北原白秋の案内板の横に、「添田さつき」の案内プレートがあった。
公園の一角に、仲良く2枚立っている。
北原白秋は昭和2年に、添田さつきも同じく震災後にこの地に住んでいた。
二人とも台東区谷中方面から越して来たのだ。
彼らが谷中時代からの知り合いかどうかは不明だ。
ただ、大森近辺の狭い地域のことなので、
他の文士ともども何かの行き来はあったのではないかと思う。
「添田さつき」については名前ぐらいしか知らなかった。
さつきというのだから女性かな?なんて思っていたくらいだ(笑)
調べてみたら、とても面白い経歴の人だ。
彼の父の「唖蝉坊」はさつき以上にまた凄い。
巣ごもり生活には、普段は見過ごしてしまうようなことにまで
興味を持つという「利点」もあるようだ(笑)
★添田さつき
1902年(明治35年)6月14日、添田唖蝉坊の長男として東京に生まれる。
本名は知道。
1916年(大正5年)、日本大学附属中学校(現在の日本大学第一高等学校)中退の後、堺利彦らの売文社に勤め、父の演歌活動に参加、その跡を継いで「添田さつき」の芸名で演歌師となり、『パイノパイノパイ』などの流行歌を作り出す。
↑ この歌は、エノケンなどが歌い一世を風靡した。
1927年(昭和2年)より文筆活動を開始。
1940年(昭和15年)、街頭演歌の衰退に伴い文筆に専念。
小学校時代の恩師を主人公とした『小説 教育者』を書き、
1942年(昭和17年)、新潮社文芸賞を受賞。
戦後は、演歌師の生活などを描いた著作を刊行し、1964年(昭和39年)、『演歌の明治大正史』で毎日出版文化賞受賞。
1967年(昭和42年)、『歌と音でつづる明治』の監修で、第9回日本レコード大賞企画賞を受賞。
1980年(昭和55年)信州・上田市の安藤病院で食道がんで死去。77歳没。
「添田知道を偲ぶ会」が、同年5月2日、浅草の伝法院で行われ、
竹中労、田谷力三、小沢昭一らが参集した。
※『日本春歌考』は、大島渚監督の同名の映画の着想の元となった。
浅草・浅草寺の弁天堂鐘楼下には、父・唖蝉坊の碑と知道の筆塚がある。
★★添田 唖蝉坊(そえだ あぜんぼう)
1872年(明治5年) - 1944年(昭和19年)
明治・大正期に活躍した演歌師の草分け。本名・平吉 (へいきち)
↑1960年代以降、高石ともや、高田渡ら日本のフォークシンガーが唖蝉坊の歌を歌っている。 (Wikipediaより)
高石ともや・高田渡・・・懐かしい名前が出てくる。
昭和が遠くなってきているが、こういうところで現在と過去が結ばれるのは
なかなか楽しい。