lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

『文化、ことば、教育 -日本語/日本の教育の「標準」を超えて』

2008-11-11 08:26:08 | Weblog
副題に「日本語/日本の教育の「標準」を超えて」とある『文化、ことば、教育』であるが、「標準を超えて」と言うよりは、むしろ標準化されていく過程が浮き彫りにされている書物である。人はどうやって、我々はどうやって、ことばや教育を標準化していくのかが記述されている。
ことばや文化は固有の事象ではなく多様性や流動性あるものだという論点はやや聞き古した感があり、固有のものとはなりえないものを筆者が静態的なものとして批判するあり様は二重三重の見えにくい入れ子状態での批判とも取れるが、自分たちが既にあるものとして当然視していたものが、誰かや何かや制度によって恣意的に形成されてきたものだということを見つめなおす契機となり得る。

そして私にとって特に興味深かったのは第2章の『言語をどのようにして数えるのか』酒井直樹著。「国民性や民族的伝統の議論は、まったく正反対の価値を担う等価性と固有性の綜合なのである」「相互補完的な二つの条件、つまり、翻訳関係の中で等価性をつうじて世界の多くの場所を比較できるものだとする条件と、ある特定の領域とそこに住む人々の歴史的本来性と置き換え不可能性を執拗に強調する条件が生み出される」といった件は興味深い。二つの相反する質を封印することなく、矛盾をためらうことなく呈示している。これ故、日本語教師も立場が分かれるところなのだろう。私もこの「二つの条件」に大いに揺さぶられることがある。しかしこれを相反するものとか矛盾とかではなく「相互補完的」と表している。
言語というのは、翻訳がある程度可能であるということから交換性がある。しかしそのことばを使う身にとってはバフチンのいう「対話性」を性質として存分に持つ。常に変化し、占有される領域は固定できない。なるほど、言語のそういった特異なpositionalityと言えばいいのか、特殊な位置付け故に、言語教育の様々な問題は片方の側面からだけ語っていては解決しないように思った。

ところでここに収載された論文を読んで全体的な感想として、日本語を学ぶ過程で「日本文化」を教える必要があるのかという根本的な疑問に私はぶちあたる。私の疑問は、p.229の「田中」氏のような“I'm just a lanugage teacher.”とは異なる観点だ。言語と文化は切り離せない。そうであろうとは思う。文化的要素は当然トピックなど何らかの形で扱われることになるだろうと思う。しかしそれが例え批判的に教えたりステレオタイプから脱することを狙うような扱い方であったとしても、日本文化理解を目指す授業が必要なのかどうか。
私はことばを社会の中でどう使っていくか、相互行為としてのことばは言語教育に必要だと思っている。だから教室やことばの社会性、社会の中での相互行為などは言語教育の中で真正面から対峙しなければならないことだと考えている。
「社会」は言語教育で扱われるべき問題だと思っているが、「文化」はどうだろう?
ひっじょーにプリミティブな疑問に私は戻っている。(「社会」と「文化」には重なる部分も多分にあるが…。)なので「言語文化教育者」(p.125)という言い方に少なからず抵抗を覚えた。