25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

九州場所の女2

2014年11月11日 | 日記
「しつこい」と言われるかもしれないが、やはり「九州場所の女」はもっとテレビに映る砂かぶりの二列目、東寄りに今日も座っていた。やや老けて見えたので違う女性かとも思ったが、この写真集を見て確信したのだった。
 
 今日は黒い和服を着ていた。ただ花道沿いの席のほうがカメラの角度で映りがよい。今回からは正面映りなので、ちょっと印象が違う。なんだか老けて見える。ここまで毎回出てくると、解説者の北の富士なども福岡場所があると行っているのではないか。一度行ってみたいものだとワクワクする。なんでワクワクするのだろう。意図が見え見えするその覚悟なのか、女ができることを考えに考えたのか、相撲好きと商売がマッチしたところで、どうせ相撲見物するなら目立つことでもやったらおもしろいのじゃないの、気楽にやったものなのか、興味をひく。審判席の後ろにいるから、相撲取りが飛んでくるかもしれない。そんな出来事への対応のしかたも見たいものだ。
 2時間ほどなにを思いながら座っているのだろう。酒も飲めないし、弁当も食えない砂かぶりである。ご当地の松鳳山の応援掛け声をするでもなく、負けてもがっかりすることもない。明日着る着物はもう決まっているのだろう。

 相撲にも「華」がある。行事の衣装にはどんな和服も色彩が薄くなってしまう。
 小学生の頃、大鵬や柏戸、清国、北の富士などが尾鷲場所に来た。僕は小学六年生だったと思う。相撲取りのなめらかでつやつやした白い肌は照り輝いていた。円の中で重心の戦いをする。力の伝え方が凝縮されたようなもので、それを土俵の円が力士に微妙な円の意識を与える。モンゴル相撲が円を用いず、日本が円を使ったのはなぜなのだろう。円の面白さは絶妙である。それぞれの役割を担う人々、呼び出し、行事、審判、塩をまく力士。伝統にのっとって淡々と進んでいく。そんな人々と観客は円の中に集中する。

 子供をからかう力士もいた。清国は近くの家で気分よさそうにオルガンを弾いていた。その清国の奥さんが御巣鷹山の飛行機事故で亡くなった。北の富士は千代の富士を育て、さっぱりと相撲部屋の親方を引退し、解説者となった。この人の解説が一番歯切れがよくておもしろい。和服もよく似合う。
 大鵬は暗い顔をしていた。柏戸は難しい顔をしていた。北の富士は若さいっぱいの顔をしていた。
 こういうことを思いださせてくれたのもこの女のせいだ。福岡で話す機会でもあったら、きっとそんなことを言うだろう。