lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

「相手への、そして自己への可能性をとことん信じる」

2006-10-30 00:27:28 | Weblog
 今月から久しぶりに、いわゆる「初級」のクラスの授業を担当している。ご多分に洩れずといおうか、「みんなの日本語」を主教材とした授業だ。ここのところ、「初級」の「みんなの日本語」を主教材とした授業というものに私自身が教室へ入って授業をするこということはなかった。本当に久しぶりだ。修士での研究では従来の日本語教育の分野だけで進めることに限界を感じていたのだが、修士の研究を終えると同時に、しかしもう一度、原点に立たされたような気分だ。
 私の問題意識は、やはりこの教室から生まれたのだろう。
 日本語教育分野にとらわれていては研究を前に進めることはできないかもしれない。しかし、ここから離れてもいけない。

 構造シラバスで立てられた「初級」の「みんなの日本語」を主教材とした授業は、毎週テストを行う。ペーパーテストだ。知識の多寡を問うようなテストに限りなく近い。ペーパーテストではある限られた「能力」を測るのだ。そしてそれを採点するという作業をしていると、学習者Aの、ある「能力」における弱点やら、別の学習者Bの、ある「能力」における弱点やらが見える。助詞が弱いとか疑問詞が不得意らしいとか、助詞はおおよそ分かっているけどその中の道具・手段の「で」に関しては理解していないようだとか、会話の流れを作成したり文脈を理解したりするのに苦労するらしいとか、そういうこと。
 私はこれが非常に疲れる。学習者のある限られた「能力」の「弱点」が見えるような気がしたり、「弱点」を認識したりすることはstressfulだ。採点をしていて、それぞれの学習者の回答ミスに傾向があることが分かってくるというプロセスが私の中で起こることにストレスを感じる。学習者DもEもFも疑問詞が不得意だと認識し始め、じゃあもう少し疑問詞についてこのクラスでは強化して指導すべきか、などと考えることにイライラし、戸惑うのだ。
 一方、授業をしていて(あるいは授業の合間に)学習者が母語などを使って自分の言いたいことを私に伝えようとする場面に出くわすことが多い。(これも「初級」クラスだからか。)そういう場面では全くストレスを感じない自分がいることに最近気付いた。母語で話している内容は学習者が自分の理解が正しいかを確認しようとしていることもれば、単なるおしゃべりであることもある。しかし私はその内容を知りたい、聞きたい、おしゃべりに加わりたいと思っていることに気付く。英語であれば(私が中学時代に習った英語で)なんとか内容を分かろうと努力するし、韓国語などの全く私が理解できない言語であっても、表情などから何を言おうとしているか読み取ろうと努力する。これにはストレスは感じない。学習者が母語で質問したり話しかけてくることに、私の中で何ら疑問や戸惑いが出てきていないことに気付く。
 つまるところ、何語であるかは関係なく相手の言いたいことを知りたい・知ることに対してstressはないのだが、ある学習者のテスト回答ミスの傾向を知るのはstressfulなのだ。
 言語構造・形式に興味を持たない日本語教師はダメだと以前言われたことがある。しかし言語以上に何かに惹きつけられるものがあってもいいはずだ。というより、あるべきではないだろうか、何のためにことばを使うのかと考えれば。
 飛躍はあれど、そして著者の切り口とは随分違う面からの話にはなるが、こういうことも、「差異を言祝ぎ、同化を迫らない「無為の営み」の思索と実践のひとつである<教えない><教えられない>教育は、相手への、そして自己の可能性をとことん信じるところから始まる。」という春原先生(2006「教えない日本語教育:地域社会との協働をめざして」)につながるものがあるのではないだろうか。この一節は読んでいて胸が震えた部分だ。テストの回答ミスを発見して相手のことを知った気になるのは「相手への、そして自己の可能性をとことん信じるところ」から始まらず、可能性を否定することから始めているに他ならない。

まとまらないままの感想「文化と状況的学習」

2006-10-24 00:25:27 | Weblog
 先日発売になった「文化と状況的学習」を読んだ。状況論を面白い切り口で語っている。特に理論編の2つの論考は,状況論をbaseから語った理論ではなく,背景やネットワークを語ることで状況論を記述しており,まさにそれがネットワーク構築を主眼に据える状況論ならではだと感じた。しかし状況論の入門書にはなりそうもない。いや,考えてみれば,状況論にbaseも入門も何もないかもしれない。複雑に入り組んだり錯綜している実践こそが状況的学習なのだから。それ故,フィールドワーク編で描かれるのは,実践に埋め込まれた状況であり,そこに調査者自身も埋め込まれて研究・調査するさまなのだ。調査者もネットワークの中に存在している。
 柳町の「両者の組織化のされ方を詳しく観察し記述し,今までの母語話者評価の研究が一言で「評価」と片付けてしまっている実践とは一体どういう社会的事態なのか,その前提の部分に立ち戻って考察していくことではないだろうか」という部分には共感を覚えた。強烈なまでのヒエラルキーと規範のはびこる教室で,学習者は何を学ぶのだろう。実践から離れて何かを蓄積することはあっても,実践者とはならない。ユカタン半島の産婆のように「足をぶらぶらと下げ」るだけだ。
 もうひとつ,この本は状況論についての論考という面だけでなく,研究というのはどのようにしていくのかについても考えさせられるものだ。研究テーマを立て,それをどうクリアにしていくかという様がフィールドワーク編では見られ,興味深い。何もディスコース分析だけが研究方法ではないことが分かる。非言語部分のデータや当事者分析など(知識としてはそのようなものがあると分かってはいても,いざどうすればいいのか焦点化できないものを),ここに収められた論考では鮮やかに研究がなされていて惹きつけられた。そして印象深かったのは,ソーヤーが博士論文を書くにあたって味わった「言語研究」という枠と自分の研究分野とのことばにならないズレに対する葛藤。私自身の学位論文での研究は,何か大きく枠組みがズレたまましていたような気がしてならない。私の研究したいことは,自分が行った枠組みで分析されるべきものではなかったと感じている。かと言ってどうすれば良かったのか,皆目見当が付かない。まだまだ勉強不足。言語教育にとらわれることなく,研究の方法をもっと追究すべきだったのだろう。ソーヤーが状況的学習論や科学社会学に出会ったように・・・。しかしそれには時間がかかりそうだ。1年2年でできることではない。

浮遊するagentからその先へ

2006-10-15 01:05:10 | Weblog
 「リテラシーズ2」は興味深い論考がぎゅっと詰まっている。このシリーズは「21世紀の日本事情」のときから毎号毎号充実度が増し、新しい号を読むたびに次の号の発刊への期待感が強くなるのを感じることができる。誌自体が力をつけてきていて、号を重ねるごとに読み応えのある論考が増えている。 そのため「リテラシーブ2」に収載された論考はどれもひきつけられる議論が展開されているが、特に「『欧州共通参照枠』におけるagent/acterurの概念について」(姫田)が、新たに議論の俎上が作られ、論争の準備がされたような興奮を感じた。 この論考が参考にするIbid(1999)のようにagentを「構造の要求に組み込まれた役割とあらかじめ植え付けられた意思の担い手を意味する語」で、auteurをそれとは「反対に、個々人に自由な余地を強調したい」時に使用する語とした場合、agentを学習者かそうでないかは、もうここでは問題にされないのではないだろうか。学習者という面だけでなく、生きていく上でもagent性とauteur性は私自身に常に混沌とある。それを戦略的に選択したり無意識に選択したり、時には強要されたりしながら、ふわふわとさまよっている。 呼び起こされるのは、春原先生の「学習ストラテジーとネットワーキング」(1999)。そこでは「自分の多様な属性の1つを強調されるような、周囲からのアイデンティティーの押しつけをすり抜けていくストラテジーが求められる。すり抜けるためには、特定のアイデンティティーを拒否するというより、複数のアイデンティティーのあいまをただようほうがよい。」と述べている。 姫田論文で大事なのは、「学習者は自分自身が恣意的に規定する社会の枠組みに気付いた時―その時、各個人の恣意によるいくつもの社会の規定があることに同時に気付くだろう―、そしてその社会のagentである自分を知る時、はじめてauteurへの一歩を踏み出す」ということだ。つまり、規定されている社会は自分自身の恣意によるものであること、かわしたりすり抜ける必要があるのは他ならぬ自分の恣意性であることが説かれ、それ故「その観察ができるのは彼/彼女自身だけだ」と姫田は主張するのだ。 先日、別ブログに書いた「ENDO」と[TSUKADA」のあいまをさまよう私は、未だagentであったと言える。しかし自己の恣意的規定があるとすれば、そしてそれに気付きつつある私は「auteurへの一歩を踏み出」そうとしている。 あえて言語教育の場に戻して考えれば、学習者に彼ら自身の恣意的な規定に気付く権利を「返す」(姫田)とは、如何に実現できるか。教師が学習者に社会の恣意性に気付かせるというのはもはや不十分なのだ。すなわち、学習者自身の混沌性や更新性を可視的にすることであり、これは過程をもってこそ可能になる。

共生言語

2006-10-08 01:12:14 | Weblog
 「批判的社会言語学からの問いかけ」と副題が付けれらた「共生への内実」。既に読み直すこと数回。
 国際化が叫ばれグローバルという言葉がもてはやされ、その後海外へ出ることだけが国際化ではないことが謳われ、内なる国際化として国内や地域へ目を向けることの必要性が問われ、「共生」の概念が重要視されてきた。しかし共生だの多文化共生だのという言葉がもてはやされ、国際化やグローバルに取って代わっただけで、その内実はどうなのだろうか。共生がたやすく述べられることに警笛を鳴らし、真の共生(があるのなら、それ)を阻むものは何かという問いを持ちかけてくる論考集。
 この中で牲川さんの「『共生言語としての日本語』という構想」にある「共生言語」(岡崎)という概念からは、ことばの永劫性が剥奪され、人々から離れて独り歩き(というか歩いてもいない、独立的単独的存在)を始めた「言語」が、どこかに存在するかのようだ。言語というのは他者と自己の互いの他者性においてあるものだし、単独では機能しない。そうであるなら言語というのはすなわち共生そのものだと言える。だから「共生言語」という表現自体に違和感を持つ。
 言語、ことばが成立し変容し、形を成すようで成さず、そして更新されつつあるという過程が、「共生」なのではないだろうか。ことばの使われ方の変容過程が「共生」の内実をも顕にするのではないか。(その意味でも山下論文もとても興味深い。が、それはまた今度。)
 ことばの動態性が共生を可能にする。共生がことばを動態的にする。「共生言語」という言語の存在は、言語を言語でなくし、固定した言語を作り教えた瞬間に共生は姿を消すのではないだろうか。(で、「強制」が姿を表す。)
 この本は短絡的に表面的な「共生」を批判をするという読み方に終わらない研究課題を読者に突きつけてくる。

ブログテーマは・・・

2006-10-07 20:22:33 | Weblog
ことばを話し手と話す相手とが共有する領土だと言ったバフチーンは「どんなに遠い過去の対話から生まれた意味も、最終的・決定的に捉えることはできない。なぜならそれはその後の対話の中でたえず更新されてゆくからである。」と述べている。
発せられたことばは対話の中で形を成そうとしては、更新され、また形をかえようとしては、新たな息が吹きかけられる。ことばというのは永劫性のあるもので、完成された状態で存在するものはない。
また、「ミハイール・バフチーンの世界」という本の中で「バフチーンのいう自己とは決して1つの全体ではない。それは対話的にしか存在しえない。それは独立した実態でも本質でもなく、他者的なものすべてとの、とくに他の自己たちとの、伸縮性のある関係のなかにしか存在しない。」とある。
自己は自己として存在しない。他者の中にあって、他者とともにあって、そして自己も他者も永遠に完結しない。そうなると自己とか他者とかという境界が必要なのかも疑問になってくる。
私達はそういう世界に生き、そのためにことばを紡ぐのだということを私は教室の中でも外でも一瞬たりとも忘れない。

ここでも、完成することのないことばを紡ぐことになろう。