25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ほどほどでいい

2014年11月20日 | 社会・経済・政治
 経済はたえず成長し続けなければならないというのは幻想である。株で儲けようとする人には迷惑な話であり、公共事業で生きている人も迷惑なことであり、天下り法人にいる人も迷惑な話であろうが、しかたがない。突然に借金をやめ、予算を50兆円規模にすれば、ほぼ今の日本は立ち行かなくなる。国の借金に支えられて生きている業者が多いからだ。そういう職種は倒れてもしかたがないではないか。もう家庭用の固定電話はいらないように、古い物は交代していくのである。
 海岸のテトラポットももう要らないではないか。

 インフレがよいとは思わない。僕らから言えばデフレのほうがものが安く買えていいのである。
 国民の医療費負担が毎年1兆円増えているというが、1兆円ぐらい、出す薬を押さえればよい。高血圧や糖尿病や尿酸値への薬など、風邪薬などを現在の学会が発表している基準値に従えば軽く1兆円ほどは浮いてくるはずである。
 またロコモティブシンドローム(運動器官系の病気)も、歩き方やエクササイズ、食べ過ぎをやめればよい。これは国の責任ではない。個人の責任である。約2700万人がこの病気で病院や整骨院に通っている。寝たきりの大きな原因にもなる。
 消費税を導入するならば、軽減税率にするべきで、アメリカやイギリスはやっている。むしろ生活耐久品や必需品ではなくて、贅沢品に多くの税金をかけたほうがよい。

 財布のヒモがかたくなれば政権が交代する。あるいは選挙が行われる。これはどういうことかというと、一般大衆のさじ加減で政権が交代するということであり、大衆は無意識のうちに「消費」によって時の政権を交代させることができることを意味している。ついつい節約することによって、買い控えをすることによって、経済の成長云々となる。すでに近代型の資本主義は終わっている。
ありあまった生活。これ以上買うものがないという生活。携帯電話で遊ぶ生活。食べたものをネットにのせて喜ぶ生活。現在の日本人はまだまだ余裕がある。貧乏だと言っている人でさえ、親に財産があったり、相続するものがあったり、アジアの発展途上国の人に比べたら豊かだと言える。

 衆議院総選挙。この調子では若い人の多くは投票所に出向かないだろう。選挙の意味ぐらいは知っているが、選挙の価値のようなものを1票では実感できないのだろうし、そもそも政治に関心がなく、自分のことで思いは精一杯なのだろう。
 ふやけた感じはするが、まだ豊かなのだろう。

 近隣諸国と仲良くして、言うべきことは言い、技術を提供して農産物を作ってもらってもいいではないか。贈与経済というものもあるのだ。
 為替の差益で儲かるというのも歪んだ金儲けではある。自由市場経済主義で変動相場制なのだからしかたがないが、それにちまなこになって生活しているあんて、あんまり体やこころには良いとも思えない。
 ほどほどでいいんだと思う。戦争さえしなければ。各国を自由に往来できさえすれば。

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ロバストネス 動的平衡  自己慰安

2014年11月20日 | 文学 思想
 だんだんと今年も終わりに近づいてきた。流行語大賞や紅白歌合戦の出場者ももうじき決まるのだろう。
 今年最も印象に残っている出来事は何か言えば、やはり母の交通事故であった。それでは他になにかあるかと言えば、ウチの犬、八咫(ヤタ)が老化で後ろ左足が動きにくくなったことだ。その他に何か印象のあることはあったかと言えば、STAP細胞のトラブルがあったことぐらいだろうか。

 「ロバストネス」という言葉を知った。飛行機が安全に飛ぶためには強靭なロバストネスが必要である。操縦席に二つのコンピュータがあり、ひとつにトラブルに見舞われたら、もうひとつが別の機種、別のソフトウェアで補完する。外界からの影響にもかかわらず、内部ではロバストネスを最適化しようとするのが人間である、というところまで竹内薫は言っていたと思う。
 これはとても参考になった。
 もうひとつ興味津々だったのは、福岡伸一の「動的平衡」という言葉である。たんぱく質の世界から見れば身体内では絶えず生まれ変わっている。にもかかわらず我々は昨日と同じように生きている。この2冊は今年の収穫であった。

 そしてもうひとつ、「1Q84」を再読した。初めて読んだときよりも面白かったし、意味深くもあった。以後、ずっと村上作品を今も読んでいる。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 これが彼の処女作「風の歌を聴け」の出だしである。彼の作品を辿っていくと、この出だしの文章は彼の作品を読み解く上でとても暗示的だ。完全な文章など存在しないから、彼は近代小説系統の文章を使わなかった。彼の小説はだんだんと絶望感がなくなって来た。それは「1Q84」を読めばわかる。青豆と天吾は脱出するのである。

 思えば一年とは短いものだと今年は思う。母の事故は2月11日だった。すでに9ヶ月以上経っている。そして母を見ていたら、人という生き物は意欲さえあればなかなか死なないものだ、と強く思ったのだった。
 その間も多くのドラマを見、多くの本を読んだ。音楽についても今年は大きな変化があった。桑田佳祐を再び聴き始めたことと、ヤナーチェクやワーグナーなど多くの楽曲を聴いたことだ。

 僕は記憶力が乏しいので、結局努力をしなければならない。そうやって僕の中に何かが溜まっていく。いつかは自分の中で多くのものを濾過をして、組み直し、また僕という身体と感性と思想を通し、吐き出さなければならないだろう。しかしながら僕はこのブログを書いて少しずつ吐き出している。自己慰安のためだ。