lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

切り取りかた

2011-05-10 08:00:37 | Weblog
  東日本大震災で中国大連から宮城の女川町に派遣された研修生20人を高台に避難させたあと自分は行方不明となった佐藤充さんの関係者を支援する「佐藤基金」を開設すると大連市の夏徳仁書記が明らかにしたらしい。佐藤さんの行為に対して中国内で感動が広がっていて、夏書記は「日中友好の証し」と称賛しているとの朝日新聞記事を先週(先々週か?)読んだ。
  佐藤さんの行為は素晴らしかった。自分の命をも犠牲にする覚悟での行為。しかし、それを「日中友好の証し」と括るには私は抵抗を感じる。佐藤さんは日中のかけはしになろうとして研修生を高台へ避難させたのではないだろう。恐らく佐藤さんはそれが中国人でなくても同じことをしていたのではないだろうか。
  一方、アメリカのマイケル・サンデル教授はこの震災から人々が受けた痛みや悲しみの共有や共感から「世界市民」というキーワードを導く。「世界のコミュニティのあり方がこれまでと変化しているのではないか」と問いかけ、「国境や文化を超えた共同体意識が芽生えるきっかけになる」と言う。
  これに関してはあまりに楽観的な飛躍を私は感じる。確かに佐藤さんの行為を考えると国境や文化にとらわれずにそこにいる人を救おうという意識があったのだろうと思うが、もともと人間は国境や文化という恣意的な事柄から解放されている存在だったはずだ。後から後から知識として植え付けられ、それを問題にするのは政治家であったりお高くとまった知識階層であったり(又は私のような日本語教師であったり)するのではないか。だから「国境や文化を超えた共同体意識が芽生える」べき人は、こういった佐藤さんのような自分や自分の周りの毎日の生活を大切に生きる人たちではなく、「国境や文化を超え」る必要性を訴えている人たちなのかもしれない。そうであれば、これは非常に困難なことで、サンデル教授の解釈には飛躍を感じるのだ。
  私はむしろ佐藤さんの行為に人間くささや人間本来の持っているシンプルなかけがえのなさのようなものを感じる。本当の隣人とはどういうことか考えさせられる。