歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

連歌の美学的考察 3

2005-04-18 | 美学 Aesthetics
五型説

連歌にとって重要な歌学上の分類は五型説です。これは、もともとは和歌の五七五七七の五つの部分の果たす役割を論じた三五記(定家に擬せられた歌論書)に由来しますが、心敬によって連歌の付句のありかたと関連させて論じられるようになりました。心敬の説明は、用件のある来客が案内を請い、用件を果たし、訪問先を辞するまでの五段階になぞらえて、連歌の五型を説明しています。

   篇:「訪問する家の軒先に佇んでいる」
   序:「取り次ぎをする人に案内を頼む」
   題:「訪問の理由を述べる」
   曲:「訪問の趣旨を説明する」
   流:「暇乞いをしてその家を退出する」

連歌の上句と下句は一体となってこれらの五型を兼備すべきことが要請されています。

たとえば、上句が曲を中心とするものであれば、下句は、曲以外の型をもってつけなければなりません。連歌にとって重要なことは、上の句も下の句も単独ですべての体を備えないように配慮すべきだと云うのです。つまり、一句がすべての型を備えたのでは、付句の必要がなくなりますから、かならず「云われていない部分」を残しておかねばならないという考え方を明確に述べたのが連歌五型論です。

ここから心敬独特の「痩せ」の美学が出ます。これは後世の芭蕉の「細み」の先駆とも言えますが、一句の中に欲張って多くのことを詠み込む句をよしとせずに、かならず言い残された余情のあることを強調します。具体例を挙げましょう。

   「罪も報いもさもあらばあれ」という前句に対して

  月残る狩場の雪の朝ぼらけ  救済

は、前の句には曲(理)のみがあり、それだけでは歌になりません。付句が「篇序題」を言い表しているので、両者が一体となって、はじめて歌になります。前句は「罪も報いもかまうことはない」という享楽的・直情的な発言に過ぎず、意味内容ははっきりしていますが、それだけでは全く詩情のない散文にすぎません。これに対して救済の付句は、疎句付けです。前句に対して、一見関係のない月と雪の景色を出していますが、前句と共に詠むと、「このような風情ある自然の美を前にすると、自分の罪も報いも消え去り、心が洗われるような気持ちがする」という、深い詩情を湛えた歌に変貌します。そして、この救済の句は、「曲」の部分を欠いているが故に、新しい付句によって、前句とは全く異なる世界を拓くことが可能になる。これこそ、すべてを言い尽くさぬことによって、かえって、新しい世界に対する「開け」をもたせるという連歌の美学の基本といえるでしょう。
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