「『共生』の内実 批判的社会言語学からの問いかけ」でリリアン・タルミ・ハタノが「在日ブラジル人を取り巻く「多文化共生」の諸問題」として、在日ブラジル人が家族内で異なる在留資格を持つことがあるために「法的地位」が異なり、人権侵害が起こっていることを指摘している。権力の差が在留資格によって家庭内に持ち込まれるということだ。つまり日本での在留資格を得るために、何かや誰かにすがらなければならないという構造があるのだ。
これは留学生・就学生でも似たようなことが言える。機関保証で発行される留学ビザ就学ビザは、その機関と留就学生との間に権力関係が生まれる。さらにそのお上として、法務省(入国管理局)があり、そのコントロール下に日本語学校をはじめとする機関がある。日本語学校はお客様が来なければ経営が成り立たなくなるので、就学生・留学生を受け入れるために法務省の方針を踏まえた上で経営戦略、運営方針を立てることになる。法務省の方針や入管行政を無視しては日本語学校はもはや生き残れず、淘汰される学校も出てくる。
このような構造の中において「共生」ということばを使うことは胡散臭く陳腐に聞こえる。このような構造の中に身を置いて「共生」を実現しようとすることは破滅的なことのように思えて、最近は意気消沈している。日本語学校で働く者なら、そこでの出席指導や学習態度の指導、生活指導、帰国指導といった「指導」づくしは日常であり、そこから自由になることは勿論、自由になることを望むこと自体咎められ(たような気分にな)ることもある。
「共生」とはナンナンダロウ。1対1であれば可能に思えることが、ある構造の中では不可能だと私に思わせてしまう要因はナンナンダロウ。1対1も本来その権力構造の中にあるのだ。1対1では可能だと思っているのは幻想で、そこでも「共生」なんてあり得ないのではないかという気持ちにもなる。タウン・ヴァン・デイクの「談話に見られる人種差別の否認」を読んでも、そんな気にさせられる。
「『共生』の内実 批判的社会言語学からの問いかけ」は、絶望のどん底に陥れたり、希望の兆しを見せたり、私を未だ翻弄させる強烈な図書。
これは留学生・就学生でも似たようなことが言える。機関保証で発行される留学ビザ就学ビザは、その機関と留就学生との間に権力関係が生まれる。さらにそのお上として、法務省(入国管理局)があり、そのコントロール下に日本語学校をはじめとする機関がある。日本語学校はお客様が来なければ経営が成り立たなくなるので、就学生・留学生を受け入れるために法務省の方針を踏まえた上で経営戦略、運営方針を立てることになる。法務省の方針や入管行政を無視しては日本語学校はもはや生き残れず、淘汰される学校も出てくる。
このような構造の中において「共生」ということばを使うことは胡散臭く陳腐に聞こえる。このような構造の中に身を置いて「共生」を実現しようとすることは破滅的なことのように思えて、最近は意気消沈している。日本語学校で働く者なら、そこでの出席指導や学習態度の指導、生活指導、帰国指導といった「指導」づくしは日常であり、そこから自由になることは勿論、自由になることを望むこと自体咎められ(たような気分にな)ることもある。
「共生」とはナンナンダロウ。1対1であれば可能に思えることが、ある構造の中では不可能だと私に思わせてしまう要因はナンナンダロウ。1対1も本来その権力構造の中にあるのだ。1対1では可能だと思っているのは幻想で、そこでも「共生」なんてあり得ないのではないかという気持ちにもなる。タウン・ヴァン・デイクの「談話に見られる人種差別の否認」を読んでも、そんな気にさせられる。
「『共生』の内実 批判的社会言語学からの問いかけ」は、絶望のどん底に陥れたり、希望の兆しを見せたり、私を未だ翻弄させる強烈な図書。