キリストの復活は神の全能と人の不死不滅を確認する
4,000年以上にわたって人は墓をのぞき込む度に,命の終わりしか見ることができませんでした。墓に入った大勢の人々の中でだれ一人として,復活した不死不滅の存在として戻って来た人はいませんでした。
「全地のどこにも,なきがらのない墓はなかった。そのような墓があると信じた人はおらず,宣言した人はいなかった。人の大いなる敵である死よりも強い力を持つ勝利者が略奪した墓はなかった。」
したがって,イエスの葬られていた墓に,イエスを慕って恐る恐る近づいた女たちに天使が告げたのは,新しくまた輝かしいメッセージでした。
「あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが,イエスはよみがえって,ここにはおられない。ごらんなさい,ここがお納めした場所である。」(マルコ16:6)
もし奇跡が人の限りある知恵を超えた力によって引き起こされる超自然的な出来事だとすれば,イエス・キリストの復活は,いまだかつて例のないほど偉大な奇跡です。この出来事は神が全能であら
れ,人が不死不滅であることを明らかにしています。
しかしながら,復活は人の知識と理解を超えているという意味において奇跡であるにすぎません。それを事実として受け入れる人にとっては,生命の不変の律法を明示するものにすぎません。人は律法を理解していないために,それを奇跡と呼ぶのです。
復活というと春を連想し、明るい気持ちになります。自然界には復活とまったく同じものはありませんが,「目覚め」を思わせるようなものはたくさんあります。
死の静けさのように長い冬はすべての植物の命をしっかりと捕らえて放しません。けれども,春が近づくと.優しい命を与える熱と光の力が,捕らえていた冬の力を弱めます・そして,死んでいたように思われるものが新しい命を得て,生気と活気を取り戻し,安らかな眠りから目覚めて力を得るのです。
人もこれと同じです。わたしたちが死と呼んでいるものをイエスは眠りと呼ばれました。主は弟子たちに「ラザロが眠っている」と言われました〔ヨハネll:ll参照〕。
幼い娘を亡くして,悲しみに暮れる親に言われた「子供は・・・眠っているだけである」という言葉は慰めを与えるものでした〔マルコ5:39参照〕。
実に,世の救い主にとって死などというものは存在しません。あるのは命,永遠の命だけです。そのため主はこのように言われたのです。「わたしはよみがえりであり,命である。わたしを信じる者は,たとい死んでも生きる。」〔ヨハネ11:25]
この確信を持っているならば,永遠の律法に従うことは重荷ではなく,喜びとなります。なぜなら命は喜びであり,命は愛だからです。……キリストとキリストの律法に従うことは命をもたらします。
毎年復活祭を迎える度にこの真理を強調し,キリストはまことによみがえられ,キリストを通して人の不死不滅が確かなものとされたという聖なる確信で心が満たされるよう願っています。
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※このお話しは、歴代大管長の教え デビッド・O・マッケイ P.66~67から、引用しました。
※命は喜びであり、命は愛です。今日も、愛ある行いができますように。
2021年5月25日