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カトリックにおける世俗と宗教の関係について : 法華経とキリスト教の比較について【原文全文】

2020年12月15日 | カトリック
【国体文化】令和 2 年 11月号掲載された書評のポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

カトリックにおける世俗と宗教の関係について

法華経とキリスト教の比較について/ポール・ド・ラクビビエ

相澤弘明氏による『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』を興味深く拝読させていただいた。研究家として、また、一カトリック信徒として、二冊に関する評価が求められたので、ささやかな拙文を作成してみたので以下、紹介したい。

まず、これらの書籍を通して、今回、初めて、法華経と日蓮の思想を細かく知る良い契機になったことに対し、著者に感謝の意を表したい。
そして、「なるほど」と思いながら、読ませていただいたが、日本史、さらには東洋史における法華経そして日蓮の王法思想の思想背景と議論がよくわかり、大変、勉強になった。

ただ、二冊とも内容が多岐に及ぶが、本文で取り扱う課題はごくわずかであることについて大方のご容赦をいただきたい。
本文の中心課題として、相澤弘明氏が提起するキリスト教と法華経の比較に焦点を絞ることとする。

I.共通点について
以下にわずかな共通点を取り上げることにする。統一への渇望などあるだろうが、それには触れず、とりあえず、顕著な点だけを取り上げることにする。

1.三位一体的な構成について
日蓮主義系を基礎づける法華経において、一体三宝観という教義があることは私にとって大変興味深い発見だった。また面白いことに、ジョルジュ・デュメジルの研究の成果によって、彼が提唱した説をさらにあとづける事実だと思った。

ご存知のように、ジョルジュ・デュメジルは多言語ができて、多くの民族と宗教の神話、それから多くの宗教を研究していた大研究家である。
ジョルジュ・デュメジルを象徴する学説は、いわゆる、インド・ヨーロッパ語族における比較神話学の構造的体系化を行った結果としての「三機能仮説」である。面白いことには、この三機能仮説をフランス語から直訳すると「三位一体的な構成あるいは構造」とでも訳せるのである。
このように、一体三宝観というのはまさにその仮説(三機能仮説)をあとづけているとも言えよう。

さらに興味深い発見だったのは、世界中の宗教において「三位一体的」な構成、あるいは構造があるという現象が確認されていることだ。仏教ではこのような構成は存在しないと思っていたが、日蓮主義において存在するということを知って「やはり、三位一体的な構造は普遍的な現象である」と改めて新鮮に感じたのである。

加えて、興味深かったのは、田中知学系の日蓮主義においてはキリスト教になぞろうとする意志がみうけられたことだった。そこまで無理に類似性を見出さなくてもいいのにと思いつつも、このような発想、思考については、個人的にシンパシーを感じた次第である。

2.戦闘精神
『日蓮の王法思想への誘い』を読んで、強く感じたことはカトリックの戦闘精神と日蓮主義の戦闘精神はあい通じるところがあるいうことである。ともに消極的に受動的にやるだけにとどまらず、積極的かつ能動的に真理を勧め、実践しているのである。

武家による支配の長い歴史も関係しているのかもしれないが、日蓮の態度はその意味で評価すべきだと思う。つまり、信念があり、誤謬をはっきりと指摘し、誤謬を誤謬として叩いていく姿勢。そうすることによって、なるべく多くの人々を真理へ導くような熱心さ。

3.王法と仏法の間の調和
また、王法と仏法を調和させようという姿勢は、フランス国体からみてもカトリックからみても、かなり通じるところだと思った。つまり、王権と教権は補完的にも調和的に働き合うときこそ、繁栄な時代が訪れて、そしてその「和」のために全力に尽くそうとする姿勢がある。

人類学の成果を見ても、多くの民族では宗教と政治は密接につながっていて、時には一体化するが、とにかく、枢要的な位置を占めることが殆どであり、これも普遍的な現象だと思った。人間は常に政治的な平安も精神的な平安も求め、そうするために全力を尽くしてきたということが歴史と人類学が教えることであろう。

II.相違点について
以下になるべく簡単にキリスト教との比較に当たって疑問をいだいた点をいくつか紹介しよう。カトリックはどうなっているかについてはなるべく簡単に紹介して、結論を各位に任せることにしたい。細かい話には入れないので、三位一体について、また御托身と贖罪の玄義については、ユーチューブのチャンネル[注1]に公開されている公教要理の当該箇所をぜひ見ていただければと思う 。

1.異質なのにすべてをキリスト教として同視化するには無理がある。
これは根本的な重要な問題であるが、日本ではかなり誤解があるようで、認識してほしいことがある。ユダヤ教(諸宗派)、カトリック、イスラム教(諸宗派)とプロテスタント(諸宗派)は全く違う宗教であること。

それについて詳しく知りたい方はプロテスタント主義に関する講演[注2] 、あるいは9月中に発信予定のHillard先生の講演(ユダヤ教の誕生を紹介する) に参照するようにお勧めする。
それはともかく、なぜ、それぞれ異質なのだろうか?

一、ユダヤ教もプロテスタントもイスラム教もひとくくりにまとめられてはいるが、実体は数えきれないほどの宗派があってお互いに争いあっている。一方でカトリック教会は最初から教義上も組織上もイエズス・キリストによって統一されたカトリック教会として制定されたという違いがある。

二、ユダヤ教もプロテスタント諸宗派もカトリックを否定する形で成り立っている(この史実を知るために、ユーチューブ動画を参照)。ここにいう「ユダヤ教」とはイエズス・キリストの時代のユダヤ教ではなく、そのあとに出来上がったタルムード教である。このタルムード教は(ユダヤ教と一般的に呼ばれてはいるが)カトリックを否定する形で出来上がった。プロテスタントもそうであることは言うまでもない。イスラム教もタルムード教とキリスト教の異端が混ざった形でなりたっており、その意味でカトリックを否定している(そういえば、イスラム教から見ると、カトリックは多神教だと軽蔑されている)。

どういう形で否定されているかというと、三位一体の玄義、御托身の玄義(真の天主、真の人なるイエズス・キリストという存在)、十字架上の生贄の徹底的な否定である。プロテスタントも一緒である。キリストを優れた預言者、賢者としてしか評価しない。



一方、異教の宗教はどうなのか?異教を指して、用語をあえて使うと「自然宗教」とよばれることがある。キリスト教以前の宗教なので、あるいはキリスト教との接触はなかったので、正面からカトリックを否定するために成り立ったことはない宗教である。自然法(簡単にいうと基本的な秩序と道徳)に従っているという意味で、自然宗教ともいわれている。

ではカトリックの教父たちによる正統的な解釈において、自然宗教はどう評価されているだろうか?
第一、知らない内に悪魔たちを礼拝している自然宗教もあれば、第二、単なる偶像崇拝(つまり物質的であるか、そうではないかを問わず、何らかの被創造物を絶対化して神として礼拝する)もある。例えば、この意味で、現在はかなり深い偶像崇拝となっている。民主主義という偶像に。そして、第三、だからといって、自然宗教において、原始的な予言は(ノア時代、あるいはアダム時代)ぼやけた形で残っていることもありえる。その意味で、自然宗教においてイエズス・キリストの到来を予兆する要素も確認できることがある。あえて言えば、三位一体的な構造が確認できるのはそういったケースであろう。

しかしながら、例えば、先祖を崇拝することは当然にできるが、先祖を神(創造主)として礼拝するのは誤っているという立場になる。

2.三位一体なる玄義と一体三宝観は異質である。
三位一体なる原義と一体三宝観は、その構造的こそ似てはいるものの、その中身はまったく異質であると言わざるを得ない。例えば、共産主義はカトリックと同じような構造をとろうとしている。ただ、その中身は違う。共産主義になると、救済はあの世ではなく、この世に実現されることになる。救済主はイエズス・キリストではなく、共産党によることになる。

恩寵は否定され、唯物史観の法則ですべて決まっているとされる。まさに外観はメシア信仰的であるが、その本尊ともいうべきカトリックについては徹底的に否定する宗教もどきのイデオロギーなのだ 。要するに、構造が近いからといって、その本質も近いとはかぎらないということである。
では、なぜ、異質といえるのだろうか?

たとえば、三位一体というのは説ではなくて、教義であるが、天主の内面的な現実を指している。玄義なので、人知は及ばないものではあるものの、黙想できてそれについて述べることもできる。

三位一体という玄義の中身を簡単にいうと次のようである。
天主は唯一である。そして、天主は万象において宇宙において天主として働き給う。だから、地上に御托身なさったイエズス・キリストのすべての業は天主ご自身の御業だった。宇宙を創造したのも天主だった。聖霊降臨の時にも天主ご自身が降臨した。

つまり、天主の外的のすべての働きは三位一体なる天主による御業であり、父と子と聖霊を区別できない。人間はその能力が限られた存在なので、便宜上、より分かりやすくするために、それぞれの働きを割り振る(例えば父なる天主が宇宙を創造した)ことがあるが、あくまでもより簡単にイメージを持たせるためであって、天主の唯一性はそれでも変わらない。

では、三位一体の父と子と聖霊の区別はどこにあるのか?内面的な営みにおいてである。子は父のみ言葉であり、そして子と父の間の完全なる愛は聖霊である。そういった関係を示している。愛としての三位一体。

また、イエズス・キリストは真の天主、真の人であるとご自身が何度も宣言しているのだが、これは肉身をもった人であると同時に、真の天主でもあるという意味だ。また多くの奇跡によってこの「御托身」の玄義を証明して(ご自分の復活、病気の治療、死者の復活、時間と場所を決めて十字架上に自分に意志で掛かられたことなど)、また旧約聖書のすべての預言を成就したこと(誕生した時と場所、受難のすべての流れ、王家の末裔として生まれたことなど)などが完璧な教えによって証明されている。要するに、三位一体はただの説ではなく、根拠が非常に強くて、聖書においても聖伝においても明白になっている教義なのである。

3.もう一つの違い。三位一体は後で発見された説ではない。
『法華経世界への誘い』の313ページに、三位一体は4世紀に作られた説だという意見があるが、それは違う。福音書において数えきれないところで三位一体を確認できる。旧約聖書にもあれば(創世期の最初の一句から、天主を指している言葉は「Elohim・神々」と複数形になっているのに、ヘブライ語では「創造した」という動詞は単数系になっている。(ほかにも創世記、I,25,26。創世記、III、22。イザヤ、VI、3.など)新約聖書において数多く出る(マテオ、28、19。ヨハネ、V,7。ヨハネ、1、1。ヨハネ、14、16など)。

そして、聖伝(使徒から伝わってきた伝承)も同じことを断言する。
教義として4世紀になって初めて再断言されたのは、多くの異端が三位一体を攻撃していたからだ。
ここに、注目していただきたい点がある。イエズス・キリストによってカトリック教会が制定されて、聖ペトロをトップに最初の使徒たちが教会の基礎を敷いた。13人は、ヨハネを除き(ヨハネは何度か処刑されかけたが、いずれも生還を果たしている)殉教死を遂げた。その殆どは漁夫あるいは低い身分な人々で、高い教育は受けていなかった。それなのに、僅かな数十年で当時の全世界までその教えは広まった(インドまで及んだ形跡もあり、西へも東へも広まった)。

4.聖典と解釈の違い
「聖書」という聖典は図書館のようなものであり、異質の多くの本が一緒になっている。旧約聖書は救い主の到来を準備して予言して、新約聖書は救い主の人生とその教えを記録する。

そして、最初から天主の啓示として聖書が古典化された。また、何が中に入っているかも決定的に決められた。また、聖なる言語も決められている。つまり、ラテン語、ギリシャ語とヘブライ語である。翻訳してもいいのだが参照になり得るのは、古典化された三つの言語だけである。
解釈においても使徒たちの聖伝によって、また当初の多くの教父たちによって定着した。聖書についての一番大事な場面への解釈はかたまっていて、言い換えたり、それを改めることはできない。また、他のところへの解釈方法も規定されていて、プロテスタントのように、自由に解釈してはいけない。解釈することはもちろんできるが、勝手にはできない。

つまり使徒や教父らによって、最初の時代から、教え(教義)と権威(教皇)の正当性は確立された。だからこそ、「異端」という存在が出てくる。信仰の中身は最初から明確に定められているので、何が異端であるかも明確になっている。つまり、教義上の真理は何であるのかというような議論は基本的におこらない。天主によって示された真理を受け入れるかどうかで異端になるかどうか決まる。異端が出た時、攻撃される真理を再断言することによってカトリック教会がイエズス・キリストから預けられた真理を守る。

5.融合か回心か
カトリックの教義においては、真の人、真の天主なるイエズス・キリストの外に救済はない(ヨハネ、3、17-18。マテオ、28、19-20。使徒行録、4、12、などなど)。1+1=2と1+1=3という二つの真理は同時に成り立つわけがない。両方とも1という文字を使っていることにおいて共通点があるが、その中身は違って、一方、正しくて、もう一方、誤っている。

このように真理は本質的に排他的である。現実は排他的である。私は男性である。女性ではない。女性だと言い出したら、間違いである。
それはそれとして、カトリック教会の信仰では、イエズス・キリストを通じてのみ救済が得られる。だから布教、宣教、伝道がある。その天主に関する現実を伝えなければ、多くの霊魂は救われない。

また、天主によって提示された信仰、つまりその教義を受け入れてイエズス・キリストに倣うかどうかが関心事である。教皇から一般使徒まで一緒である。つまり、真理を追究することもなかったら、「覚る」こともない。繰り返すが、天主によってあらかじめ提示される真理(基本的に信経で要約されているが)に同意するかどうかにカトリックの信仰はかかっている。だからといって、回心した時に元のすべてを捨てるべきなのか?誤ったことのすべてを捨てて、間違っていないことは捨てなくてもよいということである。

しかしながら、融合などはあり得ない。畳上ミサをやってもいいのだが、イエズス・キリストは唯一の真なる天主、真なる人間とされているのに対し、日蓮はあくまでも被造物にすぎない点において明確に異なる。

結びに変えて
不思議なことに、フリーメーソンあるいはノア宗教あるいはグノーシスのような宗教をみると、すべては融合して統一化して、すべての宗教は真理をある程度に把握しているとされ、正に「エキュメニカル」なところがある。現在のグローバリズムの原動力にはそういった「バベルの塔を再建しよう」という理想を描く思想があると言えよう。

日蓮主義においても、三位一体的な構造、あるいは御托身を思わせる要素もあるように見えた。また、実践面でもカトリックとの共通点も感じた。しかしながら、結果的には、グローバリズムといった危険思想が蔓延したり、あるいは亡国を避けるために伝統を守り本来あるべき現実的な秩序を取り戻す必要はないと説かれているのではないだろうか?

融合的な思想もあるかもしれないが、現在の世界ではこのような思想はグローバリズムにつながってくるのではないのか?日蓮も保守派の皆さんも、日本の亡国、それから日本文化の抹消につながることを望んでいないと思う。日本国を守るために、日本国の亡国を誘導する危険を含んでいる思想に対して少しでも警戒を持った方がいいのではないだろうか?

カトリック信徒としては、イエズス・キリストにおいてこそ、本物の復興があり、本来の秩序があると信ずる。また、日本はイエズス・キリストに回心したらより日本的になり、日本らしさをも守れると確信している。

日蓮を優れた人間として模範と教訓を仰ぐのはかまわないだろう。しかしながら、聖母マリアの御宿りによってご降誕なさった肉体をもった赤ちゃん、真の天主であるイエズス・キリストと混同するのはその属性(イエズスは受肉した天主、創造主。日蓮は被造物たる人間)から全くして違うような気がする。
すでに長すぎる文章になり、また、伝わらないことも多いことを懼れるが、この小稿が次の議論につながれば幸いである。

[注1]:白百合と菊Lys et Chrysanthèmeのユーチューブチャンネルで、「公教要理」プレイリスト。三位一体に関して第九講から第十一講まで。ご托身の玄義贖罪の玄義
[注2]:白百合と菊Lys et Chrysanthèmeのユーチューブチャンネルで、「プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)」 講演録は王権学会のサイトに載っている。
[注3]:九月下旬、公開予定。

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