lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

定住者への職業訓練としてのヘルパー2級講座

2012-03-30 02:17:07 | Weblog
  1月上旬から3月下旬まで神奈川県の委託事業として行われていた外国人定住者対象のヘルパー2級講座の日本語科目を担当した。その閉講式が先日行われて、受講生の晴れ晴れとした姿を見てきた。EPA候補生達とは異なり、日本に長く住み、家族とともに生活している彼らにとって、高齢者や日本人を介護するというのは生活の中から出てくるものであり、介護することへの垣根は低い。生活の実感として介護はすぐ近くに存在しているもの。そういう彼らが介護を職としていこうとする理由には、それぞれの人生を物語るような要素がある。中途半端な気持ちでは取り組めないもので、家族を想うからこそ今の自分にはできないと判断した人もいた。それでも、受講生一人ひとりを心から応援したくなる。自分の選択を信じて、前に進んでいってほしい。
  講座担当者と話をしたが、受講生が今後介護施設に就職できるかどうかのキーの一つは「記録が書けるか」らしい、やはり。受講生と話していても、記録を書く力をもっと伸ばしたいと希望している人が多い。この力を伸ばすために日本語教師に求められている面はあろう。私達にとっての課題でもある。
  そして、この講座を担当するにあたって、出会えた仲間や受講生や講座担当者の方々に深く深く感謝。素敵な出会いでした。

EPA介護福祉士国家試験合格発表

2012-03-29 10:24:46 | Weblog
  昨日は標題の発表日。厚労省のHPに名前が掲載される。受験者も受験者の周りの人も努力し続けた結果だろう。心から祝福したい。
  しかしEPA枠組みで来日の方々の合格率は約38%で、看護師国家試験より高いものの、これで満足できるという数値ではない。一方、日本人の合格率も63.9%と、従来に比べて高くなった。試験内容が少し変わっているはずなので、それが合格率に影響を与えのだろうか。
  今後、ひとつのゴールだけを目指し、それがだめなら帰国という狭きものであっては、受け入れ施設も減少するだけだ。一部の高い意欲や体力のある施設だけががんばってふんばっている状況ではスキームは崩壊する。国家試験そのものの改良も必要だが、介護福祉士の国家試験合格だけにとらわれず、介護職員としてどんな立場で働くかということについても柔軟に考えていくことも望まれていると思う。

『介護現場の外国人労働者』

2012-03-23 16:53:13 | Weblog
  標題の書籍を読んだ。EPAスキーム開始と同時期に執筆されているものが多く、様々な課題を抱えた状態でのスキーム開始であったことが分かる。これらの問題を、さて、どうするか。そしてこれらの諸問題に加えて、開始されてから明らかになってきた問題もある。それらの問題にどう立ち向かっているかという続編を書いたら、高い関心を呼ぶように思う。
  「介護現場の外国人労働者 日本のケア現場はどう変わるのか」明石書店

9月の国際研究集会

2012-03-16 22:35:34 | Weblog
 9月に国際研究集会『私はどのような教育実践をめざすのか ― 言語教育とアイデンティティ』があります。その国際研究集会につながるオンデマンド講座も開講されます。
 自分がめざす実践を言語化していくことの難しさは身にしみて分かっていますが、開示していくことは生きる糧になるんだろうな。

 

日本の人口減少という観点からの外国人労働者受け入れ

2012-03-14 10:10:26 | Weblog
  2~3年前の現代思想にだったか安里和晃さんの論文が掲載されているのを読んで、とても分かりやすい文を書く方だったのを覚えている。先週末にお話しを聞く機会があって、やはり分かりやすく問題のありかをきちんと指摘してくれて、高い関心を持って話を聞いた。
  外国人労働者の問題は社会の問題で、すなわち私たちの問題である。『労働鎖国ニッポンの崩壊―人口減少社会の担い手はだれか―』は日本の人口減少や超高齢社会の問題は、外国人労働者を受け入れることによってどうなるのか、話に飛躍がなく、きちんと説明している書籍だと思う。
  出版社がダイヤモンド社というのがミソ。多くの人が手に取っているだろうと期待できる。

外国人看護介護従事者によるスピーチ

2012-03-12 13:57:32 | Weblog
  先週末、AOTS等が主催する「看護・介護にかかわる外国人のためのにほん語スピーチコンテスト」に行ってきた。10名のスピーチ者にプラスして、気仙沼に住み介護関係に従事する外国人3名の話を聞いた。EPAで来日する人や日本人配偶者として定住する人など、それぞれの立場で抱える問題意識は少し異なる。気仙沼に住む方々は震災後をどう生きるか、家族や生活や命の問題がそこに立ちはだかっている。協働とか共生とか言う前に、身近な人達と自分の命をなんとか守っている生活がそこにある。命からがらの生活であり、当然、周りの人との協力と知恵の出し合いがそこにはある。聞いていて震えるような気持ちになった。問題意識の持ち方は異なっても、根底には通じるものがあるのも確かで、そういったことに自分ができることは何かと考える。
  また、安里和晃さんのお話も関心の高いものだった。予期しなかった懐かしい人との再会もあり、心に残ることの多いイベントだった。

『「満州移民」の歴史社会学』

2012-03-09 10:37:58 | Weblog
  移民関連の本を読んでいる。『「満州移民」の歴史社会学』(多分これも絶版か?)は、満州に渡った人たちの全体像がつかめる概要書。この本の7章では、中国に残留した女性にインタビューし、その人生を描こうと試みている。研究手法はライフヒトーリー的であり、興味を引く。前回ご紹介した『写真婚の妻たち』とは対照的に、インタビューイーのせりふはなく、すべて筆者が史実として報告するような形式で書かれている。ライフストーリーの描き方のひとつとして参考になる。
  それにしても前回の「写真婚の妻たち」を読んでも感じたことだが、この時代の壮絶さには驚くばかりか、女性たちの生きていく力と知恵に敬意を表せずにはいられない。私の祖母の人生を聞いても同様の印象を受ける。現在の日本に移民として来日する方々にもたくましさと生命力と明るさが豊かにあり、そして適度なあきらめ感も彼らの生活を支える力となっていると感じる。

『写真婚の妻たち―カナダ移民の女性史―』

2012-03-07 14:16:39 | Weblog
  研究方法としてライフストーリーの手法を使った移民関係の本を読んでいる。『写真婚の妻たち―カナダ移民の女性史―』(多分もう絶版)は1900年代初頭に日本からカナダへ移民した女性にインタビューし、聞き取ったことを記述した本。1983年に出版されていて、ライフストーリーというより、オーラルヒストリーに分類される手法と言えよう。移民としてカナダへ移った女性たちの語りからは、その時代とその境遇をたくましく生きる女性が浮かび上がる。
  17年ほど前、カナダに1年滞在したが、その時、男性の60~70歳代の日系2世の方数名と知りあいになった。彼らとよく話す時間があり、たわいもないことをよくしゃべったものだったが、物を持たず、欲がなく、しかしバンクーバーのどこへ行けばどんなものが手に入るのかという情報をつぶさに知っていた。そこには生活に密着した裏情報的なものも含まれており、彼らの人生のやはりたくましさのようなものを感じた。英語はあまり話さない人達で、日本人としての誇りを持っている人達だったが、子どもや孫への距離の置き方に特殊な雰囲気を感じた。『写真婚の妻たち』を読んで、彼らのことを鮮明に思い出した。私があのときに感じた特殊な雰囲気は移民のアイデンティティによるものかもしれない。カナダで新たに形成されていく子ども世代の「家族」に自分が入り込むことで崩れてしまうものがあるのではないかという遠慮だったのではないだろうか。迷うことなく“自分は○○人だ”と言える環境を新たな世代の子どもや孫たちには作ってやりたいという親心ゆえの、あの特殊な距離の置き方だったのではないだろうか。
  「移民を生きる」ということは、移住するときには思いもつかず、まだ世に存在すらしない子孫を巻き込み、揺るがす、数代にわたっての大事業なのだろう。

意見としての自己を物語るということ

2012-03-05 15:17:25 | Weblog
 大学留学生の日本語科目を担当しているが、そのひとつ、対話的に意見を構築してレポートにまとめるという授業を行っている。クラスメートと対話をする中で、ある意見が立体的になっていく過程がある。テーマを一つの側面からではなく、多面的にみることができるようになるのは協働とか対話の力だ。そうやって対話的に意見を構築していくことで、偏りや狭い視点からではなく、テーマが立体的になり、それだけ説得力のある意見となる。最終的なレポートに記述されることは、あるテーマに関して多面的な見解があることを客観的に述べ、その上で自分の意見を明らかにするというものだ。
 ところが、あるテーマに関しての多面的見解を述べるというパターンではないレポートが完成することが稀にある。自己を物語っているライフストーリー的要素のあるレポートである。自分の考えや意見を、自分が今までどのような人生を生きてきたかという裏付けから述べるようなものである。生い立ち記のようなものが書かれ、だから今の自分が、またはこのように考える自分が築かれたという展開をするレポートである。つまり、前者は今ある事象をいろいろな面から述べるようなもの横軸的なもの、後者はそこに到達するまでの経緯を述べる縦軸的なものだ。
 前者の多面的視点を書くタイプの人は、授業で得られたものとして、自分の意見を相手に分かってもらえるように伝えるにはどうすればいいかを学んだと感想に述べる人が多い。一方、後者の物語的視点で書くタイプの人は、自分がどんなことを考えているかがよく分かったという感想を述べる。前者は既に意見は持っていて、それを伝える方法論について学んでいるらしい。後者は自分そのものについての発見、生成をする過程を自覚している。
 自己を物語ることの意味については既に心理学や社会学のいろいろな方が主張しているし、その効果・影響は大きいだろう。さらに言えば、意見を伝えるという日本語の授業においても、自己を物語るということは、多面的に意見を述べることとは異なる効果をもたらしている可能性は大きい。
 この違い、教育学的に見ても、自分の実践の振り返りという意味でも、追及する価値があるように思う。

「専門性」

2012-03-02 08:55:37 | Weblog
 「生きる力をつちかう言葉」の中に北海道の浦河べてるの方々にインタビューした『弱さがもたらす豊かなコミュニティー』という章がある。
 そこで「専門性」って何だろうという話をしている。「ものごとをわきまえなきゃいけないということなのかもしれませんね」「そもその専門性ってそういうものだというそのつつましさ、あるいは自分のこらえ性みたいなものが、専門性を支えている基盤なのかもしれない」。このあたりくだりは興味深い。日本語教師の専門性ということを考えるにも示唆を与えてくれる。誰のためか何のためか、「専門性」というのは人間の生の根本にかかわっているのかもしれない。
 「生きる力をつちかう言葉」、お勧めの書である。