スイッチバック。
かつては峠越えの隘路には必ずと言っていいほど全国に存在したものであったが、
その後、トンネルを穿ち難所をなくすことによってその数は大きく減って行った。
中央本線にも沢山のスイッチバックが存在したが、中でも大学在学中に塩嶺トンネルの完成によって
消えた小さな信号所の記録。
おそらく最晩年の82年だと記憶するがその小さな信号所である東塩尻を訪れた。
ホームとは名ばかりの盛り土があり辛うじて駅名標とともに駅の体裁をとっていた。
信号を取り扱う職員によって丹精された花壇に満開の花が今も印象に残る。
電関人がカメラに収めることができた数少ない原色のロクヨン基本番台である20号機。
20号機とはその後因縁の対面を果たしている。
信州方面に撮影旅行に出た09年早春に篠ノ井派出の片隅で無動のまま余生を送る彼の機に出会ったのだった。
JR化後も原色のまま長きにわたる生涯を送った20号機とともに記憶に刻まれる花の信号所、東塩尻。
上)1982年撮影(?)、下)2009年2月8日 篠ノ井派出
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山間の小さな信号所の仕事は暇とは言わずに心の余裕があった職場としましょう。
相応に見返りは薄かったにしても、心豊かな労働のカタチがあってもいいじゃないかと思いますね。
一瞬の車窓に汽車旅の良さを発見した旅人も多かったはず。
国鉄時代には、ごくごく当たり前の風景でした。
保線もそうですが、最近のJの付く会社はお金を稼ぐあまり線路や施設の点検もおろそかですし花を植える余裕は
さらになさそうですね。。。
自分たちの職場を綺麗にしておくことは職場の基本だと思います。
1枚目のような写真、撮りたいですね。
手前のピンクはカーネーション、沢山咲いている濃いピンクの花はムシトリナデシコでしょうか...
松本から乗った80系10連のツリ掛けモーター音とともに信号場の折り返し線に停車中の下り115系普電を眺めたような…。
それから大学生になり、いよいよ塩嶺ルートが開業する直前、山小屋の小屋開けのバイトの帰りの大型連休明け、最初で最後の東塩尻仮乗降場に降り立ち、ニモ電併結の115系普電やあずさ、ロクヨンを撮ったりしました。
今も線路跡を見ることができますが、かつての信号場の詰め所はなくなり、通過する車両もJR世代となり、隔世の感を抱きます。
すぐ列車が来るのでアングルを
考えられる時間がありませんでした。
花をいっぱいに入れる構図をとっさに構えたのが
これですので仕方が無いですね。
東塩尻の存在を気づかずにいたかもしれません。
それだけに、学生時代に訪れた東塩尻が貴重な存在になりました。