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童貞聖母マリアについて 【公教要理】 第二十一講

2019年02月17日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-二十一講  童貞聖母マリアについて


「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」。信教の第二条を見たときに、ご托身の玄義を解明してみました。位格的結合という玄義で、天主の本性と人間の本性との二つの本性の結合ですが、三位一体の第二の位格の一つの位格なる聖子、イエズス・キリストにおいての位格的結合という玄義です。

第二条に続いて、信教の第三条は次の通りです。
すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ

私たちの主は、天主のままでおられながらも、人間の本性を負われたのですが、この人間の本性は童貞聖母マリアより受け継いでいるわけです。
ところで、ご托身の玄義について語るときに、童貞聖母についても語ることは欠かせません。そこでこれから、童貞聖母についてご紹介したいと思います。

童貞聖母マリアは、旧約聖書の諸予言によって示された御方です。堕落の早い時からでさえ、天主がアダムとエワの前に現れる時に、既にヘビに向けて、「私は、お前と女の間に、お前の末と女の末との間に、敵対を置く。お前の末は、女の末のかかとを狙うであろう」 と仰せになりました。要するに、「女」は最初の預言において既に登場します。旧約聖書における原福音とも呼ばれる預言です。

これ以降、諸世紀の時が経ち、勿論イエズス・キリスト到来の前ですが、これより明白になる予言がありました。
イザヤ預言者にいわく、「見よ、処女(おとめ)が身ごもり、一人の子を生み、それをエンマヌエルと呼ぶだろう。」 エンマヌエルの意味は「我らの間におられる天主」となります。
以上は、童貞聖母マリを予告していた予言を簡潔に見てきましたが、童貞聖母マリアといったら、一体、どんなお方でしょうか。

ザカリアとアンナの娘であり、ナザレトに生まれます。ちなみに、9月8日をもって、童貞聖母の御誕生を祝います。誕生後24日間が経て、律法に従って、神殿に奉献されます。三歳になると聖母マリアは、もう一度、神殿に奉献されます。祝別されるためでした。また、ナザレトで両親の家でお住まいだったことと、聖ヨゼフと婚約したのも、知られている事実です。

またナザレトでは、大天使ガブリエルがマリアを訪れます。御告げと呼ばれる場面ですが、カトリック教会では、3月25日にて御告げを祝います。御告げの時に、マリアはきっと14-15歳ぐらいで、天主の使者として送られた天使ガブリエルが童貞聖母マリアの前に現れ、天主の母、メシア(救い主)の母になるようにと頼まれます。



童貞聖母マリアは、一つの異議がありました。自分の童貞性を天主に奉献し祝別したので、もう、子供を生むことはできないはずだ、と。「私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」 と聖母はおっしゃいます。それから、天使が、聖母マリアにご托身については具体的にどう実現するか啓示します。「聖霊はあなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」と天使が告げます。
つまり、聖霊によって生まれると天使は聖母マリアに説明するのです。まさに、信経の第三条の「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」に当たるところです。私たちの主イエズス・キリストの懐胎は、完全に奇跡に他なりません。天主は、男の協力をあえて除きつつ、聖霊のはたらきにより、いと清き聖母マリアの胎内において、私たちの主が肉(ひと)となり給うたのです。

天使が以上のように啓示した途端に、すぐさま、童貞聖母マリアは御摂理に従い「Fiatフィアット!」という周知の返事をされます。「あなたの御言葉の通りになりますように」と。「私は主の端女(はしため)です」とも聖母マリアはおっしゃいます。
要するに「天主の奴隷なので、天主のみ旨のままに、私を使いください」という意味です。「Fiat mihi secundum verbum tuumフィアット・ミキ・セクンドゥム・ヴェルブム・トゥウム」と。

それで3月25日、聖母マリアは懐胎されます。その上、ある意味で懐胎の奇跡を確認するかのように、天使ガブリエルは、童貞聖母に、続いてこう告げます。聖母マリアの従妹(いとこ)にあたる老齢および不妊症なるエリザベトが受胎した、と。

その途端に、童貞聖母は、従妹のところへ旅立ちますが、何日間ぐらいの旅です。従妹を手伝うために、妊娠後期の世話をするためにも、ご訪問します。カトリック教会では、この玄義を「聖母のエリザベトへのご訪問」と呼んで祝います。童貞聖母マリアは旅立って、従妹のエリザベトに訪問に行くという場面です。

従妹のエリザベトのところに着くや、童貞聖母は従妹の近くまで走り寄ります。エリザベトは自分の従妹が来た途端に、聖霊に動かされて、聖母マリにこう言いだします。「主の御母が私を訪問してくださったのですか。」この言葉で、童貞聖母マリアの内に起きた奇跡を示されます。
「私(エリザベト)の子は胎内で喜び踊りました」と続けます。この瞬間に、洗者聖ヨハネが浄められます。続いて聖母は、自分の存在や持っているお恵みを誇りに自慢自負などは決してせずに、極まりない謙遜な振る舞いで応じますつまり、童貞聖母マリアは、天主を賛美し、すべてをもって天主を褒め称え、感謝を捧げるのです。有名なる「Magnificatマグニフィカット」という賛歌です。
「私の魂(たましい)は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主により喜び踊ります」と。続いて、童貞聖母は、頂いた恩寵のすべてを言い並べます。

天主が人類に注ぎ給う恩寵です。「低い人々を高め、」「傲る思いの人々を散らし」などなどです。
また、「代々の人々は私を幸いな女と呼ぶでしょう」とも聖母マリアはおっしゃいます。自分に約束される偉大さを御自分で予言するところです。

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要するに、文字通りに、童貞聖母マリアは、天主の御母なのです。なぜかというと、聖母はイエズスという人の母ですが、その人こそは、一つの位格しか持っておらず、すなわち聖子の位格に他なりません。言い換えると、イエズスは、天主の一つの位格(ペルソナ)なのです

童貞聖母が、幼きイエズスを生むときに、天主である位格、天主のペルソナを生むのです。だから、完全な意味で、聖母マリアは天主の御母なのです。ギリシャ人が言う通りに「テオ・トコス」、「天主の母」という意味ですが、「天主である人」の母なので、天主の御母となります。しかしながら、天主の「本性」の母であるとかなどという意味では決してありません。天主であるこの人、人間の本性をも持っているこの位格(ペルソナ)の御母なのです。

さて、童貞聖母は、従妹のエリザベトを訪問しますが、エリザベトは息子を生みます。すなわち私たちの主の従兄なる洗者聖ヨハネを生みます。カトリック教会は6月24日をもって、洗者聖ヨハネの御誕生を祝います。

その後、童貞聖母は、実家にお帰りになります。その時に、聖ヨゼフは、結婚相手の童貞聖母が、聖ヨゼフ自身が何もしていないのに、妊娠していることに気付きます。聖ヨゼフは、嫁の貞操を良く知っているので、非常に悩んで自問します。考えます。「童貞聖母は聖なる女性なのに、美徳溢れる女性なのに、妊娠しているのは、何のことだ?!」といった感じです。童貞聖母は「それほど、聖なる女性なので、自分を裏切ったことは到底考えられない。しかし、私が何も関与していないのに何故妊娠しているのか?!」といった思いです。
そこで、聖ヨゼフには、選択は二つしかありません。嫁を捨てるか、告発するかどちらかです。しかしながら、聖ヨゼフは、童貞聖母の評判を傷つけたくないので、人目に付かないままに、離縁する覚悟を決めます。そのことを決めた途端に、天使が彼の前に現れます。
天使は托身の玄義を聖ヨゼフに啓示してくださいます。いわ「ダビドの子ヨゼフよ、躊躇(ためら)わずにマリアを妻として迎えよ。マリアは聖霊によって身ごもっている。」
そのお陰で、聖ヨゼフはほっとします。一方、童貞聖母マリアが犯されていないこと、また、聖母マリアの忠実性ということを知り安心します。聖ヨゼフは、聖母のそばにずっと居ることになります。

ところで、突然、ローマ皇帝(カエサル)からの詔勅が発せられて、人口調査が命令されます。12月なのですが、聖ヨゼフと聖母マリアは、故郷の町まで人口調査のために、登録しに行かざるを得ません。人口調査はベトレヘムという町で行われます。旅立ち、名前を登録するために、ベトレヘムまで行きますが、分娩の日が来ているにもかかわらず、どの家にお願いしても、妊娠の嫁なんか負担だと言われて、何処からも追い出されています。

しょうがなく、聖ヨゼフは辛うじてある洞窟を見つけます。周知の場面ですね。そこで、私たちの主は御降誕します。中東には多くある洞窟の小屋で。その洞窟は、羊飼いや家畜のための避難所といったところでした。私たちの主イエズス・キリストは、12月25日に御降誕します。クリスマス、または、キリストの御降誕の祝日です。ご降誕には、もう一つの奇跡を起こしながら生まれます。つまり、童貞聖母を童貞のままにしながら、イエズス・キリストが生まれるからです。

というのも、信仰にも、典礼上にも、頻繁に繰り返される点ですが、「聖母は、出産以前にも童貞のまま、出産の途中にも童貞のまま、出産以降にも童貞のままで留まり給えり」と。童貞なる聖母のために天主のなさった奇跡ですが、また、「天主に近づく者の霊魂はいとも潔白になる」という意味も織り込まれています。

童貞聖母は、幼きイエズスを生みます。それから、ずっとイエズスのそばに聖母は居られて、受難の十字架の下にも、聖母はおられます。その後は、聖母の行方は少し不明ですが、確かなことは、聖ヨハネがその世話を引き受けたことです。というのも、十字架に付けられている私たちの主が、聖ヨハネに向けて、自分の御母を託したこと、また同時に、聖ヨハネをも御母に託したという場面から分かります。それ以降、恐らく数年間、エルサレムにお過ごしになりました。もしかしたら、エフェソにもお住まいになった可能性があります。

最後に、聖母は被昇天しました。

教義だけを見たら、死んだかどうか明白されてはいません。教皇ピオ十二世は、死んだかどうかについて、何も断言してはいません。というのは、身体と霊魂が離れたかどうかについて、明記されてはいませんから。この点には、決着はまだつけられていません。それは兎も角、聖母マリアが身体と魂と共に被昇天したのは、確かなところです。聖母が、天国で、永遠の幸福を享受しておられるというのもカトリックの教義です。


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