明けない夜はない

膣ガンステージ、肝臓に遠隔転移あり。只今経過観察中。そんな私の心の叫びと、乗り越えて来た事、あれこれ。

2006年5月の出来事①

2006-09-10 23:19:25 | 病気の経緯と治療とか
自問自答しながら、重い気持ちの中でも、時は平等に流れる。

放射線治療を、始めるにあたり、入院が必要と、なった。
放射線は、毎日1回、週5日照射する。土日は、照射が休みなので、
外泊も、許可を取れば、自由に出来る


入院の話しは、少し前から、主治医N先生から、説明があったし、
覚悟は、出来ていた。

でも、やっぱり家族と離れて、一人病床ってのは、悲しいね
先生に無理を言って、限界ギリギリまで、家に居る事を、許可してもらった。
私にとって、このギリギリの限界の時間は、自分の心を精算する為の時間でもあり、
入院生活開始の、踏ん切りの時間でもあった。

そんな世間は、ゴールデンウィーク。私も、ゴールデンに、過ごしたい。
入院前に、家族と一緒に、美味しい物食べたり、ちょっと外出したり、
楽しく、時間を過ごす事が出来た。

そんな、楽しい時間は、あっと言う間に過ぎて、入院当日

朝イチで、病院へ向かい、入院手続きを済ませ、病棟へ。
担当看護師Yちゃんの先輩Nさんが、待っていてくれた。

「又、しばらくお世話になります。」と私。

「今回は、ちょっと長い入院やね。2ヶ月くらいかな?」とNさん。

そう言って、部屋に案内された。又もや、4人部屋。606号室。
1番、端っこの隅の部屋。なんだか、ちょっと、寒かった。
他の3人は、皆おばさま&おばあさま。私33歳。
そして、病棟内を見回しても、同年代の患者は、居ない。
同じ患者でも、同年代は、みな妊婦
一気に孤独の淵に。個室に入りたい。でも、又空いてない。

私は髪が無く、ハゲていたから、周りの人にすれば、

「あー、若いのにこの子、癌なんだね」

と、一目瞭然。
私はこの頃、自分の殻にこもって、バリアを大きく広げていたから、
ぺらぺら、話し掛けて来る人は、居なかった。
いつも、1人でご飯を食べて、1人で時間を過ごし、1人で行動していた。

入院当日は、内診が義務づけられていた。
私の、入院した日は、教授回診の曜日でもあり、私は主治医N先生では無く、
N教授に、内診をしてもらう事になった。
『えー、主治医以外に、診られるの嫌だなぁ・・・』
教授の診察と言う事もあり、カーテンの向こうのギャラリーは、
いつもの、倍に。

N教授、

「ちょっと痛いかも、知れ無いけど、僕はベテランだから、心配無いからね」

見た目は厳しいが、とても心が優しい、教授。
心をリラックスさせてくれて、無事内診終了。

それから、別の日。
いよいよ放射線照射位置を、決める為の相談の日。
初めて、案内されたその場所は、

「高エネルギー室」

と言う名前の治療棟で、1Fの奥の奥、そして又その奥に、建て増しされた場所に、
そこは、あった。まるで、隔離されてるみたいに。

照射位置を決める為、別室に呼ばれ、固いベットのような物に寝て、
照射場所(骨盤・大腿骨辺り)に、技師さん達が、2人係りで、
マジックで、印を描いていた。
だいの大人が、2人、私の照射場所に、落書きしてるようで、その様は、
とても笑えた。
でも、笑えない、私のこれからの治療

明日の治療から毎日、これを提出してねと、渡されたファイル。
そこには、私の名前と、放射線の機械?についての、注意書きが書いてあった。

「放射線の機械は、決してあなたを、襲ったり、傷つけたり、しません。
 ですから、照射中は、絶対に動かないで下さい」

みたいな、意味合いの事が、書かれてあった。

そして、その文章を見て、不安になってる私を察して、看護師さん、

「放射線を照射する機械は、とっても大きいから、明日の治療の前に、今、ちょっと
 見ておこうか?そしたら、不安も除けるね」

そう言って、わざわざ、明日治療すれば、解る機械の大きさを、
見せて、説明してくれた。

「リニアック①室」と書かれた、紫の扉の部屋。

むっちゃ大きい機械そして、厳重な重い扉。
どうりで、隔離した大きな棟が要るわけだ

その大きな放射線の機械が、この棟には3機もあり、その横に、
「腔内照射室」と言う、直接患部に放射線を照射する、部屋もあった。

いよいよ、明日から、本格的な次のステップの治療、放射線照射が始まる

次へ続く









2006年4月の出来事

2006-09-06 15:22:52 | 病気の経緯と治療とか
主治医N先生の言ってた、5クールが終わり、治療は次のステップへ。

ずっと、抗がん剤しか治療を、していなかった私は、
次のステップと言っても、中々心の準備が出来なかった。
手術か、放射線。
その選択に、主治医は、私のQOLの事を考え、放射線を勧めた。
そして、かなり神妙な面持ちで、合併症の話しや、副作用など、
事細かに、私と夫に説明してくれた。

そして、放射線科の先生から、一通の同意書。
こんな事が、書かれていた

患者クランベリー様の放射線治療、実施について、以下の通り説明致しました。

①現在の病状と治療の必要性について
 現在の病状(膣癌)
 治療の必要性(局所制御向上の為)

②治療の方法
 リニアック(外照射用放射線治療装置)を用いて、高エネルギーX線、又は、
 電子線を、体外から治療部位に照射します。
 治療回数・期間:1日1回週5回(土日、祝日を除く)
 計30~33回の照射の予定。
  (注:回数等は、治療経過によっては、変更される事があります)

③治療に伴う合併症と危険性、および緊急時の処置について
 頻度的には、非常にまれなものも、含めて、以下のような、合併症の可能性が
 ありますが、現在の疾患に必要な治療です。緊急時の処置は勿論万全を期して、
 施行しますので、ご了解下さい。
 1)治療期間中~終了後数週間の合併症
 (倦怠感・食欲低下・吐気・皮膚炎・粘膜炎・(陰部)脱毛・膀胱炎・下痢等)
 2)治療終了後数ヶ月後以降の合併症
 (不妊・外陰~膣潰瘍・膀胱-膣ろう・直腸-膣ろう・下肢浮腫・骨折等)

 

放射線を当てると言う事自体は、痛くもかゆくも無いし、
臓器も、残る。
その事だけを、考えたら、少し嬉しかった。

でも。

これから始まる放射線治療で、確実に私は、妊娠の希望を、
奪い取られてしまった。
それまでも、長期に渡る、抗がん剤投与で、生理は止まっていたけど、
まだ、それだけなら、妊娠の望みはあった。
が、しかし、放射線照射する事で、その望みも絶望的な物に。
そしてもちろん、それ以外の、弊害もある。

主治医、放射線科医を前に、私は号泣してしまった
でも、やるしかない。命を繋ぐ為には。
同意書にサインを、求められた。

自分が母になれない。
子供好きな夫を、父親にさせてやれない。
両親に、孫を抱かせてやれない。

「夫よ、ごめん。子供大好きだったのにね。私こんな事なっちゃって、
 もう、産めなくなっちゃったよ。」

「母さん、ごめん。あんなに楽しみにしてたのに、孫産めなくなっちゃった。
 孫の世話したいって、ずっと言ってたのに、お婆ちゃんに、してあげられなくて
 本当に、ごめん」

早く、孫が見たいなぁー!と言う両親に対し、

「うるさいなぁ。子供なんて、今は欲しく無い。もっと、自分のやりたい事して、
 遊びたいんだよ。いつか、授かる時が来るまで、要らない!」

そんな事ばかり言ってたから、神様が私に、罰を与えたんだね。

とても、無念だ。
そして、私は自分を否定し続けた。どうしようも無いくらいに。

果たして夫は、こんな私に、ずっと目を向け続けてくれるのだろうか?
こんな娘を、両親は、認めてくれるのだろうか?

そう、自問自答しながら、この頃は、ずっと過ごしていた。

次へ続く








2006年2~3月の出来事

2006-08-30 17:29:52 | 病気の経緯と治療とか
ずっと、私の分身である、尿管の調子が良くない。
こないだの、抗がん剤治療の時、詰まって、尿が出てくれなかった。
でも、そのお陰?で、尿道から、少しづつだけど、排尿出来るように。
尿管の調子の悪さは、それを、教えてくれる為だったのだろうか?
主治医に、とりあえず、報告だ

この頃の私は、こんな事を、日記帳に書いていた。

<2/1>
少しの時間だが、主治医と話をした。今後の治療方針も含めて。
私は、点滴(抗がん剤)だけで、治すのか?と思っていたけど、
どうも、違うらしい。今は、大きくなってる腫瘤を、小さくする為と、
全身治療の為、抗がん剤を、投与しているとの事。
そのうち、放射線と、手術のどちらかを、行いたいと、主治医は言った。
全く、思ってもいなかった見解に、ちょっとショック。
ゴールが、遠くに設定された、そんな感じがしていた。

今日は、姑から、のプレゼントで、うどんが届いた。
前から、食べたいと、思っていたので、凄く嬉しい。
夫が、言ってくれて、送ってくれたみたい。
どうも、ありがとう。今晩いただきます。

さっき、お風呂で。
あんなに、穴から外れるわけ無い!と言っていた尿管が、
穴から、スルツっと抜けてしまった。
怖くなって、又、穴におさめたけど。
ちょっと、怖いなぁ。

<2/14>
昨日、4クール目1発目の点滴を、打って来た。
私の患部に、良く薬が効いているらしく、腫瘤が小さくなって
来ているとの事。
点滴後の副作用は、辛いけど、病気の為だ。ガマン、ガマン。

<3/15>
随分、日記を間空けてしまった。
一昨日の月曜日、やっと尿管が外れた。
外来で、主治医N先生に、抜いてもらった。(泌尿器科の先生では無く)
最初、とても怖かったけど、案外なんとも無かったな。
尿管を抜いた後、その穴から、おしっこが漏れ出て来て、
先生の、白衣にかかってしもーた。ごめんなさい。

もう普通に尿道から、尿が出て、トイレで用を足す事が、
出来るようになった。
なんか、元気な頃に戻れた気がして、とても嬉しい。
スカートも履けるし。

こないだの、外来の日、主治医の話しでは、もう1クール抗がん剤をしてから、
放射線の治療を始めると。
私の癌は、出来た場所が悪かったらしく、手術は困難。
年齢の事も考え、QOLが下がるからと、臓器を残す方法へ。
又、入院生活が、始まる。とりあえず、まだ先だけど、
考えると、少しブルーな気分に。

もう、治療を始めて、5ヶ月が過ぎようとしている。
それでもまだ、これから私を傷め付けようと、言うのか。
癌は、しぶとい。私を中々解放しては、くれない。

いっぱい泣いたら、病気は治るのかな?そうだったら、良いのにね。
今、こうやって、日記を書いてる最中にも、ポツリ、ポツリと、涙が落ちる。
どうして、涙は出るのかな?

来週の月曜日から、5クール目の抗がん剤が、始まる。

<3/17>
今日も、朝から冷たい雨。天気が悪いと、気分もブルーになる。
少し気分転換をしようと思い、朝からシャワーに入った。
尿管が外れてから、初めてなので、緊張したけど、
管が無い分、楽に入れた。段々慣れてくるだろうか?

私は弱虫だ。さっきも懸命に励ましてくれる母に、
「辛い思いをするくらいなら、生きていたくない!」と言ってしまった。
実際、怖いし不安だし、押し潰されそうだけど、
本当は、もっともっと生きていたい。皆と一緒に居たい。
だって、ありがとうの、お返しも、まだ出来て無いのに。
でも、その一方で、毎日流れるように、過ぎる時間。
楽しくも無いし、嬉しくも無い。
心の底から笑いたいのに、すぐに、頭の中をよぎるのは、病気の事。
きっと、私が辛ければ、周りで支えてくれてる皆も、辛いだろう。
私が少しでも、楽しいなら、皆も楽しいだろう。
解ってはいても、弱虫な私はツライ事が嫌いだ。

<3/28>
今日は、どんよりな天気。昨日はとっても良い天気だったのに。
気温も低く、3月にしては、肌寒い。

昨日は、5クール2発目の点滴を打ちに行った。
主治医N先生の話では、この5クール目が終われば、CTを撮り、
次のステップの治療が、始まる。(放射線)
そうすると、家族の元から、離れ入院となる。
淋しいのと、新しい治療への不安とで、心臓が押し潰されそう。
日が近付いていくにつれ、発狂しそうなくらい。
夜中、ふと目が覚める。いろいろと、考えているうちに、
又、涙がこぼれてしまった。この病気になって、泣かない日は、ほとんど無い。

今まで尿管を付けていたけど、今はもう無い。
当たり前のように、トイレで用を足す。
大きな穴を開けてた傷も、(尿管を刺してた)もう治った。
あんなに大きな、穴が開いていたのに、皮膚がひっつくなんて。スゴイ。
私の中の癌も、すぐに、くたばって失くなってくれれば良いのに。

<3/29>
今日も明け方に、目が覚めた。トイレに行ってから、布団に戻ると、
又怖くて、淋しくて泣けてきた。
それに気付いた、夫が自分の布団へ呼んでくれた。
一人で眠るのに、丁度なくらい小さな布団は、2人で寝るには、狭かった。
でも、凄く温かい。一緒に居るんだと、とても力強く感じた。
しかし、入院したら、涙しても1人ぼっちなのかと思うと、
益々、1人になるのが、怖くなってしまった。
後何日、一緒に眠れるのだろうか。
考えるのが、淋しい。

===================================
今読み返すと、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい事、書いてるな。
そして、心も病んでる。こうやって、段々病気と向き合って来るんだね。

次へ続く







2005・6年12・1月の出来事

2006-08-27 22:09:07 | 病気の経緯と治療とか
自宅に戻ったけど、何も一人じゃ出来ない。
気持ちも、まだまだ不安定
当分、通院は、ずっと続くし

母が見兼ねて、私達夫婦を、実家に招いてくれた
そして、2人で暮らすには、まだ大変だからと、
居候させてくれると、言うじゃないか
ただで無くても、病気になった私は、両親に迷惑を掛けている。
それに加え、私と夫2人の面倒まで、見てくれると言う
本当は、甘えたく無かったが、ありがたく、好意に甘え、
実家暮らしが、始まった
なんだか、独身時代に戻ったよう

ずっとノートに付けてた日記
その頃の私は、こんな事を書いていた。

<12/31>
今日で、1年が終わる。
私の病気も、今日でお終いになれば、良いのにな。
ふと、夜中に目が覚める。
世界中で、1人になったような、気持ちになってしまう。
真っ黒な世界。
世間は年越し。
時間は、いつもと同じように流れてる。
新年が来れば、私も心機一転出来れば、良いのに。
何か、置き去りにされたような、気持ち。
周りを見渡しても、1人みたいな感じ。

<2006.1/4>
自宅に帰って来て、1ヵ月が過ぎた。
入院してた頃よりも、自分自身が楽しいし、身が軽い。
しかし、本当の所、体はダルイし、むかつき、吐き気は、治まらず。
悪い気分と、格闘中。

今の病院に変わってから、2ヶ月が経った。
本格的な、ガン治療をし始めて、1ヶ月半。
ふさふさあった、ロングヘアーは、抜け落ちてハゲ頭。
果たして、イケナイ細胞は、くたばってくれてるのか?
段々と、良くなってくれてるのか?治ってきてるのか?
そして、いつ、治るのか。
こんな事を、ずっと考えながら、日々過ごしてる私。
怯えながら過ごしている私。
他に、転移はしてないか?他の病気は無いか?
早く治りたいけど、診察、治療は怖い。
矛盾してるけど、怖い。
痛いのと、怖いのは、大嫌い。

元気になった時の事を、想像してみたりする
①おしゃれして、出掛けたい
②洋服を新調したい
③髪型を変えたい
④海外旅行へ行きたい
⑤夫、両親に孝行したい。
明後日は、通院日。

<1/18>
3クール、1回目の注入が、終わった。
いつもの事だが、抗がん剤を打って、
2.3日目が、1番しんどい。
吐き気や、体のだるさ、何から何まで、最高潮にキツイ。
食べたい物が、思うように食べられない。
美味しいと、感じられない。もちろん、食欲も落ちるが、
軽い味覚障害?らしき、症状まで出る始末。
それに加え、便秘まできてるから、うっとーしい。
そこに、いつもの母親の小言が加わり、頭中がMAXに。

早く、尿管が外れたら良いのにな。
そしたら、スカートが履けるし、自由が利く。

<1/29>
明日は、点滴日なので、病院へ通院DAY。
毎週の事ながら、憂鬱だ。
明日、採血の結果、点滴が受けられれば、
3クールが終わった事に。
次回は、4クール目に突入だ。
点滴が終わるのは、いつ位までだろうか?
そんな事を、考えると、たちまち不安に。
又恐怖が襲って来る。
順調に、治ってると願うと同時に、
治ってると思い、信じたい。

お風呂の日は、尿管の貼り変えで、
バンドエイドを変えないとならない。
面倒で、貼る位置がズレると、厄介な事に。
そんな今日は、お風呂の日。

==================================

今思うと、ずっとこんな風に、
不安で、過ごして来たんだな。私。
まだまだ、書き溜めてる日記、あるんだけど。
それは、又次回に、載せるとして。

やっと、ここまで、治して来たよ。
ちゃんと、今ここに居るよ。

次へ続く

2005年12月の出来事

2006-08-24 20:49:55 | 病気の経緯と治療とか
1ヵ月弱の入院を経て、家に戻った。
その頃、月も変わり、12月に。
1クールを終え、徐々に副作用が、出始めて来た。

1番最初に自覚出来たのは、

「吐き気」

そして、次に

「脱毛」

自宅に戻り、お風呂に入った時、洗髪すると、みるみるうちに、
毛が束で、抜けて来た。
幾ら、ショートカットにしてても、束で抜ける髪には、
びびってしまった。そして、悲しかった。

お風呂から上がって、鏡を見ると、そこに写った私は、
ちょっと切ない、髪が無い姿。
鏡を前にして、どのくらい、居たのだろうか。
辛くて、辛くて、泣けてきた。
せっかく自宅に、戻れたと言うのに、嬉しい表情には、なれなかった。

ずっと、落ち込んでいても、時間は平等に流れる。
時間が来れば、服用しなければいけない薬が、
1日のうちに、数種類あった。

担当看護師Yちゃんお手製の、お薬表より

朝7時= オキシコンチン60mg:痛み止め
     ノバミン:吐き気止め

朝食後=リンデロン2/1錠:元気が出る薬
     フェルム:貧血予防
     リタリン:眠気を取って、元気が出る薬
     ガスターD:胃薬
     アレロック:かゆみ止め
     ハイペン:皮膚のピリピリする、痛み止め
     ラクツロース:下剤
     大黄甘草湯(漢方薬):お腹を整える薬
     カマグ:便を柔らかくする薬
     芍薬甘草湯(漢方薬):しびれを抑える薬
     メチコバール:貧血・しびれを改善する薬

昼食後=ラクツロース:下剤
     大黄甘草湯(漢方薬):お腹を整える薬
     カマグ:便を柔らかくする薬
     芍薬甘草湯(漢方薬):しびれを抑える薬
     メチコバール:貧血・しびれを改善する薬

15時=オキシコンチン60mg:痛み止め

夕食後=コンスタン:睡眠薬
     ガスターD:胃薬
     アレロック:かゆみ止め
     ハイペン:皮膚のピリピリする痛み止め
     ラクツロース:下剤
     大黄甘草湯(漢方薬):お腹を整える薬
     カマグ:便を柔らかくする薬
     芍薬甘草湯(漢方薬):しびれを抑える薬
     メチコバール:貧血・しびれを抑える薬

23時=オキシコンチン80mg:痛み止め
     ノバミン:吐き気止め
     レンドルミンD1錠:睡眠薬

これの、他に、レスキューと言って、8時間以内に、
痛みが耐えられない用に、緊急の薬があった。

レスキュー①ロキソニン1錠:皮膚の痛みがある時。
            4時間以上空けて飲む事。
      ②塩酸モルヒネ4錠:①を飲んでも、きかない時。

これらの、薬を毎日、時間になると、服用し、
がん性疼痛と、抗がん剤の副作用に、これらが、
効き目を発揮してくれた。

去年、NHKのガン特集の番組で、
(かなり、昔の話題ですが)

「痛みを取ること=がん性疼痛緩和治療」 

を、行ってる大学病院は、4割弱と、報道されていた。
私は、とても、痛みを感じていたので、
がん性疼痛緩和治療を、受ける事が出来て、そして、
今の、病院と出会えて、良かったって思った。

詳しくはこちらに載っています。
(がん性疼痛緩和治療について)

次へ続く

2005年11月の出来事④

2006-08-21 17:03:23 | 病気の経緯と治療とか
入院して、かなり日が経った。

私にとって、痛みとの奮闘、尿管との付き合い、4人部屋と言う事、
かなりの事が、自分にとって、限界に達して来ていた。
入院当初から、個室を希望して来たが、なにぶん、個室には、
限りがあり、優先的に使える患者へ、あてがわれていた。
(ご老人、手術患者・妊婦も含む)
元々、私が入院していた病院は、個室が4部屋しか無い。
泣く泣く諦めねばならない、方向へ・・・。
それと共に、私のイライラ度は、ピークに。
家族にあたり、夫に当り散らし。

1つの事が、うまくいかないと、全ての事に、イライラと、
反応してしまう、嫌な自分。
4人部屋だと、恥ずかしくて大声で泣けない。話せない。
でも、溜め込むのは嫌
そんな私を見て、担当看護師Yちゃんが言った。

「うちの病院では、専門的に、癌患者さんの為の、心のケアをする、
 外来があるんですよ。一度行ってみましょうか。不安な心情を、
 聞いてくれるし、きっと心も軽くなると思うよ。」

最初とっても、精神科と聞くと、驚いてしまって、二の足踏んだけど、
うけて見る事にした。

本当は、自分から外来へ診察受けに、行かなければいけなかったけど、
私の精神状態と、尿管を付けているとの事で、
わざわざ、時間を作って、病棟まで、来て下さった。

対面して、最初名詞を渡された。
そこには、

「リエゾン精神専門ナース・看護師長」

と書かれていた。
とても、穏やかな、それこそ、白衣の天使的な、風貌。

私の、心中は、これからの不安と、癌と言う病気になったと言う、ショック。
いつも、元気で、明るく振舞わなければ、いけないと言う、プレッシャー。
いろんな感情が、入り乱れていて、パンパンに。
そんな私の話を、ずっと聞いてくれた。
最初から最後まで、ずっと聞いてくれた。
終始泣きっ面な私に、一言、

「みんな、付いてるからね。一人じゃ無いからね。」

とても、感動したな。
今でも、鮮明に覚えている。あの日のこと。

私の病状は、ステージⅣ。
でも、病気と前向きに付き合う為に、

「何か目標があったら、良いね。」

との、リエゾンナースの計らいで、病棟医長に、外泊を提案してくれた。

リエゾンナースの診療の次の日、病棟医長が、私を呼んだ。
そして、

「昨日、聞いたよ。1クールが終わって、お風呂も一人で入れるようになって、
 尿管にも慣れて、一人で尿を出す事が 出来るようになったら、
 自宅療法に、変えようか。抗がん剤治療は、通いでも、出来るし。」

と、嬉しい言葉
すごい、励みになった。
当初の予定では、抗がん剤治療は、4クールの予定

その日から、1クールの投与が終わるまで、白血球が、
思うように上がってくれず、かなりの日数を要した。
その為上昇をさせる注射を、連続で、打つ事に・・・
そのお陰で、徐々に白血球の値は、上昇し、
無事1クールを、終了する事が出来た。

そして、ずっと付けてた尿管も、コンパクトな物に変わり、
自分で、尿を処理出来るようにも、なった。
(それまでは、ずっと看護師さんが、とってくれていた)
そのおかげで、お風呂にも、一人で入る事が、出来るようになった。
そして、1番嬉しいことは、家に戻れる事。
病気が治っていないから、退院とは、言えないけど、
一応、病院生活に、ピリオド。
11月2日から、28日までの約1ヶ月。

お世話になりました。

持ち帰りの荷物には、めっちゃ大量の薬の山。
そして、手作りで作ってくれた、担当看護師Yちゃんの、

「クランベリーさんのお薬表」

があった。Yちゃん、

「薬は、絶対忘れず、時間通り、飲んで下さいね会えなくなるのは、
 ちょっと、淋しいけど、私がクランベリーさんの、担当看護師と言う事は、
 これからも変わらないし、抗がん剤治療で、病棟に来た時は、
 お世話させて下さいね。」

そう言ってくれた。
私も、Yちゃんと離れるのは、少し淋しいけど、
やっぱり、家が1番だ。

次へ続く





2005年11月の出来事③

2006-08-14 16:12:07 | 病気の経緯と治療とか
痛みを取る治療が始まり、次は本格的な、治療開始。
いわゆる、『抗がん剤』治療。
もちろん、初体験で、ドラマや映画、本なんかでは、
聞いたり、見たり、した事あったけど、
まっさか、自分が受けるなんて思って無いから、 予備知識が全く無かった。
だから、小冊子に注意書きが、書かれた物を、2冊、 看護師から、渡された。

「これ、読んでおいてねー♫」

それには、

「パラプラチン治療を受けるあなたへ」と、
「タキソール治療を、受けるあなたへ」って、

書いてあった。
この2つの薬が、今後の私に必要な薬なんだなと、 この時、解った。
(って、薬名聞いても、ピンと来ないけど)

その後、主治医や、看護師から、副作用についての、 説明が、何度かあった。
結構、強烈な事を、ズケズケ話すから、投与前から、
カナリびびってしまった。

①アレルギー症状
②吐き気・嘔吐
③感染症
④間質性肺炎
⑤手足のしびれ
⑥脱毛
⑦貧血
⑧食欲不振
⑨倦怠感

など。
これが、副作用と言われるもので、 私にとっては、この中で、1番、

「脱毛」

と言う、副作用に、心の準備が必要だった。
当時の私は、ロングの、フワフワウェーブヘアで、
(カナリ、気に入っていた)
髪が無くなる事を、毎日気にしていた。
それを、察してか、担当看護師Yちゃんと、 その先輩看護師Nさんが、

「髪が抜ける前に、短く散髪しよーか?
 その方が、ショックも少なくなるよ!」

と、 提案してくれた。少し勇気が要ったけど、切る事にした。

病院内には、こう言う人用に、(私みたいな) 理髪店が、併設されていたけど、
ナント、看護師Y&Nコンビは、2人で私の髪を、
カットしてくれると、言うじゃないか。

空いてる分娩室を、小さな美容室に変え、 私の髪を、2人で、カットしてくれた。
長かったから、カナリの時間を要したが、
出来上がった私の、ヘアスタイルは、可愛い
ショートカットスタイル♫♫(自分で、言うな!)
何年ブリかなー?ショートにするの。
お世辞では無く、ほんと上手に、カットしてくれた。
看護師なのに、美容師か?と思うくらい。

でも、その髪型も、長くは持たず、ハゲるんだろーなと、
思うと、ちょっと悲しくなったけど。

今考えると、あの頃私は、尿管を付けていたし、
病気に対して、臆病になって、いつもよどんで居たから、
励ましの意味もあって、いろんな、世間話をしながら、
カットしてくれたんだなーって、思える。
あの時の、心遣いに、今もとても、感謝している。

そんな、心嬉しい演出から、何日か経った頃、
最初の、抗がん剤投与が始まった。

TJ weekly chemotherapyと言う方式で、
3週で1クール(計3回)。毎週1回、投与する事となった。
1クール①回目が始まった。

TJ、初体験の日、だったので、
もしかの事(アレルギーとか、気を失うとか)があると、
危険!との事で、針刺しは、主治医がしてくれた。
そんな心配をよそに、私は、アレルギー反応も無く、
気も失う事も無く、無事投与する事が出来た。

この時、前からずっと説明が、あったのにも関わらず、
後から追って来る、副作用の事なんて、
全く、気にも留めて居なかった・・・。

次へ続く

2005年11月の出来事②

2006-08-13 16:13:42 | 病気の経緯と治療とか
入院した翌日は、文化の日で祝日。
だからなのか、我が家の両親、姉夫婦、 夫の両親、義弟とフルラインナップで、
お見舞いに来てくれた。
義弟は、

「病院で退屈だろーから」

と、 PSPをプレゼントしてくれたよー!サンキュー
ゲームあんまりしないけど、音楽入れて 今もフル稼働で使わせてもらってます。
でもこの日、起き上がる事も出来なくて、 せっかく来てくれた皆に、悪い事したな。

私は病院ってトコは、休日も祝日も動いているって、 勝手に思ってた。
確かに、看護師さんも居るし、当直の先生も居る。
食事も3度出てくるし、売店も開いてる。
だから、N先生と病棟医長のI先生も、 普通に、勤務しにこの日来てるんだって思ってた。
後で知ったけど、私の治療方針を決めるチームを組んで、 話し合いと、私達に説明をする為、
祝日だったこの日、出勤してくれてたそうだ。ゴメンナサイ。
どーりで、軽装だったわけだ。
白衣の下は、ジーンズだったし。 休みの日は、リラックスなお召し物なのね。

皆帰って晩ご飯が済んだ頃、 病棟医長から、病気の説明と、
これからの治療計画を、 説明された。
心配だからと、母は残っていて、母、夫、私が、 説明を聞く事になった。

I先生!
心の準備は万端です!(癌とは解っていたし)
号泣する準備も出来てます!(ハンドタオル持参)
これからどーするんでしょーか?

「癌には、違いありませんが、病変がどこから来てる物なのか、まだ特定出来ません。
でも経験から言うと、多分子宮頸部からだと思われます。
これから、検査などいろいろとさせてもらいますが、それの結果を待ってたんじゃ、遅すぎる。
早く治療に掛かりたいので、見切り発車ですが、来週から1番オーソドックスな種類の、抗がん剤を投与させて下さい。
こんな辛い話、誕生日の前日に話して、ごめんな。今日は思いっ切り泣いても、エエからな。長い道のりになるけど、
明日からは病気に勝つ為に、一緒に前進して行こうな。」

とI先生は言った。優しいナァ。
なんで、誕生日知ってるん?とか思ったけど、 入院する前、
なんかカルテに書いたなって 、後から気付いた。
でも、そんなトゴで見てるI先生ってステキ。
見た目めっちゃ軽そうな、不良兄貴みたいな先生やけど、
後々考えると、偉い先生だった・・・

後日もらったI先生が書いた説明書きには、

”子宮頚癌ステージⅣ”(後に診断名が、膣癌に変わるけど)

と、 書き記されていた。

その後で、

「痛みをとる事が、1番最初にしたい治療。痛かったら、それだけでしんどいやろ?
生活する事も、考える事も、話す事も辛いやろうし。
今日から、オキシコンチンと言う痛み止めを、8時間おきに服用してな。
量は痛みに応じて、増やしていくから。」

そう言われて、この日から最初の治療、

「痛みをとる事」が、始まった。

でもこのオキシコンチンと言う薬、劇薬で麻薬らしい。
使い方によれば、良い薬との事で、この薬についての説明が、
何度も何度も医師、 薬剤師からあった。
形は、普通の大きさの錠剤。(バッファリンよりも一回り小さい)
これが、麻薬なのかっっっ!って思うと、
自分の病気の重たさに、ただただ驚くばかりだった。 まずは、10mgから。
8時間おきに1錠づつ。1日、30mg。 でも、当たり前ながら、効かず毎日増量。
最大で、私は一日に200mgも服用していた。

それに加え、8時間も痛みが耐えられない時用に、 レスキュー(緊急用)と呼ばれる、
痛み止めの薬があった。 ロキソニンと、塩酸モルヒネの2種類。
この2種類の薬も、入院中は毎度飲んでいた。 今から考えると、ほんと薬ばっかし・・・。

入院中、毎日看護師が「痛みレベル」を表にして、 私に、そのレベルを聞いてきた。
10段階で、10が最強。1が最弱。 この痛みレベル、中々伝えるのが難しくて、
何度か、看護師に疑われた。

「さっき、○○さん、尿管付けたまま、走ってたでしょ?走れるって事は、
痛みは1に近いの?」とか。

いやいや、痛くても走る事くらいあるっちゅーねん。
病人やけど、私にだって緊急な用事もあるんやから
(って決まって、目撃されてる時は、便がもようしてる時で、薬により、
かなり緊急状態な状況だから=ユルイ)

抗がん剤が始まるまでは、癌に対しての治療が無かったので、 オキシコンチンと、
ロキソニン、モルヒネだけじゃ、 痛みは、中々治まらなかった。

いよいよ次は、抗がん剤が始まる。

次へ続く

2005年11月の出来事①

2006-08-12 16:14:45 | 病気の経緯と治療とか
新しい事をするって、緊張するなー。

私はS医大に、夫に付き添ってもらい来ていた。
やっぱ、大学病院って大きいんやなぁー! それに、患者さんも多いし。

前の、総合病院で渡された紹介状と、 MRのでっかい写真持って。

朝イチで行ったのに、初診と言う事、婦人科と言う事で、 又、数時間待たされた。
じっと、痛みと闘って、待った。 やっと順番が回って来て、呼ばれて診察室へ。

夫と中に一緒に入ると、 とても、笑顔の優しいおじさま先生。
(後でそれが、助教授と解ったんだけど)

「紹介状、読ませてもらったよ。いろいろと大変だったね。
もう、大丈夫。ちょっと診せてくれる?」

「もう、凄く痛むので、座れないし・・・泣」

恥ずかしいが、この年にして初対面の先生の前で、 号泣してしもーたよ
今まで、治療も受けれず放置され、痛みは最高潮に、 達していて、
優しい先生の顔を見ると、 安心からか、つい・・・(号泣してしまった!)

「よーし、わかった!絶対に触れない。見るだけ(眺めるだけ)にするから。
内診台には上れるかな?」

泣いてくちゃくちゃなまま、 しぶしぶ内診台へ上った。
そして先生は患部を見て、

「これは、エライ事になっとる。即入院しよーな」

ですってー。
準備もなーんもしてなかったし、 なんせ、入院も初体験。
びっくりやったけど、診察後すぐに、 外来病棟→入院病棟へ移った。

しかし、運の悪い事に、夕方までベッドが空かず、 空くまでの間、
ナント分娩室で過ごした・・・。 痛くてどーしよーも無いので、
とりあえず、横になる事が出来ただけでも、 良かった。

心配しているであろう、我が母に夫が電話をしてくれた。
私は、入院になったし、すぐに駆けつけてくれるモンだと、
勝手に期待していたが、

「今日は、植木屋が来るから、明日行く」

との返事。 少し、拍子抜けした。ま、いいけどさー。

ベッドに横になったら、主治医と言われるせんせーと、 担当看護師と言われるナースと、
病棟医長と言われるせんせーが、時間差で次々と、 挨拶にやって来た。
その度に、同じ事を聞かれるのが、少々めんどくさーって、 感じやったけど、
どの方も凄く優しかったのを、 今でも鮮明に覚えている。

第一印象、主治医のせんせー、すんごく冷静に加え、 淡々と話をする方だったので、

「頭デッカチで、冷たい先生なのかな?見た目もこわそーやし・・・。」

って思ったな。 初診してくれた、さっきの助教授とは、 全くタイプが違ったし。
正直、

「さっきのおじ様先生の方が良いよー!」

って、心で叫んだりして。

付き合いが長くなった今じゃ、 同年代だし、夫もいろいろと話易いみたいだし、
何より、誠実な性格と、無言の優しさの虜。
少々、S気質でいじめられる事も、あるけれど

そして主治医N先生の大ファンに、なってしもーたけど。
この日から、今現在も尚、N先生と、 担当看護師Yちゃんには、お世話になっている。

担当看護師Yちゃんは、私よりも8つも年下。 それなのに、すんごく心強い。
最初挨拶に来た時、私が痛い、痛いって言ってたから、ずっと体さすって、
不安でブチ切れそーな私の話、 うんうんって聞いてくれた。

Nせんせーが、

「痛みがマシになるかも、知れへんし、痛み止めの、注射を後で看護師さんに、
 打ってもらうから」

と、言った。 暫くして、看護師さんが来て、

「注射、お尻と腕どっちに打ちます?」

モチロン「腕にお願いします。」と言うと、

「8割の方がお尻ですよ?腕だと後遺症が残る事があるので」

やってさー。もー。
それやったら、最初からそう言えよ!みたいな。
そして、お尻に人生初の注射を打ち、 痛み止めが効くのを待ってみた。

がしかし、結局この注射、効かなかった。

丁度その頃、用を足したくトイレに行ったが、 尿意はあるのに、全く出ない
すぐNせんせーに言ったら、

「エコーで見てみよう。もしかしたら、溜まってへんかも解らんし」

エコーで見るに、凄く溜まってるらしい。 さっき外来で診てもらった時、検尿したのに。
その検尿から、4時間くらいしか経っていないのに、 どーして出ない?

すぐにN先生による診察が始まり、
(さっきの外来の時、痛いし断ったのに!)
その横には、偉いだろう年配の先生が、 あれこれ指示を出していた。
(これが後で、教授だとわかった)

たくさんの先生達が、カーテンの向こう側に見えた。 ま、概算で15人くらいは居たかな?
ハズカシイ!なんて言ってられない。
でも、イタイイタイイタイと、私は診察室の外まで聞こえるような、
細く大きな声を出していたよーだ。(夫談)

尿を出す為、尿道に1番細い管を入れる作業を、 N先生達は、しようと考えていた。
しかし、尿道は解らないくらいに病変が覆い、 管を入れる事さえ、出来ない状況に。

痛いわ、不安やわ、おしっこしたいわ、で、 私は、ヘトヘトになっていた。
そんな時、ずっと担当看護師Yちゃん、手を握っててくれた。
私を見ながら、

「大丈夫。ずっと付いてるからねー」

めっちゃ、心強かった。
Yちゃん、今もあの時のあなたの優しさ、 忘れてないよ。

尿道に管が通らないと言うことは、 もう、お腹から膀胱に穴を開けて、
直接膀胱に管を通すと言う、選択しか 私には、残されていなかった。

婦人科では出来ないと言う事で、 でも、私が動けないと言う事で、
わざわざ泌尿器科の先生達を、婦人科へ呼ぶ事になった。
待つ事1時間・・・。もう限界なんデスケド・・・。

用を足したいと思ってから、もうこの時5時間ほど 経っていた。
丁度その頃、ベッドが空いたと、4人部屋に移された。

やっと泌尿器科の先生、約2名到着。 先生達の第一声、

「すぐ、楽にしてあげるからなー。麻酔打つし、ちょっと痛むよー」

もう、私は麻酔の痛さなんて反応出来ないくらい、我慢していた膀胱は、
パンパンに膨れていた。
先生達が言うように、すぐ膀胱に棒みたいのを、 お腹から刺し、
穴を開けて、管を通す。 ものの、15分くらいだろーか?
開けた穴から、いっぱい出血してたけど、 すぐ、楽になった
人生初、尿管装着。

後で聞いたが、約1リットル近くも尿は溜まっていたらしい。

ある意味、スッキリしたので、お腹が空き、何か食べたいと、 部屋に戻ったが、
時計を見ると21時過ぎていた。 消灯時間?部屋は真っ暗。
病院の夜は、早いのね・・・。

そして人生初の、入院初夜を過ごす事となった。 4人部屋。
全く知らない方々と、過ごす夜・・・。
とっても淋しくて、とっても痛くて、怖かった。

長くそして初体験だらけの、1日が終わろうとしていた。
そして、これからが長い長い治療と闘病生活の始まり。

次へ続く

2005年10月の出来事②

2006-08-11 16:16:28 | 病気の経緯と治療とか
ホントに私は今まで病院にかかった事が無いので、
何もかもが、初めて。 今回の初体験は、MR。
13時過ぎからの開始予定。
でも看護師さん、「食事食べて来ないでねー」

13時半頃、順番で呼ばれた。あーお腹すいたなー。
「これに着替えて下さい」
なんか、浴衣の安っぽい感じの物に着替えさせられ、 暗い筒状の機械の横へ。

ほー、これがMRの機械か・・・。
これが噂に聞く、大騒音が耳から聞こえると言う・・・。
ヘッドホンを渡され、装着するとショパンが聞こえてきた。
画像をバッチリ撮りたいからと、造影剤とやらを入れられ、
頭の上で道路工事してるみたいな騒音1時間弱・・・。 長かったなぁ。

数日後。検査の結果を聞きに。
悪い予感はしていた。だって痛いの治まらないし。
いつもは、私だけ呼ばれるのに、この日は、
「旦那様も、一緒に聞いて下さい。」やってさ。
なんかこの時、ドキドキって言うよりも、痛みで疲れていたせいか、
「ハヨ、結果出して治療して。」
って方が、強かったな。
なんせ、この時で痛みから1ヶ月は経っていたから。

先生はこの間のMRの結果の写真を見せながら、
組織診の結果をさらりと告げた。
「癌ですね」
は?癌ってあの癌ですか?(どの癌?)
前置きも、前触れも無く癌と告げられ、
正直私は、硬直してしまった。

癌告知って、こんなあっさりとしてるモンなんか?
いきなり過ぎて、涙を流す事さえ考えつかなかった。

「あなたの癌は、どの部分からの癌なのか、判断し兼ねます。
腫瘤が大きすぎて。うちの病院では、お手上げです。紹介状を書きますので、
大学病院へ転院して下さい。」

オテアゲって?
これって、見捨てられたって事やね?
そーいや、最初
「こんな症例見た事無い」
って、 言われたっけ?
そう言われた時に、転院しとけば良かった。 後悔先に立たず。

1番最初に痛みと出血があって受診してから、
もう、1ヶ月ちょっとこの時経っていた。
その間、治療と言う治療もせず、(抗生剤の点滴のみ)
いわゆる癌細胞は、日に日に大きくなり、 毎日痛みとの格闘だった。

又違う病院、探さなアカンな・・・。 大学病院?近所に無いケド?
車を使えばなんとか、通える範囲の病院が、 3つくらいあった。
その中で1番ど田舎にある、S医大へ私は転院を心の中で決めていた。
夫は、毎日痛みにもがく私を見ながら、

「今まで、治療も受けられず、病名も特定出来ず、たらい回しにされて、
次の病院は名の通った一流がええ!今度こそちゃんと治してもらわんと困る!」

私も、困るわよ。また、オテアゲなんて言われたら。
夫はK大病院orK府立医大を私に勧めた。
3つ候補があって、そのうちの2つは夫が言ってる病院。
後の一つが私が言ってる病院。 意見が分かれた。

結局は、私のワガママな理由で今もお世話になっている、
ど田舎S医大に決めたんだけども。
ワガママな理由とは、
「ど田舎にあるので、先生もせかせかしてなくて、フレンドリーかな?」
なんて、安易な理由。
今となれば、これも縁かな?

良い先生と看護師に恵まれ、治療が始められた。

次へ続く

2005年10月の出来事①

2006-08-10 16:17:06 | 病気の経緯と治療とか
市内で大きいと言われている、
この総合病院は、車で何度も通って見た事はあったけど、
中へ入る(受診)するのは初めてだった。

中々キレイだし、大きいし総合病院やし、 今度こそ、治してくれるよな・・・。
しかし、どこの(産)婦人科もパンパカリン。 周りは、お腹のおっきな妊婦さんばっかし。
「私妊婦じゃ無いし、気が引けるな・・・」
とか考えたけど、もう辛抱たまらん!!!状態だったので、
待合でうずくまるように、場所を取り休んで待っていた。
初診となると、待ち時間が2時間以上にもなる。

やっと順番が回って来て診察室へ呼ばれた。
この時、めっちゃくちゃ腫れてきて痛かったので、
診てもらうのを、躊躇したけど、 やっぱし診てもらった。
内診の時、器具を入れて中を見るけど、 入らないくらいに腫れて痛んだ。(でも入れられた)
普通にしてても、ズキズキと痛むのに、
器具を入れるなんて!思わず大きな声を上げていた私。
診察を終え、先生は。

「今までに見た事の無いような症例やなぁ。多分、感染症かなんかだと思うけど・・・。」


へ?なんですか?見た事無いって?どゆこと?
感染症ってなんっすか?ソレ?

「バイ菌が入ったんでしょう。とりあえず今日から1週間くらい、抗生剤を点滴してみましょう。毎日通って下さいね。」

ふーん。バイ菌入ったんや・・・。 でも、心当たり無いんですけど

この日から、1週間ほどの予定で抗生剤を点滴で、 投与する事になった。
人生初の、点滴・・・。おーこわ。
でも、看護師さん上手で、あまり痛くなかった。
30分ほどかけて、点滴を投与。 その間ヒマなので、ラジオを聴きながら横になる。
それまで、点滴なんて打った事も無かったし、 打ってる自分の姿が、妙に「病人」っぽくて、笑えた。
ま、今から考えると、笑えないんだけど。

次の日もその次の日も、休日も毎日点滴に通った。
しかし、一向に良くなる気配無し・・・。
痛みは日に日に増していくし、 6時間に一度しか、飲んではいけないと言う痛み止めが、
待ち遠しいくらい、痛みは消えなかった。

その頃の私は、前から不良だったけど、 輪を掛けて不良になり、家の事全般なーんにも、
出来ないくらい、弱っていた。 夫よごめん。こんな妻で。
痛みに勝てない・・・。

1週間ちょっと経った頃、見るに見かねた先生が、 違う先生を呼び、2人で診察を行った。
(この病院には、婦人科医3人で診ていた)
何やら、2人でこそこそ話しながら、 1番腫れている部分の組織を、注射器で吸い上げ、
それを検査にかけると言う事らしい。
(この時、潰瘍のように大きく腫れていた)

結果が出るまで、1週間。
その間に、MR、血液検査をし、外陰部に潰瘍が出来てる
って事で、もしかして「ベーチェット病」の
疑いもあるとの事で、眼科も受診した。

眼科の結果は、異常なし。
どうやら、ベーチェット病では無いようだ。

次へ続く

2005年9月の出来事

2006-08-09 16:37:39 | 病気の経緯と治療とか
私が、この病気に襲われたのは、
丁度、残暑が厳しい、去年の9月。

いつものように生活を送り、
いつものように不摂生をし、
いつもの自分のつもりだった。

不正出血が続き、いつもよりか重い鈍痛が。
「生理不順だし、いつもの事か」と、
放っておいたのが、いけなかった。

日に日に子宮から膣への痛みが大きくなって
耐えられなくなり、
とうとう、普通に立っても座ってもいられなくなった。

医者嫌いな私だが、この痛みにはさすがに耐えれず、
一念発起して婦人科へ。
一通りの病状を説明した後、内診台へ。
診察中Drは、

「どこが痛むの?」と。

えっ?こんなに痛むのに、見た目は解らないってこと?
(怖くて自分では鏡などで、チェックしてなかった)

Dr「少し出血してるけど、生理かな?」
私 「多分・・・」
Dr「見た目になんとも無いから、きっと下着かぶれかなんかでしょう。
   塗り薬出しておきます。」
私 「はあ・・・」

この時、診断に納得がいかなかったけど、
エライ先生が言うんや。大丈夫やろ。
それに、塗り薬ですぐ治るんなら、良かった良かった。
などと、安易な考えで、1週間ちょい、
もらった塗り薬を塗ってしのいでいた。

塗れども、塗れども、痛みは改善せず。
って言うか、日に日にヒドクなってるし!
前より、辛抱たまらん!!!って事で、
我が家の市内では1番大きいとされている、
総合病院へ受診しに行ってみた。

次に、続く