日本の学校システムには、法律とそれに伴う政省令が網の目のように張り巡らされています。たとえば、1学級の生徒人数とか、小学校で何を教えるとか、職員会議は校長が主宰すること、というようなことを国が定ます。
こういうものは、学校マニュアルと言っていいものです。学校マニュアルを法令にした弊害が、日本の学校にあります。柔軟性がないのです。
学校を運営しているのは公務員たちですから、法令を批判してはいけない立場です。それで、法令でまずいことがあっても、「これでは、うまくいきませんよ」と言う声が上がりません。
学校も教育委員会も、法令の枠の中でなんとかしようと頑張ります。それで、精神論がはびこります。
学校システムが法令だらけになったのは歴史的経緯があります。
戦後、文部省は暫定運営を任されていました。官庁の指揮権には法令の裏づけが必要なので、文部省はなんでもかんでも成文の法律に書きました。戦前、法律なしに勝手に命令する官僚が多かったことの反省でもありました。
文部省はやがて教育委員会に主要な権限を委譲して、サポート機関となる予定でした。しかしその後の文部省は、権限を委譲せずに教育運営の実権を握りました。
その運営方法が、今も続いています。日本全国の学校が、お役所みたいになっていきました。
この“お役所体質”が日本教育の質を落としています。
不登校、学級崩壊など、いよいよ追い詰められた人たちが現れるまで、問題の所在がわからないのです。
それなのに、教育基本法政府案が、この病気をいっそうひどくさせようとしている。大きな問題点が2点あります。
まず第一に、〔教育行政〕の中に「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり‥‥‥」としていることである。「法律の定めるところにより」を挿入したら、日本の教育のお役所体質はもっとひどくなるでしょう。現在の病気は、「法律の定めるところ」の蔓延で起こっています。
次に、〔教育振興基本計画〕そのものの問題である。これは、文科省の教育指揮権をそのまま固定するようなものです。現場との乖離がいっそうひどくなるでしょう。
(転載歓迎 古山明男)
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