歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「遺愛」の歌ー島秋人の短歌をローマで聴く

2020-10-22 |  宗教 Religion
ローマの聖マリア聖堂でフランシス教皇が主催された「平和のための祈り」に招かれた曹洞宗の峯岸正典老師のスピーチを聞きました。老師は上智大学哲学科の卒業生でもあり、第二バチカン公会議以降可能となった宗教間対話に積極的に関わってこられた方です。老師はドイツの聖オッチリエン修道院で修道生活も体験されました。日本の仏教的修道の伝統とキリスト教の修道院の霊性の伝統の間の東西霊性交流といって良いでしょう。
 
 峯岸老師のスピーチは、ビデオ放送(英訳付)の120分30秒あたりから始まります。
 
老師は、島秋人の短歌
   この手もて人を殺(あや)めし死囚われ同じ両手に今は花活く
   愛に飢ゑし死刑囚われの賜りし菓子地に置きて蟻を待ちたり
を引用しつつ話されました。
 
 死刑囚として7年間獄中にあった島秋人は、歌集「遺愛集」を我々に残して亡くなりました。ローマの会議のテーマは「我々は一人で生きているのではない」ということでしたが、歌を通じて獄中の島と繋がった多くの人々の心に遺した「遺愛」の短歌を読むとまさしくそのことを実感します。
 
 
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長崎の鐘ー永井隆医師と小関裕而

2020-10-21 |  宗教 Religion

10月22日放映予定の「エール」第94回・「長崎の鐘作者との出会い」に登場する永田武医師のモデルは永井隆ですが、「長崎の鐘」は彼の自伝的随想(昭和23年出版)の書名です。永井は、戦後の困難な時期にようやく出版できた初版本の自序の中で

「この本の題名となった浦上天守堂の鐘は、あの(昭和20年の)クリスマスに煉瓦の崩れた中からつり出され、地面近くに仮吊りのまま鳴らされてきましたが、それからまる三年経った今、新しい鐘楼が建ち、このクリスマスから中空高く鳴り出すようになりました。この平和の鐘が一日も欠かさず世世の末、世界の終わりの日まで鳴り続きますよう祈り、かつ努めたいものです」

と書いています。小関裕而自身が、病床にあった永井隆医師との交友を語り、永井から送られたロザリオを示しながら、「長崎の鐘」を戦争の犠牲者への鎮魂歌(レクイエム)として作曲した、と語っている貴重なビデオ録画(12分27秒以後の部分)があります。(藤山一郎の歌唱がその後に続きます)

 

https://youtu.be/2vEzk3jstg0?t=12m27s

 

今週の明星 古関裕而ヒット曲集 (古関裕而、伊藤久男、藤山一郎、岡本敦郎、二葉あき子)

#古関裕而 #伊藤久男 #藤山一郎 #古関メロディー

youtube#video

 

 

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講演記録の動画リスト

2020-10-14 | 日誌 Diary

これまでに公開した私の講演記録の動画の数が増えましたのでを
Youtubeでリストにしました。

(1)Nothingness and Creativity-Towards an Integral Philosophy of Creative Transformation-
International Whitehead Conference (2017/9/2)  recorded by Center for Process Studies 
ポルトガルで開催された国際ホワイトヘッド学会での基調講演

(2)無の場所の創造性ーCreativity in the Place of Nothingness
上智大学文学部哲学科  最終講義(2017/3/19)  上智大学 Open Course Ware による収録

(3)Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集(岩波文庫)の刊行に寄せて
 (2020/9/25 公開)

(4)「敬天愛人」の意味とその由来ー上智大学公開講座「日本の宗教と思想」から
(2020/10/3 公開)

(5)『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規』
「聖グレゴリオの家(宗教音楽研究所)」での講演(2019/10/16)から
(2020/10/1 公開)

「聖グレゴリオの家(宗教音楽研究所)」での講演(2020/2/27)から

(6)(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽 その1-1
(7)(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽 その1-2
(8)(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽 その1-3

今後もこのリストに講演の記録を追加する予定です。

以下の Youtube のリストをご覧ください。

講演記録(田中裕)

 

YouTube

 

 

 

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ーダビデ王の懺悔ー「聖書と典礼」の詩編から

2020-10-13 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 黒死病の終熄を記念してウイーンに建立された像柱に描かれたレオポルド一世の肖像は、彼自身の懺悔と感謝の祈りを現している。
作曲家としてのレオポルド一世の典礼音楽の代表作の一つが、旧約聖書詩編(Miserere mei, Deus : 共同訳第51編)の「ダビデ王の懺悔の祈り」である。この典礼詩編は、深い「懺悔の言葉」に始まり、「感謝」で終わっている。
 第3節「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります」の懺悔文は、他者の罪を告発するのではなく、まず最初に自己自身の罪と咎を告白するところに正しい懺悔の意味があることを示している。
第15節「主よ、わたしのくちびるを開いてください わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう」は『教会の祈り(聖務日課)」の朝課の冒頭の言葉である。
 レオポルド一世がオーストリア大公であり、神聖ローマ帝国の皇帝であったが、かれもまた現代を生きるわれわれとおなじく、悩みと苦しみに呻吟する一人の人間であった。最初の后妃マルガリータも二番目の后妃クラウディアもともに夭折したため、彼は二人の鎮魂のためのレクイエムを捧げている。(マルガリータに捧げたレクイエムは「細川ガラシャの時代の典礼音楽1-2」で聴きました)
 詩編51のmeserere mei, deus は、様々な作曲家によって取り上げられたが、レオポルド一世のものは、「王の懺悔」を自分自身の事柄として受けとめた彼の心情が良く表れていると思う。
 

音楽付細川ガラシアの時代の典礼音楽1-3

ーダビデ王の懺悔ー「聖書と典礼」の詩編から 黒死病の終熄を記念してウイーンに建立された像柱に描かれたレオポルド一世の肖像は、彼自身の懺...

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ナショナリズムと科学者の良心ーアインシュタインの「平和書簡」から

2020-10-10 | 哲学 Philosophy
 
アインシュタインは物理学に革命をもたらした人であったが、平和運動家でもあり、シオニストでもあった。『アインシュタイン平和書簡』は彼の思想と行動を知る上で貴重な資料である。彼は、第一次世界大戦では偏狭な愛国主義にもとずく戦争に反対し、人類主義の立場から徴兵忌避運動を支援した。しかし、ナチスドイツのユダヤ人迫害に直面し、第二次世界大戦では、反ナチスの戦争を支持した。彼は自分のことを「信念を持った平和主義者(überzeugter Pazifist)ではあるが、絶対的な平和主義者ではない」と篠原正瑛宛の書簡で言っている。彼はガンジーをもっとも尊敬していたが、その非暴力不服従運動は、ナチス・ドイツに対しては貫けないと考えたのであった。 ここにはユダヤ民族とその精神的伝統を存続させなければならないというシオニストの立場と彼の平和主義とのあいだの二律背反があった。そのためにアインシュタインは「絶対的」な平和主義、反戦主義者達から非難も受けたのである。アインシュタインは、迫害を受け亡命した多くのユダヤ人にとって希望の星であった。彼が後にイスラエルの大統領となるように要請された理由もそこにあった。しかし彼は、伝統的な意味でのユダヤ教徒ではなかった。ユダヤ人が選民であるとは考えないコスモポリタンであり、スピノーザに傾倒していた。最近、競売にかけられた彼の自筆の書簡は、擬人的な神を信じるよりは、宇宙の法則の根源としての神を信じる彼の宗教観がよく現れている。宇宙の必然性の洞察による自由を尊重するアインシュタインは、個人の良心の自由を何よりも重んじ、閉鎖的な全体主義の体制を最も嫌う人でもあった。ドイツ文化の精神的遺産を尊重していたが、ナチスが政権を握ってからの全体主義の体制が強要する「ドイツ国民の義務」を人間の普遍的な義務としては認めなかった。
「理に合わない残虐行為の申し立てに対してはドイツを擁護するのが君の義務である」というプロシャ学士院からの警告に対し、アインシュタインは、それは「私の生涯を賭けた正義と自由のあらゆる原則を拒否すること」であり、「道徳の崩壊と現存のあらゆる文化価値の破壊に手を貸すこと」になると反論している。
プロシャ学士院から除名される前に脱会し米国に亡命したアインシュタインは、プリンストンでは核物理学のような莫大な実験資金を要する研究にはタッチせず、物理学会の主流からは全く離れた立場から、量子力学の不完全性を主張し、統一場理論のような純粋な理論的・思弁的な探求のみに専念した。第二次大戦後、米国の核物理学者は国家機密、軍事機密にかかわるようになり、国家に対する影響力が増大すると共に思想の自由を奪われた。水爆開発に反対したオッペンハイマーは裁判にかけられ公職追放処分に遭った。かつてナチスドイツの国家主義に反対したアインシュタインは、非米活動委員会の思想統制にも抗議している。最晩年のアインシュタインは、レポーター紙上で
「再び若人となり、生計を立てる最良の方法を決定しなければならないなら、科学者や学者、それから教師になろうとはしない。ブリキ職人か行商人かになることを寧ろ選ぶ。現在の状況下でなほ可能な僅かな独立を保証するのが、私の希望である」
と述べた。原水爆開発を含めて当時の「科学者」のあり方に対する抜本的な批判をこめたアインシュタインのこの発言のあとに、ラッセル・アインシュタイン宣言における核兵器撤廃の訴えが続くことの意味を考えるべきだろう。
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博愛と社会的友情の勧めーフランシス教皇の回覧書簡「すべての同胞に(Fratelli Tutti)」の序文から

2020-10-07 |  宗教 Religion
博愛と社会的友情の勧めーフランシス教皇の回覧書簡「すべての同胞に(Fratelli Tutti)」の序文から
 
自由・平等・友愛の三者はフランス革命以後の近代社会の根本思想です。この三位一体の根本原理を近代以後に生きる「普遍の教会」はどのように理解すべきかーフランシス教皇の最新の回覧書簡「すべての同胞に」はそれを考える手引きを与えていると思いました。
         ー序文冒頭の部分の試訳ー
「すべての同胞(Fratelli Tutti)」という言葉によって、アッシジの聖フランシスは兄弟姉妹に呼びかけて、福音書の味わい深い言葉で人生の一つの道を提示しました。フランシスの言葉のなかから、私は博愛の勧めを選びたいと思います。それは、地理と距離の障碍を越えて、「自分と共に居るときに劣らず自分から遠く隔たっているときにも」友を愛する全ての者は祝福されているとはっきりと述べています。聖フランシスは、単純かつ直接的に、友愛の本質を表現しています。物理的な近さを顧みず、その人がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、一人一人の人格を認め、よく理解し、愛することが、友愛に開かれていると言うことなのです。
 博愛、純一さと喜びを語るこの聖人に鼓舞されて、私は回覧書簡 「ラウダート・シ(御身が頌えられますように)」を書きましたが、今度は、博愛と社会的な友情をすすめる新しい回覧書簡を書くこととしました。フランシスは自分が、太陽や海や風の兄弟であると感じていましたが、それでも同族である人間に自分がさらに近いことを知っていました。どこに出かけようと、彼は平和の種子を蒔き、貧しき者、見捨てられた者、弱き者、疎外された者、つまり自分の兄弟姉妹達の中でもっとも小さき者達とともに寄り添って歩きました。
            ーーーーー
  コメント
◎教皇のencyclical letter は「回勅」と訳すのが慣例ですが、私は「回覧書簡」と訳しました。使徒の書簡と同じく、特定の地域(ローマやコリント)の教会の信徒だけに宛てられた書簡ではなく、あらゆる教会に、キリスト者や非キリスト者の差別なく、あらゆる人に回覧されるべき書簡という意味を明確にしたかったからです。
◎Fratelli Tutti は アッシジのフランシスの使ったイタリア語ですが、「兄弟達」とせずに「同胞」と訳しました。同じ段落で「兄弟姉妹」と言い換えられていることから分かるように、男性と女性の差別をしないことが、このよびかけの言葉に含まれています。
◎「友愛」の本質は何か、ということをこの「回覧書簡」は考えるように促しています。自分が帰属する国家や団体のメンバーのみを愛し、その外部にいる「他者」を無視したり、憎悪したり、排除したり、するところにまことの友愛は存在しない。そのような境界や「壁」を越えて他者を愛するところに「友愛」の本質があると、この「回覧書簡」は明言しています。
 
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「敬天愛人」の意味とその由来ー上智大学公開講座「日本の宗教と思想」より

2020-10-03 |  宗教 Religion

「敬天愛人」の意味とその由来 
上智大学公開講座 「日本の宗教と思想」より

『南洲翁遺訓』の西郷の文明論、中村敬宇の『敬天愛人論』を手引きとして、中江藤樹にまで遡る日本の儒教とキリスト教倫理の邂逅、その統合の問題を考察しました。

「敬天愛人」の意味とその由来

上智大学公開講座「日本の宗教と思想」より

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『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規則』

2020-10-01 |  宗教 Religion

『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規(しんぎ)』

 ー東西の霊性交流のためにー

「聖グレゴリオの家(宗教音楽研究所)」講演(2019/10/16)                                      

                                                  田中 裕

はじめに

 

道元には、主著『正法眼蔵』とおなじく重要な一連の実践的著作として『永平大清規』がある。「清規」とは「修道者が守るべき規則」のことで、「清」とは「清衆(しんしゅ)」つまり修行道場で共同生活をする修道僧を意味する。『永平大清規』と呼ばれる一連の著作は、宋から帰国した道元の道場となった深草興聖寺で出家者や在家者のために制定した規則に始まり、後に帝都を離れて山林に修行場を求めた道元が、越前吉峰寺、大仏寺(永平寺)にて著述した最晩年のものまで含む。

 『聖ベネディクトの戒律』が単に修道会の規則にとどまらず、今日のカトリック教会では、世俗の中で福音伝道する献身者(オブラーテ)にも読まれているのと同じく、道元の『清規』もまた、出家者だけでなく、在家にあって「菩薩行」をおこなう人の生活の指針として読まれてきた。

 道元を高祖とする曹洞宗の峰岸正典老師は、ドイツのオッティリエン修道院とのあいだでの東西霊性交流を1979年から現在まで続けて実践されているが、同修道院でベネディクト会士と共同生活した経験を踏まえて、ベネディクト会の修道院と道元の清規にしたがう禅の修道生活に通底するものを次のように要約している。

  • 早朝起床、坐禅・朝課・朝食。午前は作務・坐禅・勤行・昼食。午後は作務・坐禅・晩課・夕食。夜坐そして入眠という修行道場の一日と早朝起床・全体での祈り・個人の祈りミサ・朝食。労働・昼の祈り・昼食小憩後労働・夕方の祈り・夕食・夜の祈り・入眠といった修道院のサイクルはよく似ている。
  • 「時(じ)の勤行、四時(しじ)の坐禅」という定めを持つ修行道場と「聖務日課」に規定される修道院ではきわめて似た時間意識とリズムにおいて一日が過ごされている。加えて生涯をかけての修行・修道を志すという共通性もある。
  • また、「我を張らない(無我)」ということは禅の修行の眼目であるが、修道士も自己を極端に主張してはならない。聖ベネディクト会則では「謙遜の実践」が「修道の全課程に欠かせない」ことが示されている。
  • 集団での坐禅や祈りという宗教的行を務め、作務・労働をするという形態の中に、信仰対象や宗教共同体への自己帰入が希求されている。こうした希求は、諸々の宗教的行為において身体を通じて表現され、自らを小さなものとして、大いなるものに対して畏れと敬意を表す。
  • 聖ベネディクト会則(第七章)でも修道士は神への謙遜という「こころ」を日常生活の中で「かたち」に表すことを要請されている。禅でも身体的行為には「仏作仏行」としてより積極的な意味がある
  • 修行道場と修道院において最終的に求められているものが、教義の学術的理解というよりも、むしろ宗教的実践、求道(辨道(べんどう))であり、生涯を通じて行じられる「生き方としての宗教」が大切にされている。換言すれば、修行僧と修道士は宗教的な生き方を宗教共同体の中で深めようとする者同士として本交流において邂逅したのであり、だからこそ、異なった信心や信仰体系を持つ宗教者同士といえども、両者の間に深い共感が生まれたと言えよう。[1]

また、イエズス会の門脇佳吉神父は、道元の清規に従って生きる「行道」のことばの実践にこそ、自然環境破壊を克服するエコロジーの実践を導く「形而上学」があることを強調してつぎのように云っている。[2]

道元は、第一に、自然と人間を結ぶ原初的な関係を道(仏の御いのち)のはたらきによって根拠づけ、自然の全体と人間の渾身の感覚的結びつきを中心に含みながらも、知恵によって形而上学的エコロジーともいうべき道理を確立したのである。このようなエコロジーは知恵に基づくから、西洋世界にも通用するだけでなく、西洋のエコロジー神学の抽象性を克服し、自然と人間との感覚的結びつきを大切にすると共に、知恵(sapientia)による「道なるキリスト」のはたらきでそれを根拠づけることによって、形而上学的エコロジーの確立に道を開くのである。

 

永平大清規にみられる道元の修道論

 

永平大清規とは、道元(1200-1253)の定めた次の六つの清規をさす。

『典座(てんぞ)教訓(きょうくん)』、嘉禎3年(1237):僧院で台所仕事を司る典座の心得と作法。

『辨道法(べんどうほう)』、 寬元3年(1245):僧堂における坐禅中心の修道生活の規範

『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』、寬元4年(1246):僧堂で粥(朝食)と飯(昼食)を喫するときの作法

『衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)』、宝治3年(1249):修行僧が看経(読書)や行茶(喫茶の行礼)を行う「衆寮」での規則と誡め

『對大己法(たいだいこほう)』、寬元2年(1244):「大己」(目上の人)への礼法。謙遜の誡め。

『知事(ちじ)清規(しんぎ)』、寬元4年(1246):僧院で様々な業務を担当する指導者(知事)の責務と選任の仕方

 

ここでは、とくに、道元が宋に留学僧として聞法の旅に出たときに出会った阿育王寺の老典座との対話が収録されている『典座教訓』に注目したい。そこには、在家と出家の区別を越えた道元の修道論の原点が明確に示されているからである。

嘉定十六年癸未(みずのとひつじ)(1223)の五月中、慶元府に停泊する船内で、道元が日本船の船長と話をしていたおり、一人の老僧がやってきた。年は六十歳程度である。まっしぐらに船に来て、日本人に尋ねて椎茸を買い求めた。道元は彼を招待して茶をふるまい、その所在を尋ねたところ、阿育王山の寺の典座和尚ということであった。以下、道元と老典座との問答を『典座教訓』に記された通りに再現してみよう。

老典座: 私の出身は西蜀(四川省)です。郷里を離れて四十年になりまして、今年で六十一歳です。これまであちこちの修行道場をあらかた経験してきました。先年、孤雲道権禅師が住持している阿育王寺を訪ね、正式に修行することになりましたのに、無為に過ごしてしまいました。ところが去年の夏の修行期間の後、阿育王寺の典座に任ぜられました。明日は端午の日なので、一つご馳走しようと思ったものの適当なものが何もありません。麺汁を作ろうと思うのですが、椎茸がなかった。そこで特別にやってきて椎茸を買い求め、各地より集まった雲衲[3]に供養するつもりです。

道元:いつ頃阿育王寺を出てきたのですか? 老典座:昼食の後です。

道元:阿育王寺はここからどれくらいの距離ですか? 老典座:三十四五里[4]です。

道元:いつ寺へ帰るのですか? 老典座:今しがた椎茸を買いましたので、すぐに帰ります。

道元:今日は期せずしてお会いし、のみならず船内でお話しすることができました。これは素晴らしいご縁ではございませんか。私道元が典座禅師にご馳走いたしましょう。

老典座:いけません。私がもし管理しなかったら、明日の食事が駄目になってしまうでしょう。

道元:阿育王寺には、典座寮の仲間で、朝昼の食事を理解・会得している人がいるでしょうに。典座和尚が一入不在であっても、何の不備がありましょうか。

老典座:私は老年にてこの職に就いたのです。つまり、おいぼれの弁道です。どうして他人にその職務を譲れましょうか。それに来るときに、一泊の許可を得て来ませんでした。

道元:典座和尚はご高齢であられる、どうして坐禅弁道したり、語録を読んだりしないのですか。典座職務に煩わされ、ひたすら肉体労働をして、どんないいことがあるというのですか?

老典座:(大笑いして)
外国の好青年よ、あなたはまだ弁道というものを解っていないし、まだ文字というものを知らないのです。外国好人、未了得弁道、未知得文字在)

道元:(老典座のその言葉を聞いて、ハッと自分を恥じ畏れおののき)

文字とはどういうものでしょうか、弁道とはどういうものでしょうか?(如何是文字、如何是弁道)

老典座:あなたが質問したところを見過ごさずにいれば、そういう人(文字を知り弁道を体得した人にならないということがどうしてありましょう。(若不蹉過問処、豈非其人也)

道元:(その意味が解らず)・・・・・

老典座:もし解らなかったならば、後日いつか阿育王寺に来てください。一つ、文字の道理について語り合いましょう。(そう話した後、すぐに起ち上がって)日が暮れてしまった。急いで帰ろう。(と言って帰ってしまった)

その年の七月、道元は天童山景徳寺で修行をしていた。時にあの典座がやって来て、道元に会って

「夏の修行が終わったので典座職を退いて、郷里に帰ることにしました。たまたま同門の者が、あなたがここにいる、と言っているのを聞きました。どうして来て会わないでいられましょう」と言った。

道元は小躍りして喜び感激し、彼を接待して会話をした折、先日の船内における文字・弁道の因縁について聞いてみた。

老典座:文字を学ぼうとする人は、文字の意味を知ろうとするし、弁道に努める人は、弁道の意味を会得しようとします。

道元:文字とはどういうものですか? 老典座:一、二、三、四、五

道元:弁道とはどういうものですか? 老典座:「世界は何一つ秘蔵しません(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)[5]

 

道元は、23歳の時に宋で出会った老典座から学んだことについて、『典座教訓』のなかで次のように云っている。「私が多少なりとも文字を知り弁道を会得できたのは、この典座の大恩のおかげである。これまでの経緯を亡き師匠、明全禅師に話したところ、明全禅師はただただ大変に喜ばれた」

 

参考資料ー「蓮の露」の良寛と貞心尼との相聞歌

 

道元没後約五百年、永平録の「ことば」を読み、感涙にむせて書物を濡らしてしまったという体験[6]を漢詩「讀永平録」に詠んだのは良寛であったが、彼の漢詩や短歌には道元からまなんだ「ことば」がさりげなく読み込まれている事が多い。とくに良寛の弟子になることを志願した貞心尼とのあいだに交わされた次の相聞歌は有名である。(のちに貞心尼自身が編纂した歌集「蓮の露」に収録されている)

 

貞心尼:(師常に手鞠をもて遊び給ふると聞きて奉るとて)

これぞこれ ほとけのみちに あそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ

良寛:(御かへし)

 つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを 十とおさめて またはじまるを[7]

貞心尼:(はじめてあひ見奉りて)

きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬゆめかとぞおもふ

良寛:(御かへし)

 ゆめのよに かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに[8]

 

菩薩の修道について

 

道元は在家出家を問わず「菩薩戒」を重要視した。小乗仏教のこまごまとした戒律ではなく、戒律の精神を生きること、とくに菩薩として生きる大乗仏教徒は、大乗にふさわしい戒律を生きるべきであるという伝教大師最澄の教えにしたがい、入宋にさいして小乗仏教に由来する「具足戒」を道元は受けなかった。男性出家者の場合は250戒、女性出家者の場合は348戒もある小乗仏教由来の戒律は、「・・・すべからず」という微に入り細をうがつ禁止条項をふくむ小乗仏教由来の戒律であり、道元の生きていた時代には単なる建前だけの慣行にすぎず、厳密にそれをまもるものは少なかった。

さらに「人は本来仏である」とか「一切の衆生は悉く仏の本性をもっている」という大乗仏教の根本的な教えは、戒律の事実上の無視を正当化する危険があった。道元は、労働を仏道修行に必要な修行として取り入れた百丈慧海、それにもとづく「禅苑清規」を参考にしつつ、日本の修行僧に適した清規を制定したのである。戒・定・慧を三学とする仏教の修道は、坐禅(只管打坐)を根本とし、禅定によって生まれる(あらゆる二元性と対立を越える無差別の)智の働きと、(一切の衆生を救済しようとする)菩薩行をすすめる「菩薩戒」にもとづくものとなった。

道元の修道論の根本的な特徴は、「修行は仏になるために行うのであって、一度悟りを開いて仏になればもはや修行は必要ない」と考えるのではなく、「本来人は仏であるからこそ修行するのである」というところにある。修行を証(悟り)の手段と見る二元的な見方を越えた「修証一等」ないし「本証妙修」が道元の修道論の根本であるが、従来見落とされてきたことは、修行は自分一人が成仏するためにするのではなく、一切の衆生が救われることを願って為されるのであるという「菩薩」の誓願があると云うことである。このような「大悲」の「誓願」が道元の坐禅の背景にあること、道元が「禅宗」という呼び名を拒否して、普遍的な救済をめざす大乗仏教の根本精神に立ち返るべき事を説いたことは、とかく禅宗の一つの宗派である「曹洞宗」の開祖として道元を位置づける仏教史家の陥穽ではないだろうか。

 

在家の修道者の行道の手引き─菩提薩埵四攝法について

 

在家の信徒のために道元は様々な修道の手引きを残している。普通、在家の仏教信徒に要求されるものは、(1)不殺生(2)不偸盗(3)不邪淫(4)不妄語(5)不飲酒 の所謂五戒であるが、これらは消極的な戒律である。ところが道元は、菩薩道の実践を積極的なにするために、「・・・するな」という戒律ではなく「・・・・しよう」という積極的な「法」を説いた。それが「菩提薩埵四攝法」である。「摂法」とは「他者を真理に導く四つの法」というだけでなく、「四つをばらばらに実践するのではなく一つの統合的な法として実践しよう」という提言である。

その四摂法とは、(一)布施(ふせ)、(二)愛語(あいご)、(三)利行(ウぎよう)(四)同事(どうじ)である。

布施とは、不貧(ふとん)(むさぼらないこと)である。むさぼらないとは、「人の気に入ろうとしないこと」、また「人の感謝をむさぼらないこと」である。道元は、「自分が捨てるつもりであった財物を、見知らぬ人に施すように、気前よく布施をする」ことを勧める。現在では、布施とは専ら在家者が出家者に与えることだけを指す意味となったが、道元の云う「布施」には在家と出家の差別はない。与えるものが軽少であるかどうかが問題なのではなく、それが相手の役に立つかどうかが問題なのである。道元は与える者と与えられる者を差別する二元性を突破して次のように云う。

「〔布施は〕自分を本当の自分とし、他者を本当の他者とするのである。布施の現わす力は、遠く天界や人間界にも及び、悟りを得た賢聖たちにも通じる。」

「舟を浮かべ、橋を渡すのも、布施の行いである。さらに深く学ぶならば、生きることも死ぬことも布施である。暮しの道を立てることも、生産に携わることも、布施でないものはない。」

「アショーカ大王がわずか半箇のマンゴーで数百の僧たちを供養して、供養の力の広大さを示したことを、布施をする人たちは、よくよく学ぶべきである。」

「衆生のこころを動かすことはむずかしい、そのため一財でも与えて、道が成就するまで導いて行くのである。それは必ず布施によって始めるべきである。そのため布施は、求道者が完成すべき六つの行為(布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧)の一番はじめにあるのである。」

仏教の伝統では「愛」ということばは「執着」を示すものとして否定的な含意があった。しかし道元は「愛」に肯定的な意味をこめて「愛語」を「布施」とともに菩薩の法と考えた。

 道元の云う「愛語」とは、さしあたっては、「人に会った時に 慈愛の心を起して、やさしいことばをかけること」である。決して暴言や悪言を用いず、「お大切に」とか「御機嫌いかがですか」といって相手の安否を問うことを意味するが、それだけに留まらず、「愛」の「ことば」に深い宗教的な含意があることを述べている。

「仇敵どうしを和らげ、徳のある人たちを仲よくさせるには、愛語がその基本である。向かいあって愛語を開く人は顔を歓ばせ、心を歓ばせる。蔭で愛語を聞く人は、肝に銘じて忘れない。愛語は愛心より起り、愛心は慈非心をもととしているのである。愛語が天をも回らす力を持っていることを知りなさい。愛語は、相手の長所をほめる以上のことなのである。」

西洋近代の功利主義は、自利と利他の計量比較によって「利」の最大をめざす社会倫理を構築しようとしたが、道元の云う「利行」は、自分の利益と他人の利益の差別、身分の高低による差別を越えた宗教的徳として語られている

 「利行というのは、身分の高い人に対しても低い人に対しても、相手の利益になることをすることである。例えば相手の遠い未来や近い未来に気をくばって、その人の利益になることをするのである。昔、ある人は籠のなかの亀を助け、ある人は病気の雀を介抱した。彼らはなんの報酬も期待せず、ただ利行をするという気持にかられて、それをしたのである。」

「怨みを持ったものに対しても親しいものに対しても、同じように利益を与えなさい、それが自分をも他人をも利することなのである。もしそのことがわかれば、草木風水に対しても、休むことのない利行がなされるであろう。真理の道を知らない人々を救うために、ひたすら努めなさい。」

日本人の社会倫理では、自分だけが特別であろうとしないこと、が重んぜられる。このような、出る釘は打たれる、ことを用心するような消極的な処世訓とは違って、道元の云う「同事」は、次のように他者に対する積極的な関わりを求める菩薩行である。

 「同事ということがわかれば、自分も他人も一体となるのである。白楽天の詠んだ「琴・詩・酒」は、人を友とし、天を友とし、神を友としている。人は琴・詩・酒を友としている。琴・詩・酒は、琴・詩・酒を友としている。人は人を友とし、天は天を友としている。このような道理を学ぶことが、同事ということを学ぶことである。」

「同じ事をするということは、作法にかなった事、おごそかな事をすることであり、すぐれた態度を持つことである。それには、他入を自分の方へ回心させて、自分と同じことをさせることもあろうし、自分が他人と同じ事をすることもあろう。自他の関係は、時に応じて自由自在なのである。」

「管子がいっている。「海が大きいのは、水を拒まないからである。山が高いのは、土を拒まないからである。すぐれた君主が多勢の人を治めているのは、入をいとわないからである」。海が水を拒まないことが同事なのである。更には、水が海を拒まないことを知るべきである。」

「人が集まって国となり、勝れた君主を待ち望んでいる。しかし勝れた君主が勝れているのは、人をいとわないからだということを知る人は稀である、そのため人は、勝れた君主にいとわれないことばかり望んで、自分たちが勝れた君主をいとわないことには気がつかない。しかし、同事ということは、君主の方からも、凡人の方からも、両方からなされることである。

「従って、求道者たちは、それ(四摂法)を行うことを願うのである、どうかあなたがたも、柔和な顔をして、すべてのことに向かいなさい。これら四つの行いが、それぞれ四つの行いをふくんでいるから、それは十六の行いである。」

 

黄泉にまで下る菩薩の道ー道元の最後の在家説法と遺偈

 

建長五年(1253)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。

「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」

僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、宗教的な廻心〔轉法輪〕の場所であり、「完全な平和(般涅槃)」に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。[9]

その翌朝、彼は居ずまいを正して次の遺偈を弟子達に残した。(建撕記)

五四年照第一天(五四年第一天を照らす)

打箇𨁝跳 触破大千(この𨁝跳を打して大千(三千大世界)を触破す)咦(にい)

渾身無覓 活落黄泉 (渾身に覓むる無し 活きながら黄泉に陥つ)

道元禅師の遺偈の「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)という結びの言葉は、何を意味するのであろうか。この遺偈を単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察したい。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。

如浄禅師の遺偈:六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 咦 従来生死不相干

(六六年の生涯、罪犯は天に満ちている。この肉体を打って、活きたまま黄泉の国に陥る。従来の生死は相干しない)

孤雲懐奘の遺偈:八十三年如夢幻 一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去 虚空踏翻没地泉

(八三年の私の生涯は夢幻のようだ。一生の罪犯は弥天を覆っている。そして今私は足下に糸なくして去り、虚空を踏まえ翻って地下の泉に没する)

如浄─道元─懐奘 と受け継がれた一連の遺偈に通底するものを、徹底した菩薩行として、衆生の罪を一身に引受けて黄泉に下る菩薩の懺悔道と捉えることができる。菩薩の道は、一切の衆生を救済しようという大悲の誓願に基づいている。如浄から嗣法し、懐奘に伝えた道元の仏道は「見性成仏」を云う「禅宗」の禅ではなく、大悲の誓願に基づく菩薩行としての坐禅であったことは、如浄が道元に語った次の言葉が示している。

いわゆる仏祖の坐禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)

如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。この菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する言葉である。それこそが、自己と無関係なものは何一つない縁起の法を生きる菩薩の心であろう。

 面山瑞方が編集した『傘松道詠』に収録されている道元の道詠  

愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん

  草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん

もまた、菩薩行を説くものであるから、如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元、その道元との対話を記録した懐奘の遺偈もまた「黄泉に下る菩薩」の「行道」の言葉として読むことができよう。

 

[1] 「宗教研究」84巻4輯「宗教的共感の源泉ー東西霊性交流の場合」pp.205-6(2011)

[2] 「正法眼蔵三参究ー道の奥義の形而上学」岩波書店271頁(2008)

[3]雲衲とは衲(のう)(継ぎはぎだらけの僧衣)を纏った雲水(禅僧)のこと

[4] 當時の中国の1里はだいたい540メートルくらい。老典座は19キロ位の道のりを徒歩でやってきた。

[5] 「弁道(辯道、辨道)」とは「修道がなんであるかをわきまえる」ことと「修道に精進する」ことの二つの意味がある。「文字」とは、先覚者によって書きしるされた真理のことばである。

「世界は何一つ秘蔵しない(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)」とは、森羅万象すべてが何一つとして「道」を説く対象にならぬものはないことを云う。「典座教訓」のなかで、特殊な少数の人にしか体験できない非日常的な場所に奇蹟や神秘を求めることをせず、台所仕事のような日常茶飯の世界の只中に顕現する真理の「ことば」を聴き、その「ことば」に活かされ生きる事を求めている。

[6] 春夜蒼茫二三更….慕古感今労心曲 一夜燈前涙不留 湿尽永平古仏録…..(読永平録)

[7] 「手鞠遊び」に興じる良寛に入門を願い出た貞心尼の歌への返歌。

「突きて見よ、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのと)を十とおさめてまた始まるを」は、道元の典座教訓の中の「文字(ことば)」についての問答を踏まえている。始(一)と終(十)がある手鞠遊びは10回ついただけでは終わらない。常に初心に返って修行を繰返す遊びの中に、「清規」の「ことば」に活かされ生きる修道の心を詠込んだ歌である。

[8] 道元の『正法眼蔵』に「夢中説夢」という巻があるが、そこでは、我々が堅固な実在だと思っている世界が、じつは夢の如き虚仮の世界であり、真の仏法の世界は、虚仮の世界の住人から見ると逆に「夢」のごとく見えるという言葉がある。顛倒世界においては、真実を説くものは役に立たない夢想家と見なされるが、道元は、むしろ「夢の中で夢を説く」ことの意義を理解しなければ、仏道はわからないと明言している。良寛の貞心尼への返歌も、「夢の中で夢を語る」ことの大切さをさりげなく示した歌と言って良いであろう。

[9]病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。

 

 

『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規』

東西の霊性交流のためにー「聖グレゴリオの家」での講演(2019/10/16)から

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Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集の刊行に寄せて

2020-09-29 | 哲学 Philosophy

Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集の刊行に寄せて

西田幾多郎が真宗大谷大学の開学記念日でおこなった講演について解説します。

Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集(岩波文庫)の刊行に寄せて

西田幾多郎が真宗大谷大学の開学記念日に行った講演「Coincidentia oppositorumと愛」について解説します。

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(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-2

2020-09-29 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-2

レオポルド一世作曲の典礼音楽(レクイエム)を聴く

(音楽付)細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1- 2

細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1-1の続きです。 レオポルド一世が、その最初の后、マルガリータを追悼して作曲した「死者のためのミサ曲」を...

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(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-1

2020-09-29 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-1

「聖グレゴリオの家」での講演(2020/2/20)より

(音楽付)細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1- 1

一七世紀末にウイーンで上演されたオペラ「勇敢な婦人」の主人公は細川ガラシャでしたが、そのラテン語タイトルの表題が意味するものは、カトリック教...

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バロックオペラMulier fortis(勇敢な婦人・細川ガラシャ)のチラシ

2020-09-17 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

2021年3月6日(土)東京文化会館小ホールで開演予定のバロックオペラMulier fortis(勇敢な婦人・細川ガラシャ)のチラシです。

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「香港の学生達の現在」

2020-06-30 |  宗教 Religion
東西宗教交流学会会員の寺沢邦彦さんから次のようなメールを頂きましたので転載します。
 
「香港の方はコロナも落ち着き感染者発見ゼロが2週間つずいています。でも全員マスクをしますし、4名以上の集まりは今まで禁止でした。いまは8名です。私は31名の香港の学生に教えました。アジア宗教と社会というクラスです。もちろんONLINEになりました。香港の学生の思考力と批判力はさすがです。感度が鋭く理解力もあります。英語もなかなか立派な論文を書きます。ほんとにこれだけ優秀でまた行動力のある彼らが2047年一国2制度がなくなり中国の完全支配に入りまた国家安全法でその可能性を発揮できないのが本当に胸が痛いです。彼らも苦しんでいます。彼らは本当にアジアの貴重な人材です。しばらく卒業後葛藤の地を一時離れて日本やアメリカの地などで働ければいいのですが。その運動をしたいと思います。日本の若者にもかれらの真剣さと勇気はいい刺激になるとおもいます。私が大学で講演したパンフを添付します。宗教対話による国を超えた連帯が狭い国家主義を超えて大切だといいました。2メートルの距離をおいて大勢参加してくれました。他の大学もONLINEで参加していただきました。おかげさまで良い反応でした。香港の学生たちや学者たちと個人的にも多く交流できたのは良かったです。」
 
http://chikyuza.net/archives/104229
 
寺沢邦彦さんが、香港の学生達とオンライン授業を通じて対話した内容が「地球座」というWebnews mediaに掲載されています。
今年の夏に開催を予定していた東西宗教交流学会で報告して頂く予定でしたが、コロナ禍のために学会の開催が一年延期されましたので、とりあえずこのBLOGに転載いたします。
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絶対無の神学的省察ー西田幾多郎論

2020-04-18 | 哲学 Philosophy
 
絶対無の神学的省察ー西田幾多郎論
田中裕
 
第一章 『善の研究』再考
 
1-1『善の研究』(1911)の根本的立場は、「意識現象(直接経験の事実)が唯一の実在である」という純粋経験論である。この立場は、ジェームズの根源的経験論、ベルクソンの純粋持続の直観主義、フッサールの純粋意識の現象学など欧米の同時代の思想家達と共通する根源的に経験論的な思惟の課題を担っていた。それは意識に超越的な存在をすべて「排除」ないし「括弧にいれ」、疑うにも疑うことの出来ぬ直接的経験の事実から出発し、意識に超越的な存在のもつ意味を、あくまでも意識に内在的な場に於て解明していくという課題である。そのような哲学的な立場に限界があるかどうか、その限界はどこにあるかということは、実際に根源的経験論、あるいは純粋経験論の立場を徹底した哲学的思惟を遂行した後でなければ自覚されないであろう。とくに、諸々の超越者中の超越者とも言うべき有神論の「神」を意識内在的な立場に還元し、神経験と呼ばれてきたものの真の意味をそこにおいてあくまでも意識内在的に解明できるのかという問題が生じる。
 
1-2 フッサールは、彼の純粋現象学の構想を立てたとき、神学的な問題を彼の課題から排除していたようにみえる。純粋意識を絶対的存在(Absolutes Sein)とする彼の現象学では、キリスト教のような超越神論の神は、他の諸々の超越者と同じく現象学的還元を施されなければならぬ対象的存在のひとつであるから、「神という超越的存在は遮断される」(IdeenⅠ―58)のは當然であった。フッサールは、純粋意識の現象学の課題から神を排除すべき理由について次のように述べている。
 
「神的」存在は単に世界を超越するだけではなく、絶対的意識をもあきらかに超越すべきものである。それは、意識の絶対性とは全く異なった意味で「絶対的」であるであろうし、また他方において世界の意味における超越とも全く異なった意味で超越的なものであるだろう。我々の研究領域が純粋意識の領域である限りは、そのような絶対者=超越者はあくまでも遮断されているべきである。(傍点筆者)
 
1-3 ベルグソンは『道徳と宗教の二源泉』で社会学的見地から、ジェームズは『宗教的経験の種々相』で心理学的な見地から、それぞれ神について積極的に語ったが、それは厳密な意味で哲学的な立場から、すなわち純粋経験ないし純粋持続に内在的な立場から神を語ったわけではない。これに対してフッサールは、上の引用にあるように、純粋現象学という「厳密な学知」の立場からは、神を語ることを排除(ausschalten)しなければならないと言ったが、それは、「現象学の研究領域が純粋意識の領域にのみ限定されるかぎり」という条件のもとにであった。(現象学がこの限定を突破する可能性については後で議論しよう)。
 
1-4  西田の『善の研究』は、宗教すなわち「神と人との関係」を考察することを「哲学の終結」とする意図をもって書かれた著作である。このように宗教をもって哲学の終結とする考え方は、後期に至るまでの西田哲学の根本的特徴であったが、『善の研究』の場合は、純粋経験論を基盤としつつ、神を哲学の究極の主題とする点において、フッサールの言う純粋な意識の現象学において排除された神の考察をまさに純粋経験論の究極の主題とするものであった。
 
1-5 「意識現象を唯一の実在とする」『善の研究』の宗教論には、これまでの多くの解釈者が指摘してきたように、哲学的汎神論の一つに分類されてもやむをえぬようなテキストが数多く存在する。たとえば、「神を宇宙の外に超越せる造物者とはみずして、直ちにこの実在の根柢と考え」「宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestationとみる」ことから、西田は「宇宙と神との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である」と述べる。西田自身も、自分の立場が汎神論的であることを充分に自覚しており、汎神論に対して向けられる二つの批判を取り上げ、純粋経験論の立場からそれに答えようとしている。そのふたつの批判とは、一つは「神の人格性」の問題であり、もう一つは「悪の存在」をいかに解釈するかという問題である。
 
1-6 スピノザの哲学的かつ決定論的な汎神論とは異なり、「実在の根柢は人格的である」ということを認める点で、西田は自分の立場が人格主義的汎神論ともいうべきものであることを明言している。このような実在の根柢としての神は「無限の愛なるがゆえに、すべての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認める」(全集Ⅰ-194)立場でもあった。この汎神論は、各個人の人格の独立性と自由を承認する意味で、スピノザの如き必然論ではなく、人間の独立と自由を認める相互人格的契機を内に含んでいる。また善なる神を根柢とする実在は即ち善であるという性善説的立場から「絶対悪」の存在が否定され、悪は「体系の矛盾衝突から起きる」ものであり、矛盾衝突を契機として発展する実在の一契機として位置づけている。そこにはヘーゲルの汎神論的な「合一哲学(Vereinigungsphilosophie)」と同じく、主客未分の一なる實在が、二元的な分裂を経て再統合されるところに実在の動的展開を見る弁証法的論理がある。もっとも西田の場合は、論理学を無前提なる学の始源としたヘーゲルとは異なり、純粋経験を根源的であるとする点に違いがあとしても、その主客未分の即自的な純粋経験が、主客二元の意識の對自的な分裂を経て、再び即且つ對自的な合一を回復するという意味での「合一哲学」の論理を内在させていると言って良かろう。このようにドイツ理想主義に通底する哲学的思惟は、『善の研究』の純粋経験論のうちに内在する論理であり、「意識経験を能動的と考える点で、純粋経験論はフィヒテ以後の超越哲学とも調和する」(全集Ⅰ-4)と西田に言わしめたものでもあった。
 
1-7 しかしながら、『善の研究』執筆時の西田の人格主義的汎神論の哲学的基礎は、あくまでも「意識現象を唯一の実在とする」純粋経験論である。それは、ヘーゲルのような高度に思弁的な論理の辯證法的体系によって根據づけられてはいない。ベルグソンのごとく随所に宗教の根源に関わる直観的な洞察を秘めているとはいえ、純理論的な哲学的議論だけに制限してみるならば、純粋経験論とは、要するに「神と世界の関係は意識統一とその内容との関係である」という公理(根本命題)から出発する哲学的な汎神論という性格を併せ持つものでもあった。しかし、まさにその哲学的汎神論のアプリオリな前提をなす公理自体は、一切の独断を排すべき純粋経験論のなかにあって、なおも独断的な一つの仮定として残存していたと言わざるをえないのではないか。
 
1-8問題は、『善の研究』執筆時の西田の人格的汎神論の根本命題、自発自展する純粋経験論の基本前提そのものが、あらゆる先入主を遮断して疑うベからざる確固とした「心霊上の事実」を如実に表現するものであったかどうかという点である。すなわち、このような公理を前提として考えられた神が、はたしてキリスト教の伝統の中で、キリスト者が経験した神、旧新約聖書において啓示された神の経験を如実に表現できていたかということである。フッサールとは違って有神論の神的「存在」を純粋な現象学という哲学知の中から排除するのではなく、あくまでも哲学の終結としての神を、我々の直接経験に基づいて語ることを志向する西田にとっては、神を論ずること自体が根本的な哲学の課題であった。キリスト教的経験を、他人事ではなく自己自身の在り方に深く関わるものとして取り上げた西田にとって、キリスト教の核心に触れる宗教哲学を構築するためには、『純粋経験』の意識内在の立場の限界を突破することが必要であった。しかし、その突破は、あくまでも純粋経験とは異なる立場を独断的に前提することによってではなく、純粋経験論をその根柢へと徹底することによって、そのなかになおも含まれていた汎神論的な独断を突破し、意識に内在的な経験の立場では語り得ないものを根柢から自覚することによって、意識の立場の限界を超出することこそが求められなければなかった。
 
1-9 『善の研究』以後、『無の自覺的限定』にいたるまでの西田哲学とキリスト教との関わりを考える場合、単なるプラトン主義ではなく「キリスト教的」プラトン主義の系譜に属する思想家達が意味を持ってくるのは、まさに意識経験に内在的な人格的汎神論の立場をさらに超えてゆく論理を彼らが示している点にあった。
 
1-10 すなわち、プロチヌスやプロクロスに代表される根源的一者からの発出と還帰によって万象を説明する理性主義の極北ともいうべき哲学的な汎神論と、ユダヤ教に由来する聖書的伝統のなかで「神の言葉」として語られてきた超越神に由来する宗教的経験との緊張対立の中で、プラトン主義の立場そのものを、さらに内在的に超越していったキリスト教的プラトン主義の伝統が、西田にとって重要な意味を持つようになった理由がそこにあると言わなければならない。
 
1-10 『善の研究』の宗教論の第四章「神と世界」の冒頭箇所に、哲学的な汎神論では決して語り得ぬものへ言及したテキストがある。それは西田がキリスト教的プラトン主義の神論に言及する箇所でもあるという点で、単なる自然主義的な汎神論を超え出る契機を内包している点において興味深いものである。西田はまず、
 
A:「純粋経験の事実が唯一の實在であって神はその統一であるとすれば、神の性質及世界との関係もすべて我々の純粋経験の統一即ち意識統一の性質および其内容との関係より知ることができる。」
 
と述べる。これを便宜上「神の性質及世界との関係の可知性のテーゼ」(テーゼA)と呼んでおこう。
 それは、「超越的神があって外から世界を支配するといふ如き考は啻に我々の理性と衝突するばかりでなく、かかる宗教は宗教の最深なる者とはいはれない様に思ふ。我々が神意として知るべき者自然の理法あるのみである、この外に天啓といふべきものはない」という超自然否定の理神論ともとられかねない自然主義のテーゼでもある。
 しかしながら、テーゼAのなかに含意されている自然的態度を根柢から轉換するテーゼが、まさにこの直後に語られていることに着目したい。それは、
 
B:「我々の意識統一は見ることも出来ず、聞くことも出来ぬ、全く意識の対象となることは出来ぬ。一切は之に由りて成立するが故に能く一切を超絶している。」という文である。これを「我々の意識統一(神)の不可知性のテーゼ」(テーゼB)としよう。
 
西田の汎神論の神の可知性(テーゼA)を支えているものは、實は「神の不可知性」(テーゼB)なのである。
 
テーゼBは、意識現象に内在的な純粋経験論の内部にあって、それを可能ならしめている根源的な作用(意識統一)であるが、それ自身は純粋経験の内部では語れない特異点として、内在的超越への道を指し示していることに注意したい。そして、西田がこのあとで列挙しているキリスト教的プラトン主義の系譜に属する思想家として、西田はまずディオニシュースの「消極的神学」が神を論ずるに否定をもってしたことを挙げ、次に、「ニコラウス・クザーヌスの如きは、神は有無をも超越し、神は有にしてまた無なりと言っている」とのべ、否定神学と對立の一致を説くキリスト教プラトン主義の神学的伝統に言及している。
 
1-11 もっとも、クザーヌスの引用が、「隠れたる神」に依拠しているのだとすれば、そこでのクザーヌスは確かに「神は有無を超越している」と述べてはいるが、「神は有にして無である」というごとき矛盾対立の合致を決して「一つのテーゼ」として立ててはいないことはここで指摘しておかなければならぬであろう。 クザーヌスが「隠れたる神」で神を賛美礼拝しつつ示した否定神学は、「神は有(aliquid =something)でなく、また無(nihil=nothing)でもなく、有にして無であるのでもなく、有でもなく無でもないのでもない」というテトラレンマ(四句分別)であって、およそ分別的理性が取り得る凡ての言説をすべて網羅した後で、そのような分別そのものの解体・脱構築することを特徴としている。それは正反合という統合によって、正命題と反対命題の部分的な真理性を保存しつつ高次の命題においてそれを共に否定する如き過程的辯證法とは異質な論理である。それは、まさに「智ある無知」(docta igorantia)を示す否定神学であって、そこにおいては有無の二元對立の彼方の「隠れたる神」は、無知を通じて知られるのである。
 
1-12 西田の『善の研究』の宗教論は、宗教的経験の事実そのものにねざす逆説的な言葉が随所に語られており、それはある意味でその後の西田哲学の論理を直観的に先取りする印象を与えるものが多いが、とくにキリスト教的プラトン主義者としてのクザーヌスの言う「智ある無知」を彷彿とさせるものは、最終章の付論として追加された「智と愛」の末尾の言葉であろう。
「神は分析や推論によりて知り得べき者ではない。實在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は神の直覺に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずという者は、最も能く神を知り居る者である。」
『善の研究』の翻訳者の一人であるVigliermo は『智と愛』という付章を「驚嘆すべき文学作品であり、東西を問わず最も偉大なる宗教詩に比肩する一種の散文詩」として賛嘆を惜しまなかったが、この結びの言葉ひとつとってみても、「善の研究」の哲学的汎神論の「論理」には同意できない読者であっても、その心を撃つ洞察が秘められているように思われる。 
 哲学的論理としてみる限り、後年の西田自身が認めたように『善の研究』は不十分なものであった。まず「神を意識経験の統一である」という前提ひとつをとってみても、そこでいう「統一」とは、心理学的な意味での経験的統覚であるのか、それともカント哲学で言う意味での「超越論的統覚」なのか、あるいはそのような意識の立場で語られる「統覚」を突き抜けたより根源的なる場所に於ける統一作用を意味するのか、その点は明確ではない。主客合一という立場自体も後年の西田自身によって放棄されるようになるし、人間の根源罪悪と自由意志の問題も、『善の研究』においてはまだ突き詰められて考えられていたとは言えない。
 しかしながら、『善の研究』宗教論本論の最後に引用されたオスカーワイルドの獄中記 De Profundis の言葉を引用した結びの言葉は、既成の如何なる宗教によっても倫理道徳によっても救済を見いだすことが出来なかった世紀末の詩人、社会から倫理的に糾弾され疎外されたワイルドの「深き淵」より語る聲への西田の共感を示すものであった。
「希臘人は人は己が過去を變ずることのできないものと考へた、神も過去を變ずる能はずといふ語もあった。併し基督は最も普通の罪人も之を能くし得ることを示した。例の放蕩息子が跪いて泣いたとき、かれはその過去の罪悪及び苦悩をば生涯に於いて最も美しく神聖なる時となしたのであるといって居る。ワイルドは罪の人であった、故に能く罪の本質を知ったのである。」
この言葉もまた、決定された過去が懺悔回心の瞬間に於いて、非因果的、非過程的に瞬時に変貌するという、時間論の根本的な問題を提起しているように思われる。しかしそういう哲学的問題は、『善の研究』では「實在はすなわち善であり」、「實在体系の矛盾衝突」より起こる悪は「實在発展の一要件である」という性善説的な立場によって片付けられており、その点に於いて「悪」の問題、魂の底からの懺悔が同時に賛美であるという宗教的経験のパラドックスが、さらに立ち入って論ぜられてはいないのである。
 
第二章 『自覚における直観と反省』―キリスト教的プラトン主義との内的対話の深化―神現論(テオファニア)と創造論―
 
2-1 宗教的経験の原事実に関する西田の鋭利なる直観が、それにふさわしい哲学的な反省と統合された自覚、ないしは内的生命のロゴスを求めていったプロセスとして、『自覚における直観と反省』以後の哲学的思惟を位置づけることができるであろう。その始まりを告げる『自覚における直観と反省』という書は、場所的ロゴスの誕生以前の西田の「悪戦苦闘のドキュメント」であり、そのかぎりではまだ中後期の西田独自の哲学を構築するには至らぬ過渡的な段階のものであった。
 
2-2 しかしながら、西田とキリスト教的プラトン主義との内的対話の進展という見地からすると、近代のドイツ理想主義の哲学の思想史的背景として地下水脈のごとく活きていたキリスト教的プラトン主義の伝統を、西田が『善の研究』のときよりも遙かに深いレベルで自己自身の哲学的思惟のうちに深く摂取しつつ、さらにそれを乗り越える論理を模索していた文書としてこのドキュメントを読み返すことができる。
 
2-3 とくにこの時期の西田にとって重要な意味を持つ思想家は、ディオニシュース・アレオパギテースとヨハンネス・エリューゲナである。前者は後者によって西方キリスト教会に知られるようになったわけであるから、ディオニシュースはアウグスチヌスと並んで、中世のキリスト教的プラトン主義の形成に多大の影響を与えた思想家と言っても良いであろう。とくに、エリューゲナについての西田の評価は極めて高く、彼からの引用は、アウグスチヌスについて多く、前期中期にとどまらず後期西田哲学においても繰り返し反復されている。
 
2-3 西田は『善の研究』では、前述したように「宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestationとみる」ことから「宇宙と神との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である」という汎神論の立場をとっていたが、「創造」というユダヤ・キリスト教的概念と「発出」というプロチヌスに由来するギリシャ的概念を「神現(テオファニア)」というキリスト教的プラトン主義の概念に統合したエリューゲナの影響のもとに、西田は「創造」ないし「創造作用」を自己の哲学の根源語の一つとして積極的に語るようになるのである。
 
2-4 『自覚における直観と反省』において、エリューゲナの『自然について』を参照しつつ西田は、「多くの紆余曲折の後」「知識以前の或者」に到達したと述べ、「カント学徒と共に知識の限界を認めざるを得ない」ことを認めた後で、ベルクソンの創造的進化の基礎に或る純粋持続の考え方をも批判しつつ、ディオニシュースとエリューゲナを引用して次のように言う。
 
ベルクソンの純粋持続の如きも、之を持続といふ時、既に相対の世界に堕して居る、繰り返すことができないといふのは、既に繰り返し得る可能性を含んでいる。真に創造的なる實在はディオニシュースやエリューゲナの考えのように一切であると共に、一切でないものでなければならぬ。ベルクソンも緊張の裏面に弛緩があると言って居るが、真の持続はエリューゲナの云った如く、動静の合一、即ち止まれる運動、動ける静止でなければならぬ(Ipse est motus et status, motus stabilis et status mobilis)。之を絶対の意志と云ふも、既にその當を失して居る、所謂説似一物即不中である。(全集Ⅱ-278)
 
『自覚における直観と反省』はフィヒテ的な自覚の立場を基礎とするものであったが、西田はこの立場にも限界を見いだし、エリュ―ゲナを引用しつつ「説きて一物に似たれども即ちあたらず」という南嶽懐譲禅師の禅語で結んでいる。いまだこの限界を突破する哲学のロゴスを発見するには至らず「刀折れ矢竭きて降を神秘の軍門に請うたという譏り」を甘受しつつも、神秘主義をさらに脱底する道を西田は模索していた。そして、新たなる哲学的な論理で、それを積極的に語る道を西田が歩み始めるためには、キリスト教的プラトニズムの霊性との内的対話こそが重要な契機となっていたと言えよう。
 
2-5 西田は、エリューゲナの『定命論(予定論)』を重要視し、認識の根柢に意志があるという立場から、「神に於いては何らの必然も何らの定命もない、定命 Praedestinatioは神の意志の決定に過ぎぬ」という彼の言葉に深い意味があることを認め、意志は「創造的無から来たって創造的無に還り去る」と云う考えに共感しつつ「斯く無より有を生ずる創造作用の點、絶対に直接にして何らの思議を入れない所、そこに絶対自由の意志がある、我々は此処において無限の實在に接することができる、即ち神の意志に接続することができるのである」と述べる。(全集Ⅱ-281)
2-6 エリューゲナを介して西田は「無からの創造」というキリスト教の根源的な考え方に賛同するようになるが、そこで云う「創造」とは工作者が、外部から事物を、素材なしに制作するというが如き擬工態的モデルにもとづくものではなく、我々の自由なる意志作用の根源に於いて働く「最も直接的なる創造作用」である。
 
2.7 エリューゲナの『自然について』における神現論は、後期哲学の哲学論文集でも繰り返し引用されるが、それもすべてエーグレッスス(egressus)すなわち「神から出る」ことと、レグレッスス(regressus)すなわち「神に還ること」という「神から神への往還運動」において創造を捉える文脈である。西田がこのように後期の著作に至るまで繰り返しエリューゲナのテキストを引用した理由の一つは、『自然について』における「無」にかんする独自の辯證法にあると言えよう。
 
2-7 『自然について(ペリ・フュセオン)』第二部で、エリューゲナは、神は「無」であると断言すると同時に「神は一切である」ことを肯定しつつ、次の如く云う。
 
弟子:聖なる神学が無という言葉で(nomine quod est nihilum =無の名号で)表現しているものがなんであるか、先生に説明して頂きたいのです。
教師:その言葉で表現されているのは、人間の知性であれ、どのような知性にも知られない、神の善性の言い表しがたく、捉えがたく、近づき難い明るさだと私は思うのだが。というのも、それは超存在的(superessentialis)で超自然本性的(supernaturalis) であるから。それは、それ自体に於いて考えられる場合には存在していないし、存在しなかったし、存在しないであろう。というのもそれは、すべてのものを超越しているので、いかなるものにおいても考えられないからである。しかし、存在するものどもへのある言い表しがたい下降を通じて(per condescensionem) 、それが精神の目で見られる場合、ただそれだけが万物に於いて存在しているのが見出され、事実存在しているし、存在したし、存在するであろう。それゆえに、その卓越性の故に、それが捉えられないと理解されるかぎりに於いては、それは無と呼ばれるとしても當然のことであるが、しかし、それがその神現に現れ始める場合にはいわば、それは無からあるものに発出すると言われ、本来全ての存在を越えて居ると考えられているものが、すべての存在に於いてもまた独特な仕方で認識されるのである。
ここで言う「無」は決して欠如としての無ではなく、単なる否定的な無でもない。それは、「すべての存在するものを超越している卓越性」と「超存在的で超自然的な本性に従って」「無」と呼ばれているのである。さらに、この「無」から「存在するもの」への神現の運動を、エリューゲナは「下降」と呼んでいるが、それは感性によっても理性によっても見ることの出来ぬ「無」が見ることのできる「有」へと現れることを意味しているのである。まさに「見えるもの」は「見えないものの形」なのである。そして、西洋の有-神論的な哲学や神学の伝統では例外的であろうが、エリューゲナは神を「絶対的な無」という名でも言い表している
 神の知恵は、自分が形成するために自分より上位の形相に向かうことがないので、無形といわれるのが正しいことである。実際それはすべての形相の無限の範型であり、それがさまざまな目に見えるものや目に見えないものの形相に下降するとき、それはあたかも自分の形成を振り返るように自分自身を振り返るのである。それゆえ万物を越えて居ると考えられる神の善性は、非存在、絶対的な無と言われるが、しかしそれは全宇宙の存在であり、実体であり、類であり、種であり、量であり、質であり、すべての被造物において、すべての被造物について、どんな種類の知性によっても考えられるすべてのものであるのだから、万物に於て存在するし、存在すると言われるのである。
 
2-8 実体、類、種、量などアリストテレスなどアリストテレスが範疇としてあげたものは、帰するところは有のカテゴリーである。それらの概念枠を突破している究極の超越論的(transcendental)一般者を、エリューゲナは「絶対的無」という名号で示したのであるが、それは、「下降」即「上昇」という「神現」の運動に於て 、人間が感覚や知性でとらえることのできる「万物に於て存在するし、存在すると云われる」のである。
 
2-9 この考え方に西田が深く共感したのは、それが、彼が若き時より親炙していた東アジアの霊性的伝統、とくに「形あるものは、形なきものの形」であり、「色(形あるもの)と、それを形あるものたらしめている「空」が、そのまま「逆対応的に同一」であるという大乗仏教の根本思想、すなわち色即是空、空即是色というごとき交差配列語法(chiasmus)によって表現されるダイナミズムに通底するものであったからであろう。
 
2.8 西田は、場所論的轉換を経た後の彼の中期の代表作である『一般者の自覺的体系』と『無の自覺的限定』のなかで「絶対無」を根源語とする哲学的な思索を展開するようになるが、それは下降の道即上昇の道というキリスト教的プラトン主義の考え方に沿ったものであった。 とくに、『無の自覺的限定』は、「絶対無」を神の名号とするエリューゲナのキリスト教的プラトン主義を手引きとしつつ、さらにアウグスチヌス、エックハルトのような他のキリスト教的プラトン主義の系譜に属する思想家、キルケゴールや西田と同時代のドイツの辯證法的神学者、およびマルチン・ブーバーのようなユダヤ教思想とも深く関わる議論を展開している。
 
第三章 『一般者の自覺的体系』と『無の自覺的限定』におけるキリスト教
 
3.1 フランス現象学の現代的な傾向として、フッサールとハイデッガーの現象学の方法を徹底させることによって、それを更に一歩超え出て、キリスト教神学の根本的な問題を、現象学によって論じる一群の現象学者がいる。所謂「現象学の神学的転回」とよばれるものである。そのなかでも、とくにJ.L.マリオンは、フッサールの現象学的還元の「還元」を徹底させ、ハイデッガーの「存在」(Sein)への問いを更に根元化するものとして「贈与」の現象学を提唱している。それは、「存在は贈与として与えられる」という表現に含意される「贈与のはたらき」に注目した現象学である。  彼の初期の主著のタイトルである「存在なき神(Dieu sans L’être)」とはまさしく、「存在をさえ超越した神」であって、ハイデッガーではまだ主題化されていた「存在」を更に「還元」し、贈与作用によって「存在」そのものが「与えられる」ことを現象学的に解明しようとしたものである。彼には「聖像と偶像」の違いを述べる興味深い論述もあり、活ける神に導く聖像によって無限なる神を礼拝する代わりに、死せる偶像を神の代わりに礼拝する偶像崇拝を批判している。この聖像と偶像との根本的な区別と共に、人間の理性によって捏造された神概念を立てる有・神論(Onto-theologie)の「神」を、まさしく思索に於ける偶像崇拝と断定し、そのような「形而上学」の神概念を脱存在化する興味深い議論を提供している。
 
3.2 ここでは、紙幅の都合上、現在も旺盛に現象学と神学との境界領域で思索しているマリオンについてこれ以上論じることは出来ないが、彼に半世紀以上もさきがけて、フッサールが『イデーン』を公刊し現象学の構想と理念を確立した時点で、現象学を根源的な宗教哲学へと転回させた西田の中期哲学の先駆性を指摘しておきたい。
 
3.3  西田によって宗教哲学へと転換された現象学は、さしあたっては「本来的自己の現象学」ないしは「己事究明の現象学」と言って良いであろう。現象学の方法の基本は、意識現象の志向的内在、ノエシスとノエマの区別、本質直観ならびに範疇的直観に基づく非感性的直観と、根源的な意識の意味付与作用にある。西田はこのような現象学の考え方とその方法を、彼の宗教哲学において場所論として転換したわけであるが、その基本は、意識の根柢に意志と内的生命を見る西田自身の根本的な考え方にある。
 
3.4 意識の現象学を、知情意の全てを統合する身体性に立脚した人格的存在と、そのような活きた個人の本来的自己がどこに立脚しているのかを、哲学的場所論によって究明すること、すなわち現象学で言う「超越論的自我」に身体性と事実性にもとづく具體性を恢復させ、いわば生活世界の「大地」にしっかりと立たせることが西田の方法の根本にあった。「意識一般」という普遍的立場は、西田にとっては生命を持たぬ抽象的な自我に過ぎないのであって、形相的なるものだけでなく質料的なるものをも含んだ「不合理性」を孕む原事実、そのような事実性に徹した個人が、そこにおいて生死している場所を究明する現象学が要求されたのである。
 
3.5 『一般者の自覺的体系』では、意識論が行為論(意志論)によって基礎づけられ、行為論が「内的生命論」によって基礎づけられるが、この内的生命が宗教的生命として位置づけられる。西田の第一義的関心は、概念によって探求される形而上学的「存在」をめぐる抽象論ではなく、また意識を絶対的存在としてそこにすべてを還元するフッサールの現象学の知性的立場に留まらずに、「存在」と「行為」以前の「内的生命」に宗教的生命を見る立場であった。
 
3.6 ここでいう内的生命とは、決して主観的なる思想感情に活きるということではない。西田は、真に内に生きるということは、「外を内となす」ことであると注意した後で、西次の如く内的生命を彼の哲学の中で位置づけている。
 
内的生命といふのは上に言った如く客観を離れて空虚なる主観に生きることではない。真の内的生命とは自己自身の底に深い非合理的なるものを見ることである。客観の底に横たわる深い非合理的なるものを自己自身の内容となすことである。….
非合理なるものの底に神の霊光を見るのである。斯く行為の底に行為を超えたノエシス的限定というものが、私の所謂内的生命と考へるものである。(全集Ⅴ-414)
 
3.7 存在論よりも行為論を、そして行為論よりも生命論のほうをより根源的とみるのが西田の立場であるが、ここで「外を内となす」内的生命は、「自己に外的なるものを自己自身の運命として自己自身の深い内容と考へる」ものでもあった。このような立場からは「感覚的なるものも内的生命の質料として宗教的ならざるものはない」のである。
 
3.8 西田の宗教哲学はこのように「感覚的なるものにも内的生命の質料として宗教的なものを見いだす」ところにあり、単に「形相的なるもの」すなわち「理性的なるもの」だけに宗教的なるものを見るのではない。そしてこのような内的生命の底は非合理性を孕んで無限に暗いが、しかしそれは単なる暗黒ではなく「ディオニシュースの云ふ輝く暗黒」である。
 
3.6 このように外にある非合理なる事実を内へと転換する内的生命は、非合理的なるものの底に「神の霊光」を見るのであるが、ここでは、単なる理性の限界では語り得ない根源悪の問題、また感覚的世界に於て引き受けねばならぬ非合理な運命、その運命を引き受ける内的生命、その内的生命自体の暗い根柢、その根柢から「輝く闇」にとして顕現する「神現」というモチーフに注目したい。「宿業」ないし「宿命」というほかない非合理を自ら肯定的に引き受けて、それを「運命」として肯定することによって逆説的に宿命から自由となる根據は、西田の哲学的場所論では、「絶対無のノエシス的限定としての絶対愛」および「絶対無のノエマ的限定としての永遠の今」として位置づけられる。(『無の自覺的限定』序、全集Ⅵ-10)
 
3.7 「我々の行為を限定するものは単なる理性ではなく、イデアの底にはイデア的に自己自身を限定すると共に、イデア的限定をも否定するものがある」というのが西田哲学の生命論であり、それはやがて、西田がギリシャ哲学の主知主義の限界を超えて旧約聖書の世界と内的対話をする『場所的論理と宗教的世界観』の議論を先取りするものでもあった。非合理的なる歴史的事実を含みつつも、その「外なる非合理を内へ」と転換し、内的生命の底に神の霊光すなわち神現を見た新旧約聖書の記録された宗教的経験に哲学の側から肉薄すること、それが最晩年の西田哲学の主題の一つになるのである。
 
第4章 場所的辯證法の徹底
 
4.1エリューゲナは、西方教会に東方教会の霊性を導入した人であり、その意味でギリシャ正教とローマン・カトリックの霊性的伝統の大胆なる統合者であるが、ルター以後のプロテスタント、およびキルケゴールにはじまりバルトによって先鋭な形で表現された自然神学(哲学的な神学)否定のキリスト教とは、人間本性の堕落(原罪)以後の神認識の可能性については次の点で全く異なる観点をとっている。
 聖アウグスチヌスはこうのべている。「私たちがそれによって父自身を理解する精神と、私たちがそれを通して父を理解する真理の間には如何なる被造物も介在していない。」  最も聖なる教父の言葉において私たちは、人間本性は原罪の後もその栄位を全くうしなったわけではなく、依然としてそれを保持していると理解すべきことを教えられる。…だから私たちの精神と神との間にはいかなる被造物も介在していないとすれば、私たちは無力さにあっても、神をまったく捨て去ったのではないし、神に見捨てられてしまったのでもないのである。魂や身體の宿痾の病のために、それによって私たちが神を理解するところの、またそこにおいて創造者の像が優れた形で造られたところの、精神の眼を失ってはいないのである。(P-Ⅱ-5-531)
エウリゲナはディオニシュース文書の翻訳以前に、当時問題とされていた神学的な二重予定説に反対する著作を書いている。その議論は高度に思弁的であり、かつ真の哲学は真の宗教であるという立場で書かれていたために、同時代の神学者には全く理解されなかった。しかし、基本的には、人間の自由意志の「存在」は神の贈与として、決して無に帰するものではなく、ただその能力のみが毀損されているという立場である。そして悪というものは第一義的には存在しないのであるから、予知は虚無には関わらず(虚無を知ることはナンセンスである)、永劫処罰も予定されてはいない。神の選びと予定は救済の決定であって、罪を犯すものはそのこと自体が罰なのであって、神はさらに永劫の罰などは予定しない。悪人・罪人の未来における救済は未決定のまま据え置かれるのである。万物が神に由来し神へ還るというコスモロジーをとる限り、救済されぬ例外的存在があると云うことは論理的に首尾一貫せず、そのかぎりで、悪行と永劫処罰への予定というものはありえないという立場(普遍的・宇宙論的救済)を説くことが、首尾一貫した帰結と云うべきであろう。
 
4.2人間本性は、如何に堕落したとしても、その中に神を自覚する精神の目は毀損されずに存在するというエリューゲナの如き考えに対して、周知のようにバルトはブルンナーとの論争において、堕落後の人間が恩寵なしで神を認識する能力があることを否定し、自然神学を汎神論として全面的に切り捨てた。 バルトの自然神学批判は、徹底した超越的内在の立場であり、人間から神に至る道を否定し、神から人間に来る道のみを一方的に認めるものであった。バルトの「超越的内在」の神学の議論は、その徹底性に於て、自由主義神学のみならず、彼に追随した辯證法的神学者をぬきんでていたラジカルなものであるということは西田は充分に認めていたに違いない。しかし、西田が言う「内在的超越」の立場は、バルトの如きキリスト論的集中にもとづく「超越的内在」の立場をも含んで成立するものとして構想されていたのではないか。
 
4.3 私は、そのような意味での萬有在神論の徹底こそが、西田の宗教哲学の特徴であると考える。それは、単に万物が神に於いてあるという考え方、世界を神の場所と考えるのではなく神を世界の場所と考える思想だけを指すのではない。そういう意味での萬有在神論といえども、が神と世界の区別を明確にした上で両者を関係づける点に於て優れた思想であり、無神論か、さもなくば無世界論になる傾向性をもつ汎神論を更に一歩進めた神学的立場であることは確かであるし、伝統的なユダヤ・キリスト教の有神論とも調和する思想として西田以外の多くの神学者・哲学者にも見られる思想であろう。しかし、後期西田哲学の萬有在神論は、「矛盾的自己同一の論理」をもつことで、バルトの如き徹底した超越的内在の立場を超える方向性を示している点に於て独自のものであり、エリューゲナの如き萬有在神論をさらに徹底させた思想でもある。
 
4.4 たとえば、バルトは『教会教義学』の救済論のもっとも重要な箇所、十字架上での贖罪死を選んだ「神の子の従順(Der Gehorsam des Sohnes Gottes)」を語るときに、イエス・キリストを「我々に代わって審かれたもうた者としての審判者(Der Richter als der an unserer Stelle Gerichtete)」と言表する。審判者が同時に審かれた者であるということは対象論理によって理解できる言説とは言えない。これは自己が自己自身を審くなどという道徳レベルの話ではない。十字架の死に至るまで従順であった神の子を審き、贖罪の子羊として犠牲に供させた父なる神が、子なる神と同一の神であるというのが正統信仰の基本である。このような同一性こそ、まさに矛盾的自己同一そのものではないか。
 
4-5 「我々に代わって」とは文字通りに訳せば「我々の場所に於いて」である。それは、十字架に附けられたイエスが、われわれ各人が今此処で生きている「場所」に於いて、隠れたる神として「神現」することではないか。
 
4-6 対象論理的にいえば、2000年という時の隔たりをもち、空間的にも遠く隔てられたゴルゴダの丘で、十字架の刑に処せられたイエスは、多くの異邦の民にとっては目立たぬローカルな年代記的な事件に過ぎぬであろう。しかし、イエスをキリストと信じて信仰告白をする者にとっては、その事件は、一人一人が今此処で死の深き淵より活かされて生きる実存の「場所」において生起する出来事となるのである。 そのとき、この出来事は、各人の場所に於ける「原始歴史」として、まさに新しき時の始まりとなる。そのとき、贖罪死の出来事は、まさに自己自身の事柄となるのである。
 
4.7 我々はキリスト者の信仰告白の中で、時に「キリストは私一人のために十字架で死んでくださった」という如き言葉を耳にする。これも対象論理的に考えれば理解不能な発言であり、人によっては傲慢な発言と思うであろうが、実際は全くその正反対である。
 なぜかといえば、語り手は、「私の場所」に於いてキリストの贖罪死を受け入れたのであり、自己自身を地獄の業火に焼かれること必定の反逆者に他ならなかったことを心の底から自覚したのである。そうであればこそ、「義人」のためではなく、極悪非道の罪を現に犯した私、キリストを誹謗しキリストに反逆した私のためにこそ、キリストは死んでくださったという意味がそこになければならないであろう。
 
4.8 「キリストと共に十字架上で死に、キリストと共に復活する」という贖罪死の古き教義における「共に」を「キリストに於いて」という場所論的な言語で言い換えるならば、キリストは「私の場所において(私の代わりに)死に」「私はキリストの場所に於いて復活する」ということが可能であろう。終末の時の完成、創造の御業が平和の内に完成する永遠は、今此処で始まっているのである。
 
4.6 実際にバルト自身、「救済論」のなかで「イエスキリストに於ける人間の存在(Das Sein des Menschen in Jesus Christus)」を語る。キリストが「人間の存在の場所」であることは、新約聖書の多数のテキストが証しすることである。
 
4.7 1456年の公現の主日にニコラウス・クザーヌスは「イスラエルの王として生まれた方は今何処にいますか?」 (Ubi est qui natus est rex Iudaeorum?)というラテン語の説教をしている。( Josef Koch, Cusanus-Texte: Ⅰ. Predigten 2/5, In die Epiphaniae, Brixinae,1456, pp.84-117)
クザーヌスは、東方教会の伝統、とくに偽ディオニシウス文書に代表される否定神学、キリスト教的プラトニズムと、マイスターエックハルトの独逸神秘主義の伝統を継承した思想家である。彼は真にカトリック的なもの、すなわち、「真に普遍的なもの」を探求し、教会の一致と、イスラム教との平和共存を説いた先駆的な思想家でもあった。彼の「智ある無知」や「隠れた神」などの主著は既に邦訳されているが、ここで言及したラテン語説教の様なものは残念ながら翻訳されていない。しかし、私の考えでは、この説教は、彼の根本思想を、我々自身の自己の実存の問題に架け橋する上で重要なものである。

4.8「イスラエルの王」とはキリスト(救世主にして王、あるいは神の子)のことである。したがって、「イスラエルの王として生まれた方は今何処にいますか?」 (Ubi est qui natus est rex Iudaeorum?)という問は、「キリストはいま何処にいますか?」 という問と同じである。
ルカ傳が伝えるキリスト生誕の物語ならば、答えは「ベツレヘムにおられます。空の星があなたを導いて下さるでしょう」という答えですむであろう。

4.9  しかし、1456年のクザーヌスにとって、「キリストは今どこにいますか?」という問いは、過去の歴史的な事実に関する問だけではすまぬものを持っている。そして、2005年のこの物語を聞く私にとっても、「キリストは今何処にいますか?」という問は、単に、「ベツレヘムに」とかあるいは「ナザレに」とかいう空間的場所を指し示すだけではすまないものがある。  「キリストは今何処にいますか?」 この問に対して、あなたならばどう答えるのか-それは単純な問ではあるが、公現の主日に発せられた基本的な問である。それは、キリストは何処にいるか、と問うと同時に、キリスト者であるあなたは今何処にいるのか、と問いかけている様にも思われる。

4.10 神学者ならば、このような問に答える仕方を何通りも知っているであろう。たとえば、「死せるものと活けるものとを裁くために今、キリストは父の右に座しておられる」などと。神学者でない人は、たとえば公共要理などの専門家によって書かれた権威ある書物を繙くかも知れない。しかし、クザーヌスは、自己を学者(ソフィスト)ではないと断言したソクラテスの弟子でもある。「無学者」として、一人の信仰者として、彼は聴衆に語る。その場合、神学が与える様な他人ごとの知識ではなく、彼自身が自らの実存の深みに於いて端的に了解し、そこにおいて生き、行為すべき答えこそが、説教者には求められるのである。

4.11 興味深いことに、用心深い神学者ならばキリストというべきところで、クザーヌスは、もっと端的に、あの大工の一人息子、イエスの名をもって語る。即ち、  「イエスはいま何処にいますか?」Ubi est Iesus?  (Where is Jesus?) という三語によっても語る。「キリスト」は元来、普通名詞である。これに対して、イエスは固有名詞であり、肉体を持って生きた歴史上の人物一個人(person)―の名前である

4.12 イエスという一個人の名前は、キリストという名前と不可分であり、キリスト者とはイエスがキリストである、と証言するもののことである。すると、この問に対して、如何なる答えが可能であるのか。ある意味で、出来合の答えというものはない。各人が、自らのキリスト者としての実存をかけて、それぞれ生涯をかけて答えるべき根源的な問であるとも言えよう。

4.13 クザーヌス自身はどう答えたのか。彼は、ある端的な答えを与えている。それは、  Ubi est Christus. (Where is Christ). と。
すなわち、 「何処(ubi)」すなわち「場所(locus)」こそがキリストである、と。すなわち、
私はキリストにおいてあり、キリストこそが私の「場所」に他ならない、
と言うのがクザーヌスの答えであった。

4.14 イスラエルの王としてのキリスト、ユダヤ民族の救世主(メシア)としてのキリスト、あるいは全能永遠の神の一人子としてのキリスト、というような神学者の言葉に寄ってではなく、もっと端的に、「キリストは私の場所である」というのである。その意味するところをさらによく考えてみよう。

4.15 まず、「キリストに於いて」という言い方はパウロ書簡で多用される表現であることに注意したい。「私はキリストに於いて真実を語る」というように。そこでは、キリストは自己とは別の実体ではなく、そこに於いて私が生き、語り、証する場所として捉えられている。キリストとは、私の主体性がそこにおいて成り立つ「場所」なのである。

4.16  この「キリストという場所」は、メシア(王あるいは救世主)という伝統的な意味とどのような関係にあるのか。ヨハネ福音書は一つの手がかりを与える。それはイエス自身が、「あなたはキリストなのか?」と問われたときに、「我在りego eimi = I AM」と答えている箇所に注意したい。それは、決して、「私こそユダヤの王である」等という意味に解されてはならぬであろう。もっと端的な「我在り」こそがイエス自身の証言であった。

4.17 このように、キリストをキリスト者の場所として捉える見方は、キリスト教だけに固有のものであろうか。私にはそうは思われない。旧約聖書に於いては、信仰が向けられるものは、決して固有名をもたない。それは対象化を許さぬものであるから、世界の中にあるひとつの対象ではないのである。だから、神を有限なる実体としてではなく、無限なる場所として捉える見方は、旧約聖書の伝統の中にも厳然として存在する。ヘブライ語のマーコムという言葉が、「場所」に該当するが、ミドラシュの伝承に寄れば、神は世界の中には存在しないが、世界は神の中に(神に於いて)存在すると明言される。

4.18  世界の中にある有限なる対象は、如何なるものも神ではない。更に言うならば、存在するものの総体である世界そのものが有限なる存在である。そういう世界を構成する一要素、あるいは世界の全体を神と等値する思想(汎神論)は聖書的ではない。しかし、このような神の超越性だけを述べるのはまだ一面的である。この考えでは、神は絶対的に超越的であって、人間と神、世界と神の関係は疎遠なままに留まるであろう。これに対して、「神は世界の場所である」という命題に於いては、神はそこにおいてある世界、世界の構成要素たる個々の人間と不可分でありながら、有限なる世界には還元されぬ無限者なのである。

4.19 このような旧約の伝統における超越者、いうならば名付けることの出来ない無限なる「吾が主」が、一個の人格と如何なる関係にあるのかという根本問題を、一個人の「私」の場所としてのキリストを機軸にして考えることーこれが「私はキリストに於いて語る」というキリスト者のメッセージの核心にあるものではないだろうか。この世界の場所、個人の人格がそこに於いて成りたつ場所という思想は、キリスト教的人格がそこに於いて成立する場所であるが、同時に、有限なる世界を無限に超越することを可能ならしめる場所でもある。そして、その場所は、キリストという人格、個々のキリスト者という人格と不可分であり、また「キリストによってキリストと共にキリストの内にある」教会の典礼に与る諸々の人格の共同体の成立する場所でもあると言えよう。

 

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西田幾多郎とゲーテ: 「汎神論者よりも大なるもの」の自覚

2020-04-16 | 哲学 Philosophy
「ゲーテが<エペソ人のディアナは大なるかな>といえる詩の中にいった様に、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディアナの銀龕(ぎんがん)を作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、ある意味においてかえって真の神に接して居たともいえる。」(西田幾多郎『善の研究』、岩波文庫新版253頁)
 西田は四高のドイツ語と倫理学の教師をしていたころ、ゲーテの詩劇「ファウスト」を輪読し、「自然のなかに神を、神の中に自然を見る」ゲーテの詩の世界に傾倒していた。
「吾人は基教の所謂有神論者にあらずして無神論者なり、無神論者にあらずして汎神論者なり、汎神論者にあらずして汎神論者よりも大なるもの也」とは、若き日の鈴木大拙が書いた『新宗教論』の根本思想のひとつであるが、
西田の『善の研究』の宗教論の一つの課題は、この「汎神論者よりも大なるもの」の立場を究明する事にあったと言って良い。
その場合、ゲーテの詩劇と叙情詩が、藝術の創作(ポイエーシス)に於て西田の課題を表現するものとして、関心を惹いたのであろう。1905年2月1日の西田の日記には、「鈴木大拙からオープン・コート社の雑誌が送られてきた」という記述がある。この雑誌に編者のポール・ケーラスによる論説「ゲーテの多神教とキリスト教」が掲載されており、ケーラス自身によるゲーテの当該の詩の英訳(Great is Diana of the Ephesians) とドイツ語のゲーテ著作集にあるH.Knackfuss のイラストが掲載されている(その挿絵をここに転載ー日本の仏師にも通ずる印象深い畫である)。
 ゲーテの詩に触発された西田は「一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれもいずれも直に全体の精神を現さざるものはなく、また画家や音楽家おいてに一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余曲折の楽音ともなるのである。斯くの如き状態に於ては神は即ち世界、世界は即ち神である」と書く。
 不注意な読者にはスピノザ的な汎神論と響くであろうが、私の理解するところでは、そこには既に「汎神論者よりも大いなるもの」の立場がいかなるものであるかが予感されている。「芸術家の創造作用は、それが行であると共に知である。筆の先、鑿の先に眼があると云うべきであろう。我々はこの立場に於て、知識によって達することの出来ない世界を歩みつつあるのである」という藝術論(『藝術と道徳』(全集3-468))が、純粋経験を根本実在とし、そこから真善美の統一を求めた西田の創造作用論から帰結するのである。
 この時期の創造作用論は、「無の場所の自覚」を創造作用とした中期西田の「絶対無の自覺的限定の神学」、そして最晩年の「場所的論理と宗教的世界観」へと展開していく。それは、「汎神論者よりも大いなるもの」の宗教的自覚の展開であった。
 西田は「神は即ち世界」「世界は即ち神」と書いた。この「即」は、決して否定を含まぬ即自的な一体性を表現しているのではない。「即」は「即非」によって成りたつ。「神は即ち世界であり、世界は即ち神である」の倒置反復語法(キアスムス)に深い意味がある。
 絶対否定の峻厳さを忘れぬ「即」の意味こそが、「西田幾多郎と鈴木大拙と共に考えるもの」の課題であり、それは大乗仏教の枠組みを超えた普遍性、キリスト教にも通ずる普遍性を持たねばなるまい。鈴木大拙の「即非」、西田の「矛盾的自己同一」の場所的論理の試みは、「汎神論」と「超越神論」「一神教」と「多神教」の抽象的な対立、「我々の頭の中で捏造された宗教の教義上の対立」を越えた活きた宗教的世界のロゴスとなりうるのである。
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