lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

参加型や活動型の日本語教育実践の評価

2007-01-13 19:01:45 | Weblog
 昨日、言語文化教育研究所主催の研究会「協働学習をデザインする日本語教師の困難-グループ学習と評価について」に参加。開始時間には間に合わなかったので途中から発表者池田玲子先生の話を聞いたのだが、協働学習での評価について触れていた。
 私は評価というのは、終わった期間にどれだけ何ができたかをその対象とするのではなく、今後の自己や成員の可能性がどのくらい生まれたかや可能性への自覚が芽生えたかという観点を対象にできないだろうか、と考えている。
 つまり3ヶ月のコースがあったとして、3ヶ月を振り返って、これができたとかこれができなかったという点を段階評価するようなものではなく、それを勿論踏まえなければできないことだが、それを踏まえた上で、では、今後の人生なり次の学期なりを見たときに、その学習者はどのような可能性が自分で捉えられたかを評価対象とするのだ。その評価は自分だけでするのではなく、その実践の成員と共にするのだ。
 もっと具体的に言えば、3ヶ月で作文を書いたとする。あるいは調査発表をしたとする。その作文や調査発表の出来を評価するのではなく、その実践をとおして、自分や成員の可能性を知ることができ、次なる課題は何たるか、その課題のためにはどのような工夫や方法を考えられる可能性が自分や成員に自覚できるかということを評価するのだ。(ってちっとも具体的になってないが・・・。)相互補完性や互恵性をもって、どうやってものごとを行い進めていくかを考える方法やネットワークの利用や環境を創っていこうとする力が次へと向いているかを評価対象としたいのだ。
 こういう評価は決して5段階とかABCとかで表せるものではない。内省的なものが必要になるし、成員との対話がなければ生まれないものになる。
 昨日の池田先生の話で、大学という制度の問題で評価を提出しなければならない必要性とは別に、協働学習において評価のあり方を従来のものとは変えていきたいという話に私は共感した。ある決められた授業期間(←これもいわば制度的なもの)に何をしたか、何ができたかを項目を立てて評価するというより、今後の自分や成員のベクトルがどうなっているかを知ることが、その学習者にとって大切なのではないだろうか。
 繰り返しになるが、勿論そのためには当該期間に自分に何ができたか自分は何をしたかを振り返ることは先ずは必要で重要なことは言うまでもない。でも、その次を評価にしないと。ああこれだけできた、ヨカッタ、終わり!では次の学習につながる評価とは言えない。これだけできたのはどうしてか、次はどんなことができるか、自分や成員にはどんなことが可能なのか、それが学習者に必要な「評価」だと考えている。

 それにしても昨日の第4回の研究会は満員、盛況。関係者の方、お疲れ様でした。