学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

甘いって?

2007年09月20日 14時11分13秒 | 反ファシズム
甘い。
不登校は甘えている。
フリーターは甘えだ。

そういう台詞をわたしはよく聞かされてきた。
だけど、それを言う相手側の身勝手さはどうなのだ? と思うといささか説得力が落ちてしまう。

例えば、十代のころものすごくよく考えた登校拒否について。
学校に行かないのは甘え。
本当にそうなのだろうか。
独学というのは決して甘くない。
何をどうやって勉学すればいいのか、指針も基準もない。
特にうちの場合、親が自由という概念をまったく誤解していて、自由といえば本人が周囲の手助けをまったく使ってはならないことだと半ば罰するように言い張っていた。
おかげで、自分は、自分ののぞむフリースクールの機能の95%も使用禁止になった。
親の許可や金がなければ、未成年だった当時のわたしにはフリースクールの寮に滞在できない。それどころか、フリースクールまでのパスポートひとつ作れない。
まるで座敷牢のようなちっぽけな家や地域に軟禁されたも同然のわたしが、どれほど苦い思いを味わっただろう。
教えてくれる自分にあった人もいないし、いっしょに勉学する仲間もいなくて、どれほど苦労したことだろう。
読んだ本を議論しあえる友もいなくて、どれほどさびしくわびしかったことか。

それは、窮屈ではあっても学校で、強制的ではあっても教えてくれる人もいたり、いまいちの教え方ではあっても授業をペースメーカーとして利用できたり、競争または協力する相手としていっしょに勉学したり遊んだりできる同年代の仲間を得た人たちには理解できない、まったく逆方向のしんどさだ。

学校に行かないというのは、周囲から気違い扱いされたり、死に至るほどの自己否定もともなったりする大変なことだ。
ある意味、人一倍状況を真剣に見据え、大変な環境だと分かっているがためにかえって学校に行かない/行けない状態もある。
なのにそれのどこが甘いのだろう。

もしも甘いものがあるとしても、それは不登校が立場の弱さゆえに、考えの複雑さゆえに、相手の単純なレッテルばりになんと反論しようとゆううつの中で考え、やがて差別的な登校受容の相手とは対話不可能だ、と互いに別の世界に住むもの同士であることを悟り、それ以上の対話を打ち切る。その理性と優しさ/おらかさに甘えているようにも解釈される。

フリーターだって、正社員と同じかそれ以上の仕事をやっている。
簡単に首もきられ、とても不安定だ。社会的信用もない。
フリーターと名乗っただけで遊び人とか、ふざけているとか、甘えているとみなされる。
何を言ってもとりあってもらえない。
結局、自分たちの雇用の足下も崩れていることに気がつかないふりをしたい正規雇用の人たちが、どんなささいな理由であっても、いや時には理由をこじつけたりでっちあげたりしてでも、不安定雇用層をバッシングしている。
それこそが甘えなのではないだろうか。

甘えもすべて悪いわけではない。
フリーターの分際で雇用保険や労災保険に入りたいと思うのが甘えなのだとしたら、その程度の人権としての甘えなら歓迎されてもよいのではないだろうか。
学校を休んで自律的に休んだり存在したりする権利は、すべての子どもたちの人権ではないだろうか。
そういう甘えなら、社会の中で保証するべく、法律その他によってシステム化していったほうがいい。

甘えは、あいまいで多様な意味を包含する。
それは、+のこともあれば-のこともある。
マイノリティは、貧困者は甘えていると言う前にひと呼吸おいて、それがどういう立場からどのような意味/意図/文脈をもって使われるのか、考え直してみてはどうだろうか?

いつか見た議論がまた

2006年12月29日 19時44分25秒 | 教育・学習法
この記事はタカマサのきまぐれ時評にコメントしようとしたもののトラックバック化です。

おじゃまします。

この記事に引用されている野依さんのお話、いつかどこかで聞いたパターンだな、と思いながら読ませてもらいました。
東京の山の手中流向き、あるいは関西なら神戸の高級住宅街向きのスピーチととればいいのかな(苦笑)。
反管理教育に近い層や、旧制中学(高校)風の中等教育関係者にもウケそうですね。

だけどこれは上のほうの数%にとっての話でしょう。
塾を利用できない層もいるし、またひとくちに塾といっても浜塾みたいな超進学塾から学校の勉強についていけばいいという補習塾、それに学童保育やフリースクールみたいな雰囲気の居場所確保塾までいろいろなんですけれどねえ。

自分的には荒れている学校なら違法行為・暴力が日常茶飯事というのは分かる気はします。
運動会のマスゲーム訓練といえども、2ヶ月ならともかく3ヶ月も前からやっているかどうか。詳しく調べたことがないんですが、3ヶ月っていうと3学期制なら一学期のほとんどがマスゲームだということになる。
一日の大半をつぶすというのは、自分も経験はあるから分かりますね。すべての学校がどうなのかはちょっと分からないけれど。
これはひょっとして記憶違いか誇張表現ではないかと思ってしまう。(言いたいことはおおまかには分かるけれど少し割り引いたほうがよいかな、と。)
あと、朝礼は窮屈で息苦しくて、倒れる子もしょっちゅういたり、倒れない人もたおれかけで苦しいもので、やめたほうがいいと思います。討論とかするところじゃないし、やらせ質問とかいかにもやりそうな環境ではちょっと。

結局、教科書・授業・ノート・テストを偏愛するたちが、学校の社交機能やしつけ機能を攻撃すると。
しかしどうなのかなあ。別に海外だけが絶対じゃないけれど、ある程度礼儀とか教えるのはそこに若い世代がいる以上当然生じる行動という気もします。
昔、中世・ルネッサンス期の音楽の本で読んだのですが、中世のヨーロッパの大学でも、勉学とともに貴族社会の礼儀を仕込んだそうですし。そうやって教会に拾われた捨て子が立身出世の機会をつかむこともあった。
そういう機能を全部廃止するのが妥当か、分かりかねます。

こういう「高学力」層が、半ば予備校のような進学校以外を軽蔑して、一般公立校(文化)を侮蔑・排除するのもまた何度も見た風景です。

こういう話って、勉強さえやっていれば社交とか礼儀その他は放任だった受験貴族が、学閥だけでは閨閥にかなわないことを庶民層のせいにしながら、エリート意識を保存する運動なのかと思ってしまいます。

あとは補足なんですけど。

不登校するのでもなければ、だいたい学校で掃除もクラブもやったうえで塾にも通う子が大半じゃないのか?

ここでこの種の論者のひとつのサンプルを提出しましょう。
名古屋でとあるフリースペースを主催していた方が、立教の女子中学→高校→大学→院とすすんでおられたのですよ。
彼女は、私立のそうした選抜された自由な学校に行けば管理教育など関係ない、そういうところを選べばいいのよ、が口癖でした。
かなりエリート主義的で排他的な方でした。それでも主観的には誰よりもリベラルのつもりなんですよ。
つっこんで話を聞くと、その学校でも陰湿ないじめとかピアプレッシャーはあったようだし、フリースクールやオルタナテイブ学校と比せばかなり授業等の選択肢が少なく、運営も透明・民主的とはいえません。
また、「あわない人は来なくていい」というのでは、やはり弱者排除、あるいは批判派つぶし、スキャンダル隠しに使われる可能性もある。で、そこからいわばリストラされた層はどこへ行く、ということについては議論停止。
登校拒否も、ある種の文化エリートとしてとらえているようで、わたしとは終始話がかみあいませんでした。
全員が選抜されることはないこと、そういったタイプの学校は東京等大都市に集中すること、金持ちや低「学力」者には近寄りがたい雰囲気であることなどは、ついぞ理解していません。
また、選抜自体が妥当かについてもまったく意識がありませんでした。
いわゆる「失敗」している他の不登校の親や子にも、傲慢に見下す姿勢を崩さず、
福祉関係の人なのですが、日雇い労働者や「障害」者を理解しようとしないでいわゆる中流文化をおしつけて当然とする発想にはずっと違和感がありました。
いわゆる都市下層とか田舎の人間が警戒し嫌う「建前・ファッションとしてリベラルなことを言いつつ、実は傲慢で冷たい利己主義で二枚舌のインテリ」という像の典型です。

塾禁止VS塾礼賛が、右と左のように表裏一体をなしているという指摘も、当たっているんじゃないでしょうか。

学校も塾も相互補完的なもの。そこに無理に対立を作り出す。だから端から見るとどこかわざとっぽく見えてしまう。
肝心の、塾にアクセスできない層との不公平をどうするとか、競争激化で不本意に塾に行かざるを得ない人の選択権はどうするといった議論には届かないのですね。
中高一貫の男女別学校に通う子のうちかなりの部分は、同時に塾・家庭教師も利用しているという現実も有名であることを考慮しても、しらじらしい。

問題の焦点は、学校か塾かではない。
学校で選抜されなければ国内的にも国際的にも悲惨な労働と生活しかない状況を緩和することを忘れたり隠したりしてはいけません。









生中継

2006年12月22日 19時27分27秒 | メディア
今、videonews.comで興味深い試みをやっていますよ。

視聴者からかかってくる電話による質問に、ゲストが答えてゆく方式の番組です。

うちのPCの不具合により、URLを貼れません。各自でググってみてください。

ゲストも豪華です。一部視聴でも損はないはず。

なお、今回は特別に無料で視聴できるようになっております。

パンフレット

2006年12月12日 18時05分34秒 | 反ファシズム
長岡の団体が配布していたパンフレット。ハガキ大のサイズで谷折り4つ折り。

主催団体名

2006年12月12日 18時01分21秒 | 反ファシズム
京都と大阪の境界地帯のネットワーク

先導車

2006年12月12日 17時58分43秒 | 反ファシズム
JR長岡京駅前にて。

美しい日本の正論

2006年12月12日 17時53分50秒 | 反ファシズム
探せばあります。長岡京市にはありました。

トラックバック用URL:http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061216

寒い中御隠居さんが

2006年12月12日 17時51分10秒 | 反ファシズム
主催団体の横断幕

無理は無理

2006年12月12日 17時48分13秒 | 反ファシズム
12/8長岡京のデモにて。心の中の考えに証拠はない。

トラックバック用URL:http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061216


長岡京のデモのプラカード。

2006年12月12日 17時44分11秒 | 反ファシズム
共産党はテキストデータの党。正しい日本語を伝える大型カルタみたいなデモ用カードはもはや日本の伝統となっている?

街宣車の側面より

2006年12月12日 17時37分17秒 | 反ファシズム
こうした風景が大新聞では見つからないのはなぜ?

京都駅前にて

2006年12月12日 17時30分54秒 | 反ファシズム
徹収の直前に。

教育基本法「改正」反対運動@京都駅前&長岡京市

2006年12月08日 21時47分46秒 | 反ファシズム
今日、教育基本法改悪反対の街頭行動に2件でくわした。

ひとつは昼間の京都駅前。教員を退職された方の会が、全教の宣伝カーを使い、他の共産党系組織とも呼応して街宣していた。
何人かの人と言葉をかわす。
ある人は、わたしが「マスコミの情報操作もあると思う」「アメリカはなんとか中国と日本をけしかけて北朝鮮をやっつけようとしているようですね」という意見に同意していた。
別のある方は、国会議事堂前から帰ってきたばかりだという。
彼は、「国会議事堂前には2万人以上もの人々が請願デモをしている。それなのにテレビのニュースはちゃんと伝えていない。おかしい。と訴える。」まったくだ。

もうひとつは夕方の阪急・長岡天神駅前。「教育基本法改悪反対!」を叫ぶ人の列をみかけたわたしは急遽、バッグの中の携帯電話を取りだして、その後についていった。列のうしろのほうにいる人たちに話をうかがった。
こちらもやはり「退職教職員の会」の人たちが呼びかけたデモだった。実は京都駅前でも、「わたしたちのほかに長岡のほうでも退職教職員組合がいろいろ行動をあやっていますよ」と教えていただいたのだった。

いくらか写真をとらせていただき、話もうかがう。
「わたしたち教師は現場で子どものことをよく知っておりますから」という子どもを教師の私的領有物視する発言にはかなーりゲンナリした。
だけど、それでも今は右とか左とか言っている場合じゃない。
気持ち悪いけれど反論はひかえておいた。

デモの執着地点はJR長岡京前。先頭には街宣車があり、A5サイズの4つ折りパンフレットをどっさりいただいた。

家に帰ってから、AMLで見つけたhttp://list.jca.apc.org/public/aml/2006-December/010507.htmlいい番組がある。

OUR PLANET TV

http://www.ourplanet-tv.org/

池田 利代子さんのインタビューということだが、問題点がよく整理されている。
また、最後の子どもたちへのインタビューはユニークですばらしい。


トラックバック用URL: http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061207

ハラナさんへのトラックバック2コ目

2006年12月02日 00時01分06秒 | 教育・学習法
この記事は「タカマサの気まぐれ時評」の「文化資本・地域格差・受験文化」へのトラックバックです。


ハラナさん、荒っぽい記事にていねいなトラックバックをいただきありがとうございます。
論点落としなんてありません。ラフに書いたものだから(笑)。

そうですね。わたしのほうから付け加えることがあるとすれば。。。。

1.受験にはジェンダー差もある。若い世代になればなるほど差が縮まっているとはいえ、以前としてジェンダー格差は無視できない。

2.地方ー都市の格差とともに、日本では国公立と私立の格差が大きい。

の2点です。

1.ですが、やはり思春期以降、女の子は出来る子は女の子らしくないというアイデンテイティの混沌を経験すると思います。
また、男の子の間にも、勉強がよくでき=男の子らしさの証とする風潮はなくなりにくいのではないでしょうか。
周りの上の世代もタテマエでは否定しながらホンネではそれを認めたり求めたりする傾向は今も保守的な田舎を中心として存在します。

2.国公立ー私立の格差について。
やはり私立のほうが不利な労働市場にいると、いろんなつきあいを通じて思います。
また、国公立のほうが多少なりとも、たとえテストの枠内であっても因果関係、メカニズム、表現力や独創力などを発揮したほうが入れます。
私立文系のテスト文化は悲惨です。赤本を見比べるだけで明らかです。それも、早慶上智とか、関関同立などトップ・準トップの大学の入試であっても基本的に同じ傾向です。
以前予備校にいたころ、小論文の問題だけは東大と京大のものを講師が選び、解いたことがあります。それほど難しいとは思わなかった。僭越ながら、そのころ自分が書いていた文章のほうが難しかったような記憶も……(笑)。
京大・阪大の英語の過去問もやりましたけど、会話・発音がないのがいかにも学校英語。それに十代の若者に数十年前の文学や科学雑誌の記事みたいなのを読ますのはアホらしい。これじゃ近年の本や雑誌はかえって読めなくなる? 阪大の自由英作文はまあまあ面白かったような。京大の読解問題は、あれをマジでやると「現代思想おたく」ができそうですね(笑)。
国公立はまあテスト文化といっても相対的にはマシだし、入った後の周囲の対応も異質のようですね。それも、おかしなことに、偏差値が高い学校の問題のほうがやさしいというか、少なくともなじみのあるものが出題されているみたいです。
入ったあとの教員の期待度の差や、学生一人当たりの教員の数、学生ひとりあたりの図書館の本の数などをカウントしても、断然国公立有利でしょう。
ちょっとキャンプや合宿で雑談をしていても、国公立大出身者のほうがもれなく勉学しており、中途半端を嫌い、粘り強いといった傾向はあると思うんです。
それから、私立のちょっと名の知れたところを出た人のほうがロコツに人を見下し、そのための姑息な情報操作をします。ある関西の私大出の人が、学校の外で学び子どもたちを農場でタダ働きさせている業者を批判したフリースクーラーを口頭で紹介したさい、「で、そのAさんが、不登校の子らをムリヤリ働かせていた、ということですね」と切り替えされたときには、たいへん驚きました。

あともう少しくわしく展開したい点も。古本屋について。

関東の古本屋事情の紹介、ありがとう。関東の友人から、本郷と早稲田の前にはいっぱい古本屋があるという話は聞いてはいたのですが、まだ行ったことがありません。都丸書店、はじめて知りました。なんか、サイトをのぞいただけでスゴく充実してるっぽいお店ですね。

関西も大きな街ですから、大学とは別枠の古書店もあります。
梅田のカッパ横町にある阪急・古書の街はけっこうレアな専門書があります。
そのほか、上本町六丁目、三宮、河原町などには大きい街ゆえの古本屋があります。特に三宮の後藤書店は明治時代からの老舗です。そのほか京都の寺町通りは、昔お寺さんがあったところらしく、仏教書ばかりおいてある本屋・古本屋が点在し、その他小さくてもいい本屋・古本屋が高密度で営業しています。

ただ、田舎のほうは量・質共に難しいです。
さらに言うと、都会のほうが本を通じ他活発な議論・会話がある。
本好きが2人以上寄ると、最近読んだ本の話、互いの関心テーマにそって「それに関する○◎って本が大阪の中之島の図書館に置いてあるよ」などの会話がある。
こうして、人とつきあうために必要だし、読んでいればつきあいが盛り上がる環境がなければ、なかなか風変わりな本を読む気になれないでしょう。
そのための喫茶店文化もやはり都市・特に大都市のほうが充実・洗練されています。
梅田の紀伊国屋なんかそうなんですが、本屋で本好きの男の子が女の子をナンパするために本を読んで喫茶店に誘ったり(笑)、そういう日常的に楽しく本を読んだりおしゃべりしたりする文化ってなかなか田舎のほうでは難しい。


地方ー都市の格差について。

実家が田舎、実家の実家がもっと田舎なので痛感します。実家は人口50万の県庁所在地、母方の実家は人口十数万の小都市にあります。
人口十数万の都市にもなると、近所に高等教育機関がなく、塾も少なく、本屋にもあまり参考書が置いていません。大人たちの資格取得熱もあまり高くありません。
その町のブックオフ風の新しい古書店に入っても、京阪神圏ならコンビニにあるような品揃えしかありません。
辺鄙な村に行くと、小さい町・村に本屋がひとつもない、あるとしても販売システムの関係で、岩波新書がおけない店も珍しくありません。
これはネット世界にも反映されている。画面を通じて本が無料か格安価格で読めるようにならないかぎり、都会はますます読書に関する情報交換がネット。リアル双方でさかんになり、田舎はとりこぼされる。しかも、ネット普及以前であればそのことに劣等感や疎外感を感じずにすんだものが、感じるようになるだろう。

英才教育・エリート教育について

ダライ・ラマ方式というのか、一本釣りで、見る目のあるお師匠さんがこれはという育ててみたいお弟子さんを見つける。その子をていねいに育ててゆく。それしかないでしょうね。
親の財産と偏差値で上のほうの1割をとって……という方式では、普通よりもちょっと器用だとか、早熟だとかいう程度の大人でしょう。
日本の学校教育が硬直した学年制・クラス制に縛られていることも英才教育には向きません。学校に入学する時期も、同じ講義を受講する人も、前後2-3歳は異なっていて当然、という環境でなくては、本当の意味で同世代の競争といいがたいし、また先輩が自然と敬意を集めて年下の子のめんどうを見るということも起こらないでしょう。
とはいえ社会的隔離所・学校の枠内の改革ですけど。やらないよりはマシでしょ
う。
クラス制度については内藤 朝雄や宮台 真司らが広告しているとおり。廃止、もしくは柔軟な運用・形骸化が早急に求められています。
海陽型の新型エリート校は、財界年配者のヨーロッパ崇拝と集団エゴイズムのたまものですね。
エリート校とはいっても、歴史や伝統がないというのはもの足りない。どうしてこれまでのエリート校・準エリート校にテコ入れしてはいけないのかも、分からない。(別に灘・開成や旧制高校・旧制中学を礼賛しているわけではないのでご注意を。)
それに、本当に家柄のいい旧華族クラス(旧・子爵家・男爵家など)ともなると、東大に落ちたら学習院というコースを歩むわけで。そのまえにだいたい東京あたりの選抜型幼稚や小学校、遅くとも中等教育の時期にはブランドの学校に入って、旧華族、旧財閥、政治家らの子中心の交友圏を築くわけですね。
また社長家ならば、中等教育のうちからの海外留学、特にアメリカ留学もオプションのうちでしょう。
そういう人たちは海陽タイプの「和製イートン」あってもなくてもいいでしょう。

古い頭の親御さんが、旧制中学・旧制高校幻想をもって、子どもをそうした学校にやることは考えられます。ただし、人脈的に見て、日本の上流・上層のなかの亜流・傍流の地位にとどまる可能性は高いと思いますね。(まあそんなところも50年ほどもたてば立場が変わってくるでしょうが。)

あと、財界・政界の手厚い期待とバックアップを受けて開始された以上、いじめ、「体罰」、不登校、成績不良や怠学などのスキャンダルが、通常の私立名門校以上に徹底した情報操作によって隠される可能もあるのではないでしょうか。
大人ー子ども、教師ー生徒という上下関係があるかぎり、少々「自治的」にやろうとも、やはり教師による生徒へのいやがらせが起こることも、他のタイプの学校と同じく考えられるでしょう。
階級・階層が「上」であっても、密室の中で、経験・知識などに圧倒的に差があるものどうしが同居する以上、いじめも「体罰」も起こりうると自分なら考えます。
それから先輩・後輩関係も同じように大変でしょうね。












































フリースクールを信用しないこと

2006年11月29日 13時01分12秒 | 不登校
↓ はあるフリースクーラーから受け取ったメールである。

おひさしぶり。
もう学校も大学もいきたくない、というのはまったくそれでいいと思います。
望まない予備校で、体はそこにいても心は死んでるようでは、いのちがもったいない。親とけんかしても自分を取り戻せるよう祈っています。そういう親ではどうしようもないのかもしれませんが、抵抗する元気を取り戻してください。今は若い人が本当に働き口がなく、使い捨てで就労政策もめためたな時代です。しかし、それに乗れないからといって、価値がないという見方にはくみしないで、
どうせ自分は、などと卑下しないで、自分を大事にして
行く中で何か見つかってくる気がします。ほんとに大変ですね。なお、親の福祉は受けていいと思います。


こういうところは労働組合ではないのだし、相談メールなど送った自分が悪いのかもしれないが。
この方は、基本的に分かっていない。
偽装請負・派遣で悪いのはその労働力を買う派遣先企業であって、そこに登録して働く従業員・失業者ではない。
また、田舎の保守的な親というのは、まともに話せる理性ある存在ではない。言葉の通じない、人ならざるものである。

すべてを心理的抽象的な問題にすりかえようとしているが、意味がない。
親福祉は親に遠慮し、生理的嫌悪感と根本的不信感のあるむこうに侮辱されつづける地獄である。
派遣・請負の風潮にのる・のらないという問題ではなく、競争環境上いやおうなしに巻き込まれることになる。

学校からの自由ばかり求めて、学校への自由がないとこういうことになってしまう。
とはいっても、もともとこの人を信用していたわけでもないし、この人の作ったフリースクールに通っていたわけでもない。相談したのが悪かったのだと思う。

イヤでも何でも学校や大学に行くことはできない。
女性差別に折れた面と、子ども差別から自由になりたい。これは両立不可能なものだったようだ。
それは、子どもの権利をとって女性の権利を捨てたということではない。
両方とも手にいれられなかったのだ。

自分にとって助けになるのは、学校の外・教育の外・フェミニズムの外だと思っていた。今では、家庭や地域も同じ地獄だと認識できる。
しょせんフリースクールも元祖リストラ学校だ。偽装請負もみんな自己責任にして企業の責任・政府の責任はとわないようにというリアリティをおしつける。
フリースクールもまた大人が子どもに理不尽を強いる地獄なのだ。
子どもの収容所であり、教育の地獄を味わわせる絶望と痛みの場なのだ。

信用できるのはやはり最後には天皇とか神とかいうところしかないのだと思う。