25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

心情的にすぎる

2016年12月14日 | 日記

 先日、コメダのコーヒーをのみながら、いつものように、週刊誌を読んでいた。「週刊現代」「週刊ポスト」「文春」「新潮」である。

 隣の席に、若い女性と中年の女性がいて、どちらもマスクをしていたが、マスクを外し、会話が始まった。会話がときどき聞こえてくる。わかい女性は泣き始める。仕事やめたいようだ。中年も先輩は話をききながら、助言をし、辞めるのを思いとどまらせようと懸命である。

 どうやら、職種は介護の仕事で、職場での人間関係のもつれのようだ。

 いろいろあるのだろう。またこういうことはどこにでもあるこおなもだろう。

 メガバンクに勤める甥は30歳で本部にいる。彼は言っていた。同期のものが鬱病で辞めていくか、脱落していくらしい。脱落者は地方の営業にとばされる。熾烈な減点主義での出世競争なのだそうだ。

 いくら道具は便利になっても、こころというものはおそらく道具変化ほどに変わっていない。

 昨日も友人との酒の席で、韓国のデモの話題がでた。彼は違和感を感じると言った。ぼくもそう思っていたので、同感した。儒教の色濃い国で民主主義がまだ育っていないのではないか、と彼は言った。大統領になったものにまとわりついてくる親戚、友人。大統領と縁があるというだけで、人のみる目、態度が変わってくるのではないか。

 日本もさほどに民主主義が定着しているようにも思えないが、儒教が江戸期にそれほど深く浸透しなかった、というのは司馬遼太郎の意見である。

 人間の関係は心情的なものと、理知的なものがあるはずだ。もしも儒教が色濃い無意識に染まっていたら、あのコメダで泣いていた女性はどういう風に振る舞うのだろう、まら、先輩はどんな助言をするのだろう、とふと思った。行動の様式も無意識のパターンではないのか。

 僕などは、もう引退しているから、すでにそのような問題に直面することはない。嫌な奴とは会わなくてもよい。嫌な人が職場にいるということも大変なことだろうが、客観性をもって、明るく挨拶して、笑顔でやればどんな辛い人間関係も変わることだろう。最も禁物なのは心情的に過ぎることだ。おそらく韓国でのデモへの違和感は心情的に過ぎていることだと思ったからなのだろう。