時間ができたので今頃になってしまったが昨年発刊されている『言語教育とアイデンティティ』を読んでいる。しばらく時間が取れなかったため、この方々の動向を見失っていたが、久々に触れてみたのだが、これがとても面白い。どれもこれも面白い。言語教育は言語能力とかコミュニケーション能力とかを高めるものとして多くの人が期待しているが、こういうアプリオリなものを根こそぎヤッツケテイル。そこも掘り起こすんですね。そうです、そうでした。そこだって疑わなくてはいけない。というより、自分が感じていて違和感はそこだったのかもしれないと感じて、またしてもやられた感。こういうことをきちんとことばにして説明し、論を前に進めていけることは素晴らしいことだなと思う。力だと思う。(こういうのは“能力”と言っていいのではないかな。)
その中で、三代純平氏の『「場」としての日本語教室の意味』は研究内容にも勿論高い関心を持ったけれども、それだけではなく、研究として、焦らずひとつの疑問に丁寧にこたえていき、それを積み重ねていこうという確実性といおうか、今言えることだけを潔く見極めて言い切る、真理の強固さのようなものを感じた。筆者で筆者自身の研究を育てていることが見えるような論考。こういう気持ちで研究に対峙できることを羨ましくも感じさせる論考だった。
その中で、三代純平氏の『「場」としての日本語教室の意味』は研究内容にも勿論高い関心を持ったけれども、それだけではなく、研究として、焦らずひとつの疑問に丁寧にこたえていき、それを積み重ねていこうという確実性といおうか、今言えることだけを潔く見極めて言い切る、真理の強固さのようなものを感じた。筆者で筆者自身の研究を育てていることが見えるような論考。こういう気持ちで研究に対峙できることを羨ましくも感じさせる論考だった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます