lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

ことばが脅かされるとき

2014-03-30 14:25:24 | Weblog
 プーチン大統領がクリミア半島にロシア軍を出兵させたとき「ロシア語を話す人を保護するために必要であった」と強調したという報道があった。同じ言語を話す人を保護する務めが別国の大統領にあるというイデオロギーが成り立つとは、言語の怪物性を感じずにはいられない。
 ウクライナでは数回の言語法に関する修正があった。ロシア語を準公用語としたり、公用語から外したり、現在は地域の言語として認めようという動きがある。公用語から外すと、もちろん教育関係や行政や公文書、公活動からはロシア語が消えることになる。自分達のことばがおびやかされるのは、文化やアイデンティティが奪われることになるという考えがある。第一言語を話さない人が周縁化されてしまうことにつながる危険性もある。
 プーチンがそれだけを理由に出兵したわけではないし、ましてや併合までするとはやりすぎであろうと思う。そこでまた公用語をロシア語と制定することで、同じことを繰り返していくだけなのだ。
 しかし、そしてだからこそ、自分のことばが脅かされた時、人はどう生きるのか、それは大きな問題として現代でも立ちはだかると言える。そこに住まい生活する人々はどう生きようとするのかへのまなざしが軽視されてはならない。
 そういう意味でも、このポスターのイベントは注目すべきもの。「日本人」として日本語で教育を受けていた若者が、ある日突然日本語を奪われ、戒厳令の下、日本語を口にすることは禁止される。ライフストーリーやナラティブ研究に関心がある人のみならず、傾聴に値する語りになるであろうと思う。


【J-Life Session 2】
「私の人生を貫く日本語」―かつての「日本人」が語る日本との運命的な繋がり―
<日時>2014年4月25日 15:00~
<場所>早稲田大学 22号館 8階会議室
<内容>日本統治時代に「日本人」として日本語で育った台湾人を語り手ゲストとして迎え、その話にじっくりと耳を傾けるセッション。そこで何が語られるのか、またその語りから何を感じるのかは参加者一人ひとりに委ねられることになるのかもしれない。当日は、日本語や日本との関わりという観点からその人生に迫り、参加者とともに新たな人生の物語を紡いでいきたい。
<主催>J-Life



EPA介護福祉士国家試験合格発表―2013年度

2014-03-27 23:59:20 | Weblog
本日、標題の発表日。EPAに基づいて来日した人は78名が合格したそうだ。合格率は昨年より3.5ポイント低下ということになるらしい。ただ、今年度初めて受験した人の合格率は去年より10%超上昇した反面、再チャレンジした人の合格率は12.9%と低い。
EPAの人々と接して彼ら/彼女らの話を聴いていると、国家試験に向けた勉強を継続すること、そして周りから頑張れと言われ続けることにかなり疲弊しているのを感じる。再チャレンジに向けた1年は、それまでの3年に比して、相当の忍耐力と強い意志とが求められるように思う。こういった方々にこそのサポートが必要なのではないだろうか。
合格した方々、おめでとう。そうでなかった方々にも、自分のこれまで切り拓いてきた道が作られていることは間違いない。どこにいて何をしていても応援したい。

アドラー

2014-03-26 23:37:40 | Weblog
例えば我が子が「ちょっと待って」ということばを連発すると、「私がいつもそのことばを子どもに言ってるのかな」と思ってしまう・・・これはフロイト的発想。フロイトの考えに沿えば、子育ては親次第。何ごとも過去に原因があって、今の私や今の環境がある。ある意味、フロイトは人間を逃れられない連鎖、永遠に解けない呪縛の中に陥れた。

一方、アドラーは将来どうありたいかを重視する。今自分が抱く怒りの感情さえも捏造だと言う。そんな捏造はすっかり捨てろ、と。原因論じゃなくて目的論。そして「いま、ここ」を真剣に生きよと謳う。「人生とは連続する刹那」である。
アドラー心理学は、過去から自分を解放させる。何かあると自分を責めるような思考から抜け出せる。自分のこれまで抱いた感情や育ってきた環境からの影響に囚われなくていい、囚われるなということだとも言える。過去が切り離されたら、私はどう生きたいだろう。

そんなアドラーに言わせれば、ライフストーリーや自分史を書くといったことは、あっさり否定されてしまうのだろうか。『アドラー心理学入門』には、回想が語られるのは、「今のこの人のライフスタイルに合致する回想を選びだしているということです。過去の経験が今のこの人のライフスタイルを決定するというふうには考えません」と書かれている。ということは、自分史を語るようなことは、過去を紡いでどうするのだと批判されるだろうか。いや、恐らくそうではない。アドラーは経験自体が人を決めるのではなく(経験そのもの(つまり過去)が今のその人をつくる原因になるのではなく)、経験にどう意味を与えるかが人を決めると考えている。過去をすっかり捨てるというのは少々早合点なのだろう。

もう少しアドラーについて知りたいと思えた。