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天主の自然法:五つの法の種類[その②] 【公教要理】第七十九講

2019年12月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十九講 自然法

 

「法」に関する講座を続けましょう。
最初、一般的に法の定義を見てきました。それは、「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」ということでした。
それから、法を公布する者次第で、法の種類が分けられることをご紹介しました。
天主がその公布者であれば、「天主の法」となります。
人間がその立法者であれば、「人間の法」となります。
天主の法の内に三つの種類があり、第一の種類である「永遠の法」を前回ご紹介しました。

要約すると、「永遠の法」は天主ご自分にあり、全宇宙を統治する「永遠の法」です。あらゆる物事の存在理由で、その基本的な原理です。これによりあらゆる被造物がそれぞれ目的に向かわせられています。法は「理性による規定」あるいは「理(ことわり)による命令」なので、天主の無限の御智慧、また天主の御愛により、天主はあらゆる存在を、それぞれの目的に向かわせます。その目的はなんであるかというと、天主のご栄光であり、天主のご賛美です。

「永遠の法」の次に、天主の法のもう一つの種類があります。あえていえば、永遠の法をある意味でより明確にするかのような法です。「自然法」と呼ばれているものです。
「自然法」はその名前で分かるように、「自然(本性)」において織り込まれて、刻印されている法です。さらに言うと、とりわけ人間の本性において刻印されているものです。
「自然法」は人間を対象にします。なぜかというと、人間は自由だからです。なぜかというと、天主は人間を「未定」のままに創造なさったからです。「未定」とは自由な存在物という意味で、人間は自分で決定していけるように創られたということです。以前にもご紹介しましたが、自由意志とはまさに「決定」する能力です。

「永遠の法」により、天主はあらゆる被造物をその目的に向かわせ給いました。具体的にいうと、理性のない、知性のない被造物に適用されるときこそ、永遠の法の作用は一番わかりやすくなります。理性のない被造物の場合、永遠の法によって、それぞれに目的に傾かせられていますが、あえて言えば「不本意」にも傾かせられています。理性のない被造物には自由がないからです。

ところで、他方、人間の場合は以上のようにすでに決定されている被造物ではありません。自由意志を持っています。
自由意志とはなんでしょうか。自由意志とは、天主によって人間に預けられた能力ですが、人間が「自分の力で」、人間の目的(善)にたどり着くために与えられた能力です。

言い換えると、天主は人間を創造した時、「永遠の法」によって人間に特定の目的を与えました。その永遠の法によって、人間もほかの被造物と同じように、その目的に向かわせます。被造物である人間は、永遠の法から逃れることはありません。永遠の法は「汝の目的へ歩み、汝の善(目的)を得よ」と、人間も規定しているのです。

永遠の法によって、天主は人間の目的を定め、人間への御啓示において、その目的を人間に示しました。その目的は「天主御自身」です。つまり、天主は自分自身を目的として人間に与え給うたのです。目的である天主は、喜びとして、至福の完成として自分自身を人間に与えました。
一方、天主は我々に自然本性を与え、他方、天主は人間に目的(天主そのもの)をも与えました。
ところが、自由ではない他の被造物と違い、人間は、その目的への道は「決定されていないまま」です。つまり、他の被造物と違って、その目的に向かって強制的に絶対的に向かわせられていないのです。天主は、人間に、自由あるいは自由意志と呼ばれている能力を与えたからです。自由意志によって、人間は自分自身で、その目的に行くのが天主のお望みだからです。

われわれ人間は「自然本性」に関して自由ではありません。また同じく、「自由意志」という能力を持っているという事実に関しても自由ではありません。当然ですが。自由意志が備わっているということは決まったことであり、その事実を変えることはできません。自由意志をなくすこともできません。同じく、人間に与えられた目的に関しても我々は自由ではありません。我々は自分で自分を創造したわけではないので、自分に与えられた目的を変えることもできません。
たとえてみると、技術士が機械を作るときに、その機械の目的を決定して、「何のために」機械があるのかは、技術士が決めることです。同じく、天主は人間をお創りになったとき、「何のために」人間を創ったかということを決めました。天主は創造主なので、何のために創るのか、つまり被造物の目的を決定しました。
我々は自然本性においても、自由意志を持っているということにおいても、人間の目的においても、我々は自由ではありません。

それでは、自由とは一体何でしょうか。既に定められた一定の目的に向けて、自分の動きで行くことができるようにされているということです。また実際にその目的地にたどり着くために、自由意志の付与により、目的地に行く手段を選べるということです。
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人間の目的にたどり着くために、その助けとして、天主は外的な法を与えました。「自然法」と呼ばれる法です。
自然法という法は、人間の自然本性において刻印されています。自然法は案内者といったような役割を果たします。我々人間の目的へ導くためです。
たとえてみると、自然法は道路に備えて置かれた安全冊と似ています。ただ、正確に言うと、安全冊は道路につけくわえられたのではなく、道路そのものと一体となって、その一部となるような感じです。
我々の中において、自然法は安全冊のような役割で、何をすべきかを常に我々に勧め、何をやってはいけないのかを我々に禁じて、それらを教えてくれるのが自然法です。天主はこういった案内者を我々において刻印なさいました。その案内者の助言のおかげで、我々がふさわしくよく自由意志を行使し、相応しい良い行為を決定することができ、我々人間の目的(善)を得るように助けてくれるためです。これが自然法です。

自然法とは、理性のある被造物の本性に刻印された「法」で、理性のある被造物(つまり人間)のみに付与されて、その目的に傾かせる効果があります。そうすることによって、自然法に従うなら、人間は自分の本性にピッタリとして適切な行動を決定していけるように創られています。だから、自然法とは、我々人間の本性のためにだけある、理性のある被造物であるという特徴に合わせた特定の法です。
あえて言えば、人間においてのみにある、人間版の「永遠の法」、人間用の永遠の法だと言えるでしょう。一人一人の人々において刻印されている人間用の「永遠の法」が「自然法」です。
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自然法には特性が三つあります。
第一、普遍であり、
第二、不変であり、
第三、絶対です。

第一、自然法は普遍です。
一体どういう意味でしょうか。それは、すべての人間が共通しているという意味です。また、すべての人間は例外なく同じ自然法を仰いでいるという意味です。それは当然です。というのも、すべての人間は同じ「自然本性」を共通して持つからです。したがって、当然ながら、「人間」と呼ばれるすべての人々は同じ目的を持ち、その目的へ導いてくれる同じ自然法が備わっています。自然法はその名の通り、「人間の自然本性」にかかわる法ですので、人間を定義づける本性が共通のものであるかぎり、すべての人間に適用されます。単純なことです。したがって、自然法は普遍です。
自然法はすべての人々に適用されているとは、時代を問わず、場所を問わず、すべての人々に適用されているという意味です。どこにいるにもかかわらず、人間であるなら、その自然法に従う義務があるということです。
だから、普遍的な法だといいます。例外なく、一人一人、すべての人々に適用されるからです。我われは「人間」として、人間の自然本性が備わっている事実で、自然法の傘下に入っているのです。

第二、自然法は不変です。それもわかりやすいでしょう。というのも、人間の本性からくる特性ですから。人間の自然本性は不変です。つまり、我々は人間の本性、人間を定義づけている人間本性を変えることができません。我々は「人間である」、他のものではないということです。
人間として生まれてきた限り、いきなり、ある日、「盆栽」になろうと思っても、動物になろうと思っても、天使になろうと思っても、それは不可能です。人間ですから。最後まで、我々は人間であり続けるしかありません。人間ですから。人間本性は不変です。生まれながら人間の本性をいただいているので、人間本性を変える力は我々にはありません。人間本性は不変ですから、人間本性を統治する自然法もしたがって不変です。
自然法は、我々が人間である限り、人間であるから、必ず我々に適用されています。また時代場所を問わず、人間本性と同じように不変です。また、自然法は不変であるゆえに、だれも自然法が課す義務から免除されることはありません。不可能です。何があっても、どうなっても、どこにいても、いつの時代に生きても、だれであっても、例外なく、自然法は人間に必ず適用されています。その意味で、人間は変わることなく、自然法を遵守すべきです。

第三の特性、自然法は絶対です。それも自然本性からくる帰結です。というのも、自然法は相対的であるとは言えないから、絶対です。
つまり、自然法に関して「場合によって」「場所によって」「性格によって」「時代によって」とは言えないので「絶対」です。
場合を問わず、自然法は絶対に適用されています。自然本性に刻印されているので、絶対に人間に適用されます。我々人間は自分の人間本性を常に持ち、ずっとその自然本性が備わっているので、人間の本性において刻印されている自然法をも常にもちます。従って自然法は、ずっと適用されるのです。
自然法は普遍であり、不変であり、絶対であります。
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自然法にはさらに二つの形で分けることができます。
自然法は肯定命令形か、否定禁止形かのどちらかです。

自然法は何かを禁ずるときに、「否定禁止形」をとります。
自然法が禁ずるとき、絶対的に禁止し、何があっても一切免除されることはありません。
自然法上、犯してはならないことは、いつまでも犯してはなりません。
例えば、「汝、無罪の人を殺すなかれ」という禁止があります。罪のない人を殺してはいけないといった命令は、人間の本性に刻印されている禁止です。自然法の一部です。例外なく、罪のない人を殺してはいけないということです。罪のない人を殺すのは一切認められることはないということです。
例えば、自然法において、「嘘をつくなかれ」という禁止もあります。嘘は真理に反するから、つまり、天主そのものに反する行為だからです。この禁止は間違いなく人間本性に刻印されています。簡単に確認できることですね。幼い子供が嘘をつくとき、子供は自然に恥ずかしくなって、良心の呵責を感じていますね。いわゆる、躾や教育はまだない時でさえ、子の心において、「嘘をつくな」といった何かがあり、「嘘をついて悪かったよ」といった声が心の中のどこかにあります。それは、自然法にほかなりません。自然本性に刻印された自然法です。幼い子が嘘をつく時、目をそらすか、あるいは赤面します。なぜでしょうか。自然本性に刻印された自然法は「嘘をつくと人間本性に反するよ、人間らしくないよ」と心において自然法が言ってくれるからです。例外なく、「嘘をついてもよい」といった場合・状態はないということです。以上は否定形の自然法であり、つまり、諸禁止です。

ところが、肯定形の掟もあります。つまり、「ある行動をせよ」と命令する掟を指します。例外なく適用されている掟ですが、必ずしも、いつもいつもずっと絶えずにやらなければないならないということはもちろんありません。
いわゆる、「やるべき時」が現れると、「やるべきこと」を命令するのが、肯定形の自然法です。
例えば、本性に刻印されている肯定形の掟の一つは、「天主を礼拝せよ」があります。
十戒の内の第三戒において、より詳しく決定されていて、「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし」とあります。
十戒が啓示される以前にも、人間の宗教性というか、どこもいつも、被造物が自分を創り給った創造主を賛美・礼拝するという行為は自然なことでした(本性に刻印されています)。当然ながら、一秒一秒、一瞬一瞬、いつも絶えずに、天主を礼拝する行為をやるべきだということではありません。天主を、礼儀正しく相応しくよく礼拝すべきだという掟です。

肯定形の自然法は、我々に義務を与えますが、否定形とちょっと違う意味です。
自然法には、否定形の掟と肯定形の掟との二つの形の掟があります。

さらにいうと、自然法を強調する必要があります。自然法は大事です。
なぜかというと、現代に置いては、残念なことに、無理なことでありながら、自然法から「解放」されようとしています。それらの悲惨な帰結を毎日のように目の当たりにします。残念なことに、自然はいずれ仕返ししてくるから、大変です。これは問題です。
自然法は必ず人間本性に刻印されているので、しょうがなく、どう思っても、人間本性をもってこのように人間が存在しているわけです。
一番野蛮な民族でさえ、歴史において、どこでも、いつの文明においても、必ず自然法への従順が確認できます。最低限でも、あえて言えば、いちばん「異教的な文明」においてでさえ、自然法という基礎があるということを確認できます。

例えば、「正義」という基礎はどこもいつも国家によって追及され続けました。というのも、正義というのは自然法に織り込まれているからです。自然本性の一つの基礎です。
正義とは「それぞれの人に、それぞれの相応しい分を与える」という掟です。法体制を問わず、形を問わず(例えば日本の場合、和の精神という形で)、こういった掟が必ず存在しています。
さらにいうと、国家以前にも、一人一人の我々の良心において正義への要求は刻印されていることはだれでも確認できます。子供と同じように、大人になっても、心の内に、良心を通じて、自然法が叫んでいます。

たとえば、異教徒のキケロは次の有名な言葉を残しました。
「成文になっていないものの、我々が生まれたとき、我々と一緒に生まれた法がある。その法を習ったことはない。誰かより貰った法ではない。どこにも読んだことのない法が。我々の人間本性からいただいた法だ。自然本性こそは我々にその法を覚えさせ、自然本性こそその法を我々の内に刻印した。」

これは古代ローマの異教徒のキケロの言葉ですが、自然法は我々において、不本意にも、いつでも刻印されているということをよく示している文章でしょう。
我々が人間であるゆえに適用されている法ということです。自然法です。

自然法の中身を具体的に知るには、どうすればよいでしょうか。
一番完結的に自然法が現れるのは、十戒においてです。
自然法を知るためには、啓示された十戒を見ると一番早いと言えます。当然、自然法ですから、自然本性の次元ですから、理性だけでその中身を究明することは可能です。
ところが、より明白にさせるために、より広くだれでも把握できるように、天主は人間に自然法を啓示なさいました。
自然法は、特に十戒において、そして、私たちの主により山上の垂訓においても、特にはっきりと啓示されました。

最後に、自然法の根本的な掟を無視することはできないと覚えておきましょう。
例えば「嘘をついていかないというのは知らなかった」といえる一人もいないわけです。キケロが言う通りです。我々の本性に刻印されている根本法だからです。


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