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骨董と偶像

好きなもの&気になるものリスト

タマラんぞ、レンピッカ

2004-11-04 00:28:00 | 絵画
昔、パルコがいろいろと印象深いTVCMを流していた時期があり、その中で「時代を斬ったら(扉を開けたら、だったかな?)、タマラがいた」というのがあった。
そこに登場するのがこの一枚。タイトルは「AutoPortrait」。
アールデコ+キュービズムっていうのかな、人物がさまざまな多面体で表現されていて、エッジも鋭い。
描いたのは、タマラ・ド・レンピッカ。ワルシャワ生れの美人画家だ。革命を逃れ、弁護士の夫ともにパリへ。亡命先で絵を描きながらその美貌によって一躍社交界の寵児に。後に渡米。後期の作品には魅力を感じない。やはり20年代の初期作品に限る。30年代前半までは、まあまあかな。1980年に没。

絵の人物は彼女自身(だって、そっくりなんだもの)。この絵が描かれた1920年代に華開いたモータースポーツ。つまり、画中で緑のブガッティのハンドルをにぎっている私自身が「時代そのものなのよ!」という自信に満ちあふれた一枚。
構図もいいでしょ? ブガッティのフレームが効果的に画面を分割していて、人物の顔は右上すみっこに。
銀色のヘルメット。長いスカーフ(こういうのが車輪に巻きついて、運転中に窒息死する女性までいた)は当時の流行。モードの勉強とかすると、けっこう耳にする名なんじゃないかな。実際、彼女は雑誌の表紙の仕事も多かったから。

「AutoPortrait」の実物は旅先の広島で企画展に出くわし、鑑賞した。まだタマラんので、これ以外にも印象に残った絵はいずれまた。

バルテュス「ギターのレッスン」

2004-10-14 00:05:55 | 絵画
タイトルを聞くと、思わず吹き出してしまう。
折檻とか、怒れる女とか、どうでもつけようはあるだろうに、「ギターのレッスン」とは。
母親か先生か知らないが、ギターを弾いていたであろう少女自身をギターにしてしまう。これは少女ではなく女のほうの「練習」なのだ。女にとって、ギターは娘のように愛らしい、それでいて時に勢いよく、乱暴に弾く。それも愛器ゆえの演奏なのである。
まあ、均整のとれた女性の裸身は後ろからみるとボディの部分がギターの形に見えますけどね。でも、これはまだ凸凹がはっきりする前の・・・・・・(ウオッホン)

バルテュス、1934年の作。そして、その後四十年余の間、作者によって公開を禁じられていたスキャンダラスな作品。
小説家浅田次郎氏がヤクザものを書いていたのは小説家になるための「突破口だった」と言っている。やはり、画壇に登場する上での「突破口」であったのだろうか。

グルーズ「壊れた甕」

2004-10-12 21:39:25 | 絵画
楕円形のカンバスに描かれた絵をみれば、だいたいの人はピンとくるだろう。テーマはロストヴァージンである。
甕は少女の処女性を示し、その破壊は、破瓜を意味している。下腹部をおさえる両手も暗示的だ。
タイトルの「壊れた甕」のもともとの由来は、「たびたび水を汲みに行けば、甕も最後には壊れる」という諺である。処女喪失をモチーフとした絵画には、鳥の死を嘆く少女であったり、鏡を壊した少女であったり、いろいろヴァリエーションに富んでいるのだが、ポイントは「喪失」を嘆くか、意に介さないか、という二通りの描き方にあるように思う。

水汲み場のライオンの口から吐き出される水、黒々としたシルエット、それは少女を襲った「もの」である。それなのに、この絵の少女はスカーフもずれ、胸が半分あらわになって乳首が見えるほど服装が乱れていながら、自分のしでかしたこと(あるいは自分の身にふりかかったこと)に対して、さして気に病む様子が見られない。
もっとも澁澤龍彦はそうは見ていない。少女の顔を「放心状態」と見、「割れたのは甕だけではないらしい」と書いている。強いられたものだったのか、あるいは合意に基づくものなのか、見方によっていろいろな解釈も出てくるのはやむを得ない。そう思わずにはいられない、少女の曖昧な表情によって。

作者のジャン・バティスト・グルーズは非常に世俗的な絵を残しているが、この絵画はかのポンパドゥール夫人の後釜になって宮廷で寵愛されたデュ・バリー夫人が所有したこともある。
この絵を澁澤龍彦の『エロティシズム』(中公文庫)の挿絵で見て以来、いつか現物を見たいものだと思っていた。それが叶ったのは、1997年の「ルーブル美術館展」において。

エロティシズム 改版(中公文庫)
渋沢竜彦著

出版社 中央公論社
発売日 1996.11
価格  ¥ 760(¥ 724)
ISBN  4122027365

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フレデリック・レイトン「Framing June」

2004-08-29 11:18:45 | 絵画
この絵をおぼえていたのは、映画『ピクニック・アット・ハンギングロック』の中に象徴的に使われていたからだ。(映画についてはいずれ書く機会もあろうかと思う)
最近ではSF大賞受賞作、古川日出男著『アラビアの夜の種族』の表紙にも使われた。
女性はからだの火照りに身をよじりながらも眠りに入る。その物憂げな女性の寝姿。炎をイメージするオレンジ色の薄物は女性の汗を吸ったようにシワがよっており、素肌にはりついたそれを透かして見える乳首の屹立。テラスには風はなく、午後の海も凪いでいる。海原はあたかも女性がみている夢を思わせる。さまざまなイメージをわれわれに喚起させる絵である。
タイトルを邦訳すると「燃える六月」とか「燃え立つ六月」とか「六月の熱き思い」などと表記されている。
この「Framing June」はフレデリック・レイトンのもっとも有名な作品といえるのではないか。レイトンについては知らなくても、「Framing June」は見たことがある、あるいは気になっている、という人は多いだろう。

フレデリック・レイトンについては、以前、リブロポートから画集が出ていたのだが、版元が事業を撤退してしまったため、入手できなくなった。レイトンについてあまり知られていないのは、こうした状況もある。現在ではレイトン作品を収蔵する美術館展か、あるいはラファエル前派展に含められていることが多い。
どこの美術館でもかまわない、規模の大きなレイトン展の開催を期待してやまない。

アラビアの夜の種族

古川日出男著
出版社 角川書店
発売日 2001.12
価格  ¥ 2,835(¥ 2,700)
ISBN  4048733346

聖遷暦1213年、偽りの平穏に満ちたカイロ。訪れる者を幻惑するイスラムの地に、迫りくるナポレオン艦隊。読むものを狂気に導き、歴史さえも覆す1冊の書。 [bk1の内容紹介]
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ギュスターヴ・モロー「出現」およびサロメ連作

2004-08-24 13:34:22 | 絵画
はじめて目にしたのは、朝日新聞日曜版である。世界名画の旅という連載で、各地の名品とそれにまつわるエピソードや画家の生涯を追いかけるものだ。現在、単行本数冊にまとめられているはずである。

世界中あまねく取り上げて、毎週記事にするのだから、当然ながら取材には複数の記者があたったのだろう。ところが、どういうわけか、血生臭い絵がしばしば出てくる。不思議なもので、そういう絵ほど印象に残っている。ギュスターブ・モローの「出現」もそのひとつだ。

モローはおかしな画家で、その作品はいかにも「途中で制作するのを投げ出してしまった」ようなものが多い。明らかに習作とされるものもあるが、「ユピテルとセメレ」を「晩年最大の完成作」(国立西洋美術館ギュスターブ・モロー展図録)という見方もある。習作とは明らかに異なる。

「出現」に代表されるサロメ連作にも習作が多く遺されており、いったい自分がどれを実見したのかわからなくなることがある。

「出現」は、聖書の中の挿話に材を採った、ヘロデ王の娘サロメの話を描いたものだ。もっとも、聖書にはサロメの名は出てこない。
サロメは七つのベールの踊りを父王に見せるかわりに、褒美として牢に囚われているヨカナーンの首を要求する。その行為はやがてサロメの身にはねかえってくるのだが、この悲劇はオスカー・ワイルド、ビアズリー、リヒャルト・シュトラウス、ケン・ラッセルなどさまざまな分野の芸術家の心をとらえたのだった。

サロメは父王ヘロデに殺される運命にある。モローが描くヘロデは次第に背景に溶け込んでいき、顔ものっぺらぼうのようになる。埴谷雄高は言っている、
「《のっぺらぼう》は、文学的思考法によってのみようやくひそかに暗示し得るところの、一種の暗いヴィジョンにつつまれた何者かなのである。(中略)彼(ドストエフスキイ)は、生涯、神の問題で苦しんだ、と自ら公言するが、彼が苦しんだ最大の理由は、彼のかいま見た神の顔が《のっぺらぼう》であることが彼を納得せしめないことを、彼自身理解しなかったことに由来する」(「存在と非在とのっぺらぼう」)

つまり、のっぺらぼうとは、神になることだ。
サロメは神によって殺されるのである。

ギュスターヴ・モロー(「知の再発見」双書 77)
ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル著・南条郁子訳
出版社 創元社
発売日 1998.06
価格  ¥ 1,470(¥ 1,400)
ISBN  4422211374
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