今月から久しぶりに、いわゆる「初級」のクラスの授業を担当している。ご多分に洩れずといおうか、「みんなの日本語」を主教材とした授業だ。ここのところ、「初級」の「みんなの日本語」を主教材とした授業というものに私自身が教室へ入って授業をするこということはなかった。本当に久しぶりだ。修士での研究では従来の日本語教育の分野だけで進めることに限界を感じていたのだが、修士の研究を終えると同時に、しかしもう一度、原点に立たされたような気分だ。
私の問題意識は、やはりこの教室から生まれたのだろう。
日本語教育分野にとらわれていては研究を前に進めることはできないかもしれない。しかし、ここから離れてもいけない。
構造シラバスで立てられた「初級」の「みんなの日本語」を主教材とした授業は、毎週テストを行う。ペーパーテストだ。知識の多寡を問うようなテストに限りなく近い。ペーパーテストではある限られた「能力」を測るのだ。そしてそれを採点するという作業をしていると、学習者Aの、ある「能力」における弱点やら、別の学習者Bの、ある「能力」における弱点やらが見える。助詞が弱いとか疑問詞が不得意らしいとか、助詞はおおよそ分かっているけどその中の道具・手段の「で」に関しては理解していないようだとか、会話の流れを作成したり文脈を理解したりするのに苦労するらしいとか、そういうこと。
私はこれが非常に疲れる。学習者のある限られた「能力」の「弱点」が見えるような気がしたり、「弱点」を認識したりすることはstressfulだ。採点をしていて、それぞれの学習者の回答ミスに傾向があることが分かってくるというプロセスが私の中で起こることにストレスを感じる。学習者DもEもFも疑問詞が不得意だと認識し始め、じゃあもう少し疑問詞についてこのクラスでは強化して指導すべきか、などと考えることにイライラし、戸惑うのだ。
一方、授業をしていて(あるいは授業の合間に)学習者が母語などを使って自分の言いたいことを私に伝えようとする場面に出くわすことが多い。(これも「初級」クラスだからか。)そういう場面では全くストレスを感じない自分がいることに最近気付いた。母語で話している内容は学習者が自分の理解が正しいかを確認しようとしていることもれば、単なるおしゃべりであることもある。しかし私はその内容を知りたい、聞きたい、おしゃべりに加わりたいと思っていることに気付く。英語であれば(私が中学時代に習った英語で)なんとか内容を分かろうと努力するし、韓国語などの全く私が理解できない言語であっても、表情などから何を言おうとしているか読み取ろうと努力する。これにはストレスは感じない。学習者が母語で質問したり話しかけてくることに、私の中で何ら疑問や戸惑いが出てきていないことに気付く。
つまるところ、何語であるかは関係なく相手の言いたいことを知りたい・知ることに対してstressはないのだが、ある学習者のテスト回答ミスの傾向を知るのはstressfulなのだ。
言語構造・形式に興味を持たない日本語教師はダメだと以前言われたことがある。しかし言語以上に何かに惹きつけられるものがあってもいいはずだ。というより、あるべきではないだろうか、何のためにことばを使うのかと考えれば。
飛躍はあれど、そして著者の切り口とは随分違う面からの話にはなるが、こういうことも、「差異を言祝ぎ、同化を迫らない「無為の営み」の思索と実践のひとつである<教えない><教えられない>教育は、相手への、そして自己の可能性をとことん信じるところから始まる。」という春原先生(2006「教えない日本語教育:地域社会との協働をめざして」)につながるものがあるのではないだろうか。この一節は読んでいて胸が震えた部分だ。テストの回答ミスを発見して相手のことを知った気になるのは「相手への、そして自己の可能性をとことん信じるところ」から始まらず、可能性を否定することから始めているに他ならない。
私の問題意識は、やはりこの教室から生まれたのだろう。
日本語教育分野にとらわれていては研究を前に進めることはできないかもしれない。しかし、ここから離れてもいけない。
構造シラバスで立てられた「初級」の「みんなの日本語」を主教材とした授業は、毎週テストを行う。ペーパーテストだ。知識の多寡を問うようなテストに限りなく近い。ペーパーテストではある限られた「能力」を測るのだ。そしてそれを採点するという作業をしていると、学習者Aの、ある「能力」における弱点やら、別の学習者Bの、ある「能力」における弱点やらが見える。助詞が弱いとか疑問詞が不得意らしいとか、助詞はおおよそ分かっているけどその中の道具・手段の「で」に関しては理解していないようだとか、会話の流れを作成したり文脈を理解したりするのに苦労するらしいとか、そういうこと。
私はこれが非常に疲れる。学習者のある限られた「能力」の「弱点」が見えるような気がしたり、「弱点」を認識したりすることはstressfulだ。採点をしていて、それぞれの学習者の回答ミスに傾向があることが分かってくるというプロセスが私の中で起こることにストレスを感じる。学習者DもEもFも疑問詞が不得意だと認識し始め、じゃあもう少し疑問詞についてこのクラスでは強化して指導すべきか、などと考えることにイライラし、戸惑うのだ。
一方、授業をしていて(あるいは授業の合間に)学習者が母語などを使って自分の言いたいことを私に伝えようとする場面に出くわすことが多い。(これも「初級」クラスだからか。)そういう場面では全くストレスを感じない自分がいることに最近気付いた。母語で話している内容は学習者が自分の理解が正しいかを確認しようとしていることもれば、単なるおしゃべりであることもある。しかし私はその内容を知りたい、聞きたい、おしゃべりに加わりたいと思っていることに気付く。英語であれば(私が中学時代に習った英語で)なんとか内容を分かろうと努力するし、韓国語などの全く私が理解できない言語であっても、表情などから何を言おうとしているか読み取ろうと努力する。これにはストレスは感じない。学習者が母語で質問したり話しかけてくることに、私の中で何ら疑問や戸惑いが出てきていないことに気付く。
つまるところ、何語であるかは関係なく相手の言いたいことを知りたい・知ることに対してstressはないのだが、ある学習者のテスト回答ミスの傾向を知るのはstressfulなのだ。
言語構造・形式に興味を持たない日本語教師はダメだと以前言われたことがある。しかし言語以上に何かに惹きつけられるものがあってもいいはずだ。というより、あるべきではないだろうか、何のためにことばを使うのかと考えれば。
飛躍はあれど、そして著者の切り口とは随分違う面からの話にはなるが、こういうことも、「差異を言祝ぎ、同化を迫らない「無為の営み」の思索と実践のひとつである<教えない><教えられない>教育は、相手への、そして自己の可能性をとことん信じるところから始まる。」という春原先生(2006「教えない日本語教育:地域社会との協働をめざして」)につながるものがあるのではないだろうか。この一節は読んでいて胸が震えた部分だ。テストの回答ミスを発見して相手のことを知った気になるのは「相手への、そして自己の可能性をとことん信じるところ」から始まらず、可能性を否定することから始めているに他ならない。