不要なモノを処分して、スッキリとした暮らしをしている人たちが、SNSや動画でよく発信しているのが「捨ててよかったモノ(やコト)」の話です。
私自身は「捨ててよかった」という感情とは少し違っていて、「処分したことで安心を手に入れる(た)」という側面が大きかったです。
本日は、処分したことで、私が安心できたことについて綴ります。
不要品の処分を始めたきっかけ
私が、大掛かりな不要品処分に着手し始めたのは、20代の終わり頃でした。
その当時は、まだ私には体力もありましたし、腕力も脚力もかなり丈夫でした(笑)
ですから、セパレートになっている背の高いキャビネットの上部を外して下ろすことが1人でできましたし、粗大ごみを出すごみステーションへ運ぶのも、全て1人でしました(もちろん台車などを使ってですが)
私が自室の家具を処分しようとしたきっかけは、いくつかあったのですが、その中でも阪神淡路大震災を報道で目の当たりにしたことが、かなり影響しています。
阪神淡路大震災は、家屋の倒壊と火事による被害が大きかったのですが、後々家屋の中で、倒れてきた家具の下敷きになり命を落とした人が多くいたことは、未だに忘れません。
なんとか一命をとりとめた被災者の方々の、当時の様子をテレビなどで見ていて、とても恐ろしくなり、自分もいつかこの大きな家具の下敷きになってしまうかもしれない、という危機感を覚え、また他の理由も加わって、家具を処分することにしたのです。
家具の処分に伴い、中に収納していたモノも当然処分していきましたが、最近になって処分した家族が使っていた家具については、また違う気持ちがあって、処分を急いでいた部分があり、収納していたモノの処分も時には強引に進めました。
災害に遭遇したら
地震や台風、そして最近では異常気象に伴う豪雨などの自然災害に見舞われたとき、被害が大きい場合は全てのモノが奪われてしまう可能性があります。
避難する時間が多少なりともあれば、貴重品だけは持ち出すこともできますが、そのほかのモノは根こそぎ奪われてしまうかもしれません。
もしも、そうなったら、私はどうするだろうか?と考えると、少しでもモノは持っていない方がいいという結論に達し、同時に多くのモノを持たずとも、人は快適に暮らしていけるのではないか、とも思えます。
たくさんの不要品を処分して、私が今感じていることは、現金と通帳とカードと登録印、そしてマンションや土地の権利書と身分を証明できるモノだけを持ち出せば、あとは失っても何とかなるはずだ、ということです。
少し前の自分であれば、失ったら心が折れて取り乱してしまうかもしれない、失ったショックで毎日眠れないかもしれないと考えていました。
もちろん、思い出深い品を失えば、少し悲しい気持ちにはなると思うのですが、大事なのは私がきちんと覚えていられるかどうかなのだ、と考えるようになってからは、モノが壊れたり失われたりしても落ち込む必要はないと思えるようになりました。
そして、もし私が思い出を忘れてしまったら、モノがあったとしてもその程度の思い出なのではないか、とも思うので、結局モノに対して執着する必要はないのだと思っています。
このように考えることができるようになったことで、漠然と感じていた不安がなくなりました。
地震で家具が倒れてきたら、火災や台風や豪雨で大事な品を失ったら、私はそのときどうしたらいいのだろう、と考える必要がなくなったからですね。
たくさんのモノを持てることは、幸せなことなのかもしれませんが、同時にモノを失う不安も手に入れてしまうことになるのだな、と今では強く感じます。
たくさんのモノを処分して、将来の不安も処分できました。
自分が老いたら
家族の老いは、不要品を見極める大きなチャンスだと思っています。
私も、50代に入ってからは体調の優れない日が増えましたし、母は80歳になり(来年81歳です)持病も改善する気配はなく、年々足腰や手指が弱ってきているのが、目に見えて感じられます。
私が、家族のモノを大量に処分したいと思った理由は、1つは故人である父や兄のモノをいつまでも持っていても仕方がない、という思いがあったからですが、最も強く感じていたのは、自分自身の老いによる体力の低下です。
この先、何年も使わないモノや家具をそのままにしておいても、若い頃のように自分で運び出すことはできないし、そもそも残っていた家具は、重たいし大きいしで、体力に自信のある男性であっても、1人で処分することは難しいモノばかりでしたから、とにかく私がいろいろ考えて動けるうちに、大半のモノは処分しておこうと考えました。
いろいろ考えて、大体の処分するスケジュールが決まってからは、母を何度も説得し、説得しきれない場合は時間が経過するのを待って再度説得を試みたりして、とにかく私が自分でごみ置き場まで運ぶことが可能なモノは、できる限り早めに処分してしまうことにしました。
結果、昨年やっとのことで、家具に収納していたモノを処分したり整理したりして、家具そのものを処分することができる状態になったので、業者に依頼して処分していただきました。
大きな家具を処分したことで、私は2つの安心を手に入れることができました。
そのうちの1つは、私が老いて体力も腕力も思考力も低下してしまっていても、処分すべきモノの量が減ったことで、今までよりも楽に処分ができる状態に近づいたという安心です。
まだ、残っている家具はいくつかあって、そのうちの数台は私1人では持ち出せませんが、業者に頼むとしても数が少ないので、料金も安くて済みますし、運び出すのにそんなに時間もかからないはずなので、予算的な安心も得ることができました。
家族の老い
家具を処分して手に入れた安心の2つ目は、家族の安全です。
処分した家具のほとんどは、どこかしらが経年劣化のため、欠けたり破損したりしていました。
特に危険を感じていたのは、扉の蝶番です。
蝶番が緩んだり、その部分が破損していたりしていた箇所が結構多くて、いつ外れて扉が落ちるかわからない状態でした。
また、扉が閉まっている状態をマグネットで固定している家具に関しては、扉を開ける際にマグネットが上手く離れずに、家具を倒してしまう危険性もありました。
そのような危険を感じ始めたのは、母の老いによる衰えです。
母は、力が弱ってきていたため、扉付きの家具を開閉する際に、かなり強く引っ張るようにしていました。
また、私がモノの管理をするようになって、あちこちにモノを移動させたことで、母はあちこちを意味もなく開閉することが多くなっていました。
日に何度もあちこち開閉する行動に、イライラが募り、一時期はノイローゼになってしまいそうでした。
加えて、何度も開閉するあまり、あちこちの扉がきしむ音がするようになってきました。
これは、いつ壊れてもおかしくないな、と思った私は、なんとか母の行動をやめさせようとしたのですが、一向にやめてくれないので、最終的には「扉付きの家具がなくなれば解決や!」となり、家具の処分に勢いがつきました(笑)
家具を処分したことで、今は母が扉を壊して落とす危険性も消えましたし、倒す可能性もなくなりました。
そしてなにより、母があちこちを開閉するという行動が減り、私が精神的に楽になったので、気にかかる事案が減ったという安心を得られるようになりました。
危険が低くなった安心感と、私の精神的な安定を得られた、というわけですね。
モノが減ると時間と気持ちにゆとりができた
なにより、不要品を処分したおかげで、メンテナンスするモノが減り、時間と気持ちに余裕が生まれたことで、ホッとした気持ちになれる時間が増えました。
時間と気持ちにゆとりができたことで、不安感が減り、逆に開き直れるおおらかさを得ることができたような気がします。
まだ、暮らしの中で気に入らないことや納得いかないことも多いのですが、少しずつ心配事や悩み事が減ってきたことは、結構大きな変化ですし、気持ちの安定にも繋がります。
モノを減らそうとすると、どうしても処分したくない言い訳や理由を探してしまいますが、失う不安感や絶望感よりも、これから先、長い間暮らしていく中で、心配することが少ない方が断然幸せなはずなので、今モヤモヤとしている不安感の原因になっているかもしれないモノが判明したら、迷わずに処分してしまうつもりです。
そして、晩年は気楽で気持ちに余裕のある婆様になっていたいな、と思っています。
本日は、不要品を処分したことで得られた「安心」の話を綴りました。
今こうしてブログ記事を打ち込んでいる間にも、処分したいモノやそろそろ手放しても大丈夫そうなモノが、次々と思い浮かんできました。
来週の捨て曜日までに、不要品の処分を進めていきたいですね。
私自身は「捨ててよかった」という感情とは少し違っていて、「処分したことで安心を手に入れる(た)」という側面が大きかったです。
本日は、処分したことで、私が安心できたことについて綴ります。
不要品の処分を始めたきっかけ
私が、大掛かりな不要品処分に着手し始めたのは、20代の終わり頃でした。
その当時は、まだ私には体力もありましたし、腕力も脚力もかなり丈夫でした(笑)
ですから、セパレートになっている背の高いキャビネットの上部を外して下ろすことが1人でできましたし、粗大ごみを出すごみステーションへ運ぶのも、全て1人でしました(もちろん台車などを使ってですが)
私が自室の家具を処分しようとしたきっかけは、いくつかあったのですが、その中でも阪神淡路大震災を報道で目の当たりにしたことが、かなり影響しています。
阪神淡路大震災は、家屋の倒壊と火事による被害が大きかったのですが、後々家屋の中で、倒れてきた家具の下敷きになり命を落とした人が多くいたことは、未だに忘れません。
なんとか一命をとりとめた被災者の方々の、当時の様子をテレビなどで見ていて、とても恐ろしくなり、自分もいつかこの大きな家具の下敷きになってしまうかもしれない、という危機感を覚え、また他の理由も加わって、家具を処分することにしたのです。
家具の処分に伴い、中に収納していたモノも当然処分していきましたが、最近になって処分した家族が使っていた家具については、また違う気持ちがあって、処分を急いでいた部分があり、収納していたモノの処分も時には強引に進めました。
災害に遭遇したら
地震や台風、そして最近では異常気象に伴う豪雨などの自然災害に見舞われたとき、被害が大きい場合は全てのモノが奪われてしまう可能性があります。
避難する時間が多少なりともあれば、貴重品だけは持ち出すこともできますが、そのほかのモノは根こそぎ奪われてしまうかもしれません。
もしも、そうなったら、私はどうするだろうか?と考えると、少しでもモノは持っていない方がいいという結論に達し、同時に多くのモノを持たずとも、人は快適に暮らしていけるのではないか、とも思えます。
たくさんの不要品を処分して、私が今感じていることは、現金と通帳とカードと登録印、そしてマンションや土地の権利書と身分を証明できるモノだけを持ち出せば、あとは失っても何とかなるはずだ、ということです。
少し前の自分であれば、失ったら心が折れて取り乱してしまうかもしれない、失ったショックで毎日眠れないかもしれないと考えていました。
もちろん、思い出深い品を失えば、少し悲しい気持ちにはなると思うのですが、大事なのは私がきちんと覚えていられるかどうかなのだ、と考えるようになってからは、モノが壊れたり失われたりしても落ち込む必要はないと思えるようになりました。
そして、もし私が思い出を忘れてしまったら、モノがあったとしてもその程度の思い出なのではないか、とも思うので、結局モノに対して執着する必要はないのだと思っています。
このように考えることができるようになったことで、漠然と感じていた不安がなくなりました。
地震で家具が倒れてきたら、火災や台風や豪雨で大事な品を失ったら、私はそのときどうしたらいいのだろう、と考える必要がなくなったからですね。
たくさんのモノを持てることは、幸せなことなのかもしれませんが、同時にモノを失う不安も手に入れてしまうことになるのだな、と今では強く感じます。
たくさんのモノを処分して、将来の不安も処分できました。
自分が老いたら
家族の老いは、不要品を見極める大きなチャンスだと思っています。
私も、50代に入ってからは体調の優れない日が増えましたし、母は80歳になり(来年81歳です)持病も改善する気配はなく、年々足腰や手指が弱ってきているのが、目に見えて感じられます。
私が、家族のモノを大量に処分したいと思った理由は、1つは故人である父や兄のモノをいつまでも持っていても仕方がない、という思いがあったからですが、最も強く感じていたのは、自分自身の老いによる体力の低下です。
この先、何年も使わないモノや家具をそのままにしておいても、若い頃のように自分で運び出すことはできないし、そもそも残っていた家具は、重たいし大きいしで、体力に自信のある男性であっても、1人で処分することは難しいモノばかりでしたから、とにかく私がいろいろ考えて動けるうちに、大半のモノは処分しておこうと考えました。
いろいろ考えて、大体の処分するスケジュールが決まってからは、母を何度も説得し、説得しきれない場合は時間が経過するのを待って再度説得を試みたりして、とにかく私が自分でごみ置き場まで運ぶことが可能なモノは、できる限り早めに処分してしまうことにしました。
結果、昨年やっとのことで、家具に収納していたモノを処分したり整理したりして、家具そのものを処分することができる状態になったので、業者に依頼して処分していただきました。
大きな家具を処分したことで、私は2つの安心を手に入れることができました。
そのうちの1つは、私が老いて体力も腕力も思考力も低下してしまっていても、処分すべきモノの量が減ったことで、今までよりも楽に処分ができる状態に近づいたという安心です。
まだ、残っている家具はいくつかあって、そのうちの数台は私1人では持ち出せませんが、業者に頼むとしても数が少ないので、料金も安くて済みますし、運び出すのにそんなに時間もかからないはずなので、予算的な安心も得ることができました。
家族の老い
家具を処分して手に入れた安心の2つ目は、家族の安全です。
処分した家具のほとんどは、どこかしらが経年劣化のため、欠けたり破損したりしていました。
特に危険を感じていたのは、扉の蝶番です。
蝶番が緩んだり、その部分が破損していたりしていた箇所が結構多くて、いつ外れて扉が落ちるかわからない状態でした。
また、扉が閉まっている状態をマグネットで固定している家具に関しては、扉を開ける際にマグネットが上手く離れずに、家具を倒してしまう危険性もありました。
そのような危険を感じ始めたのは、母の老いによる衰えです。
母は、力が弱ってきていたため、扉付きの家具を開閉する際に、かなり強く引っ張るようにしていました。
また、私がモノの管理をするようになって、あちこちにモノを移動させたことで、母はあちこちを意味もなく開閉することが多くなっていました。
日に何度もあちこち開閉する行動に、イライラが募り、一時期はノイローゼになってしまいそうでした。
加えて、何度も開閉するあまり、あちこちの扉がきしむ音がするようになってきました。
これは、いつ壊れてもおかしくないな、と思った私は、なんとか母の行動をやめさせようとしたのですが、一向にやめてくれないので、最終的には「扉付きの家具がなくなれば解決や!」となり、家具の処分に勢いがつきました(笑)
家具を処分したことで、今は母が扉を壊して落とす危険性も消えましたし、倒す可能性もなくなりました。
そしてなにより、母があちこちを開閉するという行動が減り、私が精神的に楽になったので、気にかかる事案が減ったという安心を得られるようになりました。
危険が低くなった安心感と、私の精神的な安定を得られた、というわけですね。
モノが減ると時間と気持ちにゆとりができた
なにより、不要品を処分したおかげで、メンテナンスするモノが減り、時間と気持ちに余裕が生まれたことで、ホッとした気持ちになれる時間が増えました。
時間と気持ちにゆとりができたことで、不安感が減り、逆に開き直れるおおらかさを得ることができたような気がします。
まだ、暮らしの中で気に入らないことや納得いかないことも多いのですが、少しずつ心配事や悩み事が減ってきたことは、結構大きな変化ですし、気持ちの安定にも繋がります。
モノを減らそうとすると、どうしても処分したくない言い訳や理由を探してしまいますが、失う不安感や絶望感よりも、これから先、長い間暮らしていく中で、心配することが少ない方が断然幸せなはずなので、今モヤモヤとしている不安感の原因になっているかもしれないモノが判明したら、迷わずに処分してしまうつもりです。
そして、晩年は気楽で気持ちに余裕のある婆様になっていたいな、と思っています。
本日は、不要品を処分したことで得られた「安心」の話を綴りました。
今こうしてブログ記事を打ち込んでいる間にも、処分したいモノやそろそろ手放しても大丈夫そうなモノが、次々と思い浮かんできました。
来週の捨て曜日までに、不要品の処分を進めていきたいですね。