lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

医療現場の疲弊感

2011-05-31 01:44:32 | Weblog
  EPA看護師候補者を受け入れた施設の方の話を聞く機会があった。話を聞いていて感じたのは、国家試験合格が最終ゴールになってしまっているということだった。候補者への期待という点でも、施設の方々の努力という点でも。
  まず、候補者への期待という点で言えば、合格すれば日本にいられるし立場としても一人前と言えるし、何というか、彼らが仕事面でも日本語面でも問題なくなるかのようだ。しかし国家試験合格を境に突然変異するわけではない。試験合格後も自分の国での仕事の仕方との違いに戸惑うこともあろうし、引き継ぎ日誌の記述などはスムーズに書けないかもしれない。患者さんたちとの意思疎通に齟齬があるやもしれない。合格さえすれば、という強い思いは捨てなければならないように思う。
  次に、施設の方々の努力という点では、国家試験合格の実績を作るために、日常業務をこなしながら自分の時間を削ってでも候補者の育成に力を注ぐ。大変な労力と忍耐力と愛情である。しかしそれも“3年”と思っているから出来ているようだ。国家試験合格までは気がはっているが、その後は疲弊感が襲ってきてしまう。
  このような状況下では、今後の候補者を受け入れる余力が持てない。施設が疲れてしまっていると感じる。来日する候補者数は去年今年と減少しているが、これは(インドネシアやフィリピン側の希望者が少ないこともあるが、)受け入れ施設の体力の問題が大きいだろう。
  EPA開始から3年たって国家試験不合格者の処遇をどうするかという問題とともに、合格者が出始めているので、彼らの今後の活躍の支援体制も課題だ。といっても施設におんぶにだっこ状態であってはならない。これまでは国家試験にルビふったり英語の疾病名を併記したりしてきたわけだが、これからは医療現場でどう活躍の道を示し、どう共存していくか本腰を入れて考えなければならない。合格してからのほうが長い(はずだ)。日本語学習支援も国家試験合格までで終了とするのではなく、息の長いサポート体制を整えたい。

「現代思想 6月号」 特集=TPPから考える

2011-05-30 01:07:22 | Weblog
  TPPは日本語教師とも無縁ではない。外国人がどのように日本へ入ってくるのかに大きく関わっているし、“外国人の労働者受け入れはwelcomeだけど日本の農業については知らん”とも言えない。
  そこで読んだのが標題の雑誌。先週の金曜日に発売になっている。読めば掲載された論考には偏りがあるように感じた。編者が意図的にそうしたのか、それともこれが今の日本の論調か。アプリオリなTPP批判が目立ち、中には多少エキセントリックな批判論を展開するものもあるように思った。
  掲載されている論考の中で直接医療(看護・介護)分野の人の移動について扱ったものはひとつだけ。しかし常に思うのは、このように市場主義・商業主義の側面から移民受け入れについて議論するのは正当ではないとも思う。真正面から日本の将来像と移民政策について議論しなければならないはず。
  また、上で書いたことと矛盾することを言うかもしれないが発想の逆転で、TPPを人口問題の視点から考えてみるのも必要に思う。つまり、少子化の進む国と全人口の平均年齢が若い国との間の経済活動(医療分野や人の移動に限らず、消費や生産や雇用を含めた経済活動)というのが語られてもいい。  
  いずれにしろ今月の現代思想を読んで、TPPがアメリカ主導となっているのが問題ではあるように感じた。今のTPP骨格のまま参加するかしないかの議論より、枠組みを構築するところから議論する必要はありそうだ。
  

看護・介護分野における海外派遣日本語教師候補者のための短期集中研修講座

2011-05-27 02:17:32 | Weblog
  標題の研修について、既に一度このブログで取り上げたが、再度お伝えしたい。
  日本語教育学会が主催し、東京と関西で6月から7月にかけて行われる。成績優秀者は国際交流基金による現地日本語予備教育事業(インドネシア・フィリピン)の候補者として推薦されるそうだ。講師陣を見ても充実した内容になることは間違いないと思う。研修費用は多少学会補助があり、少し安めに設定できているとのこと。迷っている方、ぜひ参加されてみてはどうだろう。締め切りは今度の日曜日(5/29)。まだ間に合う。
  詳しくはコチラ

外国人在留に関して緩和策

2011-05-26 02:28:08 | Weblog
  法務省が「高度人材に対するポイント制による優遇制度の基本的枠組み案」なるものをまとめた。こちらがその記事
  外国人が減少している日本に少しでも多くの外国人に来てもらおうと、今まで設けていた在留資格の要件を優遇しようというもの。家族やメイドさんを連れてきていいよ~とか、配偶者も働いていいよ~とか、3年じゃなくて5年いていいよ~とか。もう少し詳しくこの案の内容を見てみないと分からないが、基本的にはいいのではないかと感じる。しかし既に反対意見も出されていて施行できるかどうか。この産経の記事もタイトルを見れば反対の立場で書いていると分かる。

「サンデルの政治哲学」

2011-05-25 09:40:03 | Weblog
  『サンデルの政治哲学』(小林正弥)を読んだ。マイケル・サンデルが今のような考えを持つに至った経緯というか根拠が分かり、「コミュニタリアリズム」の概念がどうして誕生したのかが分かる本。サンデルの考えで分かりにくかったことが、この本を読んで少し見えたように思い、現代の個人やコミュニティのあり方について疑問を投げかけるサンデルの方略が理解できた。
  「負荷なき自己」として自由に独立して生きるのではなく、「負荷ありし自己」として歴史や民族を背負いつつ良心や善について考え、公共的精神を持つ市民であることが肝要ではないかと考えさせられる著書であった。
  日本語教育を実践する上でも、自分がどのような市民でありたいかということはハズセナイ。

「市民社会とは何か」

2011-05-24 04:30:40 | Weblog
  最近、日本語教育関係の論文で「市民」ということばをよく見るようになった。これは、日本語教育が市民とどう関わるかや市民としてどう日本語教育を実践していくかということが今や軽視できない状況であることを示している。
  ところで「市民」とか「市民社会」とは何なのか。それを押さえておかないと日本語教育と市民についての議論も進展しにくい。そこで『市民社会とは何か』(植村邦彦)を読んだ。アリストテレスから現代まで「市民社会」ということばがどんなふうに使われてきたか、どんな意味を持たせられてきたかを丁寧に書いている。「市民社会」を解き明かす市民社会論というよりは、「市民社会」ということば(単語)がどんな文脈で使われてきたかを明らかにすることで、その時代時代の潮流を示そうとする本。

例えば②

2011-05-23 09:37:14 | Weblog
 今日のブログは先週木曜日の「例えば①」の続編。
 口頭表現能力では、初級レベルでは相手との短いやり取りに始まり、上級になれば意見述べやプレゼンテーションへと移行する。それはやはりアカデミックな話題を想定しての意見述べやプレゼンだ。
 しかしそれだけでいいのだろうか。様々な学習背景があるなかで、アカデミックな分野でなくとも段落性や描写力のある口頭表現力というのは磨かれるべきであると思う。これについてはさぐりながら細々と実践中だ。

来日する留学生

2011-05-20 09:11:23 | Weblog
  留学生の日本離れが深刻な問題だが、その中でも特に日本語が入門レベル初級レベルの留学生が少ない。クラス編成を見ても入門や初級レベルの学習者が少ない。つまりこの春、来日した留学生はある程度の日本語学習歴のある人達(中級レベル)が例年より多い。
  日本留学を志して日本語学習にそれなりの時間と労力を費やしてきた人達にとっては、せっかくここまで勉強してきたのだから留学の夢をあきらめたくないとか今さら別の専門や別の道をさぐるには時間がかかるといった気持ちが働くのだろう。ここまで準備したのだから日本へ行こうと。
  10月生募集も日本語学習歴のある人を対象に的を絞って営業活動や広報をしたほうが効果が出やすいかもしれない。となると、日本語学習だけではなくて、その次のステップとなる特約的プラスアルファの魅力的スキームが提供できるかどうかが鍵となるように思う。

例えば①

2011-05-19 14:38:51 | Weblog
 私は絵を見るのが好きで、それに関する書籍を読むことがある。

 ↓この高階秀爾氏は有名な美術史家。著書たくさん。その中でこの新書は要点が分かりやすくまとめられていて、とっても読みやすい。こういうのを日本語授業で読んで学習者間で意見交換してみると、すごく面白い授業ができるように思う。
  

 ↓この木村泰司さんの視点はかなりユニーク。私の中で只今ブーム。


 言語教育で上級へとレベルが上がると、トピックや語彙は専門的な領域へ移行、あるいはテーマが身近なことからアカデミックな分野へ移行する、というのが一般的な考え。勿論それもひとつの側面ではあるけれど、果たして本当にそれだけでいいのか。専門領域とは関係なく、アカデミックでもない分野で、新たなものを習得したいと考える学習意欲の尊重について考えることがしばしばある。
 上で紹介したような書籍は専門家相手に書かれたものではないから難解な専門用語は出てこない。しかし上級レベルでよく目にするような時事日本語でもなくアカデミックジャパニーズでもなく小説でもない。そこには絵自体の説明や描写、抒情的表現、抽象的表現、絵が描かれた背景や歴史に関する豊かな表現がある。
 レベルが上がっても、technical termではなく、趣味の範囲で一般人が理解したり使用したりする表現の習得という側面で、まだまだ興味あるものは溢れているように思う。

留学生の日本離れ

2011-05-18 09:19:56 | Weblog
 本日5月18日は「ことばの日」だそうだ。5(こ)18(とば)と語呂合わせしたのだろうが、特に大きなイベント等は聞いたことがない。
 閑話休題。
 留学生の日本離れは大学に限らず、日本語学校でも起こっている。4月生よりも10月生への影響がさらに大きそうとは多くの人が予測しているところ。あちこちで日本語学校に関する記事も目にするが、レコードチャイナにもその記事。この記事に使われている白地に緑字の看板の写真、見覚えがあるような…。

EPAインドネシア看護師・介護福祉士候補者に対する日本語講師募集

2011-05-17 22:09:16 | Weblog
 国際交流基金によって、現在インドネシアとフィリピンでEPA看護師と介護福祉士候補者の日本語研修がそれぞれ現地で行われているが、インドネシアの次回の現地日本語研修の講師募集がはやくも始まった。次回は9月中旬開始予定。
 募集のページはこちら
 講師に応募できるのは44歳までだって。それ以上の年齢は体力的に厳しいのか、頭の柔軟性の面で厳しいのか。それとも現地ビザ取得との関係か。ちょっと気になる。

感謝の集い

2011-05-13 13:44:54 | Weblog
 震災への国際社会からの協力に感謝して外務大臣が主催した「感謝の集い」が11日の夜に開かれた。その報道はこちら
 福島の介護施設で働くフィリピン人介護福祉士候補者も招かれていた。努力を惜しまず本当にがんばっている素敵な人達★。国にいる家族も喜び、誇りに思っているようだ。
 私達もいつか恩返ししなければならない。

ヨーロッパ国境移動

2011-05-12 07:48:48 | Weblog
  北アフリカの革命や政変を受けて、難民がヨーロッパに入国する流れが起きている。そのため、ヨーロッパ内移動の制限見直しが行われいている。こちらがその記事
  日本では外国人の出国が相次いで問題になっているが、あちらヨーロッパでは流入が多くて問題になっている。国家権力で入国は制限できても、出国は制限できないということか。
  ちなみにヨーロッパのシェンゲン協定とは国境検査なしで国境が越えられる協定で、最初はベネルクス3国とドイツとフランスの5カ国で1985年に始まったもの。なんと25年も前。日本もアジアにおいてこのような協定を現段階で既に数カ国(数地域)とは結べる社会状況経済状況になっているのではないだろうか。

Happy Mothers Day

2011-05-11 08:55:22 | Weblog
 日本語教師の大先輩が学習者に「先生は日本のお母さんです」と言われているのを見て、私もそんなふうに言われるようになるまで日本語教師をやり続けたいと思っていたものだった。
 5月8日は母の日だった。「せんせ~え、Happy Mothers Day!」と言って電話をくれた人やメール等のメッセージを送ってくれた人が数人いて、私もついにそんな年齢になったかと嬉しいけど複雑な感じ。でも、気にかけてくれて連絡をくれるのは本当に深謝。ありがとうございます。継続的な関係というのはいいものだ。活力になる。

切り取りかた

2011-05-10 08:00:37 | Weblog
  東日本大震災で中国大連から宮城の女川町に派遣された研修生20人を高台に避難させたあと自分は行方不明となった佐藤充さんの関係者を支援する「佐藤基金」を開設すると大連市の夏徳仁書記が明らかにしたらしい。佐藤さんの行為に対して中国内で感動が広がっていて、夏書記は「日中友好の証し」と称賛しているとの朝日新聞記事を先週(先々週か?)読んだ。
  佐藤さんの行為は素晴らしかった。自分の命をも犠牲にする覚悟での行為。しかし、それを「日中友好の証し」と括るには私は抵抗を感じる。佐藤さんは日中のかけはしになろうとして研修生を高台へ避難させたのではないだろう。恐らく佐藤さんはそれが中国人でなくても同じことをしていたのではないだろうか。
  一方、アメリカのマイケル・サンデル教授はこの震災から人々が受けた痛みや悲しみの共有や共感から「世界市民」というキーワードを導く。「世界のコミュニティのあり方がこれまでと変化しているのではないか」と問いかけ、「国境や文化を超えた共同体意識が芽生えるきっかけになる」と言う。
  これに関してはあまりに楽観的な飛躍を私は感じる。確かに佐藤さんの行為を考えると国境や文化にとらわれずにそこにいる人を救おうという意識があったのだろうと思うが、もともと人間は国境や文化という恣意的な事柄から解放されている存在だったはずだ。後から後から知識として植え付けられ、それを問題にするのは政治家であったりお高くとまった知識階層であったり(又は私のような日本語教師であったり)するのではないか。だから「国境や文化を超えた共同体意識が芽生える」べき人は、こういった佐藤さんのような自分や自分の周りの毎日の生活を大切に生きる人たちではなく、「国境や文化を超え」る必要性を訴えている人たちなのかもしれない。そうであれば、これは非常に困難なことで、サンデル教授の解釈には飛躍を感じるのだ。
  私はむしろ佐藤さんの行為に人間くささや人間本来の持っているシンプルなかけがえのなさのようなものを感じる。本当の隣人とはどういうことか考えさせられる。