「おおしたさん」のブログです

2005年6月に始めたこのブログ、鍼灸院をやってた頃のことを含め、今も気ままに書いています。

占いに全く興味が無いとはいえ

2023年03月18日 | 宗教、哲学


占いに興味が無くなり随分経つ。良縁だとか運気が上がるとかタロットだとか、だからどうした、みたいな感じだ。占い師に指摘された金銭トラブル、それが当たったとして果たして運が悪いのか、運の良し悪しを誰が決めるのか。実際それが現実に起き、家を売らざるを得なくなってしまったとして、でもその経験が家族を団結させて今の幸せにつながった。そんなご縁もあるかもしれない。そうなのだ、あの経験が無ければ皆が明後日の方を向いたままだった。占い師の指示通りにして家を売る必要は無くなったが家族がばらばらになったとしたら。あの不運は家族の縁を取り戻すための必然だった、感謝しかない。そんなこともあるかもしれない。どんな運にせよどんな縁にせよ、それが良いか悪いかは自らが決めるべきこと。私は何が起きたとしても「これからがこれまでを決める」といった感じで生きていきたいのだ。

ところで占いについてであるが「現代に至るまで日本で呪術を理論的にも実践的にも、原理的にも、排除した人は親鸞を除いていない」と阿部謹也氏が書いている(碧海寿広著「考える親鸞」より)。確かに親鸞聖人は、占いや日の吉凶等に頼っていく生き方を「かなしきかなや()」と全面的に否定している。確かに浄土真宗は神棚を祀るとか、神社にお参りすることを積極的には肯定していない。でもこれは「迷信や占いに振り回されないで欲しい」という事だと思っている。私は浄土真宗門徒の端くれだが、神社へはよく行く。

ところで日本の生活環境はとにかく厳しい。夏は暑く冬は寒く、地震や台風等天変地異がとても多い。とにかく生きていることすなわち「苦」を嫌というほど体現できる場所なのである(1)。だから祈祷や占いが腐るほど生まれてきたのもよくわかる。しかし浄土真宗は祈祷や日にち、方位で運命が決まるのではなく「行い」で決まると言っている。自らの「行い」が全てなので、占い等への「他力」は全否定される(他力はあくまでも阿弥陀様だけのものである)。

占いに否定的な話から始まりながら、陰陽五行を操り治療を行う鍼灸師として、やっている治療は意外と占い的かもしれない(2)。この複雑怪奇な体の全体像を探るために、体のイメージを5つぐらいに分けて、そのバランスを歴や方向とかも意識しつつ紐解くわけだから、この治療を占いと言わずして果たして何を占いというのだろうか。帰依する宗教と仕事の乖離、矛盾の中での仕事は実にむず痒いものである。

暦や占いはかなり信じていた。手相占いで不安を当てられ、15万円もの印鑑を買おうとしたこともある。そういえば治療で出会う社長や首長の多くが占いを信じている。「まやかしではないのか」との意地悪な質問に、技術畑から社長になった理路整然と話をする社長が「占いは統計学」だと断言するのである。確かに自らの決断で多くの人の職が失われるとか、誰かを傷つけてしまうとか、清水の舞台から飛び降りるほどの決断を迫られることも多々ある状況で、理系の社長ですらも神頼みしてしまいたくなるのはよくわかる。でも思うのだ、占いが当たったとして、それが良いも悪いも良い意味にしなければならないということを。「あなたの体験は誰も奪うことができない貴重なもの」とフランクル(3)は言っているが、それは辛い体験も含まれる。他人を巻き込む怖さをもわかるのだが、その苦しい体験こそが自らを成長させるためのまぶしいばかりの肥やしになるかもしれないのだから、誰もが認める不運も見方を変えれば宝石にもなる。占いが本当だとしても、そんなものに自らの運命を託すだなんて、今のところ私には全く必要が無い。

()「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」(意:悲しいことだ、僧侶も一般の方も、日の善し悪しを気にし、天地の神をあがめ、占いや祈祷にたよっている)




ずっと楽しく幸せに生きることができる人はいないです。
だって必ず死ぬんですから。


自分がそっちの事もわかるからこそ「医療はエビデンスベースでなければ」と思っているわけです。
エビデンスが脆弱な代替医療で胡散臭い儲けを大々的にしている人、たくさんいます。
何もわかっていない、口ばっかり達者な危険なスピリチュアルな人、たくさんいるのです。
気とか運とか、言ったもの勝ち!


フランクルの言葉には本当に助けられました。
「~すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。~」
「人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことにほかならないのである。」夜と霧 フランクル著作集1 霜山徳爾訳 P183



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