甘い。
不登校は甘えている。
フリーターは甘えだ。
そういう台詞をわたしはよく聞かされてきた。
だけど、それを言う相手側の身勝手さはどうなのだ? と思うといささか説得力が落ちてしまう。
例えば、十代のころものすごくよく考えた登校拒否について。
学校に行かないのは甘え。
本当にそうなのだろうか。
独学というのは決して甘くない。
何をどうやって勉学すればいいのか、指針も基準もない。
特にうちの場合、親が自由という概念をまったく誤解していて、自由といえば本人が周囲の手助けをまったく使ってはならないことだと半ば罰するように言い張っていた。
おかげで、自分は、自分ののぞむフリースクールの機能の95%も使用禁止になった。
親の許可や金がなければ、未成年だった当時のわたしにはフリースクールの寮に滞在できない。それどころか、フリースクールまでのパスポートひとつ作れない。
まるで座敷牢のようなちっぽけな家や地域に軟禁されたも同然のわたしが、どれほど苦い思いを味わっただろう。
教えてくれる自分にあった人もいないし、いっしょに勉学する仲間もいなくて、どれほど苦労したことだろう。
読んだ本を議論しあえる友もいなくて、どれほどさびしくわびしかったことか。
それは、窮屈ではあっても学校で、強制的ではあっても教えてくれる人もいたり、いまいちの教え方ではあっても授業をペースメーカーとして利用できたり、競争または協力する相手としていっしょに勉学したり遊んだりできる同年代の仲間を得た人たちには理解できない、まったく逆方向のしんどさだ。
学校に行かないというのは、周囲から気違い扱いされたり、死に至るほどの自己否定もともなったりする大変なことだ。
ある意味、人一倍状況を真剣に見据え、大変な環境だと分かっているがためにかえって学校に行かない/行けない状態もある。
なのにそれのどこが甘いのだろう。
もしも甘いものがあるとしても、それは不登校が立場の弱さゆえに、考えの複雑さゆえに、相手の単純なレッテルばりになんと反論しようとゆううつの中で考え、やがて差別的な登校受容の相手とは対話不可能だ、と互いに別の世界に住むもの同士であることを悟り、それ以上の対話を打ち切る。その理性と優しさ/おらかさに甘えているようにも解釈される。
フリーターだって、正社員と同じかそれ以上の仕事をやっている。
簡単に首もきられ、とても不安定だ。社会的信用もない。
フリーターと名乗っただけで遊び人とか、ふざけているとか、甘えているとみなされる。
何を言ってもとりあってもらえない。
結局、自分たちの雇用の足下も崩れていることに気がつかないふりをしたい正規雇用の人たちが、どんなささいな理由であっても、いや時には理由をこじつけたりでっちあげたりしてでも、不安定雇用層をバッシングしている。
それこそが甘えなのではないだろうか。
甘えもすべて悪いわけではない。
フリーターの分際で雇用保険や労災保険に入りたいと思うのが甘えなのだとしたら、その程度の人権としての甘えなら歓迎されてもよいのではないだろうか。
学校を休んで自律的に休んだり存在したりする権利は、すべての子どもたちの人権ではないだろうか。
そういう甘えなら、社会の中で保証するべく、法律その他によってシステム化していったほうがいい。
甘えは、あいまいで多様な意味を包含する。
それは、+のこともあれば-のこともある。
マイノリティは、貧困者は甘えていると言う前にひと呼吸おいて、それがどういう立場からどのような意味/意図/文脈をもって使われるのか、考え直してみてはどうだろうか?
不登校は甘えている。
フリーターは甘えだ。
そういう台詞をわたしはよく聞かされてきた。
だけど、それを言う相手側の身勝手さはどうなのだ? と思うといささか説得力が落ちてしまう。
例えば、十代のころものすごくよく考えた登校拒否について。
学校に行かないのは甘え。
本当にそうなのだろうか。
独学というのは決して甘くない。
何をどうやって勉学すればいいのか、指針も基準もない。
特にうちの場合、親が自由という概念をまったく誤解していて、自由といえば本人が周囲の手助けをまったく使ってはならないことだと半ば罰するように言い張っていた。
おかげで、自分は、自分ののぞむフリースクールの機能の95%も使用禁止になった。
親の許可や金がなければ、未成年だった当時のわたしにはフリースクールの寮に滞在できない。それどころか、フリースクールまでのパスポートひとつ作れない。
まるで座敷牢のようなちっぽけな家や地域に軟禁されたも同然のわたしが、どれほど苦い思いを味わっただろう。
教えてくれる自分にあった人もいないし、いっしょに勉学する仲間もいなくて、どれほど苦労したことだろう。
読んだ本を議論しあえる友もいなくて、どれほどさびしくわびしかったことか。
それは、窮屈ではあっても学校で、強制的ではあっても教えてくれる人もいたり、いまいちの教え方ではあっても授業をペースメーカーとして利用できたり、競争または協力する相手としていっしょに勉学したり遊んだりできる同年代の仲間を得た人たちには理解できない、まったく逆方向のしんどさだ。
学校に行かないというのは、周囲から気違い扱いされたり、死に至るほどの自己否定もともなったりする大変なことだ。
ある意味、人一倍状況を真剣に見据え、大変な環境だと分かっているがためにかえって学校に行かない/行けない状態もある。
なのにそれのどこが甘いのだろう。
もしも甘いものがあるとしても、それは不登校が立場の弱さゆえに、考えの複雑さゆえに、相手の単純なレッテルばりになんと反論しようとゆううつの中で考え、やがて差別的な登校受容の相手とは対話不可能だ、と互いに別の世界に住むもの同士であることを悟り、それ以上の対話を打ち切る。その理性と優しさ/おらかさに甘えているようにも解釈される。
フリーターだって、正社員と同じかそれ以上の仕事をやっている。
簡単に首もきられ、とても不安定だ。社会的信用もない。
フリーターと名乗っただけで遊び人とか、ふざけているとか、甘えているとみなされる。
何を言ってもとりあってもらえない。
結局、自分たちの雇用の足下も崩れていることに気がつかないふりをしたい正規雇用の人たちが、どんなささいな理由であっても、いや時には理由をこじつけたりでっちあげたりしてでも、不安定雇用層をバッシングしている。
それこそが甘えなのではないだろうか。
甘えもすべて悪いわけではない。
フリーターの分際で雇用保険や労災保険に入りたいと思うのが甘えなのだとしたら、その程度の人権としての甘えなら歓迎されてもよいのではないだろうか。
学校を休んで自律的に休んだり存在したりする権利は、すべての子どもたちの人権ではないだろうか。
そういう甘えなら、社会の中で保証するべく、法律その他によってシステム化していったほうがいい。
甘えは、あいまいで多様な意味を包含する。
それは、+のこともあれば-のこともある。
マイノリティは、貧困者は甘えていると言う前にひと呼吸おいて、それがどういう立場からどのような意味/意図/文脈をもって使われるのか、考え直してみてはどうだろうか?