25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

あっという間に海に注ぎ込んでいく

2014年11月22日 | 日記
昨日2時頃から今年3回目のハゼ釣りをした。北川と海を分ける突堤がある。その川側の方で釣るのである。前に石油用の小さなタンクがある。水の濁りはなく、ハゼが見える。これから潮が満ちてくるから、今日は大きいのだけを釣って、小さいのはリリースしようともう余裕である。一投目からグイグイ引く大きなのが釣れた。ホイホイ釣れるので、餌を付け替えるのが面倒なくらいだ。
 40分ほどで、食べるくらいは十分釣ったので、竿を納めた。
 母に食べるかと聞くと、食べるというので、5匹を背開きにした。てんぷらにしてもいいし、ムニエルにして食べても美味しい。おすすめは塩で食べることだが、僕は時に塩とカレー粉を少しふる。ハゼのうまさは上品な味である。上品なというのはクセがないことだ。イワシはイワシで美味しいがその真逆の味である。コチに近い味がする。
 釣りをしているときは考えることがない。

 今日は交通事故の件で、やっと検察庁から被害者側の意見聴取があった。事故から9ヶ月が過ぎている。あまりにも遅くなってしまったことを謝っていた。「Hero 」と同じように普段着のような縞シャツとセーターを着た若い検事だったので、おお、世も変わったものか、と思ったのだった。今月中には裁判所に送ってもらうよう強く要請した。事務官のパソコンの扱いも超高速である。

 なんでも証拠がないとどうにもならない。事故時誰もその現場を目撃したものがおらず、母が路上でうずくまっているのを発見したのは僕だった。それは事故後である。悔やまれるのは母親を発見したとき、加害者はどこにいて、どのようにしていたのかを確認しなかったことだ。本来、加害者はすぐに車を止め、救助に向かわないといけない。彼はそれをせずに、100メートル前方まで走り、Uターンをして現場にかけつけたと言っている。「100メートルを時速40kmで走っても10秒かからない。Uターンしても合計30秒はかからないと思う。僕が母親を路上で発見し、中央分離帯の近くに倒れていたから、車がくると危ないので、路側帯の端にまで運んだのだった。そうしていると人がやってきて、僕が警察へ電話し、その人が救急車を呼んでくれたのだった。その時に、加害者はやってきた。
 警察も検察側も「Uターンでありひき逃げではない。それを証明するのは難しい」という。僕が偶然に通らなかったら、母は路上の中央でさらに危険にさらされていただろう。
 調書には僕らの疑っていることを書いてもらうことになった。それを読んで判決を出すのは判事である。
 これから保険会社との交渉が始まってくる。保険会社は自主交渉を避けて、弁護士に依頼しているので、こっちの方も釈然としない。
 もうすぐ「後遺障害等級」がでてくるはずで、僕はこのシステムも釈然としていない。等級を決めるのは天下り団体だ。その中には保険会社からの天下りもいるという。この等級に異議があれば、また異議申し立てをし、日数がかかる。示談解決がみられなかったら、裁判になり、さらにまた解決まで時間がかかる。そんなことをしていたら、母も高齢だからいつ肺炎などで死んでしまうかもしれない。

 事故というのは「やられ損」だとう気分がする。加害者側は一銭も払うことなく、保険会社にまかせきりですむ。はじめの頃の後悔や謝罪の気持ちも薄れてくるようだ。

 不快な思いも釣りをするときぐらいはなくなる。明日も行こうかと思っている。
 テレビは青酸化合物による殺人疑惑。総選挙。もうすでに健さんのニュースはなくなっている。追悼映画が始まっている。つねに何かが流れ、あっという間に海に注ぎ込んでいくというふうだ。