私の手元に、中華書店で購入した「唐詩一百首」(北京語言学院 陽殿武 張恵先 王志武編著)があるが、そこにある唐詩のテキストの内、李白の「静夜思」についてはかねがね疑問に思っていた。
床前明月光, 疑是地上霜。挙頭望明月, 低頭思故郷。 (現代中国の標準表記に従う)
これは、清代の「唐詩三百首」のテキストに従うものであり、中国大陸ではこちらが一般的なものとなり、李白の詩の英訳もこれに従っているものが多いのである。しかし、日本では、それよりも古い「唐詩選」以来の詩形
低 挙 疑 牀
頭 頭 是 前
思 望 地 看 (唐詩の伝統的な縦書き表記に従う)
故 山 上 月
郷 月 霜 光
が人口に膾炙している。どちらが李白の原作であろうか。
私自身は、「明月」を二回繰り返すような冗漫な詩形はあり得ないという印象を持っていた。五言絶句という短い詩形に、かかる反復を許すのはおかしいのである。
月光を「看て」それを地上の霜かと「疑う」。そしてこれは明月の美しさを愛でる詩ではなく、「望郷の詩」なのである。月の光は、窓を通して山の端から、斜めに差し込んでくるのであり、その光に導かれて山の彼方にある故郷を思うのである。だから「山月」でなければならない。これに対して、「明月」を二回繰り返す詩形では、「望郷の想い」が伝わってこない。
従って、現代の中国人が受容している李白の詩のテキストは、日本で我々が親しんでいるものとくらべて数段、「詩として劣る」ものであると言わねばならない。なぜこのような悲惨なる改竄が行われてきたのであろうか。
ところが、先日、偶々「中國評論通訊社」のサイト に、"床前明月光"非李白原句 明清兩代做修改 という記事を発見し、我が意を得た思いがした。李白のこの詩の原型は、やはり日本に伝承されたものが本来のものであり、現代中国で採用しているものは改竄されたものだという意見が掲載されていたのである。考証の細部については、いろいろと反対意見もあるかも知れないが、すくなくとも清代以降に流通するようになったテキストを無批判的に受容したことは問題とされるべきであったろう。
2002年に北京で開催された国際会議に行ったときにも痛感したことであるが、共産主義の支配と文化大革命で古典の伝統から切断された現代中国は、かつての自国の文明のルネッサンス(文藝復興)を求める時代になっているのでは無かろうか。ちょうど西欧が古典ギリシャの文明を、アラビヤ語からの重訳を通じて再発見したように、古典時代の中国の遺産が、現代中国にではなく韓国や日本にその古形が、ありしままに保存されている場合があるということに留意しなければなるまい。それは唐詩のようなものだけではなく仏典などについてはなおさら言えるのである。中国には仏典の原典であるサンスクリット語の原テキストが散逸して殆ど残っていないが、法隆寺には般若心経のサンスクリット語のテキストが保存されていたことなど、政治闘争にあけくれた中国では失われたものが日本に残っている例は結構あるのである。
それとともに現代中国で一般化している漢詩の表記についても苦言を呈したい。簡体字を使うことが伝統との断絶をもたらすことは言うまでもないが、更に加えて、中国大陸では、唐詩のような伝統的な詩を表記するのにも、横書きで、句読点( 。)や( , )そして疑問符(?)などを標準的に使っているのである。これも奇妙な話である。とくに(?)のようなローマ字文化圏の記号を使うことなど、古典時代の中国ではあり得ないことであり、こういう無神経なことを平気で行って不思議にも思わないと言う精神こそ、私などにとっては(?)である。