25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

世界の終りとハードボイルドワンダーランド 読むヒント

2014年11月06日 | 文学 思想
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み終えました。相当昔の村上春樹の小説です。
 150ページぐらいまでは何がなんだかわからないため、読むのをやめてしまう人が多いように思います。ですので、この本は、
「世界の終り」の章と「ハードボイルドワンダーランド」の章が交互に進行していくため、毎日2章ぐらいづつ読んでいきました。
それで、半分まできても面白くなかったら、やめればよいのだと思います。
 なぜ「1Q84」のよういすべりだしが緩慢なのか。
 ちょっとヒントでもあればすべりだしからおもしろく読めそうです。
 そのヒントを書いておきます。「世界の終り」の章は「主人公の無意識の核」の世界です。私たちには自分でも気がつかない無意識というものがあります。文学とは無意識世界を書く事といってもさしつかえないかもしれません。その無意識にはさらに核があると、村上春樹は考えるのです。自分の全く知らない世界です。その世界にあるものは全部実は自分の一部です。壁も、川も、森もです。主人公は自分のことを「僕」と言っています。
 次に「ハードボイルドワンダーランド」の章はへんてこな現実の世界です。僕と同じ主人公は今度は「私」となっていますが、同一人物です。

 最初にこのことを知っていればおもしろく進んでいけそうです。

 村上春樹の作品はよく言われるパラレルワールド」が多いので、はじめ、わかいづらいところがあります。謎、謎で進んでいくのです。「ねじまき鳥クロニクル」もそうでした。この場合は無意識の中で別の無意識に壁抜けする物語でした。それが冒険譚のように語られていきます。

 今、「ノルウェイの森」を25年ぶりぐらいで再読しています。すると、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」ともつながっていきます。ノルウェイの森は「1973年のピンボール」ともつながっていき、「風の歌を聴け」ともつながっています。

 村上春樹の小説には「名セリフ」と言えるものも多く、思わず付箋をしてしまいます。なんども読ませる、読むたびになにかがわかってくる。こんな小説は夏目漱石とか、太宰治とか日本では数少ないと思います。
 おそらくこのブログでもくどく村上春樹がでてきそうになりそうです。

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健全なところからでてくる芸術があってもよい

2014年11月06日 | 文学 思想
 細胞のひとつひとつに記憶がある、と言われるようになった。iPS細胞の研究が応用されてくるにあたって、ぼんやりながら、細胞のもつ奇妙は世界が浮かびあがってくる。

 ところがほんの日常的に言えば、僕には父と母がおり、その父母の上に両父母がおり、さらにどんどんさかのぼっていけば、生命の誕生のところまで切れることなくいくはずだ、ということは簡単に理解できる。
 精子の数は一生分で1兆から2兆匹と(匹というのだろうか?),卵子の有効卵子数は400個であり、僕がこの世に誕生したのは、脈々と途切れることなく続いてきた生命がつまり一兆匹の精子のひとつと400の内の卵子のひとつが偶然のように合体したからである。なんという不思議さだろう。卵子にも記憶があり、精子にも記憶があることは科学の立証などを得なくても当然すぎるように思える。

 僕の先祖の誰かが、子を作ったのちに早々と死んだものもいれば、戦いで死んだり、飢餓で死んだりしているかもしれない。人を殺しているかもしれない。楽しい日々もあれば辛い日々もあったに違いない。
 40億年にわたって受け継がれてきた生命の記憶は僕らの脳のどこかにあって、それは開けられることなく沈んでいる。おそらくその殻の細胞のひとつ、ふたつ壊れ、開いてしまった状態が「サヴァン症候群」ではないかと思う。彼らは、ピアノを弾いたこともないのに、突然弾けてしまったり、普段数は数えられないのに、上空からビルを見て、絵を描けば、窓の数は全く同じであったりする。

 この深くて遠い記憶を閉じ込める殻(あるいは倉庫)はしっかりと閉じられているはずだ。しかしこの殻(あるいは倉庫)は僕らの無意識の世界に渦を巻くように浸潤しているか、放射状のように照らしているか、いずれにせよ、人格と呼ばれるものに、影響を与え続けている。

 母との関係が悪く、母の振る舞いや言動がトラウマとなり、悩み、荒れ、時には母を殺し、あるいは遠くに離れる人。あるいは共依存してしまって生きていく人、そんな小説やドラマは多い。

 母の上にはまた母父がおり、その上にまた4人の父母がいる。母だけを責めることもできず、責めるならば延々と延長して生命の起源にまで責めなくてはならないことになる。どこに到達するのか。

 僕らが「現在を生きる」ということで、現在だけを見ているだけではこの問題は解決できず、乳児や胎児の頃までさかのぼっても解決できず、いっそ「大過去」まで意識を遡らせることが必要のように思える。心の問題がある人はいっそのこと、生物の歴史にまで問題意識を遡らせる。そしてまた自分の終わりの時点、(つまり未来ということだが)から現在を照射してみる。そこまでの幅のある観念が必要なのではないかと思う。

 何の不満もなく、両親は仲良く、経済も安定して、両親から慈しまれて育った人も多いだろう。歪みのない、健全な人も多くいることだろう。

 ほとんどの物語は「歪み」があって、始まっていく。そうではなくて、歪みのない健全なところから始まっていく物語もあってほしいものだといつも思う。はっきり言って、もうそんなドラマや物語には辟易している。

 芸術というのは「歪み」から生じるものだ、という常識はそろそろ破られてもいいのではないかと思う。
 なぜなら、40億年の歴史から脈々と長らえてきたたった一人の孤独な自分だからだ。そして人間は乳児期の頃に一度それまでの閉じてしまいリセットするようにできているからだ。それはひとつの防御本能であるとも言える。僕らの殻。ひしめく記憶の倉庫。これが歪みの芸術へと昇華されるならば、正しい芸術といおうか、健全な芸術といおうか、そういうものもあっていいはずだ。
 
   

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2014年11月06日 | 文学 思想
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