倉敷の時もそうやし、過去の整理の時もそうやけど、
やはり最近はよく過去を振り返る。
そして今まで考えなかったこと、あるいは、考えておきたい?ことをあえて掘り返してみるけれど、
やっぱり生命とは、とか人生とは。とか。
案外考えていそうで、そうでもない。
のほほんといってしまえば言葉は悪いけれども、深く考えたと自信を持って答えられるほど、考えたことはないかもしれない。
そこで考えてみると、そうして考えなかった原因がはっきり見えてくる。
それは「死」について、認識することもなく生きてきた、ということに大きな要因があるのかな、と感じたね。
そういうようなことを、こういう時期になって結構意識するようになって考えてみて、ある程度の結論が出たワケやれれども、
まぁ2年前にも少し書いたことと、
そこからさらに二歩くらいは進んだ答えに、今はなってるように思う。
2年前は、単に自分が無になるのが怖いかな。
なんてくらいしか考えていなかったけれど、
もう今は死ぬのは怖くは無くなってきたね。
無になるとはいえ、結局は寝てるのと同じやん?
寝てる間って寝てる意識はないし、別になんということはない。
ただ、それだけの話やね。
ただ、それだけやと思えば、怖くはないね。毎日死んでるようなもんやん。
でも全く怖くないかというとそうでもなくて、後悔して死ぬのはちょっと嫌かな。
怖くなくなってきたけれど、まだ、嫌かな。
嫌、と思わなくなった時が死に時や。
まぁ、こないかもしれへんけど、少しでも嫌じゃないときがエエね。
そう、怖いというか、満足して寝たい。そういうことやね。
満足ってムズかしくて、やっぱり後悔しないのが大事や。
「後悔したくない人生」これは2年前も共通してることやけどね。
では、人生とは何か、人ってのはなんなのか?
これはなかなかムズかしい問題で、
結論なんてないもんやね。
だけど、結論の一歩手前、章のまとめ?みたいなもんやけど、
あえていうなら、人とは生物であるということやね。
生物は必ず死ぬんやね。
熱を持つものは必ず冷える。
今、少なくとも我々の認識できる世界は、全てこの「システム」にのっとってる。
太陽は燃えているけれど、いつか燃え尽きる(はるか先)
その太陽の熱を受け取って、
地球に生まれた「生物という地球の一部のシステム」。
そのシステムのごくごく一部の生物。これが人間であって、
それ以外の何者でもないんや。
システムなんやもの。
宇宙というシステムの一部としての地球、その中の生物システム、生きるという目的のシステムなんやね。
ただ、全てのモノは、システムである。これが今言えることであって、
このシステム自体に特に意味はないねん。
あるいは、あるんかもしれへんけど、きっとそれは人間の考え付くものを超越したものやろうね。
全ての事象はシステムやねん。
そして人間は、その生きるという目的に対して、便利な機能(感情、群淘汰)を備えてる。
群淘汰のシステムを採用することで、生物としての群体を維持する。
感情によって、生きるために大切な行動をする、群の維持に貢献する。
死ぬ、これは単純に生物として効率的に生きるという目的を達成しようとするシステムのために採用された、
それも群淘汰というシステムの一部なんやね。
人間という生物群が生きるために、みんな死ぬ。そういうことやね。
生きる、これは生物の根源的な目的であって、死ぬ、とは相反するんやけど、
地球という限られたパイの中で、人間という群体が生きるには必要やってことやね。
ただ、人間という大きなくくりで考えずに、個人で考えると、
やっぱり死ぬことは、生きるという目的に反するために、人は死からの逃避を企てるし、そこからうまく逃げて(考えない、忘れる)ようにして日々生きている。
これは、例えばパソコンなどのシステムのように、
人自ら変更できるものなら、変更したらいい。
人は細胞コピーの失敗によって老化し、死に至るので、
そこをはばむ何かしらの手段があれば、もっと長く生きられるかもしれない。
でも、現時点それはムズかしいし、逆に遺伝子をイジるということになった場合、倫理的にどうかって話も出てくる。
でも、倫理ってもん自体が、社会的生物である人間的システムなんやけど。
とにかく、そのシステムは変更することができない限り、人はそのシステムにのっとっていく。
人間を生かすために、人は死ぬ。
そうなるならば、どうするべきか。
やっぱり後悔しないように、生きれるだけ生きる。これやね。
後悔ってのは感情っていう人間上のシステムであるし、例えば楽しいことをやるっていうのも、結局はシステム上のことになる。
全てがシステムって考えたら、それはそれで悲しいものもあるんやけれど、
そのシステムに乗ってる以上、そのシステムの中で楽しむべき。そうやね。
死ぬときに満足して死ぬ。ならば、後悔しないようにする。
それらは全て人間的感情によるものがゆえに、つまり人間らしく生きて、システム上で楽しめるだけ楽しむ。後悔しないよう心がける。
これが今のトコ考えられる、人生やね。
また、変わっていくのかもしれへんし、別にどれが真理ってこともない。
宇宙の謎はわからない。
システムやっていったって、なぜなのか、意味は?これもわからない。
そもそも、こうやって宇宙の謎を考える、意味づけしようとすること自体、
人間が生きる上で便利なシステム機能やもの。
ちゃんと考えて、また、意味づけすることって生き残ることにプラス作用をもたらしやすい。
ただ、それだけのことやね。
なら、そんな考えても仕方ないことを考えても、無駄ってことや。
システムの中で、人間としてベストと思われるよう生きる。これやね。それが人生。それが人間。
では、なぜ私が今さらになって?こういうことを考えだしたかってのは、
結局最初のほうに書いた死について深く考える機会がなかったってことによるんやけど、
なぜなら、身内の死ってのがあんまりなかった。
昔買ってた金魚が死んだとか、亀が死んだとか、そのくらいのもんで、
悲しみだとか、虚無感だとか、そういう大きな感情を人間的にもたらす身近な人の死ってのがなかった。
今だに祖父祖母全員存命やからね。
それでも体のどこかおかしくなったり、いつ亡くなってしまうんだろう・・・そう思うけれどね。
そういうことが無かったから、あまり考えなかったし、やからかどうかわからんけれど、人生についてもあんまり考えなかった。
でも、私も大人の仲間入り?をして、
働くにあたって実家を離れる公算が非常に高くなって、
そんな中で改めていろいろ考えると、結局今のような話を考える。
今さらいろいろ考えて、えらい遅れてるなぁ、なんて思ったりするけれど、
みんな一応存命で、その結果、私が死について考えなかったんであれば、
生きてるんやし、それはそれでエエやんってことも思ったわ。
ただ、今考えてそう思ったなら、日々のことできっと忘れてしまうことが多いんかもしれへんけど、
少しでも心がけようってことやね。
例えば、親孝行とかね。
親が死んだら悲しいなぁ、とか、
今親が死んで後悔することはなにか、とか。
今まで完全に迷惑かけてきたし、ワガママやったな。とかね。
だから、今さら親孝行しないと後悔するな、と思ったりしてね。
そもそもそういう感情も、何度もいうように感情なんで、所詮はシステムなんやけど、
人間である以上仕方ない。後悔するのは仕方ない。
・・・それで悩みすぎて、自分の生きることに支障をきたしてるようじゃ、それこそ本末転倒な話で、悩みすぎはよくないんやけどね。
だから、とりえずはそうムズかしくない、
「感謝の言葉」ってのを大切にしようと決めた。伝えないと後悔しそうやん?
「好き」ってのも伝えないとね。
・・・みんなに伝えてたら気持ち悪いって言われたけどね。^^
でも、言われてそんな嫌な人はいないやろうし、言っとこ。
人生とは、人間というシステム上で楽しめるだけ楽しんで、後悔のない、満足するように生きる。
これぞ人生かなぁ。
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