安をあおるべきではない しかし子供の未来のために貯金するのは親の喜びだと伝えるべき。pp.27-33

貯金について

 ここでマシュマロテスト(マシュマロ実験)の話が出てくる。2個目を我慢できた子は 大人になって成功する子が多い。我慢強い子はどうしたらできるか。p.34

   なお貯金の一部を学費にあてさせると 勉学に励む可能性が高くなる p.70

   そしてこの本で一番大事なアドバイス。おカネがたまるまで高価なものを買ってはだめだ。p.74

努力には見返りがある。

 ペンシルバニア大学のダックワース教授のやり抜く力 グリット education grit 。やり抜く力のある人は学校の成績がいいだけでなく 収入 生涯貯蓄額 人生全般の満足度も高い 忍耐強く何かに取り組みことを教えること pp.79-80 一度決めたら最後までやり通すこと p.96 グリットとは

   ミネソタ大学の研究では 学位をとる 仕事に就くこと 幼いころ 家事を手伝ったかが要因になる。p.81 家のお手伝いは家族の一員として当然のこと p.87  子供を家事の達人にすることが目的ではない 自立した子供を育てることが目的だ 子供は生活スキルを身につけるべきなのだ p.94 k高校生になったら家事から解放させるべき 子供たちのプレッシャーは多い pp.103-104

   仕事が楽しい時はそれを伝える 少なくとも仕事があるのは素敵なことだと伝える 仕事とは誇りをもてるものだと伝えることは大切 p.83

   子供の能力をほめると 勤勉さが育たない 少しの困難ですぐあきらめてしまう 子供の努力に対して 褒めたほうがいい。 p.84

   幼い子供は自分働き物の誰かだと思い込むと 一つのことに根気よく取り組める Batman effect   p.85

アルバイトについて

  (高校生)子供たちへ週15時間以上働くべきではない 調査によると退学する可能性が高まり学位を取れる可能性がさがるから p.104

 (高校生)本に没頭する時間の長い子ほど成績は良くなる。それならなぜ働かせる必要があるのか。お勧めは放課後のアルバイトはやめて夏休みに集中して稼ぐこと。pp.99-100

  (大学生) 週20時間以内ならキャンパス内の仕事は参加意識を高める。また学費を自ら負担することは、自分の教育に投資している意識にさせる。p.106

就職活動について

 アルバイトの職場の上司に推薦状を頼んでみよう  p.106

   つてを探してみよう。プロの多くははその分野に興味のある若者にはアドバイスを惜しまない p.110

   自分が楽しめる仕事を選ぶことは重要 p.89

   名簿をくって手紙を出して、何人かに合い インターンの仕事をえた p.111

   面接によばれたら必ず行きなさい 新たな気付きがあるはず p.112

 仕事についたからといって 縛られる必要はない p.114

   最初の給与を交渉するべきではないか 聞かれたらこの程度という数値を用意するべき そのためには業界の給与水準について調査しておくこと p.116

   平均的な起業家は学位を取得 業界でしばらく働いた人で 大学中退者ではない p.118

   どんな仕事も見下さず 職場になくてはならない存在になるように p.118

おカネは大事、そのことを教えるのだが、それがすべてではない。大事なのはそのバランスなのだ。どうすれば人生に成功できるか。成功する子供を育てるにはどうすればいいか。義務とか責任とか。最後までやり通す力とか。

   子供におカネばかり与えているとおカネのスキルは身につかない p.21

何を教えて何を教えるべきではないか。親はお手本を示すべきだと書かれている。子供の活動にどこまでかかわるべきか。子供が自分で発見して学ぶべきだと書かれている。一つ一つは言い古されてきたことだが、これだけ緻密に書かれているとガイドブックとして役立ちそうだ。特徴は、子供の成長段階に応じて書き分けていること。

投資についても見ておこう。

 流行している株式投資ゲームの問題点は投資期間が短かすぎて、リスクの高い株に投資した者が手早く勝てる結果になることだとしている。本来学ぶべき分散投資の学習には不向きだとしている。pp.258-259  株式投資ゲームが非現実的なのはそのとおりだ。しかしでは、3年間とかある程度期間を長くすればいいかというと、そうでもないように思える。日々変動する相場の中で、過去に蓄積された知的遺産ではない。その相場は日々動いてゆくもの。学校では、過去の知的遺産の習得に励むべき場所で、日々移ろってゆく相場に付き合う場所ではないのではないか?

   分散投資効果のあるインデックスファンドでの投資が繰り返し推奨されている。pp.259-260, 275-276

 高校生の段階では個人退職口座の開設が、社会人になってからは確定拠出年金への参加が推奨されている。pp.262-265,  273-274 


証券市場論(前期) 証券市場論(後期) 株式投資入門
財務管理論(前期) 財務管理論(後期) 

 

 


王岐山副主席就任(3月17日)で習王体制が明確に

2018-03-20 18:17:51 | Area Studies

2016年1月  アジアインフラ銀行開業

2016年 石炭と鉄鋼で大規模は設備廃棄に踏み込む

2016年10月 人民元がIMFのSDRの5番目の構成通貨に加わる

       核心となった習近平(2016年10月)

2016年11月 トランプ次期大統領決まり ドル先高

2016年11月末 原則として500万ドル以上の大口両替 海外送金 海外M&Aは当局の事前審査を必要とする 銀行の外貨両替や元の海外送金制限 などの政策を開始。

2016年12月 8年ぶりの元安水準 金融政策を引き締め気味に転換

2016年12月   中国保有の米国債急減明らかに 背景:人民元買い支え

2017年1月 個人(両替は年5万ドルまでに制限)が銀行で外貨を買うときに 目的を書いた申請書提出義務付け

2017年1月 外貨準備3兆ドル割れ(為替介入を反映)

2017年3月 全国人民代表大会で今年の実質経済成長の目標を6.5%前後(3年連続での目標引き下げ)

     国家発展改革委員会 構造改革(生産能力削減など)の対象を石炭・鉄鋼から火力発電 建材 非鉄に拡大する方針示す 

2017年4月 保険監督管理委員会の項俊波主席が事実上失脚(保険業界の規制緩和進める業界と癒着)

2017年4月 米中首脳会談。

2017年6月 インターネット安全法施行

2017年9月末 外貨準備3.1兆ドル

第19期中央政治局常務委員会 新たな顔ぶれ(2017年10月)

 習近平 李克強 栗戦書 汪洋 王滬寧 趙楽際  韓正

2017年11月 地方政府の財政悪化を懸念 地方でインフラ事業の中断が続いている

2018年3月1日 トランプによる関税引き上げ宣言

2018年3月5日 全国人民代表大会開幕

2018年3月13日 全人代でさまざまな提案

・銀行と保険の監督当局統合案示される 銀行保険監督管理委員会

・あらゆる公職者を対象にした新たな汚職摘発機関 国家監察委員会の権限を定めた監察法案示される

2018年3月17日 国家主席など 全国人民代表大会全体会議で選出

習近平 国家主席 再選

    国家中央軍事委員会主席 再選

王岐山 国家副主席 前政治局常務委員 朱鎔基の薫陶を受け中国人民銀行副総裁 中国人民建設銀行(現在の中国建設銀行)頭取を歴任 98年広東省副省長 広東国際信託公司CITIC破綻処理を指揮 2003年SARSを受けて北京市長に転じSARS鎮圧 消防隊長のあだ名 2008年リーマンショックに際して金融担当副首相として大胆な利下げで中国経済急回復導く 米国債買い増しを実施 ドル急落を防ぐ 2012年秋には中央規律委員会書記に就任 半腐敗闘争を旗印に習の権力固めに貢献

王岐山の国家副主席就任について 胡平 2018-03-19 習李体制から名実ともに習王体制の始まり。ただ李克強がここまではっきりと抑え込まれるのはなぜだろうか。

 習近平と李克強との間で 経済問題(ゾンビ企業の扱いなど)路線対立が起きている 2016-06-22

 習主席によるライバル派閥抑え込み 2016-10-06ロイター

 国連演説などを外交で抑えられてきた李克強の復権への動きとみることもできる 2016-10-09

 東北特殊鋼の経営破たんは李克強への報復との説がある 2016-10-14

 次期首相候補孫政才の失脚   反腐敗運動と政敵の失脚 2017-07-18BJ

 李克強首相 手足もがれ2期目スタート 2018-03-18

栗戦書(党中央弁公庁主任) 全人代委員長 政治局常務委員

3月11日に採択した憲法改正(憲法改正は14年ぶり)で 国家主席と副主席について2期10年までとしていた上限を撤廃

3月19日の全体会議で 李克強 首相 再選

    副首相に 韓正 孫春蘭 胡春華 劉鶴

    国務委員(副首相級)に 魏鳳和(国防相) 王勇 王毅(外相)肖捷(国務院秘書長) 趙克志(公安相)

    劉昆 が財政相

    人民銀総裁に易綱(2007年以来副総裁だった、改革開放後渡米 イリノイ大学で教壇 南巡講話を契機に1994年帰国 北京大学を経て1997年人民銀行に参加。2007年副総裁。習近平の経済ブレーンである劉鶴と親交)を選出 Bloomberg 2018-03-18

    なお同様に人民銀総裁候補とされた郭樹清(山東省長)は2017年2月に銀行業監督管理委員会主席に就任。

           前任 周小川 2002年12月から 全国政治協商会議副主席の2018年3月任期切れにあわせ退任

    国家監察委員会主任に楊暁渡

    最高人民検察院検察長に張軍

    最高人民法院院長に周強

   Area Studies

 

 


MBOとPIPESの比較について

2018-03-18 14:17:23 | Area Studies


MBO(management buyout)は上場を廃止することによって 経営の自由度を高めることを目的にしている。手法としては経営陣と組んだファンドが主導する形でTOBが実施される。経営陣が買収側となるため、買収価格を決める過程で利益相反が起こりやすいとされる。非上場により、意志決定の自由度やスピードが改善される。利益を一時減らすなど思い切った投資を展開しやすい。

上場していると 短期的収益の悪化 株価の下落 などを避け 配当を維持しようとして 思い切った経営改革しにくい。

PIPES(private investment in public equities)方式は、買い手である(また一時の持ち手である)ファンドと話を詰めて、私募増資や第三者割引などの手法で市場価格より下値での取得するもの。ファンド側は下値での株式取得となる。ファンド側は株式を安く取得でき経営にもある程度関与できる。公募増資に比べて迅速に資金調達できるのは大きなメリット。ファンドの資金や経営力を借りることができる。また企業側(経営者側)は上場を維持できることもプラス。問題点としては、上場を続けていることで、大胆な経営改革はしにくいこと。

ところで一般にTOBでは市場価格より高い価格が提示されるが、日本では市場価格より低い価格で取引される「ディスカウントTOB」が時に行われる(英国では禁止 米国では事実上難しい)。あらかじめ相対で価格を交渉し、スピードを速く特定の買い手に株券をゆずるためとされる。事業再編や持合い解消を速やかに進めるためとされるが(価格について説明責任が残るという指摘があるほか)、ここにもPIPESが登場する余地がある。

MBO方式(非上場) 上場廃止への抵抗感があるが 経営の自由度上 意志決定早くなる 借金するなどリスクを取り込んだ投資しやすくなる。ファンドにとっては(経営陣を統制できるので)短期的資金回収には都合がよい。

 2017年3月のTASAKI ファンドはMBKパートナーズなど 

   2016年10月のアデランス 投資ファンドはインテグラル

  財務管理論(後期)  


統合に前のめりの金融庁 地銀合併と独禁政策

2018-03-18 07:26:50 | Area Studies

 
 地銀合併に公正取引委員会がストップをかけるケースが増えている。地域金融機関が抱えている経営問題。これと独禁法とが明らかに対立し始めている。問題は監督官庁である金融庁が金融再編を主導して、つまり金融機関再編を進めていることとの関係だ。公正取引委員会が杓子定規なのかどうか? 疑問になるのは金融庁は地域金融機関の経営問題を地域住民の視点でも検証しているのかどうか? 金融庁の姿勢は、消費者や企業側からみた視点を欠いており中立性を失しているように思える。なぜ金融庁は行政機関として性格がゆがんだ状態(民間のことを民間に任せずリーダーシップをやたらと取る状態)に陥っているのだろうか? 

 2017年12月15日時事 公正取引委員会 第四と北越の経営統合計画を承認   

 2017年12月6日ロイター東洋経済 山田総長会見報道 長崎 新潟 ふくおか銀行+十八銀行 第四銀行+北越銀行

 2017年7月28日サンケイBiz ふくおか銀行 十八銀行 地域の預金・貸出の6-7割 地域寡占形成が問題視されている

 2017年7月26日bizj 金融庁主導の金融再編と公正取引委員会

 2017年7月26日ロイター東洋経済 ふくおか銀行と十八銀行 合併阻む公正取引委員会 金利低下・人口減

 2017年4月5日ロイター東洋経済 第四と北越が経営統合で基本合意

 2017年3月8日サンケイ 金融庁西田審議官 長崎県の地域金融機関の経営統合で積極姿勢

 2014年10月7日ダイヤモンドオンライン 金融庁主導の地域金融機関経営統合は正しいか?

 2014年2月7日bizj 異例の金融庁主導の地域金融機関再編 和製ファンドの利益が狙いか 金融庁という役所は誰のために行政をしているのか?

 

  金融システム  


グローバル化進める三菱東京UFJ銀行

2018-03-17 23:42:25 | Area Studies

三菱UFJ銀行は、国際化に舵を切ったように見える。 

2012/11/24ロイター 傘下のユニオンバンク 買収で全米10位以内入り目指す

2012/12/27日経 国営大手銀行ヴィエテンバンクに20% 631億円出資へ

2013/07/02  タイで第5位の商業銀行アユタヤ銀行を買収へ 最大5600億円   で子会社化

2016/01/18東洋経済   フィリピン セキュリティバンクに950億円出資

2017/08/09ブルームバーグ グローバル化目指すMUFG 米英で採用の15人が日本で研修 

2017/10/13プレジデント  利益の4割が海外 株主も4割が海外になった

2017/11/26  インドネシア時価総額で5位 ダナモン銀行買収へ(今後最大で7000億円)まずシンガポールテマセクHDから取得 


どうなる 韓国GM

2018-03-17 16:47:53 | Area Studies

 

2017年3月7日 GMはオペルをプジョーに売却 この結果 韓国GMの対欧州輸出は激減することになった 

2017年4月17日 GM本社は2013年に欧州 続いて2015年ロシアから シボレーブランドの撤退を決定 シボレー車を輸出していた韓国GMは結果として 対欧州 ロシアへの輸出を激減させた。韓国GMは対欧州・ロシアの生産基地としての機能を低下させた。

2017年7月17日 韓国GM 労組がスト入り 

2017年9月22日 韓国GMの撤退あおる労組のストライキ

2017年11月22日 撤退説のなかで 韓国GM 労働組合内部で労労対立 非正規が波状スト 

2018年2月13日 韓国GM 群山工場の2018年5月閉鎖を発表

2018年2月23日 韓国GM没落の原因は貴族労組にある 生産性が低いのに高い賃金を要求

2018年2月27日 Newsweek    22日発表された世論調査で国民の多くが韓国GMへの無限定な公的支援に反対 背景 高い失業率 外資系企業への不信

2018年2月27日 ロイター 東洋経済 国民の多くは公的支援に反対 背景:恵まれた条件を維持しようとする労働組合への批判+高い失業率 他方で韓国産業銀行は韓国GMの17%の株を所有している。


ブロードコムによるクアルコム買収提案(2017年11月発表)の波紋

2018-03-17 13:24:02 | Area Studies

ブロードコム(本社 シンガポール 2017年11月2日社長のタン氏は トランプ大統領と共に記者会見して米国に戻すことを発表 このときは米税制改革の成果のように報道されたが、その4日後の6日早朝 ブロードコムはクアルコム買収を発表。本社を米国に戻すというのが見せかけで、狙いがクアルコムにあることを示した。つまりシンガポールに本社がある、中国系企業では米企業を買収しにくいことからまずは米国の企業に戻ると発表。そしてクアルコム買収に進んだ。米国でこれを安全保障上の脅威と見る見方が台頭するに時間はかからなかった。もともとは米HPが設立したアバコテクノロジーズが母体 2015年に旧ブロードコムを370億ドルで買収で新発足 大容量通信 WiFi向け半導体に強い M&Aとリストラで企業価値を高めてきた。「のれん」が巨額化しているが親中国系企業とされている。)による米半導体大手クアルコム(スマホ携帯電話のチップで圧倒的世界的シェア だが200億ドルの売り上げの9割を携帯に依存 一本脚打法に株価低迷 創業のポール・ジェイコブ氏が会長)買収 の発表から収束までの顛末は以下のとおり。

他方、クアルコムの事業モデル テクノロジーイネ(イ)ブラーtechnology enablerと呼ばれるもので 通信モデムなど携帯電話向け半導体をつくるとともに 端末造りに必要な基本技術の特許を取得 端末メーカー育てながら 両輪(チップと特許料)で稼ぐというもの。⇔ 携帯の普及とともにクアルコムの収入も増加 ⇔ 各国の競争法が優越的地位の乱用を指摘 ライセンス料の支払いで顧客であるアップルなどともめていることが17年に入り表面化 また スマホ市場も成長鈍化 クアルコムの株価は2016年末の60ドル超をピークに低下。2017年11月初旬 55ドル前後をさまようまでに。クアルコムの上位株主には投資助言会社やファンドが並ぶ(バンガードGが7% フィデリティマネジメントオ&リサーチが5% など)。このような株主構成はクアルコム買収が成立しやすいことを意味している。

 2013年1月13日ダイヤモンドオンライン クアルコムが進めるイネ(イ)ブラーenablerビジネス

2017年11月6日早朝 ブロードコム(ホックタンCEO) 同月2日の株価に28%上乗せ1株70ドル総額1030億ドル(12兆円)買収提案発表 両社の株価が上昇 クアルコムは一時65ドル上回る

          ブロードコム クアルコム買収で巨額資金調達か(11月7日) 

    11月8日  クアルコム データセンター用チップ参入を発表

    11月13日  クアルコム 過少評価としてブロードコムの買収提案を拒否

         中国のスマホメーカー クアルコムの混乱を予測して発注控える(11月20日)

    12月4日 ブロードコムはクアルコムの経営陣交代を要求 敵対的買収に踏み出す 3月の総会に向けて委任状争奪戦へ(背景には顧客の側の半導体内製化の動きがあるとされる アップル アマゾンドットコム グーグルなどはそれぞれ自社開発の動き 背景 データセンターの急増と受託製造会社の成長 必要となる資金力・先端分野への知見)

         スマホメーカ― 脱クアルコムの動き 2015年7月28日 

         スマホ向け半導体における内製化 2015年

         車載半導体における内製化 2015年

    12月5日 クアルコム 台湾エイス―スと組んでPC向け半導体に参入を発表(同日 同分野でAMDと組むことも発表)

         ブロードコム クアルコム買収に成功するとどうなるか(12月7日)

         中国の大手スマホメーカー2社が合併に反対を表明(2018年1月11日)

2018年1月16日 クアルコム 10億ドルのコスト削減などで1株当たり利益引き上げる成長戦略発表

    1月31日 クアルコム サムソン電子との提携強化を発表(サムソンへの技術供与で長期契約)

    2月5日 ブロードコム 17%引き上げ1株82ドル 負債引受除き総額1210億ドル(13兆円)を提案

    2月8日 クアルコム 再提案拒否を発表

         買収は株主に短期的にプラス 業界に長期的にマイナス(2018年2月16日) ブロードコムは買収を繰り返し 収益管理を徹底 低い部門は売却を繰り返してきた 長い目で見て買収は業界にとりマイナス。他方 クアルコムは高いロイヤルティ料をとり顧客と対立するモデルから抜け出せないでいる。

    2月14日 両社が首脳会談するも クアルコムは買収拒否を発表(16日)

         クアルコム ブロードコムの買収提案を拒否(2月17日)

    2月20日 クアルコム 買収手続中のNXPの買収額引き上げを発表

        ブロードコム 買収金額を1株79㌦に引き下げ

         共和党幹部 安全保障面の審査必要と明言(2月28日)

    3月4日 対米外国投資委員会CFIUS 安全保障上の懸念がある(ブロードコムはなおシンガポールの企業というクアルコムの申し立て 次世代通信規格5Gに向けた技術開発が滞らないかという懸念)として3月6日の総会の1ケ月延期を要請 ⇔ 4月5日に延期

         米財務省 クアルコム買収で懸念を表明(2018年3月5日)

         クアルコム 株主総会を30日間延期(2018年3月6日)

    3月9日 インテル(もともとパソコン向け 超小型演算処理装置MPU 中央演算処理装置CPU などの  半導体で圧倒的シェア モバイルへの対応を急いでいる) ブロードコム買収を検討

         インテルがブロードコム買収を検討(2018年3月12日)

    トランプ ブロードコムによる買収を国家レベルの脅威として禁止を命令(米国時間2018年3月12日)

    ブロードコム 買収断念を発表(2108年3月14日)

0riginal 2018-03-12

Revised  2018-03-14  

     


浅野幸弘と安達智彦の株価尺度論(1996-1997)

2018-03-15 18:03:30 | Area Studies

浅野幸弘『投資家から見た株式市場』中央公論社、1996
安達智彦『株価の読み方』ちくま書房, 1997
浅野さんはPERの高さを保障するのは、投資機会=フランチャイズファクターだといっている。わが国のような成熟経済でフランチャイズファクタ-が広範に存在するはずはないとしている。PERではなくPCFRでみるべきだという議論については、PCFRに切り替えても米国に比べて大きな数値になることは変わらない。減価償却が大きく余計にコストをかけていることは資本にとって利益が低いことを意味するとしている。株式持合いの慣行はPERを押し上げている可能性がある。また株価をみるとき、株主が受け取るのはあくまで配当であるので配当割引モデルから出発するべきだとしている。(浅野さんの本 第3章)

安達さんの本では 投資尺度の変遷のところ(第2章)がおもしろい。まず配当利回りは配当狙いの投資家がいるので指標として一定の有効性がある。つぎにPERは成長性の指標として使える(割引率が変化しなければPERは成長率に依存するとしている)。つぎにROEは企業評価のグローバルスタンダードなどといわれるが(いろいろ問題がある)。ROEには①株主の期待する収益率という意味での資本コストが反映されていない。②株価がまったく考慮されていない。株価の割高割安の判断ができない。③株主が負担するリスクの大きさに応じて変化するリスクプレミアムが反映されていないので、リスクの異なる企業間の比較に使えない。④ROEの水準は資本構成、会計上の自己資本比率の大きさによって変わる。そこで資本構成が等しくない限りROEによる株式銘柄間比較は意味をなさない。・・・実証研究においても、ROEの水準とその後の株価変化率の関連性は薄いとされている。これに対してEVAはROEに比べてはるかに優れた尺度である(資本コストを計算するとき時価評価した投下資本×加重平均コスト そしてEVA=税引き後営業利益ー資本コスト)。(安達さんの本 第2章)。

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