歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「Coincidentia oppositorum (対立の一致)と愛」ー西田幾多郎の大谷大学開校記念講演(1919)とバッハの宗教音楽に寄せて

2020-03-19 | 哲学 Philosophy
岩波書店から依頼された西田幾多郎講演集の編集・解説の仕事を現在しています。バッハの「ロ短調ミサ曲」を聴きながら、この編集作業をしつつ感じたことを、忘れないうちここに書き留めておきましょう。
 
 ヨーロッパを何度か旅した日本人のキリスト者の一人として、30年戦争をはじめとする宗教対立の遺跡を巡り、また「キリスト」教国のなかのユダヤ人迫害、二つの世界戦争の犠牲者の史跡などを目の辺りにして、このようなイデオロギー対立を越えるキリスト教とは何かと言う課題を避けることはできませんでした。
 
諸宗教・諸宗派の差別と対立を越える対話の実践が必要ですが、私もまた限られた経験の範囲ではありますが、これまで35年の間、東西宗教交流学会をひとつの活動の場としてきました。禅とキリスト教の間の霊性交流と並行して宗教哲学の研鑽の場でもあったこの学会では、西田幾多郎にはじまる京都学派の哲学者、そしてクザーヌスに代表されるキリスト教的プラトン主義の哲学者達に最も惹かれます。
 
 バッハの「ロ短調ミサ」を聴いていると、カトリックの普遍的宗教性と、ドイツ語・ドイツ文化の個性が統合されていることを強く感じます。その統合は、どのようにして為されているのしょうか。それはまさに一人一人の「個」の協奏によって遂行されているように感じます。バッハの宗教音楽には、単旋律で歌うグレゴリオ聖歌の伝統も生きていますが、同時に、複数の他者と共鳴するポリフォニーが、不協和から協和へと向かうダイナミズムを感じさせます。ときに二人の歌唱が交互に主となり客となる二重唱、斉唱ではなく対位法的に複数の旋律が時間差を伴って反復されるフーガは、それぞれのパートが異なりを見せながらも協和します。そして何よりもルターに始まるキリスト教の原初の精神に立ち返って個々のキリスト者の心の奥底に呼びかける内面性と超越者との関係が見事に音楽で表現されています。超越者に対して「私ー汝」の関係で呼びかける「個人的(人格的)」な内面性のなかに、万人に通底する普遍的な真理が反響する。そういうことを私に如実に経験させてくれるのが、バッハの「ロ短調ミサ曲」や「マタイ受難曲」です。 
 
 西田幾多郎とクザーヌスの関係については、私もいろいろなところに書きましたが、大谷大学開校記念日講演の面白いところは、仏教者を聴衆としてクザーヌスを論じている点でしょう。
 西田はつぎのように「反対の一致」をもって宗教の本質を現すものとしています。
 
「宗教上の神仏とはその本質は愛であると云ってよいと思ふ。知識の竟まるところ人格となりてこの人格はCoincidenti oppositorumであるが Coincidentia oppositorumが結合するものが神又は仏であって、愛がそのessenceである。それで是はあくまで知識の対象となることはできぬが情意の要求によってこれを味ひこれに結びつくことができる。故に神を知識的に限定する事は中世の否定神学の云ふがごとく不可能である。而しCoincidentia oppositorum は一切の人間活動の基礎となり、愛の形によってその極致が示されるのである。即ち極めて論理的な概念が現実生活に極めて密接な事実となる。仏教でも、華厳などから、浄土真宗に移るところにこんな意味がありはしないかと思ふ。(西田幾多郎全集13:86)」
 
晩年の西田の宗教哲学を予感させる講演ですが、「反対の一致は愛の形によってその極致が示される」という文章を読むと、私には、バッハのカンタータの究極の主題を表現する言葉としてこれ以上に相応しいものを知りません。例えば、カンタータ106番の死と生、カンタータ140番の終末論的悲しみと婚宴の喜び、概念的には対立し一つにならぬものの「一致」すること、西田がのちに「矛盾的自己同一」と呼んだものを、概念ではなく、万人に開かれた音楽の心によって感じさせてくれる普遍性が、バッハの宗教音楽にあります。
 
 小澤征爾指揮の「ロ短調ミサ曲」が、彼の「マタイ受難曲」と並んでYoutubeにありましたので、リンクを張っておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=JHcf3xeU4xQ&t=826s 
 
 
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