lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

『マイノリティの社会参加』を読む

2014-04-14 02:20:04 | Weblog
 現代思想に「ろう文化宣言」が発表されて、20年近くになる。その間、ろうを取り巻く環境は変わったのだろうか。一部では変わったのだろうし、変わろうとする動きはあちこちで出てきているのだろうと思う。『マイノリティの社会参加 障害者と多様なリテラシー』(佐々木倫子編、くろしお出版)は、現在のろうを取り巻く環境の課題を浮かびあがらせることに成功している。考えなければならない問題群を示し、その問題について読者に考える余韻を与える章が多く、その余韻は心にも脳にも響く。
 しかし何かがひっかかる。本書は、“マイノリティに関する課題が明らかにされ、それをどう解決していけば誰もがいきいきと生きられる社会を創れるか”というような、そういったことが実直あるいは醇正に描かれているものではないと感じる。ことはそう単純ではないのだ。
 超えられないポジショニングがあるように感じられてしまうからだろうか。当事者にはそれを生きた当事者としての物語がある。物語は私に強く語りかける。私は聴き手だ。私は聴き手以上になれるだろうか。その物語を前にして、私は永遠に聴き手でしかいられないような気になってくる。あるいは何かの働きかけをする媒介者にはなれるかもしれない。語り手とそれを「マジョリティの一般市民」へとつなぐ媒介者にならなれるのかもしれない。だけど語り手にはなれない、物語を紡ぐことはできないのではないか。
 本書のひとつひとつの章からも、語り手と聴き手または媒介者という立場の異なりが見える。生きる物語が違うのだ。そう感じてしまうこの読後感は、あとがきタイトルでもある「当事者と非当事者の協働」が、そう簡単なものではないと予告している。しかしそれでもやらねばならぬと奮い立たせるものが、やはり当事者の物語でもある。そうしてまた「物語」の力を感じるのだ。その循環の中に私は立たされる。

「外国人労働者」というラベル

2014-04-05 22:03:17 | Weblog
 移民政策は常に経済の文脈で語られる。労働力不足の補填や人口減少による経済不活性の穴埋めとして外国人に目が向けられる。昨日発表された、建築現場での人手不足対策のために外国人技能実習生の受入れ拡大を決めたというニュースも然り。家事や介護を担う外国人労働者受入れの検討を行っているという報道もある。これとかこれとかこれとか。経済面での補填や穴埋めと捉えるから、選択的限定的な日本への受入れがなされる。例えばEPA介護なら介護だけ、それ以外での在留は認められない。職場を変えることは基本的に不可で、また介護と看護の横断的移動も現状不可。ましてや他の職へ移ること(転職)は認められない。そして介護職で在留できるのは今のところEPA2国(来月から3国)のみ。日本で高等教育を終えて介護職で就職しても在留資格は出ない。

 ある職業、職場に長く就くこと事態はそれほど問題ではない。専門家として活躍できる道が築かれる。問題は、限定的職種の外国人労働者として周りが見なし、常にそこに回収しようとする眼差しが生まれることだ。例えば、常に「建築現場の外国人労働者」とか「水産工場で働く外国人研修生」という目で見て、当事者のアイデンティティをそこに回収させようとする見えない力が働くことだ。こうした力は当事者の生活や本人が自覚するアイデンティティさえも逼迫させることになる可能性がある。生きづらさ・生きにくさにつながり、社会としても逼迫する。

 このような選択的限定的受入れがなされるのは、政府が彼らを移民と認めたくないことと関係がある。実態としては移民であろうが、政府は移民の受入れだと捉えられたくないようだ。だから、「東日本大震災復興や2020年東京五輪・パラリンピックに向けた人手不足に対応するため」と言い訳をして、一時的なものなので移民ではないというように見せかける。しかし既に日本には移民が受け入れられているのだ。実情にしっかりと向き合い、真剣に移民としての彼らの「生」について考えたい。経済面での一時的補填や穴埋めではなく、ともに生活していく者たち、同じ場所で生活していく隣人として考えれば、彼らの受入れ方は大きく方向転換するはずだ。そして双方にとって、もっと豊かな社会が創れるように思う。