25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

人間の保守性の断面

2016年12月10日 | 社会・経済・政治

花鳥風月 最後は石を愛でる。石の時はもう死の間近であるというお笑いネタで、さんまや女子アナたちが騒いでいた。

 あれ、おれは最近、花に惹かれ、鳥の囀りや姿を追っている。石にも妙に興味がある。月観賞はいまのところなく、潮時の知る時に使うくらいである。花鳥風月+石は老いの順番であるか、とちょっと突かれた気がした。

 最近、牡丹や芍薬を植えたのは、もう手に入れることができない若さと老いることで手に入れることができない何物かが姿を変えたものだろうか、などと思う。

 幸運な場所、時代によくもまあ生まれてきたものだと思う。不満はたらたらあるけれど、戦争にいかずにすみ、飢餓であることもない。職業も自由である。遠くにもいけるし、多様な音楽、多様な絵画、多様な趣味

多様な価値観の中で生きることができる。

 19世紀迄は飲み水から多くの人々が死んでいった。

 こんな話を知った。まだ細菌やウィルスの存在をしらあかったころの話である。

 権威ある医師たちが赤ちゃんんを取り出し、その時に死んでしまう割合と、助産婦がする場合とでは圧倒的に助産婦が出産をさせる方が、母親の死亡率が低かった。それをある研究者が発表すると、彼は誹謗中傷され、世間にも笑われた。まだ感染症というものがわからない時代である。権威ある医者は死体を触ったあとで、助産をしていた。ヨーロッパやアメリカでは水に触れることが身体に悪いことだと信じられていた。だから人々は風呂に入ら過ごし、手洗いなどすることはなかった。この研究者が塩素を水に入れることを発見することになる。

 人間というものはいかに保守的なものか、新しいものを拒否するものか。今だってそう思う。ところがその壁を突破していく人がいる。あるいは、ひとつの知見がどこかに飛び火して、化学的反応をおこし、それが保守的な人々に理解されていくという場合もある。

 ああ、そんな時代に生まれなくてよかったとつくづく思う。人間の克服衝動に期待すものであるが、あくまで人間は総体的には保守で、1%と0.1% とかが壁を破る人がいるのかもしれない。