ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

生命・ダウン症・体外受精―カトリック信徒は、なぜ命を守るのか?

2019年04月17日 | カトリック
カトリック信徒は、なぜ命を守るのか


中絶といったお腹の中の赤ちゃんの殺害、あるいは安楽死といった殺人など社会を転覆させるような野蛮な「権利」は人間にはない。これに反対するのは人としての常識だ。勿論、残念ながら、綺麗な言葉に騙されたり、毒めいた空気に負けたり、直接に関係ないからと思い無関心であったりするせいで、曖昧に黙認してしまうのが現代社会の現状だろう。

そのような中で、幸いに、無辜の命を守る為に立ち上がる人々がいる。切っ掛けは多くあるだろう。中絶によって自分の子を殺してしまった母の後悔と苦しみから、他人の女性に同じような過ちをしてもらいたくない、と立ち上がる人。無罪の命、声のない一番弱いものの命を奪うことによって、金儲けをしている資本主義的な要素に対して憤怒する人。日和主義に陥れ、中絶による「死の文化」が恒常化し、社会全体の形骸化を嘆き、亡国を憂う人。その他、無数に、中絶を無くしたいと思う理由がある。このような人々の中で、受精の瞬間から赤ちゃんの人間としての命を守るべきだという理由を掲げる勢力として、カトリック信徒の数が特に多い。なぜだろうか。


私自身がカトリック信徒であるので、なぜ中絶を廃するための運動に加わっているのか、私なりに説明したいと思う。



霊魂の救いのために中絶を廃せよ
結論から言うと、赤ちゃんの霊魂の救いのために、カトリック信徒して、どうしても生まれる赤ちゃんを守ろうとするしかない。

勿論、カトリック信徒ではなくても、生まれる命を大切にするということはごく自然なことで、ごく常識的なことになるはずだ。そのぐらいなら、信仰を持つ必要はない。無罪の子ども、一番弱い存在、大人になりうる、いや大人になるために守り育つべき、授かった赤ちゃんを守るのは、ごく自然のことで、人道的なことだ。また、家と国の未来を保証する多くの子孫を大切にする心なども、ごく自然のことで、文明国たりうる国なら、異教徒であろうとも、カトリック教徒であろうとも、何処でも何時でも命を守ったということは歴史の裏づける事実だ。逆に言うと、こういった赤ちゃんの命(または英知を持つ年配の方の命)を軽蔑して、無視して、貶める文化は、野蛮な国、非道な国、最低な人間の非文明的な国に他ならない。そして、必ず亡国するだろう(スパルタやソドムなどの前例がある)。これらの理由は、常識的なことで、自然なことで、だれも理解できることで、感じうる自然な感情と人間の理性だけで把握できる事実であろう。


それはいいとして、それを超えたところに、なぜカトリック信徒が、それほど中絶に反対するのだろうか。なぜ、生まれようとする子供をそれほどに大切にするだろか。


単純に、生命を大切するためだけではない。より根本的な理由があるカトリックの信仰によると、イエズス・キリストの内的な永遠の命こそ、この世での旅の唯一の目的となっている。つまり、長寿するためとか、この世の豊富を享受するためとか、この世での「幸せ」のためとか生きているのは、人生の究極の目的ではない。全く違う。逆に言うと、洗礼を受けた分別のない幼児が死んでしまったら、人間的に悲しむかもしれないが、カトリックの親としては喜ぶべきことだ。なぜかというと、洗礼を受けた幼児が、原罪から清められた上に、新しい罪(自罪)を犯していないので、確立に救われている、天国に入った、聖人となったとことになる。因みに、幼児洗礼を受けた子どもの葬式の典礼は、喜び溢れる典礼だ。大人の葬式典礼とは真逆になっている。なぜかというと、洗礼を受けた大人が死んでしまったら、罪なく天国に行ける何の保証もないし、我々、この世に生きている人間がどこに行けるかを知るよしもない。皆、罪人で、そして天国への門は狭く、容易に天国には入れない。だから、地獄あるいは煉獄に行ってしまった可能性が高く、天主の御憐れみに寄り縋りながら罪の償いを捧げる悲しい典礼となっている。

もう一点に注目していただきたい。洗礼をうけなければ、救われることはない。天国には行けない。洗礼を受けていないまま、死んでしまうのは地獄行きの切符となっている。

従って、お腹にいる赤ちゃんを殺すとは、一番酷いことだ。なぜかというと、その赤ちゃんの霊魂の救いを奪って、地獄に送ってしまうということだからだ洗礼を受けていない原罪を負っているままの堕落した霊魂だから、必ず地獄に落ちてしまう。だから、中絶は絶対に許せない。母と関係ない。妊娠によって、母に死命的な危険があったとしても、中絶はありえない。問題は霊魂の救いに帰する。しいて言えば、両方が死んでしまうことになったとしても、両方が天国に行けるならば良い。まあ、そこまで行かなくても、実際のところ、どの場合があっても、「赤ちゃんを殺さなければ、母が必ず死ぬ」と断言できることはありえない。もしある「医者」と名乗っている人がこういった確率のような断言を言ったら、詐欺だ。嘘に過ぎない。医者の使命は命を救うことだ。実際のところ、医者から「必ず死ぬ」と言われた場合でも、結局、皆が救われた場合が多い。さらに言えば、そのような場合、天主のみ旨のままに、二人の命を共に守る為に出来るだけのことをやった後、祈りと犠牲において、天主により縋るしかいない

また、強い人が弱い人を守って自分の命を捨てるべきだ。イエズス・キリストが人類のために自分の命を捨てた。夫が妻のために自分の命を捨てる。母が自分の子どものために自分の命を捨てる。これこそ、人道であるはずだ。実践し辛いことであろうとも、「そうすべき」だということに関して変わらない。

もう一つ言い付け加えよう。「信仰の論理に立って、洗礼を授けた子どもをすぐに殺すなら子供は天国に行けるから、なぜそうしないか」という疑問が出てくるかもしれない。

それは信仰上にあり得ない帰結だ。なぜかというと、理由は幾つかある。先ず、勿論、第四戒の掟に反する。「汝、殺すなかれ」。どこの文明にもある掟だ。

それから、死ぬ時を決めるのは、人間ではなくて、天主だからである。つまり、天主が、我々それぞれに使命を与えて、それに合わせて死の時をも決め給うということだ。例えば、悪人が長生きするのは、天主の恵みの証拠だと言えるということになっている。なぜかというと、回心しないままに、悪人として死んでしまったら地獄に落ちるが、天主はすべての人々を愛し給うから、その悪人を長生きさせて、救おうとする。(因みに、救われるためには、我々が救われようとしない限り救われないという前提もある)

もう一つの理由は、どうしても罪を犯してはいけないからだ。「罪」とは「天主に背く」、「天主を悲しませる」「天主から離れる」という意味だが、赤ちゃんを殺してしまったら、天主の掟を破って(汝、殺すなかれ)、正義に反して(原罪が赦されて清められた、洗礼を受けた霊魂こそ、本当の意味での無罪の霊魂なので、ある意味で洗礼を受けていない赤ちゃんを殺すよりも重い罪となる)、大きな罪を犯すことになり、自分の霊魂は大罪を犯すことになる。隣人愛というのは、まず自愛から始まる。自分の霊魂の救いを蔑ろにして他人の救いのために働くことはありえない。

第三の理由は、より超自然的なことだが、洗礼を受けた赤ちゃんを殺して、天国に行けたとしても、それは酷い話だ。なぜかというと、その幼い霊魂の栄光を奪うことになる。長生きして、聖人になる使命のある霊魂なのかもしれない。また、多くの働きによって、犠牲と祈祷によって、天主のみ旨を果たす霊魂になるはずだから、それを奪って、天国におけるより多いな栄光の立場を奪ってしまうことになるからだ。あり得ない行為だ。

もう一つある。「天主のみ旨のままに」という至上の謙遜と従順との心が十字架上のイエズス・キリストによってこそ示された。「完全にキリストに倣う、それこそが完全な信仰を持つことだ」と信仰を要約できるかもしれない。従って我々はイエズス・キリストに倣って一生を送るべきだ。そこで、天主御父によって与えられたすべての恵みと試練とを、イエズス・キリストが単純に抵抗なし受け入れ給ったと同じように、我々も主の御旨を受け入れるのだ

要するに、誰でも共感するはずの自然的な理由の上に、カトリック信徒は、その彼方に、その上に、超自然の信仰に基づく理由がある。自然な理由を否定しないで、自然的な理由を織り込みながら、それを超越する理由だ。従って、霊魂を救うために、天主のみ旨によらない人為的な営みによる中絶に反対するのだ。



ダウン症の子が生まれるという恵
それでは、同じく別の例を挙げてみよう。
信仰から見たら、ダウン症の子をどう見るかをご紹介したい。
お腹の中にいる子の殺人と同じように、ダウン症を大切にする自然的な理由は多い。「それでも私の子」「より弱い子なので、守るべき存在だ」などだ。

しかし、例えば、「普通に成長して生活できるから」というような理由・根拠は、本来ならば、命を守ろうとする理由とするべきではない。これは弱い根拠なので、捨てるべきだ。なぜかというと、その根拠によると、生まれてから数週間で死ぬような不自由な子ならば、殺しても良くなるからだ。ところが、生まれてから数日間でも死んでしまうような難病の子であっても、その子を最期まで守るべきだ。霊魂の救済のために、天主のみ旨のままに従うために。天主のみ臨終のときを決めることができるからだ。

それは兎も角、信仰という立場に立つのなら、ダウン症が授かるというのは、至上の幸せになる。非常な恵みだ。なぜかというと、洗礼を受けたダウン症の子が、高い確率で天国に行けるからに他ならない。ダウン症の子の理性が弱くて、感情が強くて、天主の玉座の一番近くに座れるような手柄を果たせなかったとしても、大体の人々が天国の狭い門から入れないのと違って、ダウン症の子は罪を犯しづらいから、天国に行きやすく、凄い恵みとなっている

また、ダウン症の子の周辺の人々も恵まれているとも言える。ダウン症の子のお陰で、兄弟たちと親戚をはじめ、犠牲の心、愛徳の心、祈祷の心が育てられやすくなり、より天主を愛し、天主に近づくことが可能になるからだ。これは嬉しい事だ。

従って、ダウン症の子をお腹の中に皆殺しにするのは、酷い話で、その救霊を奪う上に、周辺の救霊を困難にしてしまう。(さらにいうと、以上の良い影響を奪うだけではなくて、犯してはならない罪を犯してしまうことになるから、天主からより離れてしまうことになる。)

因みに、カトリックによる貧困者と病人に対する特別な配慮の底流は、以上のことからも見いだせる。貧困者や病人こそ、イエズス・キリストのような存在でありながら(福音によると貧乏人と病人にしたことはキリストにしたことだ、という言葉がある)、一般に、富める人よりも貧乏な人や病で苦しむ人の方が、祈りや謙遜によって天主に近い場合が多い。だから天主によって恵まれ、一般の人より回心しやすく、救霊の道に近いはずなのだ。



体外受精について
最後に体外受精という例を挙げよう。以上の信仰の論理に従って、体外受精に対するカトリック教徒の立場は明らかだろう。徹底的に反対なのだ。
その理由は容易に分かる。体外受精の結果、何人かの赤ちゃんが受精するが、一人か二人しか生まれない。その他の受精した人間らは冷凍されて人間実験の対象となるか、単に死んでしまう。中絶と同じような致命的なこととなる。

因みに、私自身が体外受精の子だ。大人になってその技術の詳細を知ったとき、いよいよ分かってしまった。「私は長男だと思っていたが、そうではない。顔も名もない兄弟が殺された。自分だけが生き残った」。なかなか大変な発見で、知った時には憤慨した。少なくとも、殺された兄弟の分を含めて、自分の使命を果たすべきだと思った。どれほどさり気なく近代の社会が酷い事をすることが出来るなんて、思うだけでぞっとする。

最後に、「子どもが欲しい」という気持ちは普通ならば自然なのかもしれない。だからといって子どもを殺してまでも欲しいと求めることは、けしからんことだ。先ず、子どもが授かっているのは、子どもが両親のためにあるのではなく、両親が子どもの救霊のためにあるだけだ。結婚して、不妊だということが分かったとしても、子どもが出来なければ、それでよし。一般の夫婦と違って子供を育てる使命がないということになるだけだ。それを受け入れることは大事だ。無理矢理に子どもが欲しいといって、自称「不妊療」などをするのは、ほとんどの場合、赤ちゃん殺しを伴っているからだ。体外受精については、中絶と同じように、徹底的に戦うべきだ。



結びに
以上はあまりに聞き慣れないことだろうが、はっきり言うことが、大事だと思ってご紹介した。「命のために」係わっている人々、特にカトリック信徒の場合、物事を明白にせず、明らかな概念を持たずに、曖昧でもやもやした考えだけでは、残念だが足りないし、ややもすると危険にもなりうる。

信仰に基づく原理を明らかにして、念頭に置いて行動や発言すると、活動自体がより効率的になり、布教活動にもつながる。

最後に注意していただきたい点がある。悪と罪に対して公教会はいつも絶対的に不寛容で非妥協的だった。だが、それは人間一人一人を救うためにそうだった。

悪・罪を明白に咎めるということは、一人の人間を咎めることではない。逆に言うと、総ての人間は罪人である。聖人と言われている人々でさえもそうだ。だからこそ、十字架上で見せられた罪の恐ろしい帰結から解放するために、罪から背を向けさせるために、愛徳からくる義務として、明白に物事を誠実に発言して、何も曖昧さのない形で断言すべきだ

言わなかったとしたら、罪がある限りその結果が伴う。だから、迷っている者を救うために、迷いの原因、苦しみの原因、つまり罪を明白に言ってあげなければならないのだ。言ってあげなかったら人間はどうしようもないのだから、カトリック教会は真理をドンと断言し続けた。なぜそれほど自信を持てるかというと、自分で発見して言うのではなく、天主から啓示されたことを単に繰り返すだけだったからだ。だから天主の垂れた教えを言い続けられたのだ。

すべては天主のみ旨のままに。

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