せかいのうらがわ

君と巡り合えた事を人はキセキと呼ぶのだろう
それでも僕らのこの恋は「運命」と呼ばせてくれよ

例えばそれは、吸血鬼の哀願

2009-07-18 13:15:59 | 小説
森の奥にあるという古びた洋館には、この世で最後の魔女が住んでいる。

背の低い草を掻き分け、突き出した木の根に躓きながら、それでも足を休ませることはしないで走り続ける。
夕暮れに染まり始めた空は世界に警告をしているようで、焦りに心臓は早鐘を打った。橙色の木漏れ日が次第に赤くなり、その色はまるで大昔の大戦で大地に染み込んだ血が吹き出しているかのようで込み上げる吐き気によろめいた。
この森には多くの魔物が棲んでいる。昼間は木や花に化けているそれらも、月が出れば恐ろしい姿を露にするのだ。
だからこそ、闇が落ちるまでにこの森を抜けなくては。魔物と立ち向かうには、この体は無力すぎる。

「は、ぁ…っ」

乱れた息のせいで空気に撫で回された喉が飢え乾く。血が、血が飲みたい。柔らかな皮膚に牙を立て、溢れる生暖かい赤に酔ってしまいたい。その衝動に任せて、手のひらから滲む甘い臭いに口をつけてしまった。
けれど身体がそれを許すはずもなく、途端に強い目眩に形振り構わずしゃがみこむ。

「ぇ…っあ゛、ぅぇ……~~っ!!」

乾いた喉を引っ掻くように通り越し中に流れ落ちた液体を吐き出そうとしたのに、押し出せるだけの何かが残っていなかった。もう何日も食べていない。限界を訴えて軋む体に、不愉快な吐き気だけが残った。それでも、せめて魔女に会うまで死ぬわけにはいかない。
今にも崩折れそうな足に力を込めると、軽い衝撃と同時に景色が傾いて強かに顔をぶつけた。膝裏に感じる不自然な熱さ、そのせいで射たれたのだと解ってしまう。全身の血の気が、一気に引いた。

「見つけたぞ、こっちだ!!」

突き立った矢を引き抜き、弾かれるように走り出す。
夕闇に落ちる森をものともせず荒い足音が草木を裂き弓矢が雨のように降り注ぐ。耳元を掠め頬を擦り足跡を突き刺す雨が責め立てる、化け物、人殺し、吸血鬼。優しかった母上がいきなり俺に冷たい視線を向けてきたその日、暮らしてきた屋敷には火を放たれ追われるままにこの森へと逃げ込んだ。
魔女に会えば、きっと救ってくれる。忌々しい性を取り去って、そうしたらきっと母上にもう一度会える。抱き締めて愛していると言える。母上に、母上に。
疲れて引き摺るように動かしていた足が縺れて、茨の這う茂みに倒れ込む。薔薇の匂いが鼻をかすめて諦めに目を閉じる瞬間、赤い靴と白いスカートが見えた気がした。

「消えなさい、目障りなのよ」

大人びた子供の声で、聞き慣れた罵りが聞こえる。魔術だろう、迫る風音。反射的に身を竦め来るべき衝撃をやり過ごそうとした。
けれどいつまで経っても意識は絶えず、風音は頭上を逆巻いて走って来た方向へ飛んでいく。安全だとは言い切れず、寧ろ芯から冷え込むような恐怖を感じるほど。
それでも目を開けた先には、ワンピースの裾を放った魔術に揺らす、華奢な少女の姿があった。追ってきた人間の行く先を攻撃し、冷たい薄緑の目で怯える男衆を見据えて、威圧的な声を発した。

「…人間が魔女の領土に立ち入ることは許されない。覚悟があるのならお入りなさい、相手をしてやるわ」

右手に添えられた手に、紋様が浮かび上がる。口ずさむ呪文は大昔のもので、おそらくこの辺り一体は更地になるだろう。
誰が始めだったろうか。天を裂く叫びと共に、人間の群れが引いて行く。我先にと林を掻き分け躓きながらも、決して立ち止まらず先ほどの自分のようだと、冷めた頭で考えた。
一刻もかからず森には静寂が戻り、少女と残されたまま呆然とうつ伏せる。人間が居なくなった森には既に闇が落ちていたのに、魔物の姿はどこにもない。ここは本当に、魔女の領土なのだろうか。
魔女。彼女はそう言ったはずだ。目指していたものに、やっと辿り着けたのだと実感した途端身体中の痛みが引いた。
ぱっと顔を上げると、少女の冷たい双眸にぶつかる。それ以上、視線を動かすことができない。人間たちへの問いと同じく、覚悟があるかと訊いているように見えた。
黄緑のツインテールを腰まで伸ばし黄色いリボンを巻いて、膝丈の白いワンピースの袖は長いのか指先が僅かに見えている程度。可愛らしい姿なのに、死神のような雰囲気を纏った少女だ。

「…っおれは、死にたくない」
「そう」

思わず口走った言葉に返される無感情な相槌に、畏怖で掌が震えた。不用心な事を言えば、骨の一欠片も残さず塵になるだろう。このまま、魔女に会えず死んでしまうのだけは嫌だ。少女が痺れを切らす前に、緊張で乾いた唇を舐めて口を開く。

「おれは魔女に、会いたい。どんな代償を、払っても…例えどんな結果が、待っていても」

もう塞がってしまった膝裏の傷口を一瞥して、沸き上がった感情を噛み殺した。この不死の体では得るものが多い分、失うものは大切すぎて、大きすぎる。この気持ちだけは揺らがない、死にたくはない。けれど、魔女には会う。

「…そう」

一瞬、口元が緩んだかと思うと、短い言葉を残して少女は背を向けた。
悠然と歩き去ろうとする背中に急かされてようやっと立ち上がる。けれど一、二歩と進める度に募るのは不安ばかりで、十歩もしないうちに立ち止まっていた。猜疑心が地面から手を伸ばし、足を絡め取っているようで、目眩すら感じる。
ついて行ったとして、魔女は本当に俺を受け入れるのだろうか。そこに、居場所はあるのだろうか?
俯いて地面を睨み付けていると、不意に遠くから少女に声をかけられた。

「…来たいのなら来ればいいじゃない。あなたは覚悟があると言った、それならもう止める理由もないもの」

それから少女はにこりと作り物めいた笑みを浮かべて、ゆっくりと一歩近付いて来る。小さな手のひらが差し出され、気づけば誘われるように手を重ねていた。

「ようこそ、最後の魔女フォレッタの館へ。わたしはエテ、あなたは?」

―――
(例えばそれは、吸血鬼の哀願)