教育基本法改正案を読んでいると、こういうことを感じます。
「こういう法律を作る人たちは、立法によって道徳を呼び覚ますことができると信じている」
法律が人間の内面に向けられれば、内面の道徳を破壊するのではないでしょうか。法律は、納得がなくても従わなくてはならないものです。
私は、道徳意識というのは、メロディーのようなもの、美意識のようなもの、運動感覚のようなものだと思います。言語にできません。
本来の道徳は、規範意識から生まれるのではないと思います。
むしろ、芸術や手作業から生まれてくるものです。運動感覚や、数学とも関連している。そして、愛情に満ちた人間関係。
美しいものを知っているから、間違っているものがわかります。愛されたことがあるから、いけないことがわかります。規範から道徳ができるのではなく、道徳から規範意識が生まれてくるのです。
そりゃあ、子どもに「ああしろ」「こうするな」と言うときもあります。でも、それは時と場合のこと。命令・指示で育てるなら、うわつっらだけの態度、大人の顔色を見る態度を育てるだけです。
規範意識ではなく、道徳をいかに育てるかということでは、シュタイナー教育がもっとも意識的だと思います。芸術から道徳が生まれることを知っているのです。
私が児童・生徒のとき、学校が嫌だった最大の理由は、そこが規範だけでできていて、道徳がないことでした。それは、魂の砂漠に住むことでした。今になって、やっとそのように言語化することができます。
ようするにふつうの学校は、標語を振りかざしている公務員組織だったんですね。
学校は、道徳を持っているふりをしています。数々の標語があり、数々の教育目標があります。
すると、道徳的になったような気がするのです。でも、それらは実はプロパガンダなのです。
「心」とか「道徳」とか言う人たちは、民主主義では解決できないものがあることを直感的に掴んでいるから言うのだと思います。たしかに、そういう次元のものがあります。
でも、それを法律に書いて実現しようとするなら、その人たちは法律と道徳の区別がついていません。国家権力にすがって道徳を創ろうとするのです。
それは、ノミやハンマーを使って絵を描こうとするのと同じです。
(転載歓迎 古山明男)
現在の教育に欠如しているものは公共心ではないかと思います。これは愛国心と比べて身近なものであり、必ずしもイコールといえないものです。また公共心は学校だけでなく家庭やコミュニティーで教育すべきものでありますが、まず公共心を教育されるべきは大人ではないか、ということが教育に関する大きな問題点であるのではないかと思います。