
今朝、南側の窓の外で何かの幼鳥が倒れているのを発見しました。
おそらく、ガラスに激突して死んでしまったものと思われます。
家にいれば、音でわかるのですが、気づかなかったので、
昨日、雄国沼に出かけている時だったのではと思います。
尻尾と羽の先が青みがかっているので、もしかして・・・と思ったら、
やはり、オオルリの雄の幼鳥でした。
大人になり、産毛が生え変われば、青い美しい鳥です。
あんなに姿も声も美しい鳥が、こんな姿になってしまい、
本当に申し訳ないと思いました。
外から見ると窓ガラスに向かいのカラマツ林が映っていて、
鳥にとっては、そこに林があるかのように感じるのかもしれません。

去年も2~3件、鳥がガラス窓にぶつかってきたことがあったので、
バードセーバーをつくって貼ってあるのですが、
また、激突事故が発生してしまいました。

もう一度、白で作り直して、あとは、出かける時はカーテンを閉めるなどしようかなと思います。
話は変わりますが、畑をやっていると、キャベツの青虫や
トマトなどナス科の植物につくニジュウヤホシテントウを
食害から野菜を守るために、捕殺しなければなりません。
前に住んでいるところでは、
隣のおじさんはニジュウヤホシテントウを手でプチっとつぶしていました。
そのとき、私は、「え~、できないよ~」と思っていましたが、
今では、素手でも出来るようになってしまいました(^^;
人間の立場から見たら、他の生き物は人間の役に立つか立たないか、
そんな視点で捉えられ、人間にとって邪魔なものは排除する、
自ずとそうなっているような感じがして、
裏磐梯の大自然の中で暮らすようになってから、
本当に自然の中で生きたり、自然と共生するってどういうことなんだろう?
と、疑問に思ったことがあります。
先住民の人たちの文化の中で、命をいただく時は、
極力、環境負荷を与えないような狩猟や採取の仕方をしたり、
何のためにその命を奪わねばならないのかを、
植物や動物達に伝えることをしたり、儀式をしたり、
自然に対峙する礼儀作法を持っています。
毎日、キャベツについているモンシロチョウの卵を見てはとり、青虫を見てはとり、
というのをやっていると、人間って、こうやって多くの命の上に生きてるんだなと実感します。
そして、家だって、ここに建ってるから、時々、間違えて激突して命を落とす鳥もいるし、
道路だって、彼らの活動範囲につくってしまったから、タヌキや猿が車にひかれる時もある。
人間が生きるためにある程度の開発は仕方ないのかもしれません。
しかし、必要以上の快適さを求めるために、
どれだけの命を犠牲にしていいのかを考えなければいけないけど、
命の犠牲の元に、自分の暮らしが成り立っていることすら、
感じる事が出来ないのが、一般的な暮らしになっている気がします。
テレビやネットから得る情報より、
何百倍も何千倍も重要な生の体験や情報を得る機会を、
現代の人々はどれだけ逸しているのかと思います。
日々生き物達の在りかたを感じることで、
礼儀作法を持って地球上で生きていこうという意識を忘れずに、
私はここで生きられてるんだろうな。
R.I.P. オオルリさん
おそらく、ガラスに激突して死んでしまったものと思われます。
家にいれば、音でわかるのですが、気づかなかったので、
昨日、雄国沼に出かけている時だったのではと思います。
尻尾と羽の先が青みがかっているので、もしかして・・・と思ったら、
やはり、オオルリの雄の幼鳥でした。
大人になり、産毛が生え変われば、青い美しい鳥です。
あんなに姿も声も美しい鳥が、こんな姿になってしまい、
本当に申し訳ないと思いました。
外から見ると窓ガラスに向かいのカラマツ林が映っていて、
鳥にとっては、そこに林があるかのように感じるのかもしれません。

去年も2~3件、鳥がガラス窓にぶつかってきたことがあったので、
バードセーバーをつくって貼ってあるのですが、
また、激突事故が発生してしまいました。

もう一度、白で作り直して、あとは、出かける時はカーテンを閉めるなどしようかなと思います。
話は変わりますが、畑をやっていると、キャベツの青虫や
トマトなどナス科の植物につくニジュウヤホシテントウを
食害から野菜を守るために、捕殺しなければなりません。
前に住んでいるところでは、
隣のおじさんはニジュウヤホシテントウを手でプチっとつぶしていました。
そのとき、私は、「え~、できないよ~」と思っていましたが、
今では、素手でも出来るようになってしまいました(^^;
人間の立場から見たら、他の生き物は人間の役に立つか立たないか、
そんな視点で捉えられ、人間にとって邪魔なものは排除する、
自ずとそうなっているような感じがして、
裏磐梯の大自然の中で暮らすようになってから、
本当に自然の中で生きたり、自然と共生するってどういうことなんだろう?
と、疑問に思ったことがあります。
先住民の人たちの文化の中で、命をいただく時は、
極力、環境負荷を与えないような狩猟や採取の仕方をしたり、
何のためにその命を奪わねばならないのかを、
植物や動物達に伝えることをしたり、儀式をしたり、
自然に対峙する礼儀作法を持っています。
毎日、キャベツについているモンシロチョウの卵を見てはとり、青虫を見てはとり、
というのをやっていると、人間って、こうやって多くの命の上に生きてるんだなと実感します。
そして、家だって、ここに建ってるから、時々、間違えて激突して命を落とす鳥もいるし、
道路だって、彼らの活動範囲につくってしまったから、タヌキや猿が車にひかれる時もある。
人間が生きるためにある程度の開発は仕方ないのかもしれません。
しかし、必要以上の快適さを求めるために、
どれだけの命を犠牲にしていいのかを考えなければいけないけど、
命の犠牲の元に、自分の暮らしが成り立っていることすら、
感じる事が出来ないのが、一般的な暮らしになっている気がします。
テレビやネットから得る情報より、
何百倍も何千倍も重要な生の体験や情報を得る機会を、
現代の人々はどれだけ逸しているのかと思います。
日々生き物達の在りかたを感じることで、
礼儀作法を持って地球上で生きていこうという意識を忘れずに、
私はここで生きられてるんだろうな。
R.I.P. オオルリさん