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諸聖人の通功 【公教要理】第六十六講

2019年10月09日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十六講 諸聖人の通功



信経の第九条は
「聖なるカトリック教会、諸聖人の通功を信じ奉る」です。
最初に申し上げたように、この信条には二つの部分があり、それぞれ同じ現実の二つの異なる側面を現わすものです。
前者は、地上における・位階制の・眼に見える公教会ですが、その公教会は眼に見えない神秘的な「諸聖人の通功」からなる教会を目的にしています。

公教会という社会は、洗礼によって霊魂たちを結び合わせ、そのうえで、霊魂たちを諸聖人の通功に向かわせて参加できるようにさせるものです。

「諸聖人の通功を信じ奉る」

「諸聖人の通功」という信条は一体何でしょうか。「諸聖人の通功」とはどんな意味でしょうか。「公教会の構成員の間の霊的な賜物・善・功徳の交際」ということです。言い換えると、公教会の構成員の間に流れる共通善を指すに他なりません。

「諸聖人の通功」というのは、公教会は本物の家族であるということを現すものです。地上の家族とは違い、家族の間に同じ血が流れるのではなく(家族を特徴づけるのは血統ですから)、公教会の場合は本物の善・賜物・功徳が流れることによって構成員たちをお互いに結合します。また、これらの賜物・善が全構成員に及ぶのです。全員の絆を作りあげます。

そこで、「公教会の構成員」とは、一体だれのことでしょうか。また、結局、公教会の一員であるとは、どういう意味でしょうか。言い換えると公教会の構成員である「聖人」であるとはどういう意味でしょうか。というのも、「諸聖人の通功」とは、諸聖人の間の結合をいうからです。「聖人」というのは、私たちの主イエズス・キリストと一致している人々です。これこそが聖人の定義です。

ここで、公教会の三つの状態を区別する必要が出てきます。「諸聖人の通功」なる公教会の三つの状態です。「位階的な公教会」ではなく、「諸聖人の通功」なる公教会の三つの状態を説明します。

第一の様子は「戦う公教会」あるいは「戦闘の教会」です。
これは地上にある目に見える教会であって、位階制のある公教会です。これは公教会に属する成聖の状態にある霊魂たちです。なぜ「戦闘の教会」かというと、これらの霊魂たちがこの地上にいるのは戦うためだからです。罪に対して、現世に対して、欲望に対して、悪魔に対して、戦う教会です。旧約聖書において聖なる人ヨブが述べた通り、本当の意味での戦闘です。地上においての人生は戦闘であって、戦いです。これが「戦闘の教会」です。

公教会の第二の状態は「苦しむ教会」あるいは「苦しみの教会」です。これは煉獄にいる霊魂たちを指します。はい、煉獄にいる霊魂たちは「聖人」です。なぜかというと、天主によって既に、天国に入れる資格があると既に裁かれた「聖人」だからです。ただし、天国に入る前に煉獄で清める必要があるのです。煉獄にいる霊魂たちは苦しみます。清めというのはやはり苦しみを伴います。したがって、公教会の第二の状態を「苦しみの教会」というのです。

最後に、公教会の第三の状態は、天に既にいる聖人たちです。「凱旋の教会」と呼ばれています。

このようにして、公教会というのは以上の三つの種類の霊魂たちの大家族です。以前に長くご紹介した地上の位階制度の教会は「戦闘の教会」です。そして「苦しみの教会」もあり、煉獄にいる、聖なる霊魂たちです。そして、最後に、「凱旋の教会」で、すでに天に入った、天主を見奉る至福を享受している聖なる霊魂たちです。

以上の三つのグループは同じ大家族です。はい、「諸聖人の通功」の大家族です。つまり「諸聖人」の間に本物の交流があります。功徳が流通されているので「通功」と言います。また、公教会の構成員全員の間を纏める絆があり、統一されています。この統一は、「功徳・賜物」を共有することにおいてこそ統一します。まさに、共有の遺産であり、霊的な財産です。この遺産、財産、賜物とは何でしょうか。

真っ先に言えるのは、いとも聖なる主イエズス・キリストの功徳です。十字架上にて溢れるほど、ありあまるほど、イエズス・キリストはすべての霊魂たちのために功徳を得られました。
次は至聖なる聖母の功徳もあります。次に諸聖人の功徳もあります。諸聖人は自分のために功徳を得ながらも、他の霊魂たちのためにも多くの功徳を得ました。
次は、全宇宙で捧げられているミサです。その次は地上にいる霊魂たちの祈りであり、また良き施し・働き・善行で、信徒が払う犠牲です。

これらは「宝」であって、公教会の遺産を成す「財産」です。これらの功徳などが累積しているのです。この宝の交流を「諸聖人の通功」と言います。「諸聖人の通功」というのは、霊魂たちの間に流通する多くの「功徳・善」とです。有り余るほどある、評価を絶する「富」です。「有り余る」とは、天国に入るため必要とされる以上、十分に用意されている宝だということです。
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このようにして、「諸聖人の通功」を通じて、「戦闘の教会」と「苦しみの教会」と「凱旋の教会」からなる公教会の三つの状態の諸聖人たちが「功徳を共有し交流する」とことです。
その「通功」が、諸聖人の間の功徳の流通を特徴づけています。祈りを通じたり、執り成しを通じたり、贖宥を通じたりして、霊魂たちは、つまり「諸聖人」は、他の聖人のために、つまり「成聖の状態にある霊魂」のために、功徳を施し、賜物を得さしめることが可能だということです。

例えば、地上においてある信徒が祈りをささげたり、自分を聖化したり、難しい働きを遂げたり、犠牲を払ったりすることによって、まず自らのために功徳を得ますが、他人のためにも聖寵を得ることになります。例えば、「親のために祈る」一人がいたら、実際に親のために恩恵を得しめるのです。なぜ個別の祈りあるいは「個人の祈り」は他人に効果がありうるのでしょうか。「諸聖人の通功」のお陰です。

地上において、一人の信徒が一人の聖人に祈りをささげる時、その聖人に栄光を与えることになります。これも「諸聖人の通功」です。祈りによって栄光を受ける聖人が天主に執り成して祈りをささげた霊魂のために天主からの恩恵を得さしめるのです。これも「諸聖人の通功」です。

煉獄の霊魂たちに関しても同じです。周知の通り、有名な贖宥があります。11月の頭、墓所を訪問して、煉獄の霊魂たちのために祈ると特別な贖宥を得ます。煉獄にいる霊魂たちは苦しんでいるし、清められるために煉獄にいるのですけど、煉獄の霊魂たちは自分で自分のために何もできない状態に置かれています。我々とは違います。我々は地上にいる限り、自分のために祈ることが可能です。煉獄の霊魂たちはできません。彼らは自分のために何もできませんが、我々が煉獄の霊魂たちのためにやれることはいっぱいあります。我々が祈ることによって、かれらの煉獄での苦しみは緩和され、時に苦しみが消され、煉獄から解放されることもあります。これも「諸聖人の通功」です。

「諸聖人の通功」によって「霊的な財産」が公教会の構成員たちの間に流通しているということです。「戦闘の教会」と「苦しみの教会」と「凱旋の教会」との構成員たちの間に「通功」があります。

以上の信条は、我々にとって非常に慰めとなる信条です。現代のような混乱期においては猶更です。また、この信条は公教会の統一をよりよく表します。つまり、諸聖人に祈る信徒、聖人に倣って生きていく信徒は、公教会の統一を具現化し、「諸聖人の通功」を享受して多くの恩恵・聖寵を得しめるのです。

残念ながら以上の素晴らしい「諸聖人の通功」に参加できない霊魂もあります。この意味は明らかで、簡単です。位階制度的な公教会に属さない人々、つまり未信者・異端者・離教者・棄教者・公教会から隔てられた破門者などは、位階による公教会である「戦闘の教会」に属さない人々なので、それらの霊魂たちは「諸聖人の通功」に参加できず、その功徳を享受することはできません。天主の恩恵を受けることは可能ですが、これは功徳ではなく、天主による完全なる無償の賜物に留まります。いわゆる「諸聖人の通功」によって恩恵を得ることは不可能です。


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