歌よみもどきの書

歌詠み「もどき」のあかんたれが吐き出す、短歌になりきれない五七五七七の羅列です。

源実朝

2015-05-20 | 学習ノオト

『金槐和歌集』 (斎藤茂吉:校訂)
『源実朝』(吉本隆明:著)
『右大臣実朝』(太宰治:著) ←これは青空文庫にて




GW中に一応読了です。^^;
「一応」というのは、お風呂に持ち込んで歯を磨きながら、或いは睡魔と戦いながら読む内容ではなかったと。(寝落ちしては本を浴槽に落とすこと数回。写真は浴室に持ち込まないで難を逃れたカバーのみです。本の神様ごめんなさいm(__)m )
感想というか読後メモは、きちっと再読してから書こうかとも思ったのですが私のことなのでいつになるか分からんなぁ…と、一応備忘メモ程度に。



・本歌取りとはなんぞ!?ということを、理屈でなく具体例で知りたかった。
(拙ブログで「本歌取り」を意識した?のはこんなところか。)

・実朝さん(←気安う呼ぶなw)のスゴさは、正岡子規のゲキ褒めのテンションには未だ到達できず。難しいのが正直なところ。

・ただ。
私なりに腹に落ちる例えをすれば…
 ↓
昨年。
短尺な反物を(1反だけでは私の寸法にはできないので)祖母の着ていたもの2枚を解いて虫食いのないところ等をはぎ合わせて1枚のきものに仕立てようとした。
その際、和裁の先生に言われたのは。
「足らないところだけをツギハギしたら貧乏くさいだけ。
あなたなりにデザインしなさい。」
 


結局、1枚のきものを縫うのに8ヶ月を要した(プロなら一晩。素人でも2-3ヶ月でしょう^^;)けど、私なりの世界観(大層な表現を容赦願う)を出せた。

 ↓

これが本歌取りにも言えるのかなぁ。。


以下、『源実朝』(吉本隆明:著)より引用。




   あら磯に浪のよるを見てよめる
大海の磯もとゞろによする波
われてくだけて裂けて散るかも
  (『金槐和歌集』巻之下 雑部)

『万葉集』からこの歌の本歌だったろうとみることができる歌は三つかんがえられる。

伊勢の海の礒もとどろに寄する波
(かしこ)き人に恋ひ渡るかも
  (『万葉集』巻四・六〇〇)

大海の礒もとゆすり立つ浪の
寄らむと思へる浜の浄(きよ)けく
  (『万葉集』巻七・一二三九)

聞きしより物を念へばわが胸は
(わ)れても摧(くだ)けて利心(とごころ)もなし
  (『万葉集』巻十二・二八九四)

この三つの恋愛相聞の歌があれば実朝の「大海の」の歌は優につくりあげることができた。
これは手易く出来あがったという意味ではない。
言葉の上からは実朝の独想は「裂けて散るかも」だけであとは、本歌の言葉の並べかえだけのようにみえても試作はそうはいかないものだ。
実朝には男女の恋愛の歌をどうしても景物の叙情にしてしまわなくてはおられない独特な蔭があった。
いわば、人間にたいする関心の煩わしさを逃れて景物へといってしまう心があった。
もし恋愛歌にしてしまったらかれは偽装意識にやられて本歌とさしてちがわないつまらない素朴な歌になっていたろう。
実朝の心を人事や恋愛にむかわせなかったものが、この叙景歌を孤独な心の高速度写真のように複雑で微妙な響きにしている。



(引用ここまで)


確かに、実朝の身の上(8歳で父頼朝を失くし12歳で兄頼家が暗殺、28歳で本人も暗殺)を知ると、相聞とは全く違う、壮絶な歌に感じられる。
それも、藤原定家から私本『万葉集』を送られたのは23歳!(それ以前に読んでいたかどうかは不明)
これが天才の所以か。
美人薄命ではないけど、28歳で亡くならなかったら、もっと多くの秀歌を遺せたのになぁと残念に思う。


今度は、もう少し、丁寧に読みたい。
小林秀雄の『無常といふ事』も読みたい。
万葉集も、本棚にあるだけやし、「ひもとく」ようにしたい。

 

 



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