【どうにも】
プロ野球を運営するサイドはどうにもこうにも現場のことなんて何も考えていない様子が見て取れる。来シーズンからの2段モーション禁止などの投球動作の厳格化だ。
【足の上げ方はまだしも】
足の上げ方について、というのならまだ少し納得しようかと思っていたが(そもそもそれにも個人的には疑問があるが、とりあえず置いといて)、投球動作が要するに流れるようにやらないとダメ、という非常に大きな解釈になって適用されるようだ。だが、そもそもその改革は何のために行われるのだろう。よく言われるのは「国際的なルールどおりに」とかいう話だが、確かに去年のアテネ五輪でも岩隈(E)、三浦(YB)ら足の上げ方に特徴がある投手や、小林雅(M)のようなセットポジションが変わっている選手らは投球を自発的に制限した。だが、今日nikkansports.comを見ていて、数多くの投手が反則投球と指摘された、ということだが、その中には上原(G)、松坂(L)、岩瀬(D)ら、国際試合でも登板していて、なおかつ特にフォームに関して何も指摘されていない選手も数多く含まれている。まだ、国際的にはボークとなるとかそういう話があるのなら納得できるかもしれないが、国際試合で何も言われていない選手たちが、規則委員の言う「日本野球の底辺のために正しい投げ方をしましょう」とか、そんな具体的でもない説明でフォームを反則とされるのならたまったものじゃないだろう。
【そもそも】
「日本野球の底辺のため」ってなんだ。ピッチャーが画一化されるのが日本野球の底辺のためになるのだろうか。それは結局投手全員を底辺まで押し下げることにならないのだろうか。画一化してひとつの平面にしてしまうことは「底辺のため」とは言わないだろう。これまでフォームをいろいろ言われている投手たちも「相手を欺くため」にあのフォームにたどり着いたのではなく、球に力を乗せるためのタメを作るためにそうなっただけである。事実、選手サイドから岩隈や三浦に苦情が出ているだろうか。彼らは確かに足を上げたあと再度足を上げなおすかもしれないが、それはどの投球でもそうなのである。特定の球だけそういうフォームにしているわけではない。第一、現場全体が反発していることを強制することに何の意味があるのだろうか。「日本野球の底辺のため」にやらなければいけないことは果たして本当にそういうことなのだろうか
【工夫をすることの放棄】
投手の投球フォームというのは各人の創意工夫で導かれたものであり、identityでもある。それをみんな同じに、というのは完全に工夫をすること、考えることの放棄である。さほど恵まれた体をしているわけではない日本人が外国人投手と比肩するような球を投げるためには上体だけでなく体全体のパワーを使わなければならず、そのためには投球のタメというのはどうしても必要だろう。それをどうやってやるか、ということを考える土壌を残すほうがよほど「底辺のため」になるのではないだろうか。規則委員会側の言う「流れるような投球フォーム」で、今までどおりの投球ができる投手など本当に一握りのはずだ。「タイミングをずらすため」に止まっているのではないわけだから、それが反則の精神で行われているのではない、というのは現場はみんな知っている。それに、規則をすり抜けようという精神を持って野球に臨んでいるのはむしろ現場ではないわけで、規則を厳格化するならまず先にメスをいれなきゃいけないところがあるだろう、と思うわけである。
プロ野球を運営するサイドはどうにもこうにも現場のことなんて何も考えていない様子が見て取れる。来シーズンからの2段モーション禁止などの投球動作の厳格化だ。
【足の上げ方はまだしも】
足の上げ方について、というのならまだ少し納得しようかと思っていたが(そもそもそれにも個人的には疑問があるが、とりあえず置いといて)、投球動作が要するに流れるようにやらないとダメ、という非常に大きな解釈になって適用されるようだ。だが、そもそもその改革は何のために行われるのだろう。よく言われるのは「国際的なルールどおりに」とかいう話だが、確かに去年のアテネ五輪でも岩隈(E)、三浦(YB)ら足の上げ方に特徴がある投手や、小林雅(M)のようなセットポジションが変わっている選手らは投球を自発的に制限した。だが、今日nikkansports.comを見ていて、数多くの投手が反則投球と指摘された、ということだが、その中には上原(G)、松坂(L)、岩瀬(D)ら、国際試合でも登板していて、なおかつ特にフォームに関して何も指摘されていない選手も数多く含まれている。まだ、国際的にはボークとなるとかそういう話があるのなら納得できるかもしれないが、国際試合で何も言われていない選手たちが、規則委員の言う「日本野球の底辺のために正しい投げ方をしましょう」とか、そんな具体的でもない説明でフォームを反則とされるのならたまったものじゃないだろう。
【そもそも】
「日本野球の底辺のため」ってなんだ。ピッチャーが画一化されるのが日本野球の底辺のためになるのだろうか。それは結局投手全員を底辺まで押し下げることにならないのだろうか。画一化してひとつの平面にしてしまうことは「底辺のため」とは言わないだろう。これまでフォームをいろいろ言われている投手たちも「相手を欺くため」にあのフォームにたどり着いたのではなく、球に力を乗せるためのタメを作るためにそうなっただけである。事実、選手サイドから岩隈や三浦に苦情が出ているだろうか。彼らは確かに足を上げたあと再度足を上げなおすかもしれないが、それはどの投球でもそうなのである。特定の球だけそういうフォームにしているわけではない。第一、現場全体が反発していることを強制することに何の意味があるのだろうか。「日本野球の底辺のため」にやらなければいけないことは果たして本当にそういうことなのだろうか
【工夫をすることの放棄】
投手の投球フォームというのは各人の創意工夫で導かれたものであり、identityでもある。それをみんな同じに、というのは完全に工夫をすること、考えることの放棄である。さほど恵まれた体をしているわけではない日本人が外国人投手と比肩するような球を投げるためには上体だけでなく体全体のパワーを使わなければならず、そのためには投球のタメというのはどうしても必要だろう。それをどうやってやるか、ということを考える土壌を残すほうがよほど「底辺のため」になるのではないだろうか。規則委員会側の言う「流れるような投球フォーム」で、今までどおりの投球ができる投手など本当に一握りのはずだ。「タイミングをずらすため」に止まっているのではないわけだから、それが反則の精神で行われているのではない、というのは現場はみんな知っている。それに、規則をすり抜けようという精神を持って野球に臨んでいるのはむしろ現場ではないわけで、規則を厳格化するならまず先にメスをいれなきゃいけないところがあるだろう、と思うわけである。