「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み終えました。相当昔の村上春樹の小説です。
150ページぐらいまでは何がなんだかわからないため、読むのをやめてしまう人が多いように思います。ですので、この本は、
「世界の終り」の章と「ハードボイルドワンダーランド」の章が交互に進行していくため、毎日2章ぐらいづつ読んでいきました。
それで、半分まできても面白くなかったら、やめればよいのだと思います。
なぜ「1Q84」のよういすべりだしが緩慢なのか。
ちょっとヒントでもあればすべりだしからおもしろく読めそうです。
そのヒントを書いておきます。「世界の終り」の章は「主人公の無意識の核」の世界です。私たちには自分でも気がつかない無意識というものがあります。文学とは無意識世界を書く事といってもさしつかえないかもしれません。その無意識にはさらに核があると、村上春樹は考えるのです。自分の全く知らない世界です。その世界にあるものは全部実は自分の一部です。壁も、川も、森もです。主人公は自分のことを「僕」と言っています。
次に「ハードボイルドワンダーランド」の章はへんてこな現実の世界です。僕と同じ主人公は今度は「私」となっていますが、同一人物です。
最初にこのことを知っていればおもしろく進んでいけそうです。
村上春樹の作品はよく言われるパラレルワールド」が多いので、はじめ、わかいづらいところがあります。謎、謎で進んでいくのです。「ねじまき鳥クロニクル」もそうでした。この場合は無意識の中で別の無意識に壁抜けする物語でした。それが冒険譚のように語られていきます。
今、「ノルウェイの森」を25年ぶりぐらいで再読しています。すると、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」ともつながっていきます。ノルウェイの森は「1973年のピンボール」ともつながっていき、「風の歌を聴け」ともつながっています。
村上春樹の小説には「名セリフ」と言えるものも多く、思わず付箋をしてしまいます。なんども読ませる、読むたびになにかがわかってくる。こんな小説は夏目漱石とか、太宰治とか日本では数少ないと思います。
おそらくこのブログでもくどく村上春樹がでてきそうになりそうです。
*******
これまではブログはこちら
150ページぐらいまでは何がなんだかわからないため、読むのをやめてしまう人が多いように思います。ですので、この本は、
「世界の終り」の章と「ハードボイルドワンダーランド」の章が交互に進行していくため、毎日2章ぐらいづつ読んでいきました。
それで、半分まできても面白くなかったら、やめればよいのだと思います。
なぜ「1Q84」のよういすべりだしが緩慢なのか。
ちょっとヒントでもあればすべりだしからおもしろく読めそうです。
そのヒントを書いておきます。「世界の終り」の章は「主人公の無意識の核」の世界です。私たちには自分でも気がつかない無意識というものがあります。文学とは無意識世界を書く事といってもさしつかえないかもしれません。その無意識にはさらに核があると、村上春樹は考えるのです。自分の全く知らない世界です。その世界にあるものは全部実は自分の一部です。壁も、川も、森もです。主人公は自分のことを「僕」と言っています。
次に「ハードボイルドワンダーランド」の章はへんてこな現実の世界です。僕と同じ主人公は今度は「私」となっていますが、同一人物です。
最初にこのことを知っていればおもしろく進んでいけそうです。
村上春樹の作品はよく言われるパラレルワールド」が多いので、はじめ、わかいづらいところがあります。謎、謎で進んでいくのです。「ねじまき鳥クロニクル」もそうでした。この場合は無意識の中で別の無意識に壁抜けする物語でした。それが冒険譚のように語られていきます。
今、「ノルウェイの森」を25年ぶりぐらいで再読しています。すると、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」ともつながっていきます。ノルウェイの森は「1973年のピンボール」ともつながっていき、「風の歌を聴け」ともつながっています。
村上春樹の小説には「名セリフ」と言えるものも多く、思わず付箋をしてしまいます。なんども読ませる、読むたびになにかがわかってくる。こんな小説は夏目漱石とか、太宰治とか日本では数少ないと思います。
おそらくこのブログでもくどく村上春樹がでてきそうになりそうです。
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