現代思想に「ろう文化宣言」が発表されて、20年近くになる。その間、ろうを取り巻く環境は変わったのだろうか。一部では変わったのだろうし、変わろうとする動きはあちこちで出てきているのだろうと思う。『マイノリティの社会参加 障害者と多様なリテラシー』(佐々木倫子編、くろしお出版)は、現在のろうを取り巻く環境の課題を浮かびあがらせることに成功している。考えなければならない問題群を示し、その問題について読者に考える余韻を与える章が多く、その余韻は心にも脳にも響く。
しかし何かがひっかかる。本書は、“マイノリティに関する課題が明らかにされ、それをどう解決していけば誰もがいきいきと生きられる社会を創れるか”というような、そういったことが実直あるいは醇正に描かれているものではないと感じる。ことはそう単純ではないのだ。
超えられないポジショニングがあるように感じられてしまうからだろうか。当事者にはそれを生きた当事者としての物語がある。物語は私に強く語りかける。私は聴き手だ。私は聴き手以上になれるだろうか。その物語を前にして、私は永遠に聴き手でしかいられないような気になってくる。あるいは何かの働きかけをする媒介者にはなれるかもしれない。語り手とそれを「マジョリティの一般市民」へとつなぐ媒介者にならなれるのかもしれない。だけど語り手にはなれない、物語を紡ぐことはできないのではないか。
本書のひとつひとつの章からも、語り手と聴き手または媒介者という立場の異なりが見える。生きる物語が違うのだ。そう感じてしまうこの読後感は、あとがきタイトルでもある「当事者と非当事者の協働」が、そう簡単なものではないと予告している。しかしそれでもやらねばならぬと奮い立たせるものが、やはり当事者の物語でもある。そうしてまた「物語」の力を感じるのだ。その循環の中に私は立たされる。
しかし何かがひっかかる。本書は、“マイノリティに関する課題が明らかにされ、それをどう解決していけば誰もがいきいきと生きられる社会を創れるか”というような、そういったことが実直あるいは醇正に描かれているものではないと感じる。ことはそう単純ではないのだ。
超えられないポジショニングがあるように感じられてしまうからだろうか。当事者にはそれを生きた当事者としての物語がある。物語は私に強く語りかける。私は聴き手だ。私は聴き手以上になれるだろうか。その物語を前にして、私は永遠に聴き手でしかいられないような気になってくる。あるいは何かの働きかけをする媒介者にはなれるかもしれない。語り手とそれを「マジョリティの一般市民」へとつなぐ媒介者にならなれるのかもしれない。だけど語り手にはなれない、物語を紡ぐことはできないのではないか。
本書のひとつひとつの章からも、語り手と聴き手または媒介者という立場の異なりが見える。生きる物語が違うのだ。そう感じてしまうこの読後感は、あとがきタイトルでもある「当事者と非当事者の協働」が、そう簡単なものではないと予告している。しかしそれでもやらねばならぬと奮い立たせるものが、やはり当事者の物語でもある。そうしてまた「物語」の力を感じるのだ。その循環の中に私は立たされる。