益鳥の思いつき放題放談之記

他愛のない話題で綴る無責任放談・・・

また叱られながら・・・続けるブログ

2006-09-22 17:01:38 | Weblog

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医師と家族のPC作業停止勧告を無視してまで続ける価値が、どこかにあるのだろうか?(笑い)眼の症状は相変わらず、限界宣言を受けたままだ・・・


今月の詩 (H18.9.NO2)


ある新聞コラム欄と社説より

国旗国歌判決 『押しつけ』への戒めだ
 入学式などで日の丸に起立せず、君が代を歌わない自由も認められる。東京地裁は教員らが起こした訴訟で明確に述べた。これまで「強制」と「処分」を繰り返してきた都教育委員会への戒めだ。

 そこまでしなくても…と、都教委のやり方に対して感じていた人々も多かったのではないか。

 「都教委の一連の指導は、教育基本法一〇条(行政権力の不当介入の排除)に反し、憲法一九条の思想・良心の自由に対し、制約の範囲を超えている」

 そう述べた東京地裁の判断は、「都教委の行き過ぎ」を指摘する画期的な内容だったといえる。

 なにしろ、入学式や卒業式で、日の丸に起立せず、君が代を歌わなかった教員らへの処分は強引だった。

 二〇〇三年十月に都教委は、「校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」という趣旨の通達を出した。それに基づき、〇四年春には、都立高校や都立盲・ろう・養護学校などの教員ら約二百五十人を戒告や減給処分にした。

 さらに同年五月にも六十七人を厳重注意している。処分は毎年続き、〇五年春は六十三人、今年春にも三十八人の処分を数えている。

 今回の訴訟で原告数が約四百人に上っていることにも、その“異様さ”がうかがえる。

 君が代処分をめぐっては、昨年四月に福岡地裁が「減給処分は違法」という判断を出した。一方で、君が代のピアノ伴奏を拒否した東京都日野市立小学校の音楽教師の場合は、一、二審とも音楽教師側が敗訴した。判断の分かれる問題だっただけに、今回の裁判は注目されてきた。

 その判決は「日の丸・君が代が軍国主義思想の精神的な支柱だったことは歴史的事実」と踏み込んだ。その点については、多様な意見はあろうが、「国歌斉唱などに反対する世界観や主張を持つ人の思想・良心の自由は、憲法上、保護に値する権利」としたのは理解できる。

 サッカーやオリンピックで日の丸の旗を振り、君が代を口ずさむのは、誰に強制されたわけでもない。国旗とか国歌とは、もっとおおらかに考えていいのではないか。

 問題とされたのは一律の「押しつけ」だ。一九九九年の国旗国歌法の成立時に、小渕恵三首相もわざわざ「新たに義務を課すものではない」という談話を発表していた。

 それにもかかわらず、都教委が「強制」を繰り返すことへ、司法がストップをかけたのである。都教委は判決を厳粛に受け止め、これまでの高圧的な姿勢を改めるべきだ。


国旗国歌判決 やはり「強制」はいけない

 東京都立高校などの教職員が、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は、国旗国歌の「強制」は許されないとの判決を下した。斉唱しないことなどを理由とした処分も禁じ、都に損害賠償も命じた。懲戒処分まで行って国歌斉唱などを「強制」してきた都教育委員会を「行き過ぎ」だとして厳しく断罪した。教職員と生徒の思想良心の自由を最大限尊重した判決である。この問題については、複数の裁判所で異なる判断が下されているが、行政と教育関係者は、今回の判決を重く受け止めるべきである。

 国旗国歌法が成立したのは一九九九年。国会では当時の小渕恵三首相が「国旗の掲揚および国歌の斉唱に関し義務づけを行うことは考えておりません」などと答弁していた。国旗国歌を「強制」しないことは何度も確認されていた。

 五輪やサッカーのワールドカップなどを見れば分かるように、国旗国歌への愛着は、国民の自発的で自然な感情によるべきものではないだろうか。「強制」はむしろ、国旗国歌への愛着を妨げる恐れがある。

 ところが実態はどうか。都教委は今春、卒業式で起立しなかったなどとして教職員を大量に処分。停職三カ月という重い処分もあった。処分を受けた教職員は「国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおったり」したわけではない。「懲戒処分までして起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置」とした今回の判決は説得力がある。

 判決も指摘したように、国旗国歌については、国民の間にさまざまな意見がある。それは一人一人の歴史観や価値観と深く結びついた問題だ。単にマナーや規律の問題とは片付けられない。まして、少数意見を否定し「排除」するようなことはあってはならないはずだ。多数派とは異なる意見を持つ人々を尊重し、その自由と人権を守ってこそ、自由な民主主義社会だからである。

 県内では、東京のように職務命令、それに基づく処分という状況には至っていない。しかし、県教委は各学校長に起立しなかった教職員の氏名報告を求め、強く指導する方針を示していた。今回の判決は、県教委の対応にも影響を与えよう。思想良心の自由という観点から、これまでの対応の再考が求められる。

 また、県立学校の教職員百五十二人(「神奈川こころの自由裁判をすすめる会」)が、国歌斉唱などの義務のないことの確認を求める訴訟を横浜地裁に起こしており、その結果も注目される。

 今回の判決を契機に、思想良心の自由の尊さについて、活発な論議を期待したい。



自民党新総裁に就任した安倍晋三氏は、一夜明けて二十一日が五…

 自民党新総裁に就任した安倍晋三氏は、一夜明けて二十一日が五十二歳の誕生日だった。感想を聞かれ「大変すがすがしいですね」と、笑顔で朝から首相経験者らにあいさつ回り
▼父親で外相、幹事長時代の、故晋太郎氏を現場で追っかけていた身としては、こんなに髪の毛が黒々した若い総裁を目の当たりにすると、しみじみ世代交代を感じる。議員歴十三年で当選五回、党三役、閣僚経験各一回の“若手”を抜擢(ばってき)した自民党のしたたかさにいまさらながら舌を巻く
▼世界の趨勢(すうせい)から見ればやっとロシアのプーチン大統領(53)、一年以内の退任を表明した英ブレア首相(53)、独メルケル首相(52)、台湾の陳水扁総統(55)に追いついたところ
▼主流は、とっくに米国のブッシュ大統領(60)、クリントン前大統領(60)、韓国の盧武鉉大統領(60)ら戦後生まれに移っている。自民党総裁選の前日、外遊中を軍事クーデターで追放されたタイのタクシン前首相(57)も同じ世代だ
▼日本では、野党民主党元代表の菅直人氏(59)、鳩山由紀夫氏(59)が団塊の世代だが、自民党内ではこの世代はみごとにすっ飛ばされた形だ。安倍氏と総裁のいすを争った谷垣禎一氏(61)も麻生太郎氏(66)も第二次大戦中の生まれで団塊前世代▼ちなみに小泉純一郎首相(64)と北朝鮮の金正日総書記(64)は同級生で、中国の胡錦濤主席(63)は“イッコシタ”。もっとウマが合ってもよかった。安倍氏らは、ポスト団塊世代、「無気力、無関心、無責任」の三無世代とも呼ばれたが、多極化時代の舵(かじ)取りをこなせるか。

 祭りを盛り上げるお囃子(はやし)の乗る山車を、英語でバンドワゴンという。にぎわいに誘われ、われもわれもと人が集って大群衆になる。バンドワゴン効果なる言葉があり、訳せば「勝ち馬に乗る」▼景気のよいお囃子を高らかに鳴らしたのは、さしずめ小泉純一郎首相。山車の上には、意中の後継者。なだれを打った人波には、ポスト小泉のライバルたちも最初から勝ち目がなかった

 ▼安倍晋三官房長官が圧勝した自民党総裁選。「改革を前進させたい」と総裁に当選した舞台で、5年間をともにした首相に敬意を表した。きょうで52歳の若さ。初の戦後生まれの首相誕生も確実だ
▼岸信介元首相の孫で、父は安倍晋太郎元外相。官房副長官時代、日本人拉致事件での北朝鮮への強硬姿勢で名を挙げた。しかしながら政治家として実績が豊かとは言えず、劇場型パフォーマンスで活路を開いた小泉流の勝負師でもない。安倍さんの勝負手は何?

 ▼憲法、教育基本法改正の公約に伝統回帰をにじませ、戦争への歴史認識は明かさない。外交の火種も、山積する小泉改革のひずみも、安倍さんは引き継ぐ。何を考え、どう解決するのか、自らの言葉で具体的に語らねばなるまい▼お囃子の山車に集った衆は、祭りが終われば散る。安倍人気とは何か。それが問われるのも早い。

「白洲手記」という。
日本国憲法誕生の舞台裏をメモした文書で、吉田茂首相の懐刀として戦後復興に尽力した白洲次郎の言葉をタイプしている。旧白洲邸「武相荘(ぶあいそう)」(東京・町田市)の特別展で見た

▼「『今に見ていろ』ト云(い)フ気持抑ヘ切レス ヒソカニ涙ス」。占領するGHQ(連合国軍総司令部)にのまされた憲法草案が、閣議で承認された時の思いをこう記す。日本人としての矜持(きょうじ)が伝わってくる▼白洲は本場仕込みの英語を生かし、GHQと激しく渡り合った。マッカーサー総司令官に物申し「従順ならざる唯一の日本人」と恐れられた

▼武士道精神がデモクラシーをまとったような「和魂洋才」の人。原理原則にこだわった。「いいものはいい」。涙した新憲法であっても「戦争放棄」を高く評価した▼強きを助け弱きをくじくような根性を最も嫌った。「ほかの東洋人にはえらそうなことを言うけれども、西洋人に対してはからきしだらしない」と当時の風潮を嘆いた

 ▼あれから60年。日本人はどれだけ変わったか。中国、韓国に強い態度を見せるが、米国には顔色をうかがうばかり。駐留米軍基地再編、自衛隊イラク派遣、牛肉輸入解禁…。どうもお追従が先に立つ。「無魂洋才」の政治家、役人には、白洲の気概に学んでほしいものだ。


中国で二宮尊徳の研究が盛んだという。
先月には大連で尊徳をめぐる学術大会が開かれた。発表者の一人として参加したノンフィクション作家の新井恵美子さんは「中国全土の研究者は増えるばかり」と本紙で報告している

▼大会は国際二宮尊徳思想学会(事務局・小田原)の主催で一年おきに開かれており、今度が三回目。第一回の開催地は北京。次回も上海が予定される。学会会長も北京大学日本文化研究所所長の劉金才教授である

▼尊徳はいうまでもなく江戸後期の思想家。農村復興を指導した。薪を背負った通称金次郎の勤勉な姿は、戦前の修身教育の象徴として仕立てられたが、そんな像もほとんど見掛けなくなった。以来、日本ではむしろ古びた価値観の代表格のようにみられがちだ

▼それがなぜ中国でもてはやされるのか。新井さんは「拝金主義に陥らない戒め」とみる。富の獲得は人々の幸せのため。経済大国への道に突き進みながらもその自制を忘れない。「経済と道徳の一致」を説いた尊徳思想は格好の教材となるらしい

▼ひるがえって日本はどうか。カネで購(あがな)えぬものなどないといった不遜(ふそん)、うそぶき。虚業にも似たマネーゲーム。後を絶たない粉飾騒ぎ。日銀総裁までが投資に踊った。尊徳への傾倒と乖離(かいり)。それが際立ってきた。