25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

レンソイス、ヤノマミ、ピダハン

2014年11月13日 | 文学 思想
ブラジルには実に多様な生活がある。世界最大の砂丘の中に12世帯だけが暮らしている村がある。いく砂にのみこまれてしまうので、定着し、そして埋もれてしまう前に移動する。しかし砂丘から外ににがでない。電気もガスもなく、自給自足の生活である。レンソイス。国立公園になってから観光客が増えてきた。
それに焼き畑農業も禁止された。村は急速に変化にさらされている。

 海にいけば魚はとれるし、平和で穏やかだ、と村に住む人は言う。町への愛情をこの砂丘の村への愛情と交換してしまった、と住んでいる女性は言う。となりの村ではその観光業に力をいれて、訪れる人をもてなすようにしたところ、漁業をするより、現金収入が入るようになった。

 アマゾン流域に「ヤノマミ」という原住民族がいて、そこにNHKのディレクターが住み込んで取材をした記録を読んだことがある。彼らも暮らす適地を探しては移動していたヤノ舞美とは「人間」という意味で、自分たちが人間だと考え、他のものを異星人のように見ている。女性はたった一人で赤ちゃんを産み、それを育てるか、ミツバチの餌にしてしまうかは女性がたったひとりで決めるのだった。半年という期間をヤノマミと暮らした勇敢なディレクターはすごかった。帰国してから熱にうかされ、彼の中で劇的な変化が起こったようだった。

 「ヤノマミ」とはまた違う、さらに原始を思わせる「ピダハン」の見聞記を読んだことがある。これはアメリカのキリスト教者が布教のためにいったもので、西洋人らしい発想と頑固さで、このピダハンの生活様式は拒否し、自分たちのスタイルを持ち込んできた作者だった。この本では原始のピダハンの中に善も悪も自然に備わったピダハンが描かれていた。ヤノマミを取材したディレクターはカメラマンとともにヤノマミと同じ村に住み、同じ生活をしていた。
 アメリカの学者兼布教者には野蛮なピダハンを「人間化しよう」という意思が強かったので、僕は読んでいてしらけたものだったし、ピダハンの奥深い意識や無意識に入り込めない、皮相なところで、ジャッジをしていた作者に反感をもったものだ。文化人類学には宗教的視点は不必要だ。その点NHKのディレクターはすごいものだった。「ヤノマミ」はHNKのドキュメントでも放映され、出版もされた。人間を考えるうえで、とても優れて、貴重な取材であったと思う。

 レンソイスではそこで生きられる人間の数も限定されざるを得ないようだった。1日魚をとって3家族分
が5日ほどのたんぱ源になるという程度のものだ。乾季になると水が干からびてしまうが、砂の中に水分があり、卵は乾季の中を生き抜く。乾季が終わる孵化して小さな魚となる。その魚は食糧にもするが、水が再び充ちた湖に放すのである。

 いっとき、インドネシアやフィリピンの海で船上生活をして生きている漂海民の取材を読んだこともある。僕はそんな自然とともに、国境もなく生きている人々のことを読むのが結構好きで、憧れたりする。ただ憧れるだけである。その中に入っていくことはできないし、しないと思う。
 それにしても、人間は生きていけたらそこが愛すべき場所となるし、その場所からはなかなかに抜けられないものなんだ、と不思議に思う。

 我々は個人主義という思想も取り入れて現在生きている。家族は核家族化している。親と子は別々の生活をし、しかも互いに離れて暮らしている人々も多い。
 彼らには個人主義的なものはない。個性としては怠けたり、不器用だったり、器用だったりという違いはあるが、全村民はルールを踏襲し、それを良しとして生きている。
 世界はどきどきするほど多様だ。